「未分類」カテゴリーアーカイブ

山川宗玄師「無門関」(2)

 無門関・第五則  香厳上樹

原文:

 香厳(きょうげん)和尚云く「人の樹に上るが如し。口に樹枝をふくみ、手を枝に攀(よ)じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西来(せいらい)の意を問わんに、対(こた)えずんば即ち他(かれ)の所問に違(そむ)く、若し対えなば又た喪身失命せん。正恁麼(しょういんも)の時、作麼生(そもさん)か対(こた)えん」 

 現代語訳: 香厳和尚が云った「人が高い樹に登るとしよう。しかも彼は口で樹の枝を咥え、両手を枝から放し、両脚も枝から外し宙ぶらりんになったとしよう。その時、樹下に人がいて『禅の根本義は何ですか』と質問したとしよう。これに答えなければ質問者に申し訳けが立たないし、かといって、答えたならば木から落下していっぺんに死んでしまうだろう。このような絶対絶命の時どのように答えれば良いだろうか」

 山川師の解釈:公案はもともと非現実的で不合理なものが多いのです。この公案もそうです・・・・私はここ(正眼僧堂)で修行を始めたころ、あまりの苦しさに、倒れればいいんだ。倒れれば家へ帰る口実ができると思いました・・・・夜の座禅の時、ああ今日も2時間しか寝られないなあ、と思った瞬間、いや今日は2時間もねられるなあと思った、その時感動で涙がとめどなく流れた。その時本当に生かされているんだと思った。草も木も石も月も、あらゆるものが自分を生かしてくれているんだ。なぜそれまでの間に倒れなかったのか。それが本当に分かった気がしました・・・・絶体絶命の時、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり筏乗り」これをしなければ本当の解決にはならないんだ・・・・。

 筆者の感想:よいお話ですね。しかし、この公案の真意は違うと思います。第一、山川師の解釈では公案にはなりません。なぜなら無門慧開禅師は評唱で、「たとえ水が流れるように滔々としゃべっても、何の役にもたたない。大蔵経典を説くことができても、これもまた何の役にもたたないぞ。もしこのような場面に直面してもたじろがず、きちんと対応できるならば、それまで地獄道にさ迷っていた死人を活き返らせることができる・・・・」と言っているからです。つまり、「禅は理屈であれこれ言っても疑問の解決にはならない」という意味で、当時も今も修行僧たちは、あまりにも公案の解釈に熱を上げ過ぎていたことへの痛烈な批判なのです。

山川宗玄師「無門関」(1)

 山川宗玄師は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗正眼寺・正眼僧堂師家(指導者)です。山川師は禅の公案集〈無門関〉について、ニューヨークにある臨済宗・金剛寺での講演会で解説しました(〈無門関の教え・アメリカで禅を説く〉淡交社)。なお、山川師については、すでにブログでも紹介しました(2019/7/4)。

 山川師は上記の著書で、〈無門関〉48則のうち20則を取り上げ、解説しています。そのうち幾つかについて、山川師の提唱と、それについての筆者の感想をお話します。

 1)まず第六則 世尊拈華(せそんねんげ)です。元の話は、

 原文:(本則のみ。以下同じ)

 世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(ただ)迦葉(かしょう)尊者のみ、破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相の微妙法門あり。不立文字教外別伝 摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す・・・・です。

 現代語訳:ある日のことブッダは霊鷲山での説法において大衆にむかって静かに金波羅華〈こんぱらげ〉という花を高くかざして示された。このとき大衆はその意味が分からず、ただ黙ったまま何の言葉も出せなかった。このとき一番弟子の迦葉尊者だけが破顔し微笑したのである。この微笑にブッダは迦葉こそわが真意を解した。「吾に、正しき智慧の眼(正法眼)をおさめる蔵があり、涅槃〈悟り〉に導く絶対なる法門がある。この法門は言葉によらず、文字によっても教えられない。微妙の法門である。この我が真実の法の一切を迦葉に伝える・・・・

