良寛さんに対する疑問?(1,2)

良寛さんに対する疑問?(1)

 拙著「正・続 禅を正しくわかりやすく」で、良寛さんに対する熱い思いを語ったため、筆者の周囲でも少なくとも3人の人が、新潟県燕市の五合庵を訪れました。名古屋からも金沢からも岐阜からもずいぶん遠いのですが・・・。ところが先日、「あんな者が」と言う友人に出会い、驚きました。そこで調べてみると、昔から結構、良寛さんを否定する人が多いことがわかりました。まず、良寛さんの人格やその漢詩・短歌についての研究書、評論には、入矢義孝、唐木順三、北川省一、野崎守英、水上勉、吉野秀雄、長谷川洋三、中野孝次など多数に上ります。それだけ良寛さんに対する思い入れや、従来の評論に対する不満などから「私ならこう言う」と考えた人が多かったのでしょう。

 中には「みなが良寛のようになってしまったのでは国が立ち行かないから理想の人物などではない」(唐木順三「良寛」筑摩書房)とか、「耕さない人に蓄米のないのは道理で・・・国上山住まいは48歳のことであるから、まだ鍬の持てぬ年頃ではあるまい」(水上勉「蓑笠の人」新日本出版社)とか、「遊戯する良寛のほかに、その奥に、あるいはどこかに、何やら”真”というものが存在したにちがいないという錯覚が、牢固としてすべての良寛論を支配していたのであった(北川省一「良寛その大愚の生涯」東京白川書院)などいう的外れなことを言った人達がいます。水上勉は「(良寛の時代は)何年も飢饉は続いていたし、農民騒動は諸所に起きていた・・・凶作のつづいた天明の初め頃の百姓は、米はおろか芋も食えなかった。そのような農民から乞食して食い物を得、懸命に働く農民を尻目に子供と毬をついて遊び、庵では和歌や漢詩を歌い、親しい文化人から様々な農産物、海産物、果物、菓子類、薬や酒などの贈り物をもらって暮らしている、そのような生き方を良寛さん自身はどう考えていたのか(筆者簡約)」と言っています。まさに「下〇の勘ぐり」でしょう(テンションが上がります)。じつは、「働くな、食べ物は托鉢で得よ」は、ブッダの教えそのものなのです。さらにひどいのは、 「(同時代の人で)百姓一揆に失敗して佐渡送りになった弥三郎とは生き方に雲泥の差がある」という意味のことを言った水上勉の論拠は、じつは彼の創作人物だったのです(註1)。

 「良寛は悟ってなどいない」という人たちも少なくなく、「・・・どうも良寛は悟りという神秘的体験の方面よりも、文字(思想)の理解とその実践の方面に、よりすぐれたものを持つ人だったようだ(野崎守英「良寛学入門」名著刊行会)」という評価もあります。
 子供たちと鞠をついたりかくれんぼしたりして遊んだというイメージの強い良寛さんですね。しかし、じつはその学識は、道元の「正法眼蔵」「永平録」をはじめ、公案集「碧巌録」、「六祖(慧能)壇経」など、広範囲にわたるのです。「法華転」「法華賛」などの著作もあり、万葉集も返えり点などのない白文で読むことができるなど、江戸時代の代表的な知識人だったのです。

 上記の評論や研究の中には、筆者が同感するものもあります(中野幸次「風の良寛」文春文庫)。しかし、筆者が声を大にしたいのは、なぜ良寛さんを分析したり、比較評価するのかです。良寛さんのすばらしさは、下記の漢詩や短歌読めば、一切の解説を挟まずにスッと心に入って来て、何とも言えない温かさを感じ、心が安らぐのです。

 たとえば私たちの悩みには、自分の進学・就職の問題、家族の生活の問題、夫婦・親子間の問題、老後の生活や介護の問題がありますね。ときにはリストラされたり、地震や津波、豪雨によって肉親を亡くしたり、家財を一切失って生活の目途が立たなくなることも、今では他人ごとではありませんね。しかし良寛さんは、家族がなくても、定職がなくても、笠一つ、衣一つ、杖一つ、粗末な家さえあれば、乞食(こつじき)をして暮らしても、十分満ち足りた人生を送れること、家族がなくても、けっして不幸ではないということを、身をもって示してくれたのです。
 「悟っていない」と言う批評家もありますが、「悟ったかどうかなど問題ではない」(・・・誰か問はん 迷悟の跡・・・)と下記の漢詩で言っていらっしゃるではないですか。

 良寛さんの詩:                
生涯 身を立つるに懶(ものう)く 
騰騰(とうとう)として 天真に任す 
嚢中(のうちゆう)三升の米    
炉辺 一束の薪          
誰か問わん 迷悟の跡     
何ぞ知らん 名利の塵      
夜雨 草庵の裡(うち)      
雙脚(そうきゃく)等間に伸ばす   

 筆者訳:
生まれてからずっと立身出世など考えたこともない
ゆったりと心の赴くままに生きて来た
頭陀袋の中には三升の米
炉端には薪一束
迷いとか悟りなどなんだろう
名誉とかお金などどうでもいい
静かに雨の降るこの庵の中で
のんびりと足を伸ばしている

良寛さんの歌:
この里に手鞠(てまり)つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし
道のべに菫(すみれ)つみつつ鉢の子を忘れてぞ来しあはれ鉢の子
むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば
この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば おみなきて 
尿(ばり)を洗はむ こひまろび 明かしかねけり ながきこの夜を
(良寛さんの最後は大腸ガンと言われ、垂れ流しだったと。手伝いの女の人が来る朝までは衣も布団も洗うことさえできなかったのです。そんな恥まで赤裸々に歌にしたのです)。
  すぐれた詩や歌、名画や名曲には解説や批評・研究など一切不要です。

