西田幾多郎 絶対無(1-3)

(1)西田博士のこの思想は以前にもご紹介した純粋経験思想に次ぐものです。例によって哲学は難解ですので、まず、それに対する解説記事の一つをご紹介し、次回筆者の解釈をお話し、さらに超訳をご紹介します。どうか比較してください。禅と深い関係がある重要な概念です。以下は藤城優子さんの「絶対無と歴史的世界―中期西田哲学についての一考察―」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要No.7, 225-234 (2006)から引用しました。なお、解説書には新井均さんや中村昇さんによるものなどがあります。長いので筆者の責任で一部省略と文言の変更をしました。ご容赦ください(以下、藤城さんは「西田幾多郎全集」(岩波書店)の文章から引用しています)。

・・・それでは、「叡知的一般者」及び「絶対無の場所」とは如何なる概念なのであろうか・・・「叡知的一般者」とは、ノエシスとノエマ(意識の作用的側面がノエシス、対象的側面がノエマ:筆者)という対立の世界を含む「一般者」である・・・西田が「叡智的世界に於てノエシスの方向に立つものは、いつも反価値的である、自己自身の底に深く見るもの程、悩める自己でなければならぬ」と述べているように、叡智的世界における最も深い実在とは、自己矛盾的な存在であることがわかる。そしてこのような自己とは、「道徳的自己」であると考えられている。つまり、一方で真、善、美という価値がある理想的な自己である。しかし一方においては、それに反する自己がある。だが同時に、自己の中に自己超越の要求を持った存在でもある・・・つまり、限りなく真の自己、即ち「神」と呼ばれるものに近い自己が於いてある場所が、「叡知的一般者」なのである。しかし、真の自己に至るには、「叡知的一般者」の段階にとどまっていることはできない。それが「絶対無(太字筆者。以下同じ)の場所」であって、そこにあるのは宗教的意識である。「絶対無の場所」とは、「叡知的一般者」をも包む・・・矛盾を脱して真に自己自身の根底を見ることが 宗教的意識である。叡智的世界から宗教的意識の世界に至るためには、「廻心」がなければならない・・・西田は、「宗教的意識に於ては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである、そこに真もなければ、偽もなく、善もな ければ、悪もない」と述べている。宗教的価値とは、自己の絶対的否定を意味する。迷える自己が絶対に自己を否定して、見るものなくして見、聞くものなくして聞くものに至ることが宗教的理想であると考えられている・・・「宗教的意識とは、言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界と云うの外はない。つまり、「絶対無の場所」に於いてある宗教的意識は、全く我々の概念的知識を越えており、体験とか直観の極致において現れる・・・このように、真に絶対無の意識に透徹した世界に ついては「我もなく人もなく天地もない、そういう 絶対の無に絶対の死に入った時そこから絶対の宗教的生命が溢れ出て来る、真の自己が生れて来る、それを蘇生するという」と表現されている・・・それでは、「絶対無の自覚」とは如何なる概念なのであろうか。宗教的意識の於いてある「場所」である「絶対無の場所」は、ノエシスとノエマという対立を越えた「絶対ノエシス」の立場であると言うことができる。その場所において、真の自己を見ることが「絶対無の自覚」である・・・それでは、「絶対無の自覚」の構造は如何なるものなのであろうか・・・絶対無のノエシス的限定の方向には超知識的なものが見られ、そのノエマ的限定の内容として我々の知識というものが成立する・・・以上のことから、「絶対無の自覚」の概念の構造が明らかとなる。つまり、絶対無のノエシス的方向は、超知識的なものであり、そのノエマ的限定の内容が知識である・・・このように、西田の関心は、宗教的意識の於いてある「絶対無の場所」、即ち「絶対ノエシス」を映して見る立場、即ち「絶対無の自覚」が如何なるものかを解明することに向けられている・・・

 いかがでしょうか。難解ですが、ぜひがまんして精読の上、次回の筆者の解釈と、次々回の筆者超訳とを比較してください。

(2)筆者の口語訳(前回お話した西田幾多郎博士の原文と藤城優子さんの解説と対比して、以下をお読みください)。

 西田幾多郎博士(1870-1945)は、日本で初めての本格的哲学者だと言われています。 西田博士は弟を日露戦争で、次女と四女を病気で亡くすなど、最愛の家族を次々に亡くし、「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言った人です。

