神仏にお任せする

 ごく親しい友人2人を亡くし、もう一人は重い病気で苦しんでいます。

 その一人A君は1人は中学校以来です。4年ほど前の飲み会で、「間質性肺炎になった。医者には、『その場ですぐに入院してください。二ヵ月はかかります』と言われたが2週間で退院できた」と。筆者の専門でしたから、「これは危ない」と思いました。間質性肺炎は自己免疫病で、肺で呼吸する細胞が自己の免疫細胞によってやられるのです。その飲み会の帰り、わずか5分歩いただけで息切れしているのを見て胸が痛みました。この4月末、訃報が届きました。家内が「〇〇さんから電話があった」と。〇〇さんは共通の友人です。ハッとして「A君が死んだか」と口にしました。家内は「失礼しちゃうわ」と言いましたが、そのとおりでした。お葬式でA君の弟から「最後はステロイド1gを与えたがダメだった」と。ふつうは㎎単位で服用します。弟は薬学出身でしたので、筆者と共にその異常さがよくわかったと思います。最後の一ヶ月入院したとか。どれほどか息苦しかったかと胸が痛みました。

 もう一人のB君は20年前にガンで亡くなりました。大学の同僚でした。入院は急なことでした。2回ほどお見舞いに行きましたが、2ヶ月後大学の会議に出たのを見て胸を衝かれました。見違えるほどやせていたからです。翌年、定年退官の最終講義を筆者と共にするのを楽しみにしていましたが、それは果たせなかったのです。「ガンの疑いがある」から、検査を重ねるうち、〈疑い〉が〈確実〉に変わって行ったはずです。彼の心情を思うと、だんだんつのっていく不安、そして暮夜、「いよいよダメか」と思ったことでしょう。それを思うとたまりません。

 C君は大学時代の後輩で優秀な人でした。ある公立大学の教授として良い研究をした人です。大学院時代から人間洞察力に優れ、彼の言葉は、筆者が「〇〇(彼の名)語録」と呼んで尊重し、今でもときどき反芻して生きる参考にしています。近年、その彼からの音信が途絶え、どうにも不安になり、手紙を出しました。しかし返信はありません。返事をくれないということなど絶対にない男でしたので心配が募りました。半年たってようやく返信があり、「3年前に脳梗塞になりました。頭がぼんやりして何もする気になりません。毎日が悲しいです」とありました。思いもよらなかったことです。モノゴトをよく考える彼にとってはどんなにつらいでしょう。再発を防ぐ治療はしていますが、起きてしまったことは治療の見込みはありません。この病気は発作後すぐに亡くなることが多いのですが、彼はこのままで生きて行かねばなりません。察するに余りあります。

 以上、筆者の周りで起こった3つのケースについてお話しました。前の2人は、苦しみながら死んだことでしょう。それを思うと不憫でなりません。筆者の近所にも「2ヵ月前には元気だったのに」とか、「ほんの先日、表で木刀を振っていたのに」というような人が何人もいます。人はどういう最期を迎えるのかはわかりません。

 筆者も例外ではありません。しかし、人がどうなるかは「神のみが知る」ことでしょう。あの道元も、〈正法眼蔵・生死巻〉で、

・・・・ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」 ・・・・

と言っています。「人間に生死の問題は、仏(神)にお任せしよう」と言うのですね。死生観を得て平静な心で死ぬのが禅の一つの目的ではないでしょうか。にもかからわず道元が「神仏に任せよう」と言うのは矛盾ではないかとも思いますが、正直な気持ちでしょう

禅の「空(くう)」とカントの哲学

 禅の「空(くう)」思想と、E.カントの哲学には類似点があると言いました。しかし、禅の修行者が哲学的思考をするとは思えません。では、禅ではどのような経緯で「空」の概念に至ったのか?それが今回のテーマです。

 まず、「空(くう〉の概念は、釈迦以来大きな変化があったことを認識する必要があります。釈迦は〈空思想〉についてはまったく言及していません。釈迦の思想にもっとも近いと言われるスッタニパータで一ヶ所、〈空〉に触れていますが、それは哲学的意味ではありません。すなわち、

