カテゴリー別アーカイブ: 未分類

花は愛惜に散り草は棄嫌におふる(2)

読者huさんのコメントと筆者の感想(その2)

 huさんはよく勉強していらっしゃいます。huさんがおっしゃりたいのは、

・・・道元禅師が「正法眼蔵・現状公案編」で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり」です。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく・・・(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです・・・

でしょう。

 huさんは、「ブッダの思想の要諦は、(悲しみや苦しみから逃れるために重要なことは)気づくことだ」と理解していらっしゃいます。人はいつまでも苦しかった時のモノゴトを思い出して苦しみを繰り返します。したがって苦しみから逃れるにはそのモノゴトを滅するのではなく、気付いて手放すことが重要だというのですね。

 スッタニパータ874の、

・・・ vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、やはり中村元博士の「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」(「ブッダ最後の旅」岩波文庫)が正しく、huさんが依拠していらしゃているアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」は拡大解釈だと思います。たしかに「怠らずに励んで目的を果たせ」ではどう励んでいいのかわかりませんが、原文に忠実に訳せば中村博士の訳以外にはあり得ません。つまり、スッタニパータ873・874は「気づき」とは直接の関係はないのです。

 たしかにアルボムッレ・スマラサーラさん(日本テーラワーダ仏教会長老)は、釈迦仏教の要諦は「気付き」(註2)だと考えていらっしゃいます。重要な指摘ですが、ブッダの大切な教えは、まだ他にもあります。「気づき」だけでなく「空」思想の体験による理解もあるのです。

 さらに、huさんのおっしゃる

・・・道元禅師の現状公案で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌におふるのみなり」は愛別離苦に気づいて手放すということ、つまり想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです・・・という解釈は誤りです。それについては次回お話します)。

 以上、huさんの解釈を否定する結果となってしまいましたが、どうか前向きに、真摯にお受け取り下さい。筆者の印象では、huさんは少々「気づき」に引きずられていらっしゃるようです。言うまでもなくhuさんをはじめ、他の読者の皆さんにとっても何より大切なことは、正しく理解することだと思います。八正道ですね。

オーム判決-長谷川和広さん

オーム死刑囚の刑執行は国による大量殺人か

 読者の「凡愚さん」から転写していただいた、長谷川和宏さん「オウムの物真似」(「全作家」114号2019)についての筆者の感想です。以下は「凡愚さん」のご厚意に報いるために書きました。筆者は以前、「オーム死刑に対する村上春樹氏の論理」と題して、「死刑制度は反対、しかしオーム容疑者の死刑は賛成」という村上氏の論理のいい加減さを批判するブログを書きました。なお、紙面の制約上、長谷川氏の意見を一部割愛して示します。

 結論から先にいますと、長谷川氏は「オーム死刑囚13人の刑執行は、オームのジェノサイド(大量殺人)を日本は国家がモノ真似した」と言うのです。

 (長谷川)・・・人間による復讐では、全く同程度の復讐は不可能であり、冤罪もまた避けられず、悲嘆と怒りと憎しみの連鎖は人の心を荒廃させる。

筆者のコメント:オームの容疑者が死刑されても、日本人の心は決して荒廃しませんでした。それは読者の皆さんご自身がおわかりのはずです。

 (長谷川)・・・聖書に「自ら復讐することなかれ。神の怒りにまかせよ。主曰わく、『復讐するは我にあり、我これを報いん』」(ロマ書12・19)とある。『我』は当局でも当事者でもなく、神であった。わたしが復讐する!・・・釈迦は言う。「人の身を得ること難く、身を得るも寿(いのち)ある難し」「殺す勿(なか)れ。殺させしむる勿れ」(「ダンマパダ」182/129)・・・。 

筆者のコメント神はいかなる罪を犯した人間に対しても復讐なされることはありません。この聖書の言葉は誤りか、訳者が間違っています。ブッダは、後述する「闇サイト殺人事件」の犯人をも「死刑にするな」とおっしゃるでしょうか。「殺人鬼」と言われた男です