 ここで西田博士は3つの論点を示しています。すなわち、1)人間には真の自己になりたい という本能的欲求がある。2)純粋経験(モノゴトがあって私が見るのではなく、モノゴトを 観るという体験こそが真の実在である)は絶対無(神)に近づく道である。3)モノゴトとは、 人間の知識の発現である、の3つです。

 1)人間には真の自己になりたいという本能的欲求がある。

 ・・・人間にはモノゴトを認識する作用の主体、すなわち「私」には真、善、美を価値とする理想的な自己と、それに反する非道徳的な部分がある。しかし人間は本性として完全な道徳的自己、つまり真の自己(筆者の言う『本当の我』)になる可能性を持っている。そして、「神」と呼ばれるものに近い真の自己が「叡知的一般者」である。しかし、真の自己に至るには、「叡知的一般者」の段階に留まっていることはできない。人間はそこを越えてさらに神に近づかなければならない。神のいらっしゃる場所が絶対無の場所である。神の世界は人間の想像を超えており、それを知るには「回心」が必要である。そうすれば我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一する。そこに至ることができるのは、深い罪の意識に沈んで、悔い改める道さえ見い出せない者である・・・神の世界には真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。我もなく人もなく天地もない(だから絶対無と言う:筆者)。神の世界に至るには自己の絶対的否定がなければならない。迷える自己が絶対に自己を否定して 絶対の無、絶対の死に入った時、そこから絶対の宗教的生命が溢れ出て来て真の自己に生まれ変わる・・・

 2)純粋経験は絶対無(神)に近づく道である

 ・・・ 見るものなくして見、聞くものなくして聞くものに至ることが宗教的理想であると考えられている・・・宗教的意識とは、言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界と云うの外はない・・・

とは、「直感するには純粋経験が重要であり、純粋経験は絶対無の場所、つまり神の世界に通じる道である」と言っているのだと思います。

3)モノゴトとは、人間の知識の発現である。

 ・・・ 絶対無のノエシス的限定の方向には超知識的なものが見られ、そのノエマ的限定の内容として我々の知識というものが成立する・・・

 ノエシスとは「人間が見るという作用」ノエマとは「モノゴト」という意味です。では「モノゴトとは何か」と言いますと、西田博士は「純粋経験によって蓄積された知識」だと言うのです。それは脳の中に蓄積されているのではなく、(たとえば)魂の一部として蓄積されているのです。魂は絶対無の一部です。仏教の唯識論で言いますと阿頼耶識です。それを「超知識的なもの」と言い、絶対無の自覚と言っているのだと思います。哲学者としては阿頼耶識などとは言えませんね。

 いかがでしょうか。哲学者たちはどうしてああも晦渋な言い方をするのかと筆者は思います。なるほど、哲学にあっては一つ一つの言葉の定義を厳密にし、論理を明確にしなければならないという根本的な義務を持っていることはよくわかります。それにしても独自の造語することを喜びとしているとしか思えません。困ったことです。そこで次回はもっとわかりやすくするため、筆者の超訳をお話します。

 西田博士の絶対無の思想は宗教と共通するところが多いと思います。西田哲学を理解する鍵は「宗教」です。

(3)筆者の意訳

 絶対無は、西田幾多郎博士の思想です。難解ですが、禅の考え方を参考にすればよく理解できます。すなわち、 

 西田博士の言う絶対無とは、宇宙の真理、あるいは神の摂理、仏教で言えば「悟りによって認識される世界」でしょう。このブログシリーズで何度もお話しているように、初期西田哲学の純粋経験の考えも、禅の空(くう)の思想と同じように宇宙の真理(モノゴト)に対する正しい認識作用だと思います。そして人間がより良く生きるとは、「空」の思想や西田哲学に従って正しくモノゴトを観て(聞いて、味わい、嗅ぎ、感じて)、つまり五感を通して宇宙の真理(神の摂理)を認識し、それに従って生きて行くことでしょう。認識の仕方を誤ると人を傷付け、自らも苦しむことになるのです。大部分の人はモノゴトを正しく観ていないのです。では、私たちはふだんどのようにしてモノゴトを認識しているのかを、見るという五感の一つの働きを例にしてお話します。よく、私たちは生まれてから死ぬまで、時の流れに沿って歩いて行くと言われています。その道の横には壁があり、その窓を通してモノゴト(自然や人間関係)を見ていると考えてください。しかし、そうして見えるのは宇宙真理の真実の姿ではありません。虚妄の世界なのです。