・・・・つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない・・・・(中村 元「ブッダのことば」岩波書店、p236)。

 つまり、具体的な哲学用語ではなく、生活の知恵ですね。

 また、龍樹(AD150?~250?)の〈空思想(空観)〉は、禅の〈空思想〉とは別です。それについては、すでにお話しました。両者を混同していることが、現代の仏教研究者が禅の〈空〉思想を誤解している理由です。

 今回話題にしていますのは、禅の空思想です。

 禅の修行においては、〈概念の固定化〉を徹底的に排除します。たとえばモノを見た(聞いた、味わった、嗅いだ、さわった)時、「あれは〇〇だ」という判断を固定化しないようにします。概念を固定化すれば先入観になります。あるいは、「私の出身校は○○だ」とか、「あの人は都会出を鼻にかける」とか・・・・ですね。このように、人にレッテルを張ることが良くないのは自明でしょう。それゆえ、禅ではこういうすべての概念の固定化を避けます。そのために、禅問答や公案の研究、禅師の講話などを行います。すると残ったものは「見た(聞いた、嗅いだ、味わった、さわった)という経験だけです。そこには〈(見た)私も〉も〈(見た)モノ〉もありません。禅者はこのような修行を通じて、「空(くう)」の概念に達して行ったのでしょう。ちなみに、現代のほどんどの仏教研究家が「空(くう)とは実体がないこと」と言いますが、その本当の意味はこのようなものだと思います。

 ドイツのカント(1724-1804)やヘーゲル、フィヒテなども、深い思索の結果、「真の実在とは経験だけである」との結論に達したのです。「でもモノというのは現実にあるじゃないか」という反論に対し、カントは「それは、たんなる経験的な実在に過ぎない」と言いました。ドイツ観念論哲学の系譜です。

 カントの流れをくむ西田幾多郎は高校生時代、つまりカントとは独立に、「モノを見るという体験(純粋経験)だけが真実だ」と考えました(「善の研究」岩波文庫)。私たちはふだん、「私がモノを見る」と言いますが、じつはほとんど正確には見ていません。目の錯覚、耳の錯覚・・・・はいくらでもあります。太陽や月は地平線近くでは大きく見えることは誰でも知っています。かって筆者も興味を持ってこの現象を追求してみました。確かに天空にある時に比べて何倍も大きく見えますが、太陽の黒点や、月の噴火口は決して見えません。望遠鏡であの大きさの太陽や月を見えれば必ず黒点や噴火口が見えるのですが・・・。つまり私たちの〈見た内容〉はきわめてあいまいなのです。しかし、ただ一点、〈見たという体験〉だけはまぎれもない事実です。「真の実在とは何か」を追求した結果、カントや西田は緻密な哲学的思考の結果、そういう結論に達したのです。ことほどさように、洋の東西や、時代を問わず同じ「モノゴトの観かた」に達したのでしょう。

 禅が発達したのはカントの時代より1000年も前の唐時代です。東洋思想がいかに先駆的だったか、おわかりでしょう。しかし、カントの時代の後、ヨーロッパで産業革命が起こり、「モノ」を重視する思想が席巻するようになりました。カントらの思想が忘れられて行ったのです。それにより激しい競争社会になり、多くの人々を苦しめるようになりました。そこで今、「従来の思想を見直そう」という考えがで沸き起こってきました。日本の安泰寺に3000人ものイギリスやドイツ、アメリカなどの若者が訪れたのは、やむに已まれぬ思いからでしょう。

真の勇気

 ヴィオレット・サボー(Violette Szabo、1921-1945)を知っていますか?フランス人で、第2次世界大戦中のイギリスの諜報機関(SOE,特殊作戦執行部)の部員でした。

 フランスに潜入した37名の女性部員のうち、14人がドイツ軍ゲシュタボに捕まり、拷問の末、処刑されました。彼らのもっとも有名な活動は、1944年の連合軍ノルマンデイ上陸作戦に当たって、ドイツ軍が戦場に駆けつけるのを妨げるため、鉄道や橋梁の破壊工作をしたり、通信網を混乱させたりした功績です。夜間に飛行機からパラシュートでフランスに降下し、フランスレジスタンスと共同で活動しました。これら特殊工作員の活躍によってドイツ軍の来援は間に合わず、作戦は成功し、第2次大戦の趨勢は決したのです。

