法華経と良寛さん(1-4)

法華経と良寛さん(1)

 良寛さんは子供たちと手まりをつき、かくれんぼをしながら遊ぶおだやかな生活振りが知られていますね。しかしじつは、良寛さんは「碧巌録」や「無門関」「従容録」などの禅の語録を完全に読み解いて我がものにし、いつでもそれを漢詩や偈の一節に引用することが出来た人なのです。筆者が「道元以来の人」と言うのはそういう意味なのです。その博識ぶりについては随時お話します。良寛さんがすぐれた和歌も残していることはよく知られていますが、万葉集を白文のまま、つまり、返り点もない状態で理解することが出来たのです。書の達人でもあり、筆者は北大路魯山人が、良寛さんの「いろは・・・」の字を臨書した作品を見たことがあります。あの傲慢と言われた魯山人でさえ、「良寛さま」と言っているのです。良寛さんの学識はまちがいなく当代随一だったでしょう。

 筆者はこのブログシリーズで、有名故人には敬称を付けず、現代の人には「さん」と呼ぶポリシーで紹介しています。ただ、良寛さんだけはどうしても呼び捨てにはできません。

 よく、「良寛は法華経の精神に基づいて衆生済度に努めた」と言う人があります。たとえば、
 
 思想家吉本隆明さん(1924‐2012)にも「良寛」という著書があり、本のキャッチコピーには「農村共同体にたいする僧侶の在り方に新しい地平線を開いた」とあります。また、以前このブログシリーズでご紹介した、北川省一さんは、マルクス・レーニン主義に共感し、農民運動や労働運動の活動家として、活躍しました。しかし、共産党の方針に反対したため除名され、その後次々に起こした事業にも失敗したと言います。そういうどん底の状態にあった時良寛さんに出会い、救われたそうです。その理由は「良寛は、社会の矛盾に怒る人生だったが、最終的にはそれを乗り越え、『世の中の人々を助けよう』と越後に帰り、村の人々や子供たちを分け隔てなく愛する境地になったところだ」と言います。労働運動に挫折した省一さんは、「良寛さんのように民衆の中に入り、彼らと親しく付き合いながら世の中を改革することを運動の原点にすればいいのだ」と、自分と重ね合わせたのでしょう。

 しかし、これらの人たちは良寛さんをまったく誤解していると思います。なるほど良寛さんは「法華経」に傾倒し、当初はその精神の一つである衆生済度を重要な使命と考えていたでしょう。「法華讃」を読めばよくわかります。それなら当然、故郷越後に帰ってから、人々の「済度」をするはずでした。しかし、実際には良寛さんは衆生済度などまったくしなかったと思います。良寛さんはひたすら自由に生きた人だと思うのす。つまり、衆生済度の境地さえ超えてしまった人なのです。「済度」など、禅が最も嫌う「はからい‐意図的な行動」だからです。それでは「自由」とは言えません。良寛さんは、だれに対してもわけ隔てない、自然で自由な付き合いをしたのです。それが自ずと人々の心を慰めたのだと思います。良寛さんは、越後という一地域の人々を「済度」しただけではないのです。伝えられる人となりや言動、残された多くの歌や詩を通じて、200年後の私たちの心を癒し続けているのだと思います。
 
 筆者のこの考えは、前回お話したように、良寛さんと親しく接した、越後の大庄屋解良(けら)栄重の、
 ・・・師更に内外の経文を説き、善を勧むるにもあらず・・・其の話、詩文にわたらず、道義に及ばず、優游(ゆうゆう)として名状(めいじょう)すべきことなし。ただ道徳の人を化(か)するのみ(良寛禅師奇話第四十八段)・・・で示されています。

 良寛さんが、新潟三条大地震(1828死者1500人)で末の子を亡くした友人の酒造家山田杜皐(やまだとこう)に送った手紙:
 ・・・地震は信(まこと)に大変に候。野僧(私)の草庵は何事もなく、親るい中、死人もなく、めで度存候。うちつけに死なば死なずて永らへて、かゝる憂きめを見るがはびしさ(私も突然に死んだらよいのに死なないで生き長らえて、このような辛い目をみることは苦しいことだ)。しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ(下線筆者 「良寛全集 下巻」 東郷豊治編著 東京創元社)・・・
は、私たちとって驚くべき内容ですね。東日本大震災で家族を失った人にそんなことを言ったらどうなるでしょう。しかし、良寛さんは「法華経」の真理を完全にわがものとしたからこう言ったのでしょう。