 原始の時代には人間は自然の間近にあり、その原理に従って生きていました。それゆえ神の摂理をいつも肌に感じていたと思います。しかし、農業技術の発達などにより、力のあるものが出るようになると階級社会となり、それを維持するためにさまざまなルールができました。それと関連して知恵、すなわち価値観や好悪の情が生まれてきたのです。それにしたがって人間が自然や他人を見る目にだんだんフィルターがかけられるようになり、それらの実体が見えにくくなってきたのだと思います。価値感の相違や好悪の情による誤った認識が重なって、争いが増えて行ったのですね。

 「それではいけない。フィルターを全部外してモノゴトを正しく観て、宇宙の真理(神の摂理)に従って本来あるべき生き方にもどろう」と考える人たちが増えて行ったのですね。その一つが禅であり、カントやヘーゲルなどのドイツ観念論哲学であり、その流れを汲む西田哲学だと思います。

 では正しくモノゴトを観るにはどうしたらいいか。まずもう一度、前述の人生を歩むことの情景をイメージしてください。私たちの人生とは、道を歩いて行くことだとします。壁には窓が開いており、そこからモノやコト、すなわち、山や川やなどの自然、動物や人間同士の関係を見て通り過ぎます。しかし、もし窓が広かったら、それを通して見えるモノゴトは往々にしてボケていると思います。さまざまな人間の価値観のフィルターによって見えるものが曇っているからです。正しい観かたに戻るには、壁のスリットの幅をできるだけ狭くすればいいのです。そうすれば「観るという体験」だけになって、「アッ私の好きな〇〇だ」とか「嫌いな〇〇だ」という価値判断をする暇がなくなります。そうすると真実の世界が観えるようになります。ピンホールカメラを思い出してください。箱の穴が大きいとスクリーンに映った像はボヤけて、よくわかりませんね。しかし、穴をどこまでも小さくすると像はハッキリします。

 絶対無とは神の世界

 筆者は「絶対無とは神の世界だ」と言いました。「神の世界とか絶対無と言っても漠然 としています。そこでビッグバンを例としてお話します。宇宙はビッグバンから始まっ たと言われていますね。いま、ビッグバンの前の状態を考えてください。ビッグバンの前 には何も無かったのです(註1)。ビッグバンの一瞬前には、宇宙空間も時間さえ無かっ たのです。その後、よく知られているように、陽子や中性子や電子が造られ、水素やヘリウムなどの原子となり、それらが融合を繰り返して、さまざまな他の原子ができ、星がで き、銀河ができていき、現在の宇宙となり、人間も作られました。つまり、宇宙や人間は 絶対無から生じたのです。絶対無の世界には宇宙もなければ人間もなく、そのため真もな ければ、偽もなく、善もなければ、悪もないのです。当然でしょう。それゆえ絶対無なのです。

西田博士の絶対無理理論と禅思想とのくわしい比較については、また別の機会にお話します。

註1最新の宇宙物理学では、ビッグバンの前の状態は完全な無ではなく、「有と無が揺れ 動いている状態」だったようです。

禅とは:能とバレー(1,2)

対照的な表現の仕方

 (1)バレー:筆者はバレーを鑑賞するのが大好きです。白鳥の湖、ジゼル、くるみ割り人形、眠れる森の美女・・・。オペラ座バレーのマリ・C・ピエトガラやボリショイバレー団のニーナ・アナシアシヴリの演技の完成度の高さには感嘆します。イギリスのロイヤルバレー団の演技も見ましたし、先年、パリオペラ座バレー団の名古屋公演も見ました。

 「オペラ座バレー団の階級の厳しさは世界一だ」と芸術監督が言う通り、カドリーユ、コリフェ、スジエ、プレミエールダンスール(ズ)から最高のエトワールまで、厳しい審査を経て上がっていくのです。オペラ座バレー団には付属の学校もあり、毎年各国から30人ほど、それも厳しい選抜を経て入学するのですが、途中で振り落とされて卒業するのは20人足らず、しかもそのうちオペラ座バレー団に入るのを許されるのはわずが2-3人とか・・・。

 今、ロシアやイギリスが厳しい経済状態にあることは、たぶん多くの人たちの想像を超えていると思います。にも拘わらず、イギリスやロシアでは経済状態に不釣り合いなほどの国費を使ってそれらのバレー団や交響楽団を維持しているのです。それを国民は当然のこととして納得しているのです。