 筆者は彼らの活躍を知った時、「真の勇気とはこういうものなのか」と強い衝撃を受けました。ここで紹介するのはその一人、 ヴィオレット・サボーについてです。イングランド人の父と、フランス人の母の間に生まれ、ハンガリー系フランス人士官エティエンヌ・サボーと結婚。1942年に長女タニアが生まれてまもなく、自由フランス軍に加わっていたエティエンヌが第二次エル・アラメイン(エジプト)の戦いで戦死しました。その後彼女はイギリスの特殊作戦執行部(SOE)に参加しました。ドイツ軍は占領下のフランスでは「女性には甘い」ことに目を付け、女性エージェントを潜入させたのです。イギリス人は戦いのプロだと言われており、その好例がここにあります。サボーは2歳の娘を人に託し、スパイとしてフランスに潜入しました。2回目の潜入の直後にゲシュタボに捉えられ、ドイツのラーフェンスブリュック強制収容所で処刑されました。わずか24歳でした。サヴォーのミッションはドイツ軍の通信網の破壊でした。このようにスパイの活動はきわめて有効でした。スパイは、たとえ捕らわれても捕虜としての待遇は受けず、連合国、枢軸国ともに処刑しました。まことに過酷な任務でしたが、それだけ功績が大きかったのですね。それによって何十万、いや何百万の命が救われたでしょう。

 ケンブリッジ大学の国際政治学の権威リチャード・ネッド・レボー教授は、「20世紀に入ると大国が小国に負けることが多くなった。それはなぜか?ナショナリズムであるからだ。国が占領され、蹂躙されるという屈辱に会うと、命がけで戦う」と言っています。サボーもその意気でスパイという過酷な任務に身を投じたのです。彼女の死後、娘のタニアが代わってジョージ十字勲章を受けました。

 「日本人は勇気ある国民だ」と言われています。「しかし、それは危機的状況に会った時に出る逆上的勇気だ」と言った人がいます。残念ですがそうかもしれません。イギリス人やフランス人は、女性でもサボーのような真の勇者が出るのですね。ちなみにイギリスの戦時下の最高栄誉賞を受けたのは、重傷の男性兵士に覆いかぶさって爆発から守った女性看護師と、ゲシュタポに拘束されて暗黒の部屋に入れられ、耐えた女性特殊工作員でした。

 私たちが〈勇気〉と言えば何を思うでしょうか。許しがたい他人を許すことか、重い病気にかかっても最後まであきらめずに治療にベストを尽くし、明るく振舞うとことか。受験に失敗したとか、失恋したとか・・・・。それも悩みに違いありませんが、サヴォーたちの勇気に比べて・・・・。サヴォーは常に死を意識していたはずです。そしてそれは現実のものになりました。

 私事ですが、筆者は12年前、所属していた組織の不条理さに対し裁判を起こしました。誇りを傷つけられたので戦ったのです。相手には法律の専門家が多数いましたが、終始「負けるはずがない」と思っていました。「わが国には法も正義もあるんだ」 ・・・・その時の感想です。その結果、睡眠障害になり、受診した親しい掛かりつけ医に「もうそんなことやめなさいよ」と言われました。もう一度そんな目にあったら?やっぱりやるでしょう。ただ、もし筆者がサボーのような状況に置かれたら・・・・自信がありません。

統一教会問題2)

 7月9日のNHKスペシャル「安倍元首相銃撃事件から1年」を見ました。NHKのこの放送の主張は「いかなる理由があろうと暴力はいけない」でした。しかし筆者はその報道姿勢に強い違和感を覚えました。理由は以下の通りです。