 (長谷川)・・・被害当事者の「殺された者をもう一度私どもの許に返して欲しい」との異口同音は、加害者の死を!の願いがたとえ叶っても、その加害者の死は、殺された被害者やその被害と釣り合わない事を示している。「人の命は何ものにも代え難い」と痛感させられているのに、被害当事者が「加害者に死を」と願うのは、かけがえのない人の命の絶対的な重みを自ら掘り崩し、被害者の命の重みをも相対的に切り下げはしまいか・・・。

筆者のコメント:まったく論理のすり替えとしか言いようがないでしょう。筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きます。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(1人目は死刑。3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。彼らは「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺したのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

筆者のコメント:筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きるでしょう。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺し、遺体を山に捨てたのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

 (長谷川)犯罪被害者支援フォーラムの弁護士は「理不尽な犯罪を許さない、被害者の無念を救いたいという大臣の強い姿勢に対して支持する」と述べ、また、「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」というツイートした。しかし、御坊哲(ごぼうてつ)は「不殺生戒と死刑制度は矛盾しない」と言う僧侶に対し、「『より多くの命を生かすためには、一人の人間を殺してもよい』ということ」だから、「倫理というものが全て功利主義に還元されてしまう。死刑制度に賛成することによって、公権力による殺人に加担しているわけで、これはお釈迦様の『殺生することに関わるな』という言葉に明らかに背いている」(ブログ禅的哲学2014.8.1)と主張していた・・・ 

(長谷川)オウムが国家を真似たのか。国家がオウムを真似たのか。その国家はオウム真理教の再審請求中の十人も含めた教組幹部を、二日間で十三人処刑した・・・。

筆者のコメント:結局、長谷川氏の論説は、マスコミがよくやる「初めに結論ありき、後からいろいろな人の意見を論拠として挙げる」に尽きるでしょう。そもそも筆者はいろいろな理由を挙げる人の論説は信じません。必ず「理由の後付け」になっているからです。もう一つ、日本人の80%が死刑制度に賛成していること、仏教国スリランカではいったん廃止した死刑制度を復活したという重大な事実を長谷川氏は引用していません。

 最後になりましたが、死刑制度反対を主張する弁護士グループに対して「あなたの肉親が理不尽に殺されてもその主張を続けますか」という声なき声があります。筆者もそう思います。筆者の死刑制度賛成の論理はシンプルなのです。

華は愛惜に散り、草は棄嫌におふる(1)

読者huさんのコメントと筆者の感想(その1)

 読者のお一人(huさん)から次のようなコメントがありました。他の読者の皆さんにも重要な話題と思われますのでご紹介します。一緒にお考え下さい。筆者の感想はのちほどお話します。

 huさんのコメント:・・・道元禅師の現状公案で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌におふるのみなり」です(註1)。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha (註2)」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです。

(両者を結びつけるのは少し飛躍があると思いますが」という筆者のコメントに対し)

huさんの返事・・・確かに874は涅槃の境地と考えられ飛躍ですが。行として考えるとベクトル方向(方向と強さを表す数学的述語:筆者)が同じです。正法眼蔵「祖師西来意」の「口樹枝、脚不蹈樹」の状態です。

註1「正法眼蔵・現成公案巻」のこの文章の前には、

 ・・・諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり ・・・とあります。

註2スッタニパータ:スリランカに伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録されています。大乗経典類と異なり、ブッダの言葉を色濃く残しているとされています。日本語訳:「ブッダの言葉」 中村元訳(ワイド版岩波文庫)。 スッタニパータ874には、

修行僧の問い:どのように修行した者によって、形態(色しき:筆者)が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。-わたくしはこのように考えました。
ブッダの回答(註3):「ありのままに想う者(凡人、註4。カッコ内以下同じ)でもなく、誤って想う者(狂人)でもなく、想いなき者(滅尽定に入った人)でもなく、想いを消滅した者(四無色定を得ている者)でもない。-このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである」