 もちろんわが国にも新国立劇場バレー団はあります(年5回ほど公演)が、多くは、やりたい子が私立のバレー団に入り、そのうち上手な子たちが年に数回の公演をしているに過ぎないのが現状です。それも公演ごとにたくさんのチケットを親が買わねばなりません。

 最近、NHKテレビでロシアサンクトぺテルスブルグのワガノワバレー学校の授業風景を見ました。その厳しさは「聞きしに勝る」でした。世界中から生徒が集まってきており、もちろん入学時の厳しい審査もありますし、追いて行けなければ退校です。校長(ボリショイバレー団で18年間もプリンシパルを務めた人)が、バレーは1)技術だけはなく、2)体型と3)容姿が重要な基準になっていることを公言しています。当然でしょう(日本やイギリスでは2)と3)の基準が低いようです・・・)。

 ワガノワバレー学校生徒の一人、18歳のアロン君は監督が最初から「王子はやれない」と評価しています。背が低いからです。175センチあるのですが。ほかの生徒は全員180センチ以上、中には189センチの子も。そして女子には厳しい体重制限があり、現にそれに引っかかり退校させられた子もいました。筆者の眼ではとても太っているようには見えませんでしたが・・・。わが国の私立バレー団なら美しさのための過酷な訓練すら、世論が「パワハラ」と言って問題にし、経営が成り立たないでしょう。

 ことほどさようにヨーロッパのバレーの公演や、練習風景を見ていますと、バレー芸術は美の極致を目指しているのがよくわかります。筆者は、なにか心に憂さがあるとき、バレーのDVDを取り出して鑑賞します。すばらしいものに触れて心が晴れるからです。

 アガノワバレー学校のアロン君に先生は、「日本の踊りのようなものをやっていてはダメだ」と言っていました。ここに西欧のバレーとわが国の舞台芸術との根本的な思想の差があります。じつはアロン君は本名は有論と言い、カナダ生まれのロンドン育ちです。つまり日本人的なセンスはほとんどないと思われますが、日本人である母親から、なんらかの日本的なものを受け継いでいるのでしょうか。ちなみにアロン君はその後無事に国家試験に通り、ボリショイバレー団への入団を許されました。団長は「彼の役割もあるから」と言っていました。

(2):これに対し日本の能芸術はきわめて対照的です。演技や言葉をできるだけ省略し、深い精神性を追求するのです。能が室町時代のの隆盛に大きな影響を受けて、観阿弥や世阿弥によって大成されたと言われていますが、それがよくわかります。「隅田川」という演目は、わが子を人買いにさらわれてしまった都の母が、半狂乱になって東国へ子捜しの旅をし、墨田川まで来たところで、「一年前にここまで来て亡くなった子供の供養の日」に来合せるという悲しい物語です。出演者は、その母親と渡し守と乗り合わせた旅人、それに梅若丸の霊の4人だけ。みんなで「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えている時、母親が「ちょっと待ってください。わが子の称名念仏の声がきこえます」と。すると塚の中から梅若丸の霊が出てきました。母が抱こうとするとすり抜けてしまいまい。やがて夜が白々と明けて行く・・・。という筋です。

 筆者は始めてこのシーンを見たとき、涙が止まりませんでした。舞台装置は供養の塚のみ、演者の言葉も動作もほとんどありませんし、古語ですからよく聞き取れません。余分なものをすべて剥ぎ取って主人公の心の表現だけにしたのでしょう。それなりの様式美はありますが、面(おもて)の後ろからは太った老人の顔さえ覗いているのです。それでも深い感動が伝わってきました。

 現代のわが国の演劇やオペラやバレーは、西洋の影響を受けてやたらに「斬新」で華やかなようです。感動はしますが心で味わう暇がありません。これに対し、日本古来の能は、最少の言葉と演技で観衆の心に強く訴えるのです。これこそまさに禅の心でしょう。あの良寛さん(筆者は道元以来の禅師だと思っています)が、「一間きりの草庵に住み、3升の米と一束の薪さえあればいい。静かな雨の音を聞きながら、囲炉裏のそばで長々と足を延ばしている。この生活で十分満足している」と言っているのとよく符合しますね。またあの松尾芭蕉が禅の師匠仏頂から今の禅境を聞かれた時「かわず飛び込む水の音」と答えたのとも一致します。