 事件を振り返りますと、2022年7月8日奈良市の近鉄・大和西大寺駅前で選挙応援演説中の安倍元首相が山上徹也被告によって手製の銃によって銃撃され、死亡した事件です。山上被告は、母親が旧統一教会に入信し、それにより家庭が崩壊したことに恨みを抱き、「安倍元首相とつながりがあると思い、犯行に及んだ」と供述しています。この事件が私たちに衝撃を与えたのは、その後旧統一教会と自民党を中心とする政治家たちとの癒着ぶりが次々に明らかにされていったことです。旧統一教会が自民党への選挙応援する見返りに日本での布教(?)の〈お墨付き〉をもらったのでした。問題の安倍元首相自身も、旧統一教会の式典に「この教会の活動はすばらしい」とのビデオメッセージを送りました。

 さらに、旧統一教会が新規入会者に組織的に、きわめて巧妙な段階的〈洗脳〉を行っていたことを知り、私たちも身震いするほどでした。山上被告の母親は、長年にわたって、死亡した父親の生命保険金や家族が所有していた不動産を売って得た金など、合わせて1億円以上を献金していたとみられています。その〈献金〉額の巨大さにも驚かされました。山上被告には全国から多くの同情が寄せられ、13,000名を超える人たちの減刑嘆願書とともに、洋服や菓子などの差し入れが届いたとか。送られた現金は去年10月までに100万円を超えると言います。NHKは「それらの社会現象が異常だ」と言うのです。

 NHK報道の内容

 NHKの当番組の論旨は、

 ・・・・山上被告に共感を寄せ、減刑まで求める人たちがいるのはなぜか。その後も、暴力で自らの主張を訴えるテロ事件が相次ぐ背景には何があるのか・・・・でした。そして最後にアナウンサーの強い言葉で締めくくりました。「動機がなんであれ、暴力に訴えることは断じて許されません」。

 その理論的サポートとして戦前から現代にかけて起きたテロや事件について研究してきた中島岳志さん(日本大学教授)の言葉、「被告への共感がうまれることに危機感を抱いています。事件を起こした人を評価、支持するような署名が集まっていることを知ると、『私も(テロを)』と思ってしまうことが考えられるので、冷静に対処しなくてはいけない。テロによって社会は変えられない、テロによって世の中は動かないんだということを、世の中はしっかりと見せつけないといけない」。

筆者のコメント:「筆者はこの番組を視聴して強い違和感を覚えた」と言いました。それは、これは論理のすり替えだと思うのです。まず、この事件の本質は「なぜ旧統一教会をのさばらしていたか」にあるはずです。それを「テロは許されるかどうか」にすり替えているのです。第一、その後「暴力で自らの主張を訴える事件が相次ぐ」ことはありません。岸田首相襲撃事件が一件あっただけです。

 NHK側は、「山上被告が高校卒業後に4つの資格を取得しながら非正規雇用の職場をたびたび変わっていたことが、社会に対する大きな不満になっていた。これがこの事件の原因だ」と言っています。その証拠にNHKの記者の一人が「教団に対する積年の思いがあったことは感じるが、今回の事件には直接結びつかないのではないか」との言葉があります。これは独りよがりの発言です。たしかに山上被告の就職事情はNHKの言う通りでしょう。しかし、家庭を破壊されてしまった人間がうまく就職できるとは思えないのです。何よりの証拠は、山上被告の就職用ポートレートです。本当に痛ましいのですが、こんな暗い表情(おそらく面接試験での発言も)の青年を正規社員として雇いたいと思う企業はなかったでしょう。山上被告の伯父はもと弁護士だったのです。お父さんを早くに亡くしているとのことですが、おそらくちゃんとした家系だったはずです。それがこんな青年になってしまったのは、まちがいなく旧統一教会の所為でしょう。山上被告が事件を起こしたことを知ったお母さんが、「それでも教会にすまない」と言ったと聞きます。宗教による洗脳の恐ろしさがわかります。つまり、NHK記者は結果と原因を混同しているのです。

 政治学者の中島さんはさらに、「民主主義の基本は徹底的な話し合いです。暴力に訴える前にあくまでも話し合いによって解決すべきだ」という趣旨の言葉を言っています。すなわち、

