禅の「空(くう)」思想と、E.カントの哲学には類似点があると言いました。しかし、禅の修行者が哲学的思考をするとは思えません。では、禅ではどのような経緯で「空」の概念に至ったのか?それが今回のテーマです。
まず、「空(くう〉の概念は、釈迦以来大きな変化があったことを認識する必要があります。釈迦は〈空思想〉についてはまったく言及していません。釈迦の思想にもっとも近いと言われるスッタニパータで一ヶ所、〈空〉に触れていますが、それは哲学的意味ではありません。すなわち、
・・・・つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない・・・・(中村 元「ブッダのことば」岩波書店、p236)。
つまり、具体的な哲学用語ではなく、生活の知恵ですね。
また、龍樹(AD150?~250?)の〈空思想(空観)〉は、禅の〈空思想〉とは別です。それについては、すでにお話しました。両者を混同していることが、現代の仏教研究者が禅の〈空〉思想を誤解している理由です。
今回話題にしていますのは、禅の空思想です。
禅の修行においては、〈概念の固定化〉を徹底的に排除します。たとえばモノを見た(聞いた、味わった、嗅いだ、さわった)時、「あれは〇〇だ」という判断を固定化しないようにします。概念を固定化すれば先入観になります。あるいは、「私の出身校は○○だ」とか、「あの人は都会出を鼻にかける」とか・・・・ですね。このように、人にレッテルを張ることが良くないのは自明でしょう。それゆえ、禅ではこういうすべての概念の固定化を避けます。そのために、禅問答や公案の研究、禅師の講話などを行います。すると残ったものは「見た(聞いた、嗅いだ、味わった、さわった)という経験だけです。そこには〈(見た)私も〉も〈(見た)モノ〉もありません。禅者はこのような修行を通じて、「空(くう)」の概念に達して行ったのでしょう。ちなみに、現代のほどんどの仏教研究家が「空(くう)とは実体がないこと」と言いますが、その本当の意味はこのようなものだと思います。
ドイツのカント(1724-1804)やヘーゲル、フィヒテなども、深い思索の結果、「真の実在とは経験だけである」との結論に達したのです。「でもモノというのは現実にあるじゃないか」という反論に対し、カントは「それは、たんなる経験的な実在に過ぎない」と言いました。ドイツ観念論哲学の系譜です。
カントの流れをくむ西田幾多郎は高校生時代、つまりカントとは独立に、「モノを見るという体験(純粋経験)だけが真実だ」と考えました(「善の研究」岩波文庫)。私たちはふだん、「私がモノを見る」と言いますが、じつはほとんど正確には見ていません。目の錯覚、耳の錯覚・・・・はいくらでもあります。太陽や月は地平線近くでは大きく見えることは誰でも知っています。かって筆者も興味を持ってこの現象を追求してみました。確かに天空にある時に比べて何倍も大きく見えますが、太陽の黒点や、月の噴火口は決して見えません。望遠鏡であの大きさの太陽や月を見えれば必ず黒点や噴火口が見えるのですが・・・。つまり私たちの〈見た内容〉はきわめてあいまいなのです。しかし、ただ一点、〈見たという体験〉だけはまぎれもない事実です。「真の実在とは何か」を追求した結果、カントや西田は緻密な哲学的思考の結果、そういう結論に達したのです。ことほどさように、洋の東西や、時代を問わず同じ「モノゴトの観かた」に達したのでしょう。
禅が発達したのはカントの時代より1000年も前の唐時代です。東洋思想がいかに先駆的だったか、おわかりでしょう。しかし、カントの時代の後、ヨーロッパで産業革命が起こり、「モノ」を重視する思想が席巻するようになりました。カントらの思想が忘れられて行ったのです。それにより激しい競争社会になり、多くの人々を苦しめるようになりました。そこで今、「従来の思想を見直そう」という考えがで沸き起こってきました。日本の安泰寺に3000人ものイギリスやドイツ、アメリカなどの若者が訪れたのは、やむに已まれぬ思いからでしょう。