それでも生きて行かねば

 能登大地震で奥さんと子供4人を亡くした人がいます。41歳の警察官で、最初の地震があったとき、子供が不安がるのを「仕事だから」と振り切って行ったのですから、たまりませんね。東日本大震災の時も奥さんと息子夫婦、子供さんをすべて亡くし、一人になった人がいました。作家の江藤淳さんは、奥さんを亡くした喪失感に耐えかねて自ら命を絶ちました・・・・。

 去年、古くからの友人から「家内を亡くした」と喪中ハガキが来ました。突然の発症で、わずか2ヵ月の入院だったとか。驚いて連絡を取り、待ち合わせて食事をしました。つい先日も、筆者の教え子からの年賀状に「一人暮らし9年目です」とありました。食事の準備、掃除、洗濯・・・・すべて自分でやらなくてはなりません。教え子は「亡くなって家内のありがたみが分かった」と・・・・。

 筆者はこのブログを、究極的には自分の死生観を定めるために書き続けています。禅を初めとする仏教、キリスト教、そして日本神道など、それぞれ何年かの実体験があります。

いつくしみ深き 友なるイエスは、

罪、咎、憂いを とり去りたもう。

こころの嘆きを 包まず述べて、

などかは下ろさぬ、負える重荷を 

               (讃美歌312番)

「この歌を聴くたびに涙が出る」と言う人もいます。

 明日のことを思いわずらうな。

 明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。

 一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

          <マタイによる福音書 第6章34節>

  神はあなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない。そればかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである。

       〈新約聖書のコリントの信徒への手紙10章13節〉

キリスト教には、すばらしい人間の知恵が集積されています。ただ、「神を信じろと言われても」と、距離を置く人も多いと思いますが・・・・。

 しかし、東日本大震災で「なんとか力になりたい」と現地入りした宗教家たちがすべて無力だったのも記憶に残ります。ある有名仏教寺院の、布教を専門とする僧侶が「自分の無力さを知った」と涙していました。仏教は人の悲しみや苦しみに寄り添う力にはならないのでしょうか。筆者はそうは思いません。「日本の僧侶や仏教家が仏教を正しく理解していないからだ」と言っては言い過ぎでしょうか。

 突然、災害で大切な家族を亡くした人たちは、「あのとき気づいてあげればよかった」。そして自分の不注意で事故を起こし、家族や他人を傷めてしまった人たちも・・・・。悔やんでも悔やみきれないでしょう。

 長年、ブログを書き続けてきた筆者が、上記のさまざまな人たちの悲しみを見るにつけ、分かってきたのは「人間、しかたがないこともある」という思いです。どんなに悲しくても苦しくても、残された人たちは生きて行かねばならないのですね。ベトナム戦争の時、待ち伏せ攻撃で戦友を殺された兵士が、報復として子供たちに毒入りのサンドイッチを食べさせて殺した事件がありました。その兵士はあまりの罪の重さに苦しみ、ベトナム出身の禅僧テイクナットハン師に救いを求めました。ハン師は、母国の子供を殺したその兵士を咎めることなく、「他人のために働きなさい」と言いました。そうですね。どんな罪深き人でも、悲しみ苦しむ人でも、生きていれば他人のために役立つこともできるのです。

そしてそれが自身を救うのですね。

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