禅を生活に生かす(1)

 筆者の畏友Iさんは、中堅企業の経営者として、お父さんの会社を立派に引継ぎ、発展させた人です。30歳まで上級公務員としてエリートコースを歩いていた人ですが、突然お父さんが亡くなり、転身せざるを得なかったとか。筆者のブログを読んでいただいているご縁で、もう5年以上ご一緒に会食し、経営の苦心をお聞きしています。そして聞けば聞くほど、「この人の能力は余人には代えがたい」と感じました。まず、人格が立派で温かい人柄でなければ、長く社長業が勤まらないのは当然でしょう。世間が相手にしないはず。Iさんもそのとおりの人です。官公庁との対応など、「ひたすら忍耐」だったとか。筆者のような組織に生きた人間は、なんといっても組織のブランドで守られています。Iさんは自分でブランドを作り上げねばならなかったのです。ずっと以前に社長職を引退していますが、今でも何かといえば会社からお呼びが掛かり、今でも「顧問の肩書」が外せないとか。その理由は、Iさんの綜合的な人間的魅力であることがよくわかります。  「余人には代えがたい」という筆者の感想通り、「今後は会社を大企業に良い形で吸収合併してもらう方向を考えている」と言っていました。「あなたはもう十分会社のために貢献した。あとは好きなことをして人生を送ってください」というのが筆者の願いです。

 地方の中企業というものは、「もし会社を潰してしまったら、もうそこには居られない」とか。従業員の多くは地元の人ですから、失業させてしまったら家族ともども路頭に迷うことになります。何かと肩身狭く暮らしていかねばならないのでしょう。Iさんは「それでも居残る人間は厚かましい」とも言っていました。厳しく、格調高い人生観だと思います。

禅を学ぶと

 禅を学ぶ前なら、筆者はIさんの生き方を尊敬する外はなかったでしょう。しかし、禅を学んでからは「別の生き方もあるのでは?」と考えます。まず、家族もあります。転校は子供たちにとって大きな負担になるでしょう。慣れ親しんだ土地には、自分自身も、多くの隣人との心の交流の積み重ねもあるはず。それらを捨てて新しい土地に移るのは、無くすものも多いでしょう。同じようなことは犯罪加害者の家族にも当てはまるはずです。とかく被害者の遺族に道場が寄せられるのは当然でしょうが、加害者の親族も辛い人生を送っているはず。それゆえ、二つのケースとも、たとえしばらくは周囲の厳しい目に晒されようとも、我慢してそのまま住み続ける選択肢もあるのでは、と思うのです。

 禅の人生とは「なんでもあり」なのです。もう一つ、筆者の好きな言葉は「それが終わりではない」です。

読者のコメント-ついにこういう人が現れました(17-4‐1~2)

 時永様からさらにコメントをいただきました。私にとりましても貴重な学びとなります。要旨と私の回答は以下の通りです。他の読者の方も参考になさってください。まず、筆者は大竹晋さんの「悟り体験を読む」についてはすでにブログに書きました。

 1)時永さんのコメント(1):”空”という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか。確かに教行一如であれば、二つの側面から挟み込むように、相乗効果がありそうな気がします。現在は空の観方を生活のシーンごとに体感するとはどんな心境なのか、私にはわかりません。塾長は、モノゴトを認識する最初の部分、価値判断が出てくる前、と仰っていますが、それは時間的なものなのか、心的態度によるのか、自分も思索しなくてはいけないと考えています。『愛の反対は憎しみではなく、価値判断を下すこと』と言いますが、逆に言えば価値判断を下さないのが愛であり、神の観方なのかもしれません。

筆者のコメント:「空という観方を頭で理解しておいて、それを今度は肚で納得させるための座禅という位置付けでしょうか」について:まず、座禅は見性(筆者の言う「本当の我」と疎通すること)への道です。そして「本当の我」は「空(くう)」のモノゴトの観かたをします。そういう意味で座禅は「空」のモノゴトの観かたができるようになるための修行です。ただ、前回もお話しましたように、座禅はとても難しいのです。そこで別の方法も取ります。それがまず頭で理解し、それを「生活のシーンごとに体感するのです。「空の観方を生活のシーンごとに体感する」とは、次のやり方です。私たちは、何かモノゴトを見たり聞いたりしたとき、いつもすぐに「あれは〇〇だ」と判断してしまいます。その習慣を断ち切るのです。たとえば富士山を見れば誰でも「きれいだ」と判断しますが、判断しそうになった時「富士山」と言って、次の判断へ続くのを止めるのです。つまり「時間的なもの」です。世の中には、良い仕事(学校)とか、つまらない仕事(学校)、美味しいとか不味い、高いとか安い、きれいとか汚い、多いとか少ない・・・という判断が多すぎ、それらが結局、私たちを苦しめることになります。私たちの苦しみはすべてそういう「誤った価値の判断」に由来しています。しばらく、何かを見たり聞いたりしたとき、判断へ続くのを止める訓練をしてください。じつは「価値の判断の否定」は禅の要諦の一つなのです。時永さんの「価値判断を下さないのが愛であり、神の観方」は良い表現です。

