禅はなぜわかりにくいのか

   中野禅塾だより (2015/8/15)

禅はなぜわかりにくいのか(1)

 禅はなぜむつかしいのか・・・。仏教はなぜ分かりにくいのか、と言い換えてもいいと思います。筆者は、その理由の一つとして、仏教があまりにも拡大されてしまったこと、その歴史的展開をごっちゃにしていることが原因だと考えています。たとえば、中野禅塾だよりNo.2(2/1)でお話した、「空」についての、現代の有名な禅師や仏教解説者であるM師やHさんの解釈:
  ・・・あらゆるものは空であるから実体はない。それはあらゆるものは常に変化し、一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない・・・(M師)
  ・・・空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである・・・(Hさん)

を見ればわかります。両者とも、仏教の根本理念とされる「無常」「縁起」「無我」「苦」を使って解釈していますね。じつはそれらすら、釈迦が説いた法かどうかは分からないのです。釈迦が悟りを開いて最初に説いた法を「初転法輪」と言いますが、仏教に関する本のどれにも、

 ・・・このとき説かれた教えは、中道と、その実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる・・・
とあります(八正道とか四諦、三転十二行相の意味は、それぞれ調べてください)。このように仏教には数字がさまざま出て来て、分かりにくさの原因となっています。じつは数字をやたらに使いたがるのはインドの人々の性癖なのです。そんなものに振り回されてはいけません。初転法輪がどのようなものであったのかも、今ではよく分からないのです。
 釈迦没後長い間、その教えはもっぱら口伝で伝えられました。100-200年くらい経って、いわゆる部派仏教徒達によって文書としてまとめられました。いわゆる阿含(あごん)経典類です。さらに100-200年経った紀元前後から、それらが整理され、拡大されて成立したのが「般若経(初期)」「維摩経」「法華経」「浄土三部経」などの大乗経典類です。紀元2世紀頃のインドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が「空」の理論を打ち立て、仏教のその後の方向性を決めたのは有名な話です。
 仏教の経典類はこのような歴史的変遷を経ているのです。キリスト教がイエスの死後わずか30年で確立されたことと大きな違いですね。にもかかわらず、現代の仏教各宗派が、自らの根本経典を「これこそ釈迦が悟りの後最初に説かれた教えである」とか、「最後に説かれたもっとも重要な法である」などと言っています。本当に困ったことです。
 膨大な仏教経典類を読破し、「それらはだんだん積み上げられたものである」と、世界で初めて洞察して整理したのが、江戸中期の大阪の私学校の学者富永仲基で、わずか31歳で夭折した大天才です。今では「大乗経典類は釈迦の教えとは無関係である」ことは定説になっています(大乗非仏説)。
 このように、複雑な仏教経典類も、もつれた糸をほぐすように読み解いていけば、だんだん分かってくるのです。

禅はなぜわかりにくいのか(2)

 前回、仏教はなぜわかりにくいのかの理由について書きました。それは釈迦の死後、つぎつぎに教えが拡大解釈されていったためです。たとえば「大般若経」を取り上げても、紀元前後に成立した第一バージョンから、あの玄奘三蔵(7世紀の人)のバージョンまで3つもあるのです。「釈迦の本当の教えは何だったのか」は、真摯な仏教徒なら誰でも知りたいところでしょう。その意味で、大乗仏教の経典類には、筆者は批判的です。ただ、否定はしません。インドには哲学的な国民性があり、釈迦は傑出した人でしたが、決して奇跡の人ではないからです。その以前も、以後にも優れた哲学者がたくさんおり、大乗経典は、深い思索の結果生まれた、新しい仏教の教えと言ってもいいからです。

 それでも釈迦の教えそのものを知りたいのが多くの人々の願いでしょう。前回お話した、部派仏教の各部派では、釈迦の教えにもっとも近いとされる、スッタニパータや、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなどをそれぞれ根本経典としています。スッタニパータは「ブッダのことば」、ダンマパダ、ウダーナヴァルガは「真理の言葉 感興のことば」として中村元博士によって翻訳され、岩波書店から出されています。中村博士(1912-99)は、筆者が最も尊敬する仏教学者で、パーリ語、サンスクリット語など、インドの古語や文化に精通し、その卓越した知識と語学力により、上記の経典や、大乗仏典を翻訳、解説されました。中村博士の翻訳によるスッタニパータやダンマパダ、ウダーナヴァルガは、大乗経典類とは異なり、短い話言葉で書かれており、釈迦の教えがその後ずっと口伝で伝えられたことが彷彿とされます。それでも筆者は、それらは釈迦の教えの一部にすぎないか、脚色されたものとみなしています。

 前回お話ししたように、現在、釈迦の教えのエッセンスは、「苦」「縁起」「無常」「無我」だとされており、近現代のわが国の仏教解説者達は、それらをキーワードとして仏教経典類を解釈しています。しかし、それが大きな誤りの原因であることはすでにお話しました。釈迦の悟りの内容について、筆者は「すべての苦しみには原因がある。それにこだわることが苦しみとなっている」だと思います。「因果の法」ですね。しかしその後、とくに大乗仏教徒によって「縁起」になり、「因縁起」と拡大解釈されていったのだと思います。この「拡大(増広と言います)」こそ、曲者なのです。「空」の解釈でお話したM師やHさんは、有名な人達ですが、いずれもその轍を踏んでいるのです。
 このことを念頭に置いて、さまざまな解説書を読むと、現代の仏教解説者の誤りがだんだん見えてきます。