法華経と良寛さん(2)
 良寛さんはひたすら自由に生きた人だとお話しました。良寛さんの別の詩に、

 ・・・行人我を顧(かえり)みて咲(わら)い。何に因(よ)其(そ)れ斯くの如きと。頭を低(た)れて伊(これ)に応えず。道(い)い得ても也(また)何ぞ似ん。箇中の意を知らんと要(もと)むるも 元来祇(ただ)這是(これこれ)のみ・・・(谷川敏明校注「良寛全詩集」春秋社)
(通りすがりの人が私が子供たちと遊んでいるのを見て、「坊主のくせにお経を読まず、一体何をしているのだ」と笑った。私は頭を垂れるのみだった。私の真意を言おうとしても「ただこれが私です」としか答えようがない)

とあります。じつは、祇(ただ)這是(これこれ)のみの言葉には重要な意味があるのです。良寛さんの「法華讃10(註1)」には、
 (お釈迦様が悟りで得られた最高の真理など)

 ・・・是非思慮之所及・・・人有若問端的意 諸法元来祇如是

つまり、考えてもわからないことだ。もし人が一言でそれを言おうとしたら、「ただこのままです」と言う他はない。
とあります。「法華経で言う最高の悟り・阿耨多羅三藐三菩提の内容は、ただ最高の境地に至った人だけがわかる。言葉で言い表すことなどできない」とお話しました。そのとおりでしょうが、なんとかそれを知りたいものですね。そういう意図でこのブログシリーズを続けています。以前お話したように、その一つは、「是非、善悪、有無、貴賤、迷悟などの分別(はからい)を捨て、ただありのままの姿こそ大切だ」だと思います(註2)。道元は、「中国宋の如浄禅師のところで学んで来たものは『眼横鼻直(眼は横、鼻は直)』ということを知っただけだ(「永平元禅師語録」)と言っています。良寛さんの有名な詩に、

     生涯、身を立つるに懶(ものう)く
     騰々、天真に任す
     嚢中、三升の米
     炉辺、一束の薪
     誰か問わん、迷悟の跡
     何ぞ知らん、名利の塵
     夜雨、草庵の裡(うち)
     双脚、等間に伸ばす

(立身だの出世だのに心を労するのがいやで、すべて天のなすままに任せて来た。いま自分には、この頭陀袋の中には乞食でもらって来た米が三升あるだけ、炉辺には一束の薪があるだけ。迷いだの悟りだのということは知らん、まして名声だの利得などは問題ではない。私は夜の雨がしとしとと降る草庵にあって、二本の脚をのびのびと伸ばしている。それだけで満ち足りている。)

これがとりもなおさず良寛さんが「法華経」から学んだところであり、悟境でしょう。

註1「法華讃」の現代語訳は、竹村牧男「良寛『法華讃』評釈」(春秋社)による。

註2 じつは、阿耨多羅三藐三菩提にはもっと深い意味があるのですが、追々お話して行きます。第一、「是非、善悪、有無、貴賤、迷悟などの分別(はからい)を捨て、ただありのままの姿こそ大切」などは、別に「最高の悟りを得ていない」私たちでもよくわかることですから。

法華経と良寛さん(3)

 良寛さんが「法華経」で学んだものには次の二つがあると思います。
 第一は、「法華讃8」にある、
 ・・・人人 箇の護身府有り。一生再活して用うるも何ぞ尽きん・・・
(人間には一つのお守りがある。一生の間に何度使っても、そのはたらきはなくなることはない)
ここで言うお守りとは、仏性、つまり仏としての素質のことでしょう。これは法華経の主題の一つです。
 第二は、前回もお話した、諸法元来祇如是(しょほうがんらいただかくのごとし)です。良寛さんは、「お経も読まずに子供と遊ぶとは」と非難する村人に対し、「私はこのままの私です」と答えたのですが、「祇如是にはもっと深い意味がある」とお話しました。それは、「阿耨多羅三藐三菩提、すなわち最高の悟りは、諸法実相、つまり、人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華、すなわち宇宙の真理の現われである」と言うことです。前回お話した、「法華転63」の