註3スッタニパータ874は、ブッダが亡くなる直前の最後の言葉として知られています。日本語訳は「ブッダ最後の旅」 中村元訳(岩波文庫)にあります。HUさんが注目している874のパーリ語原文にある
vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、中村博士の訳では、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい」となっていますが、HUさんは「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」というアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈に依拠しています。以前にもご紹介したように、スマラサーラさんは「気づき」をブッダの重要な概念と考えていらっしゃいます。

註4「ブッダの言葉」中村元(上記)の注記によります。スッタニパータ874の文章も「現成公案」のこの文章も、難解ですね。後ほど筆者の解釈をお話しますが、ネットでも調べられます。

早川一光医師‐在宅医療、自宅で死ぬ

 早川一光(かずてる)医師(1924-2018)は、在宅医療地域医療の先駆けとなった人です。その持論は、ほとんど一世を風靡したといっていいでしょう。講演も多く、その一部はCDにもなって、筆者も持っています。以下はNHK「あの人に会いたい」から引用させていただきました。

 早川さんいわく、

 ・・・病と付き合う。老いと付き合う。老いというものは円熟。熟していくんだという風にモノを見る見方。積極的、ポジティブ、陽性にモノを見るというのが大事。死もまた、迎えがいつ来てもいいというモノの考え方、人生観。人間の死は非常に個性的であるべき、その人でないと演じられない独演。見事な死にざまを演じようと思った時には、見事な一日一日を生きて欲しい。死ぬ時だけうまいことをやりましょうなんていかない。私は往診こそ最高の医療と思っています。なぜかというと、病院で診たら臓物の故障はわかりますが、暮らしの故障はわからない。行ってみて初めて、おっ!こんな家でこんな人たちがおって、やっぱり家を治す病を治すんじゃなくて、家族関係を治す。そして人間の心を治していく、これが本当の本来の医療じゃないか。畳の上での大往生。「おじいちゃんやっぱり死ぬときは家で死ぬのかな。病院で死ぬのかな」。「それはやっぱり家の方がいいやろね」「家の方がいいか。やっぱり。この住み慣れた家がいいか。おばあちゃんがそばにおって。心の医療というものの表現のしかたは、やっぱり畳の上で死ねるような暮らし方・・・そういう人間関係の中で、家族との人間関係、地域との人間関係の中で息を引き取れて行く。そういう息の引き取り方をさせたい。孫、ひ孫に囲まれながらね。「おばあちゃん死なないで」という、そういう言葉を耳に挟みながら、最後の人息をふっと詰めて行く・・・。

どの言葉も納得できる良い言葉ですね。ところが問題はここからです。 しかし、問題はここからなのです。

 以下はETV特集「こんなはずじゃなかった」(H29)より、

 しかし、ご自身が90歳で白血病になり、この人生観が根底から揺らいだ。「こんなはずじゃなかった。おれは何をしてきたんだろう。「在宅は天国や」と言ってみんなを煽って来たけど、それ天国なんか?

 まったく「それはないでしょう」ですね。早川さんが長年標榜し、実践してきた在宅医療が、じつは家族のとても大きな負担となることもわかり、自らも死の恐怖に苛まれるようになったのです・・・

 早川さん自身の担当医に「入院したら帰って来れないかもしれない。その時はどうしましょう」と聞かれて(当然な質問ですね。入院は本人の医師としての信念に反します。しかし入院すれば高度の医療も受けられます:筆者)

早川さんの答え「先生、難しいなあ先生」

担当医「そこを決めとかないとどこで最後を迎えるかということだから」

早川「苦しみを受容するか拒否するか。難しい」

担当医「難しいですよ」

早川「永遠のテーマかもしれませんよ」

早川「こんなはずじゃなかった」

・・・お気の毒ですが「私の人生は何だったのか」と思われたのですね。

 その後、早川さんは「最後まで僕が失ってならないものは、生きて行くしんどさをしみじみ噛み締めて・・・」と言っていますが、負け惜しみの自己弁護としか思えません。読者の皆さんはどう思いますか。