・・・・まず私たちは理解しようとする努力をしっかりとやるべきだと思います。それは共感するということと、全くイコールではないですね。理解した上で、その問題をどういうふうに乗り越えていくべきなのか。なぜ彼が事件を起こしたのかを、何か一元的にこれのせいだというふうに言うのではなく多角的に分析していくこと、どう捉えるのかを一生懸命議論していくこと、それが非常に重要な社会の役割です・・・・

 筆者はそれを聞いて「何という空しい言葉だろう」と思いました。そこにあるのは建前だけです。もし私たちが山上被告の立場だったら何ができたでしょう。普通の市民である私たちができることなど微々たるものだったはずです。おそらく唯一の方法が弁護士を通じて法的に訴えることだったでしょう。しかし、それがいかに無力だったか!30年以上、弁護団の筆頭として被害と向き合ってきた山口広弁護士に、NHKが「どんなことをすればこういう問題を解決できたと思いますか」と質問したところ、山口さんは、「・・・・わかりません。わかりません。わかりません」と涙ながらに答えたのです。旧統一教会問題に関わっている弁護士は200人を越えます。しかし、その彼らをもってしても、どうしても解決できなかったのです。中嶋さんが「話し合いが基本だ」というのを聞いて筆者が怒りを覚えるのは当然でしょう。

 いいですか、NHKは「絶対に殺してはいけない」と言いますが、安倍元首相暗殺事件があったからこそ、世の中がこんなに大きく動いたのです。

神の存在を知りたい?

 前回、作家の加賀乙彦さんの信仰についてお話しました。加賀さんが、「神を信じたい」とか「神を信じるのは賭けです」と言ったのには違和感を感じました。また、加賀さんの〈宣告〉を読んだ遠藤周作さんが「神を信じないでキリスト教信仰を書くのは、無免許運転だ」言ったことには筆者も同感です。

 一方、読者の時永さんから、・・・塾長は研究の最中に神の存在を実感する体験を持たれたとのことですが、そのような体験がない私のような者は、その時の感覚をいくら体験者に尋ねても同様に実感できることは難しい性質のものでしょう・・・・

というコメントをいただきました。

 このご質問に対し筆者は、「地区の産土神社に毎月参詣しています」・・・・などとお答えしましたが、信仰は心の問題ですから、適切なアドバイスは出来ませんでした。その答えを何ヶ月も考えていましたが、先日、ボランテイア活動の帰りにフト「神の心になりなさい」との言葉が浮かびました。そうなのです!「神の心になって生きる」それが答えだったのです。

 加賀乙彦さんのように「なんとかして神の存在を信じよう」とか、「キリスト教に対する疑問」などの気持ちを忘れるのです。あるいは時永さんのように「神を実感したい」という望みを捨てるのです。そして「神の心になって生きよう」と決心するのです。それは誰でも、今すぐにでも始められます。「神の心?」などと考える必要はありません。結果は自ずと付いてきます。

 神とは愛なのです。考えてみてください、親が子を思う心、それはすべての人間、それどころかすべての動物が持っています。「当然」ではありません。本能と言ってもいい感情ですね。なぜ人間やその他の動物はそういう感情を持つのか。それは神から与えられたものだからです。愛の心を持って生きましょう。いつでも、どんな時でも。それは時には難しいことです。他人にひどいことをされたり、言われたとき、誰でも腹が立ちます。また、他人が自分より優れていることを知らされた時、そんなとき誰でも悲しくなります。しかし、そんな時にもこのことを思い出すのです。あの良寛さんは失火犯の疑いを掛けられたり、畑の中で座禅して瓜盗人と間違えられて殴られたことがあります。また、「坊主のくせしてお経も読まず、物乞いをしている」と面罵されたこともあります。それでも黙って耐えました。おそらく良寛さんは禅の極意とはそういうものだとわかっていたからでしょう。聖書に「右の頬を撃たれたら左の頬を出せ」という厳しい言葉があります。おそらくそれも、やり返せば神の心に反することになるからでしょう。

 神の心になって生きる・・・・そこには疑問の入り込む余地はありませんね。