 風定花尚落  風が止んだというのに花が散っている
 鳥啼山更幽  鳥が啼き山色渓水の眺めが一層幽邃となる
 観音妙智力  この風光こそ観音の妙智力であり
 千古空悠々  千古空々悠々たる清浄身である

も同じ趣旨です。さらに「法華讃7」にある、
 ・・・日は毎朝東より出て、月は毎夜西に沈む・・・の詩も同じことを言っています。
 ただ、「目で見、耳で聞く自然の姿に諸法実相、すなわち法華(宇宙の真理)が表れている」と言われても、読者の皆さんは「そんなこと言われても・・・」とおっしゃるでしょう。しかし、そうとしか言いようがないのです。あえて言えば、「大衆の見る自然と、最高の悟りに達した人が観る自然はちがう」のです(見ると観ると使い分けてあることにご注意ください)。道元や良寛さんにはそう観えていたのです。
良寛さんは、「法華讃19」で、
 ・・・若(も)しくは坐禅し、若しくは経行(きんひん 歩きながらの瞑想)す。二十年前枉(ま)げて苦辛す・・・
(そんなものはムダだった。ただ諸法元来祇如是(しょほうがんらいただかくのごとし)さえわかればよかったのだ)

と言い、前述のように、道元は「宋の天童如浄師のところで学んで来たのはただ一つ、「眼は横 鼻は直というあたりまえのことを知ることだった」と言っています。しかし、それらは嘘です。道元も良寛さんも長く厳しい修行をしてきたからこそ、それがわかったはずです。なによりも道元は常々「只管打坐(ただひたすら坐禅せよ)」と言っているではないですか。

註3 ちなみに良寛さんの「法華転」とか道元の「法華転法華」とは、法華すなわち宇宙の真理が自然や人間、およびそれらの出来事などとして表れているという意味です。

法華経と良寛さん(4)
 まとめ

 1)まず、「法華経」は、釈迦が直接説かれた教えではありません。後世の無名のインドの哲学者たちが、釈迦の思想に啓発されて考え出した思想なのです。それを論証したのは江戸時代中期の富永仲基ですから、道元が知らなかったのは当然です(註4)。良寛さんは富永より50年ほど後の人ですが、当時の事情から富永の説を知らなかったのでしょう。それを知れば道元も良寛さんも大ショックだったと思います。

註4 じつはこの「大乗非仏説」は、大乗経典が成立した当初から言われていましたが、無視されてきたのでしょう。

 2)「法華経」には、やはり、「最高の悟りとは何か」は書かれていません。しかし、言わんとすることはよくわかります。覚者が観る「諸法実相」は衆生が見る「諸法実相」とは違うのです。筆者は、「生命は神が造られた。山や川も宇宙も神が造られた」と確信しています。「諸法実相」の正しい観かたは、そういう自然の観かたと言ってもいいと思います。それを正しい観かたで認識できるかどうかです。それが禅の要諦なのですが、それについては改めてお話します。
 3)「人人箇の護身府有り(人間には生まれながら仏性がある)」と言われても・・・と皆さんもお考えでしょう。それならわざわざ修行する必要はないことになりますね。「しかし、それは隠れている。それを顕わすには修行などが必要だ」と筆者は考えます。「など」の意味についてもいずれお話します。
 4)竹村牧男さんは「『法華讃』を読まずして良寛はわからない」と言っています(前掲書)。しかし、筆者にはそうは思えません。良寛さんが「法華経」をどう学んだかは、子供たちとのびのびと遊んですごした日常生活を見れば十分わかるのです。それは、多くの短歌や漢詩から伺い知れるのです。良寛さんは道元よりすごい人です。なぜなら道元は衣食は完全に保証されていたのに対し、良寛さんは「食まで人に乞はなければならなかった(乞食ですね)」のです。それがどんなに大変だったか。筆者は五合庵に立って蒲原地方をはるかに見渡しながら、「雪の深い冬、炎暑の夏に托鉢して歩くのはどれほどか大変だったろう」と想いを馳せたことがあります。
 5)思想家の吉本隆明さんや、良寛研究者の北川省一さんが、「良寛は衆生済度を行った」と言うのは、すでにお話したように誤りです。あまりにも良寛さんを知らなさすぎます。
 6)「法華讃」は102首あります。いずれにも深い意味があり、難解なものも少なくありません。しかし、ご心配はいりません。それらを理解することもも大切ですが、なによりも良寛さんの日常生活を一つひとつ味わえばわかることです。良寛さんは「法華経」や禅の心を誰よりも実践した人なのですから。