けっきょく、早川さんは自宅で家族に看取られながら94歳で亡くなられました。

 筆者の母親は、結局1年ほど入院したでしょうか、あるとき医師から「もうこれ以上ここで治療しても改善する見込みはないので、自宅療養してください」と言われました。追い出されたのです。15年前のことで、今はどうかわかりませんが、胃管を通して栄養補給しなければならなくなりました。素人が毎日、毎晩できることではありません。下手をするとチュ-ブが肺に入り誤嚥性肺炎という重大な事故を引き起こすこともあるのです。

風呂にも入れなければなりません。母は人に迷惑を掛けることがとても嫌いな人でした。状況がわかったのでしょう。あっと言う間に逝ってしまいました。

禅と神仏-赤肉団上の一無位の真人(1-3)

 読者のお一人から、「あなた(筆者)の考えには共感するところが多いが、神や霊魂に関する部分については肯いかねません」とのメールをいただきました。筆者が体験した霊については、これまで何度も書きました。そこで今回は禅思想における神(仏)の意義についてお話します。

 典型的な自力本願の禅と、仏(神)に対して絶対の信頼を寄せる他力本願思想とは正反対だと思われています。しかしそれは誤解です。あの道元禅師は主著「正法眼蔵・生死巻き」で、

 ・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち佛の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 佛の御いのちを失なわんとするなり。これにとどまりて、生死に執著すれば、これも佛の命を失うなり。佛のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、佛の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなか れ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、佛の投げ入れて、佛のより行われて、これに従いもてゆくとき力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ佛となる。誰の人か、心に滞るべき(正法眼蔵 生死巻(別巻5)・・・

「生き死にのことは神仏におまかせしよう」と言っているのですね。考えるまでもありませんね。あらゆる宗教の根本は神(仏)です。

 ちなみに、有名な言葉「一切衆生、悉有仏性」を、ほとんどの人が「誰もが仏心(仏性)を持っている(だから誰でも悟ることができる)」と説いています。しかし、以前のブログでお話したように、道元の解釈は異なります。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」には、

・・・すなはち悉有は仏性なり・・・

とあります。つまり、この世のあらゆるもの、山も川も人間も植物も、すべての存在は(神)の真理の表われである、と言っているのです。それは他の箇所で、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれていることから明らかです。やはり神仏を思想の根底にしているのです。

 なお、「生死巻」は次のように続きます。

 ・・・仏となるに、いとやすき道あり、もろもろの悪を作らず、生死に著(執着:筆者)する心なく、一切衆生のために、哀れみ深くして、上を敬い下を哀れみ、よろずを厭う心なく、願う心なくて、心に思うことなく、憂うることなき、これを仏と名付く・・・

「正法眼蔵」は難解な書物として知られていますが、道元の思想は、じつはこんなにわかりやすいのです。

 禅と仏(神)(その2)  

 臨済宗の宗祖・臨済義玄(?-867)の「臨済録」には、有名な公案

 赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す

があります。「臨済宗・黄檗宗公式サイト(臨黄ネット)」では西村惠信「禅語に学ぶ生き方、死に方)を引用して、

 ・・・臨済禅師が弟子たちに向かって、「われわれのこの身体(赤肉団)の中に、一人の形の限定できない真実の〝人(にん)がいる。〝彼〟は、朝から晩まで五官を通して出たり入ったりしている。そいつをまだ見たことがない者は、見よ、見よ」と言われた。これこそ禅者が求めるべき、「真実の自己」なのだ・・・。

 臨黄ネットHPの担当者は・・・頬を抓(つね)ってみると、確かに他人ではない個体としての「自分」がある。しかしこれはもともと母の胎内から生まれ出たもので、やがて死ぬと棺桶に入れられる「肉の固まり」に過ぎない。しかし「私は」という自我意識が、その事実を見失わせる。
 木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている。木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている・・・意識は鳥の声とか、花の色というような外界のものが、感覚器官に入ってくる瞬間に起こるものであるから、もし何にも入ってこなかったら自我の自覚もないであろう。こうして「自己」というものの内容は、肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって成り立っているのである。
 道元禅師はこのことを「本来の面目」(真実の自己)と題した歌で、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と歌っているのである・・・ と言っています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。じつは、これでは「意識」と「感覚」と「真実の自己」がごっちゃになっていますね。それぞれ意味がまったく異なります。それが重要なのです。