 山川師の解釈:・・・・その後派遣されて和歌山県の興国寺へ行った。本尊は釈迦牟尼仏で、通常の座禅ではなく、花をかざした(拈華)お姿だった。2-3年後、たまたま来訪した観光客に「これは珍しいブッダのお姿ですよ」と説明し、釈迦牟尼仏を指さしたとき、ハッと気づいた。〈花が咲く〉は〈咲(わら)う〉だ。花が咲き、花が笑い、迦葉尊者が笑い、ブッダが笑った。天地が笑い、神仏が笑い、花が笑った。その笑いの中で一つになった。それを了解しました・・・・。

 筆者の感想:つまり、山川師は「〈花が咲く〉は〈咲(わら)う〉だと分かった」と言うのですね。そして「日本語はすばらしい」と。ずいぶんな〈こじつけ〉だと思います。第一に、これではブッダと迦葉の間で何が伝わったのかまったくわからず、〈公案〉にはなりえないのです。山川師もこのエピソードが〈大梵天王問仏決疑経〉という偽経、つまり、中国で作られたお経であることは承知していますが、偽経であることの意味を分かっていません。ブログでもお話したように、このエピソードは明らかにを説いているのです。おそらくそのために中国の禅宗の誰かが作ったお経なのだと思います。

神の存在を信じますか?(2)

  前回に続いて「日本人はなぜ神の存在を信じないのか?」についてのネットでの意見です。

意見3)(続き)・・・・思考を止めて神がいるということにするのは、本物の神に対して失礼だから神を信じないのです。実在の神は 「知る」べきことであって、「信じる」べきことではありません。

筆者のコメント:「思考停止するのは本物の神に対して失礼だから」の意見はちょっと理解できません。「実在の神は 『知る』べきことであって、『信じる』べきことではありません」の意味もよく分かりません。〈知った以上信じる〉のが神ではありませんか。

意見4)神の説明が説明する人によって違うからです。 神の説明は全て人間を仲介してやって来ます。 神がどんなものであるかは それを説明する人が決めているのです。 説明する人ごとに [神の姿]や[神の性格]や[神の数]や[神が人間を救う為のプログラム]などが異なります。日本には18万以上の宗教法人があり、それぞれの教えが違います。

筆者のコメント:おっしゃることはわかりますが、じつは、答えになっていません。正しくは、神の定義をきちんとしてから神の存在を信じるかどうかを議論すべきだからです。つまり、「天地創造の絶対神」と、日本の天照大神や事代主命など、そして新(新々)宗教が言う〈神〉を分けて考えるべきですね。ちなみに天理教では〈親神天理王命〉、創価学会では〈護法善神様〉、大本教では〈大本皇大御神(艮金神うしとらのこんじん) などです。筆者にはよくわかりません。

〈まとめ〉

 これらの意見の中には「もっともだ」と思うものもありますが、じつはこういうことを言えば言うほど神から離れるのです。また、「信じる人」と「信じない人」と議論しても、いつまでも平行線で、双方感情的になるのがオチでしょう。

 ちなみに、筆者は神の存在を信じています。その理由はブログで何度もお話したように、筆者の研究グループが突き止めたあるタンパク質のDNA構造を眺めているとき、突然「生命は神によって造られた」と「わかった」からです。もちろん筆者の言う神は天地創造の神です天照大神や事代主命などはそれ以下の階層の神々でしょう。筆者は歩いていて木々や草や花を見たときいつも「こんなに素晴らしいものが偶然できたとはとても思えない。神の御業(ミワザ)としか考えられない」と感じます。

 なお、「神の存在を信じるかどうか」は「死後の世界の存在を信じるかどうか」とも関連しているでしょう。以下に両者の調査結果を示します。

〈参考〉

神の存在を信じる(各国での18歳以上の男女1000人~2000人についての調査結果)

 米国81%、イタリア76%、ロシア74%、ドイツ57%、フランス50%、英国48%、日本39%、中国17%。

死後の世界は存在する

 米国68%、イタリア50%、ドイツ40%、英国41%、フランス41%、ロシア38%、日本31%、中国12%

(World Values Survey HP(2021・1・29)から

神の存在を信じますか?(1)

 古い友人から手紙が来ました。「ブログを読みました。禅には興味がありますが、神の存在は信じません」とありました。有名な国立大学の名誉教授で人格も立派な人です。おっしゃることはよくわかります。