新島襄と神の啓示(1,2)

新島襄と神の啓示(1)(以下は「わが若き日」新島襄 毎日ワンズ(原文は英文)による)

 新島襄(1843-1890)は上州安中藩板倉氏3万石の江戸屋敷で生まれる。本名は七五三太(しめた)後に敬幹。密航してアメリカ行きの船長から、七五三太は呼びにくいからとJoe(ジョー)と呼ばれ、そのまま襄と名乗ったという。父は神官だったが、後年安中藩に仕えた。ただし禄高は五石(手取りは6両‐現在の貨幣価値で60万円)と最下級の武士だった。

 新島をキリスト教への眼を開かせてくれたのは、最初は友人の家で見付けた漢訳聖書(註1)で、のちに出会った蘭学の師杉田廉卿(れんけい、杉田玄白の子孫)から大きな影響を受けたようです(「宗教心の厚い人で、「解剖学を極めてゆくうちについに神を認め、しかもこれを奉じるにはキリスト教しかないと信じるに至った(青山学院創立者津田仙の回想記から)」。新島は剣にも優れ、藩主の護衛役にも選ばれた。あるとき藩主に供奉して江戸から安中まで行ったとき、藩主は駕籠に乗り、自分たちは徒歩で従うことに疑問を抱き、「なぜそのような隷属を強いられなければならないのか」と思ったという。このことからも、新島はほとんど天性のようにリベラルな思想の持ち主だったようです。その思いが脱藩、密出国という当時としては大罪を犯してまでして自由の国アメリカへ渡ったのでしょう。

註1 もちろん当時はキリスト教は厳禁でした。ただし、すでに日米和親条約は締結され、下田(後に横浜)と函館2港は開港されていました。そしてそれぞれの都市にはキリスト教司祭も来ていました。漢訳聖書は、アメリカ人宣教師が、聖書の重要な部分を漢字でまとめたもののようです。

新島の言葉:
・・・自問自答した。私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである。私は神に感謝し、神を信じ、神のために誠心を尽くさなければならない」「俺はもう両親のものではない、神のものだ」と叫んだ。その瞬間、父の家に私を縛りつけていた鎖はバラバラになったのです・・・この新しい考えに勇気づけられた私は、藩主を見捨て、家や祖国を一時去ろうと決心したのです・・・
 のちに新島は江戸に設立されたばかりの海軍学校に入り、本家備中松山藩の帆船で岡山まで航海した。その縁で22歳のとき密かに脱藩し、まず同船に便乗させてもらい、函館へ行った。そこで多くの人たちの助力を得て、アメリカ船ベルリン号で上海へ行き、アメリカ船ワイルド・ローヴァー号に乗り換えてアメリカに渡った。船賃の代わりに、船長室で無給の雑用係をしたという。