 2)時永さんのコメント(3):まるで見当違いかもしれませんが、上記の問題は自分の中ではいつくかの公案と重なるように感じられます。昨年私は「山岡鉄舟先生正伝」を読む機会があり、その中に、山岡の禅の弟子となった初代三遊亭圓朝が、趙州無字の公案を与えられ、半ば山岡に監禁されるようにして座禅し一週間の後に透過したエピソードが載っており、それを読んで以降、この「無!」というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは、と考えるようになりました。塾長はこの無についてある時アッとわかったと述べておられましたが、無門禅師によれば、わかると驚天動地どころではないものだそうで、是非自分も体験したいものです。ここの辺りが深遠な悟りの世界の最初のステージなのかなと想像しています。

筆者のコメント:「この『無!』というのも仏性神性と心身という関係に絡んでいるのでは」について:おっしゃる通りと思います。

この「無」とは、無門が言うように、もちろん有無の「無」でも虚無の「無」でもありません。

時永さんのコメント(4):・・・前回、私が大竹晋さんの「悟り体験を読む」を読んで”空”とは何かを考えるようになったと述べましたが、この本はさすがに見性体験を持った方の言葉を集めているだけあって、空の観方においても、いろいろ示唆に富むものです。そして見性体験自体にフレームを設けて分析を試み、さらには見性者の方々の超常的な体験についても紙面を割いており、評価は様々だと思いますが、なかなか意欲的な試みであると私は受け止めました。そもそも、私は武道を少し稽古しているのですが、達人には世界はどう見えているのか、その不思議な洞察力はどこから来るのかに興味があったので、それと同様の位置付けとして見性者の体現する不思議な面にも興味があります。やはり悟りといった段階に達すると、ヒントをくださったように、何らかの不思議が身の回りにおこるものなのでしょうか。とても興味深いですね。

筆者のコメント:大竹さんの「悟り体験を読む」は良い本ですね。それについては以前のブログに書きました。ただし、私の「ふしぎ体験」は大竹さんの言う5つの分類のどれにも当てはまらないようです。ただし、「体験」は強烈です。「ふしぎなこと」が起こらなければ「悟り」のとば口にも立っていないと思います。

 以上、時永様も倦まずたゆまず学び、実践してください。それが正道です。やがて「父母未生以前のこと」や「庭前柏樹子」「拈華微笑」などの公案の意味もすべてわかるようになるでしょう。

読者のコメント(18)こういう人も出てきました

 カジワラフミヒコさんから次のようなコメントをいただきました(筆者のブログ「浄土の教えの誤解-正法眼蔵「生死」2018・10・5を読んでの感想でしょう)

 カジワラさん:・・・全くスバラシイと有難く拝読しました。有り難うございました。南無阿弥陀仏と申さずにはおれません。私は浄土真宗の門徒で寺の総代を仰せつかっていますが、「往生浄土」と「実践」の統一で悩んでいます。このプログはこの統一問題に大きなヒントになりそうです。道元様 スゴイ。高校時代、座禅を指導して下さった恩師に出遇ました。そのお陰でこの文章がほぼ理解できます。恩師に感謝。中野様に感謝。

筆者のコメント:喜んでいただいてよかったです。筆者の上記のブログは、「浄土の教えの根本経典である浄土三部経には、じつは中身が何もない。歎異抄は、親鸞の教えを自分勝手に解釈している不肖の弟子たちを嘆くという内容に過ぎず、重要な教えなどではない」という趣旨でした。ここでカジワラ様が〈「往生浄土」と「実践」の統一〉とおっしゃっているのは、「教えがはっきりとはわからないない浄土の〈教え〉を実践することなどできない」という悩みでしょう。中身が何もないものに依拠して実践することなどできるはずがありませんね。「日本仏教の退勢は浄土真宗や浄土宗から始まる」とも書きましたが、カジワラさんのような方がいればまだ捨てたものでもないようです。

 筆者がこのブログを書いたころ、筆者の友人がすごい剣幕で(古い友人です。仏教の勉強もしている)筆者を批判しました。筆者がブログで「『この人は浄土の教えを誤解しています』と書いたのを読んで」と言うのです。そこで筆者は、「ある有名な、浄土の教えを信奉する人が『無量寿経は宝の山だ』と言っているのを聞いて、唖然とした」と書きました。この筆者の友人はそこを批判したのです。ようやく今ではカジワラさんのような理解者が現れたのです。それらの体験には昔日の感があります。