 このブログシリーズで筆者は禅を神と結び付けました。それについて読者の方から反発もありました。この問題についてはすでに「岩村宗康さんとの対話」でお話しましたので、今回は「神の存在を信じない日本人」について考えてみます。

 まず、「日本人に『宗教は』と聞くと、『無宗教です』と答える人が多いと外国人は驚くとか。よく私たちは、「初詣は神社へ、葬式は仏式で、結婚式はキリスト教会で」と、苦笑交じりに言いますね。筆者はそれより、神社やお寺やキリスト教会を利用しながら、その根本である神や仏を信じないことに呆れます。後で述べる「思考停止」でしょう。

 「なぜ日本人は神の存在を信じないか」について、ネットで調べてみました。「なるほど」と考えられる意見が多いので、以下にそれを示し、筆者の感想を述べます。

意見1)育っていく日常での高度に宗教的な体験が希薄であるからです。また、信じる必要がなく、必要性や有効性の話も聞こえてこないからです。

筆者のコメント:そのとおりかもしれません。だからこそ逆に、東日本大震災で「神も仏もあるものか」と思った住職もいたのでしょう。目の前で津波に巻き込まれる人たちを見て、思わずそう口走った・・・・。同じように、

意見2)プーチンが好き放題しておいて、神は特に何もしない。神だの仏だのが関わる殆どに金銭が絡むウンザリ感。神推しな国ほど惨劇が多い矛盾感。来世だとか、信仰だとか、そんな事考えてるより、ショッピングモールでクレープ食べてる方が幸福。 否定しないけど、肯定もしない、優柔不断、柔軟性。そんな現実に奇跡だの神だのは不要・・・・。

筆者のコメント:「こんなひどいことが起きるのに神は何もしない」・・・・。あなたは神の〈御業〉を誤解しています。多くの敬虔なキリスト者も筆者と同じ意見だと思います。「神だの仏だのが関わる殆どに金銭が絡むウンザリ感」・・・・そのとおりですね。宗教教団に入らなくても、神社やお寺で〈特別祈禱〉をしてもらわなくても、つまり、個人でも信仰は立派にできるのです。

意見3)信じるとは「思考停止」。思考を止めて神がいることにしているだけです。 世界に空想上の神がたくさんあるが・・・・。

筆者のコメント:良い意見だと思います。幼い時から当然のこととして神の存在を受け入れている人たち・・・・キリスト教信者の多くがそうでしょう・・・・も結局は思考停止しているのでしょう。

魂が震える聖書の言葉

1)「心清きものは幸いなり、その人は神を見る」(「新約聖書」- マタイ5章8節)

2)明日のことは思い悩むなかれ。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(「新約聖書-マタイによる福音書(マタイ伝)」6章34節)

3)あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(新約聖書のコリントの信徒への手紙一(コリント人への第一の手紙)の10章13節)

4)求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば、見いだすであろう。門を叩け、そうすれば、開けてもらえるであろう。(マタイによる福音書 第7章7節)

5)「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るその秤(はかり)で、自分にも量り与えられるであろう」(マタイによる福音書七7章1~5節)。

6)「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章28~30節)

7)「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(ペテロの第一の手紙5章7節)

8)「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(ローマ人への手紙 8章18節)

9)「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)

10)「受けるよりは与える方が、さいわいである。」(使徒行伝20章35節)

11) 讃美歌312番

 i) いつくしみ深き 友なるイエスは、罪とが憂いを とり去りたもう。こころの嘆きを  包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を

 ii)いつくしみ深き 友なるイエスは、われらの弱きを 知れて憐れむ。悩みかなしみに 沈めるときも、祈りにこたえて 慰めたまわん。

 iii)いつくしみ深き 友なるイエスは、かわらぬ愛もて 導きたもう。世の友われらを 棄て去るときも祈りにこたえて、労わりたまわん。

 無作為に選びましたが、どれも魂が震える言葉ですね。キリスト教はイエスが与えた生活の知恵なのです。仏教もそもそもが釈迦が教示した生活の知恵であったと同じように。それを後代の哲学者たちが寄ってたかって晦渋な思想にしてしまったのだ、と筆者は考えています。