 新島の言葉:
 アメリカ行きの船中でイギリス人の男が親切に英語を教えてくれたが、ある時命じられていることが理解できないでいると、男は私をいきなり殴り付けました。私は我慢できず、無礼打ちにしてやるつもりで刀を取りに自室へ駆け下り、刀をつかんで部屋を飛び出そうとしたそのとき、どこからともなく「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」という声が聞こえきたのです。そこで、ベッドに腰を掛け、独りこう言った。「これは些細な出来事なのだ。これから僕はもっと辛い目に遭うであろう。これくらいのことが我慢できなくてどうして大いなる試練に立ち向かうことができようぞ」私は自分の短気を恥じて「いかなる場合でも二度と刀に手をかけてはならぬ」と肝に銘じたのです・・・
 4か月かかってボストンに着くと、ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学することができた。そして1866年アンドーヴァー神学校付き属教会で洗礼を受けた。その後アマースト大学を卒業(理学士)。当初、密航者として渡米した新島であったが、初代駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
 卒業後、新島はキリスト教海外伝道組織から日本での宣教に従事する意思の有無を問われると即座にそれを受託し、「日本伝道通信員」となった。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付を得た。10年後の明治8年(1975)に帰国し、3年後には安中教会を設立。同年、同志社大学の前身同志社英学校、および同志社女学校(のちに同志社女子大学)を設立した。以下の新島の活動はご承知のとおりです。

新島襄と神の啓示(2)

 新島が、不完全な漢訳聖書を読んだり、蘭学師杉田廉卿から影響を受けたとはいえ、脱藩、密航という思い切った手段を取ってまでアメリカへ行こうと決断したのは、不思議とさえ思えます。漢訳聖書を読んだ人や、杉田の弟子はいくらもいたでしょうから。
 新島はわずか14歳のとき、藩主の愛妾が政治に介入し、新島の恩師を讒言によって更迭するなどしたことを知って憤激し、その妾の暗殺を企てたと言います。その意図を別の信頼する先生に相談したところ、「累はお前の一家親類の迷惑になるから」と懇々と諭され、思い留まったと言います。純粋で正義漢も人並み外れていたのでしょう。

新島の言葉:
 ・・・私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである・・・
は素朴ではありますが、筆者もまったく同感なのです。以前お話したように、生命は、そして宇宙も神が造られたとしか思えません。理由はすでに書きました。ビッグバンは、空間も時間もないところで突然起こったのです。素粒子は17個あり、その質量や性質はこれからどんどん解析されてゆくでしょう。しかし、なぜそれらが17個なのか、どうしてそれぞれがそれぞれの資質を持っているのかは、いくら科学が進歩しても永遠にわからないのです。神の御業としか思えないのです。

 アメリカ行きの船中で、無礼な仕打ちをしたイギリス人を切り殺そうとしたとき聞いた、「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」言葉は、神からのメッセージだったような気がします。もし実行していたら、その後A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学し、つづいてアマースト大学を卒業できたことも、日本伝道通信使となったことも、同志社大学などの設立も一切なかったはずです。やはり「神の啓示」と言うのがふさわしいでしょう。

 恐らく新島は「見えざる手に導かれた人」人生だったのでしょう。
 筆者は以前、浜松の聖隷クリストファー大学看護学部の前身の短期大学で非常勤講師をしたことがあります。その時、ふと目にしたパンフレットを読んで衝撃を受けました。現在の聖隷福祉事業団の前身は、末期の結核患者を受け入れるための施設で、当時忌まわしい病気として「私にはどこにも居場所がない」と嘆く患者たちを世話していました。創立者長谷川保さん夫妻とスタッフはキリスト教精神に則った、筆者には到底まねのできない尊い奉仕活動をしたのです。亡くなった患者の寝巻を洗って自分たちの衣服とし、食事は患者の残りをオジヤにする・・・。
 そのパンフレットには「神が造り給うたものには一切無駄がない」と書いてあったのです。

 ただ気になるのは明治の初めのキリスト教信者は約30万人、100年後の今もほとんど増えていないことです。現在ではむしろ、キリスト者の高齢化と相俟って、信者が減っているとか。残念なことです。理由はいろいろあるでしょう。しかし筆者には、キリスト教があまりにも聖書に依存し過ぎているていることも問題の一つのように思われます。仏教が釈迦の死後、初期仏教から大乗仏教へと増広を積み重ねていることときわめて対照的です。キリスト者は何かにつけて「マタイ伝第〇章第〇節」とか、「旧訳聖書詩編△編△節」という言葉を口にします。確かに人生を決めるすばらしい言葉が多いのですが、逆に言えば教義が硬直化しているように思われます。もう一つの問題は、キリスト者同士の結び付きが強く、外部の人が入りにくい組織のようにも思えるのです。筆者は、キリスト教信者ではないのですが、長い苦しみの人生からキリスト教精神を、恐らく信者以上に自分のものにしている人を知っています。キリスト教系の雑誌もいろいろありますが、そういう人たちにも門戸を開き、考えを述べてもらうなど、組織のスクラップ・ビルドが必要な時ではないでしょうか。