臨黄ネットではもう一つの解釈、

 山田無文の「無文全集 第五巻 臨済録」(禅文化研究所)引用して、

・・・赤肉団上に一無位の真人あり、肉団はお互いの肉体のことだ。無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性がある・・・常に汝等諸人の面門より出入す・・・

その主人公が、その主体性が皆の面門より、五感を通して出たり入ったりしておる。外へ飛び出して、きれいな花となって咲きもするし、美しい鳥となってさえずりもする。虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人がはたらくのである。こういう立派な真人が、仏が、皆の体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ・・・この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。

これについて臨済宗黄檗宗公式HPの担当者は、

・・・無文老師が説かれたように、私達には生まれながらに「一無位の真人」という主体性が備わっています。その仏の心を自ら発見するのが臨済禅の根本です。それは、その時その場で精一杯生きる己の「こころに向き合う」ということです。

・・・と解説しています。

筆者のコメント:一体これはどういう意味でしょうか。「一無位の真人という主体性」という抽象概念でしょうか。「こころに向き合う」という行動でしょうか。いずれにしても臨済宗や黄檗宗は、まさに臨済の思想を継ぐ宗派でしょう。しかるに臨済の思想の要諦であるこの公案についての公式見解がこのようにバラバラで、しかしハッキリしないではどうしようもありませんね。それにしても坊主は歳を取るとどうして「・・・じゃ」などと言うのでしょうか。

 筆者はこれらとはまったく異なる解釈をしています。それを次回お話します。

禅と仏(神)(その3)
 まず、これから筆者がお話しする言葉の定義をします。「感覚」とは、眼や耳、鼻などのいわゆる感覚器官から入って来た情報の認識を指します。たとえば「リーンリーン」という音がする」という神経作用です。ただし、そこには「あっ鈴の音だ」という「判断」は入っていません。次に「心」です。心=人間の意識とします。一方「魂」は「その人の本体、その人そのもの」を指します。注意していただきたいのは、魂は死後の姿、すなわち霊魂とは、必ずしも一致しません。
「本当の我」は神に通じる
 筆者は、臨済禅師の言う一無位の真人とは、本当の我(本当の自己)のことだと思います。
 重要なことは「本当の我」は神に通じているということです。神の一部と言ってもいいと思います。この考えは基本的にはインドに古くからあるヴェーダ信仰(のちにヒンズー教となり、現在に続いています)。理論体系としてはウパニシャッド哲学と呼ばれます。この思想の要諦では、人間の本体を「個我(アートマン)と呼び、神をブラフマンと呼びます。そして信仰の究極の目標は、アートマンとブラフマンとの一体化にあります。「個我」は魂の事であり、筆者が言う「本当の我」です。「魂(本当の我)」は人間が生まれる前から持っており、この世にあるときはもちろん、死後も消えません。つまり肉体が生まれ変わり(輪廻転生)しても消えることはありません。「本当の我」を「本来の自己」と表現する人もいます。
 
 くりかえしお話しているように、釈迦仏教は、ヴェーダ信仰のアンチテーゼとして生まれたものですから、初めから固定的な「個我」とか、輪廻転生いうものは考えません。では「神」についてはどうでしょうか。これまでの仏教哲学では必然的に「神」というものは認めません。ただし、釈迦は「そんなよくわからないことについては考えるな」と言っただけです。しかし、釈迦など究極の悟りに達した人が仏(神)を体験しなかったはずがありません。
 臨済禅師も瞑想が進むうちに一無位の真人、つまり本当の我、そして神の存在を実感したのでしょう。


 何度もお話しているように、筆者は神の存在を実感しています。筆者の研究グループが明らかにしたあるタンパク質の遺伝子構造を眺めている時、パッと「生命は神が造られた」と直感したのです。