霊的現象についての小林秀雄さんの考え

神と死後の世界の存在(4)‐小林秀雄さんの思想

 小林秀雄(1902‐1983)は日本を代表する評論家。「本居宣長」「感想(ベルグソンについて)」など著書多数。「心霊現象」にも深い関心を持っていた哲学者のH.-L.ベルグソン(1859-1941)の思想についても紹介しています(「小林秀雄講演集 新潮CD 註1)
 ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、同席したフランスの名高い医学者が一人の夫人の体験談を紹介した。
 ・・・この前の戦争(第一次世界大戦:筆者)の時、士官である夫が遠い戦場で戦死しました。私は、夫が塹壕で倒れた光景を白日夢で見ました。それはきわめてリアルで、戦後私のところへ夫の死の模様を知らせに来てくれた人たちの顔は、白日夢で見た倒れた夫の元へ駆けつけた戦友たちの姿と一致しました・・・
その医者は、「あなたのおっしゃることはよくわかります。しかし、そのような予知夢には誤りであるケースも多いのです。ですから残念ながらあなたの体験が真実だと結論することはできませんと答えた」と言う。ベルグソンはそれを聞いていたが、その会議の場にもう一人若い娘さんがいて、ベルグソンに「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思います。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と言った。ベルグソンもその女性の意見に賛成したという。
 小林氏は言う、
 ・・・私も家内や子供が死んだ夢を見たことがあります。しかし、現に二人ともピンピンしています。しかし、私はベルグソンの考えの方が正しいと思います。なぜなら、近代科学ではすべてを「正しいか、正しくないか」と決め付けます。しかし、そういう判断をするようになったのは、たかだかここ数百年のことなのです・・・
 つまり小林氏は、「たとえそのような神秘体験の90%が間違いであっても、残る10%まで否定してしまってはいけないのではないか」と言うのです。これはとても示唆に富んだ問い掛けだと思います。
 筆者は、たくさんの神秘体験をしました。しかし、大学教員時代は一切それを口にしたことはありません。教員としての「良識」を問われかねないからです。現在でもこのブログシリーズで霊の存在などについては、慎重に言葉を選んでお話しています。しかも体験の一部しかご紹介していません。たとえば、筆者は2回、はっきりとした、いわゆる「金縛り現象」を体験しました。現在では、そういう体験はすべて「睡眠麻痺」として説明され、否定されています。しかし、筆者のそれらの体験はじつにリアルで、それぞれの内容は異なります。筆者はのちほど「睡眠麻痺」も経験しましたが、前の2件の「金縛り」とは明らかに違うのです。
 筆者は、40年にわたって生命科学の研究者として過ごして来ました。そこでは、新しい現象が現れた時には「説明してはいけない」ことを経験的に学びました。説明とは、必ず過去の知見や思想に基づいて行うものだからです。新しい現象は、今までとはまったく異なる原理で解釈すべきなのかもしれません。そういう基本的態度を持っていなければ創造的な研究などできません。ですから、筆者は神の存在や死後の世界のことなどについて、体験した人の話を頭から否定することはありません。

註1 小林氏は30年以上前に亡くなっており、「小林秀雄講演集 新潮CD」の著作権者が現在どうなっているのかわかりません。もし、筆者の上記の引用記事が著作権に抵触するようでしたら、ご一報いただければ幸いです。

法華経と道元(1-4)

法華経と道元(1)

「法華経」と禅
一般に禅は、「法華経」と同じ初期大乗経典である「般若経典類」から始まり、龍樹(ナーガールジュナ)が「空思想」を確立したことが発展の端緒になっていると言われています。しかし、龍樹の「空思想」は、禅の「空思想」とは異なることを、このブログシリーズですでにお話しました。しかも、よく調べてみますと、禅思想はむしろ「法華経」に強い影響を受けていることがわかります。あとで「法華経と良寛さん」のところでくわしくお話しますが、禅の公案集(語録)として有名な「碧巌録」や「無門関」などの随所に「法華経」の文言が引用されています。禅の正統な実践者である道元や良寛さんが、「法華経」を尊重するのは当然でしょう。

道元がどれほど「法華経」を尊重していたかは、「正法眼蔵 歸依佛法僧寶巻(註1)」に、
・・・法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属(家来)なり・・・とあり、「法華転法華巻」もあることからわかります(「法華転法華巻」については次回お話します。註1)。ただ、筆者には、道元ともあろう人が「法華経これ大王なり」というような大仰な言葉を使っているのは不思議に思います。「法華経がとくに優れている」と言うより、「他の経典が・・・」なのでしょう。

さらに道元は、自分の死期を悟ったとき、「法華経 如来神力品」の一節、

・・・若しくは園の中であっても、若しくは林の中であっても、若しくは樹の下であっても、若しくは僧房であっても、若しくは在家の家であっても、若しくは殿堂であっても、若しくは山や谷や広野であっても、この中に皆、当然、塔を建てて供養するべきである。理由は何故か。当然、知るべきである。その場所は、すなわち道場だからである。諸々の仏がここに於いて真理(原文では阿耨多羅三藐三菩提、のちほどお話します)を悟った境地を得、諸々の仏がそこに於いて仏の教えを説き、諸々の仏がそこに於いて最後の悟り(般涅槃)を得られた(以上、前回ご紹介した加藤康成氏の訳による)・・・
を口ずさみながら、経行(歩きながらの瞑想:筆者)し、最後に庵の柱に「妙法蓮華経庵」と墨書したと言います(「永平開山行状建撕記」より、建撕は永平寺第十四世。有名な話ですが筆者未読)。

「正法眼蔵」は道元が「法華経」のどの思想に共感したのかは、宮沢賢治の場合と同じように、やはり道元自身に聞いてみなければわかりませんが、筆者の推定では、第一に、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているところでしょう。たとえば「法華経如来寿量品」には、

・・・如来は如実に三界の相を、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずることが有ることなく、また、世に在るもの及び滅度する者もなく、実ににも非ず、虚にも非ず、如にも非ず、異にも非ざることを知見して、三界のものの三界を見るが如くではないのである。このような事を、如来は明らかに見て、誤りのあることがない・・・
とあります。
これこそまさに、主客(我と対象)のない、「空」のモノゴトの見かたです。ただ、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているを直接禅に結びつけるのは早計だと思います。たしかに革新的な思想ですが、道元の解釈は「禅的な解釈」と言った方がいいと思います。

註1それにしても「正法眼蔵」の解釈にはまったく苦労させられます。道元は、簡単なことを、わざとむつかしく書いているように思えます。「法華経」もそうですが、「ゴミ」の部分が多すぎるようなのです。

法華経と道元(2)

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:最高の教えの世界)
「法華経には最高の教え(阿耨多羅三藐三菩提)が説かれている」とくり返えされています。では、「最高の教えの世界」とは何かが当然気になりますよね。しかし、それは明らかにされていないのです。
すなわち「法華経方便品」には、

・・・舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ・・・

最後の太字は、よく知られた漢訳の「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相(ただ最高のレベルに達した者たちがわかる自然の本当の姿)」です。そして「如来寿量品」には、

・・・三界に住む者が三界を見るようなことではない・・・

とあります。つまり、「三界(欲界・色界・無色界)を輪廻するお前たち衆生が見る世界とは違う(お前たち衆生にはわからない)」と言っているのです。(以上、加藤康成さん訳)

まったく、「あれだけ重要な経典だ、重要な経典だと言っておきながら、法華経とは何かが書かれていない・・・。いい加減にしてくれ」と言いたいですね。それが筆者が最初に読んだとき「???」と思ったところなのです。しかし、道元や良寛さんはちゃんと読み取っているのです。以下、道元の「正法眼蔵」や良寛さんの「法華讃」を参考にして筆者が理解できたところをお話します。結論から言いますと、やはり最高の悟りに達した者が見るこの世の姿と、大衆の見る世界とはまったく違うのです。

法華経と道元(3

道元が「法華経」のどの思想に共感したのか。筆者の考えの第二は、「諸法実相」の思想ではないかと思います。すなわち、

「法華経」のエッセンスの(一つ)は、「諸法実相」つまり、「自然のほんとうの姿」を知ることだと言われています。道元はその心を、
峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
と詠っています(松本彰男「道元の和歌」中公新書)。そして「正法眼蔵 谿声山色」で、

・・・東坡居士蘇軾(そしょく)、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する声をきく(聞く)に悟道す・・・

と中国北宋時代の詩人蘇軾(1037‐1101)が「谿川の水がゴウゴウと流れている音を聞いて悟った」有名な逸話を紹介しています。つまり道元は、「私たちが見た山の姿や渓流の音、そのままが、釈迦が説いた自然のほんとうの姿だ」と言っているのです。また「山水経」でも、

・・・而今の山水は古仏の道現成なり(今ここで見ている山の姿は、これまでに最高の悟りに達した人たちが見た山のほんとうの姿が現れている)・・・

と言っています。
ただし、その山の姿や渓流の音は、最高の悟りに達した者と、大衆が見たものとはまったく違うのです。そこを読み解かなければなりません。
「正法眼蔵 山水経」に雲門文偃(うんもんぶんえん864‐949)の言葉を引用した個所があります。

・・・古佛云、山是山水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり・・・

つまり雲門文偃は、「私が悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えなかった。(悟りに達すると)山は山でなく、水も水でなくなってしまった。そして、さらに修行が深まると、また山が山として、水が水として新鮮に蘇ってくる」と言うのです。

法華経と道元(4)

「法華」とは宇宙の真理だとお話しました。「法華経 方便品」には、
・・・十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三・・・
とあります。つまり、「自然はただ一つの法則(一乗法)によって支配されており、二もなく三もない」と言うのです。道元の「正法眼蔵 法華転法華」には、禅の六祖慧能(638‐713)の偈

・・・心迷へば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず。誦すること久しけれども己を明らめずんば、義のために讐家と作る。無念の念は即ち正なり、有念の念は邪と成る。有無倶(とも)に計せざれば、長(とこしなえ)に白牛車(最高の教えに至るための乗物)に御す・・・

から引用したものです。つまり、

・・・(苦しいこと、悲しいことが起こっている状況も宇宙真理の現われである。一方、楽しいこと、嬉しいことの起こっている状況も宇宙真理の現われてある。)したがって、苦しいこと、悲しいことで心が惑わされるのは、宇宙の真理を正しく受け取っていないからであり、楽しいこと、嬉しいことで有頂天になるのも同様である。それぞれの状況を、あれこれ考えずにそのまま受け取ることが肝要だ(下線筆者)・・・

と言うのです。「あるものをあるがままにあると認める」‐これこそ「法華経」の真髄なのです。
道元はまた、

・・・すでに十方仏土と転法華す、一微塵のいるべきところなし。色即是空の転法華あり、若退若出にあらず。空即是色の転法華あり、無有生死なるべし。在世といふべきにあらず、滅度のみにあらんや・・・

と言っています。つまり、

・・・全世界、すなわち自然は法華として(宇宙真理のままに)現われている、それ以外に塵一つ入る余地は無い。色がそのまま空であるという法華の転回がある。出現したり、消滅したりするのではない。空がそのまま色である法華の転回がある。生も死もない。よって世にあると言うべきではなく、去来のみが真実である・・・

と言うのです(太字の部分はとても大切ですから後で改めてお話します)。そして、「色がそのまま空であり、空がそのまま色である姿を正しく見る眼が悟りの眼」なのです。では、どうしたらそうなれるのか・・・。「法華経」に基づく道元の悟りの眼、つまり自然観は、

峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
(山の姿、谷川の響き、それがそのまま最高の悟りなのだ)

だと言われています。「そうは言われても」というのが大衆の正直な気持ちでしょう。しかし、最高の悟りに達した者が見た自然と、大衆が見たものとはまったく違うのです。「その差を理解するには、
・・・色即是空の転法華あり、空即是色の転法華あり・・・
の真意を自分のものにすることだ」と道元は言っているのです。