 良寛さんと間近に接した越後の大庄屋解良栄重(けらよししげ、註2)は、「良寛禅師奇話」(ネットで原著を見ることができます:筆者)で、

「師、神気内ニ充テ秀発ス。その形容神仙の如シ・・・師、余ガ家に信宿ヲ重ヌ。上下自(オノズカ)ラ和睦シ、和気家ニ満チテ、帰去ルト云(イエ)ドモ数日ノ間、人自ラ和ス・・・師更ニ内外ノ経文ヲ説キ、善ヲ勧ムルニモアラズ・・・其話、詩文ニワタラズ、道義ニ及ヨバズ・・・只(ただ)道徳ノ人ヲ化するノミ」

註1 正確には、水上が弥三郎の生涯を参考にしたと言っている「越佐草民宝鑑」自体が水上が創作した偽書でした。

註2 解良栄重は越後長岡の大庄屋。父の叔問の時代から良寛さんと親しく接して来ました。栄重21歳のとき良寛さんは亡くなりました。

良寛さんの「空」思想

 良寛さんに対する疑問?のブログで、「『良寛は悟りに至っていない』と言う人がある」とお話しました。

良寛さんの漢詩:
我生何処来  我が生は何処より来たり
去而何処之  去って何処へ行くのか
独坐蓬窓下  独り蓬窓の下に坐して
兀兀静尋思  兀兀(ごつごつ)と静かに尋思す
尋思不知始  尋思するも始めを知らず
焉能知其終  焉(いずくんぞ)んぞ能くその終わりを知らん
現在亦復然  現在亦(また)然り
展転総是空  展転として総(すべ)ては是れ空
空中且有我  空中にしばらく我有り
況有是與非  況(いわ)んや是と非と有らんや
不如容些子  些子(さし)を容(い)れるに如かず
随縁且従容  縁に随ってしばらく従容す

長谷川洋三さんの訳(「良寛禅師の真実相」木耳社):
 自分はどこから来てどこへ去っていくのか。庵の窓の下に座禅を組んで一所懸命に考え抜いたが、始めもわからず終わりもわからない。今の命もまたわからない。展転と移り変わる一切が空である。空の中に一時の間だけ自分がいるのである。ましてや是や非などというものがあろうか。今のささやかな自分をそのまま認めて、縁に随ってゆったりとしていよう。

 長谷川洋三さん(1934~)は、早稲田大学名誉教授。本書のほかにも「良寛禅師の悟境とと風光」「良寛曼荼羅」「良寛の世界」「良寛研究論集」などの著作がある著名な良寛さんの研究者。

この詩についての長谷川洋三さんの解釈は、
 ・・・この詩は一種の諦念の気配が感じられるが「明るさ」はない。自分の「初め」も分からず、「行く末」も分からず、「現在も分からず」という姿勢にも拘らず、暗さが付きまとっている(中略)たしかに「仮の我をたのしませよう」とする意図があったかもしれないが、この詩を読んでいる限り、ちっとも楽しくないことも事実である。何もかも「分からず」仕舞いの段階で「従容」という姿勢をとってみたところで寂寥感や虚無感は解決できないのである。生死に対する認識が変わり、「分かった」と言える段階に至って初めて楽しくなれるのではないだろうか・・・ 

筆者のコメント:「空中にしばらく我有り」を「仮の我」と言っていますね。下記の筆者の解釈とは異なります。

 一方、入矢義隆さん(京都大学名誉教授。「臨済録」「碧巌録」などの訳もある著名な禅学者)。この詩の解釈として、
・・・この詩はスケプテイッシュ(懐疑論的:筆者)に見えるが、簡単に言えば、<人無我>の理の諦観に立ちつつこの仮の我を楽しませようということ。我という生きものは、その生存を構成する五つの要素(五蘊)が仮に結合して成り立つ。だから人というものには永劫不変の主体としての実在はなく(人無我)、また一切の存在もそうである(諸法無我)。これが「仏」の教える「空」の内実である。それならむしろその空なる仮の我を生きてみよう、と良寛は言うのである・・・(「日本の禅語録二十・良寛」講談社)と言っています。

 筆者のコメント:まさしく龍樹の「空思想」に則って解釈していますね。

 筆者の感想:筆者はこれらの解釈とはまったく違った受け取り方をしています。お二人とも「総(すべ)ては是れ空(くう)」を龍樹の「空思想」で解釈しています。それゆえ良寛さんの人生が「暗いもの」であったり、「諦め」であるようにみえるのです。そうではないと思います。この詩を筆者の言う禅の「空思想」によれば、きわめてすっきりとするのです。すなわち、「過去は過ぎ去って無い。未来はまだどういうものかもわからない。現在に生きることこそ真の生である」という、格調高い現在肯定の精神を表わしているのです。長谷川さんの「暗い」とか、入矢さんの言う「実在のない仮の我(虚無的ですね:筆者)」などとは正反対なのです。

聖パウロの言葉-心のトゲを抜いて下さい

聖パウロの言葉-心のトゲを抜いて下さい

 「苦しい時の神頼み」・・・まさに人間の弱さをついた言葉ですね。筆者の友人には、神棚に向かって、あるいは近所の祠に向かって、熱心にご利益信心をしている人たちがいます・・・。それはともかく、人間がさまざまな困難に出会った時、神に救いを求めるのを、他人には批判する資格などないでしょう。使徒パウロの言葉に、

 ・・・このことについて、わたしは彼(心に刺さったトゲ、深刻な病気とも、伝道を妨害する者とも)を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は(お前の)弱いところに完全にあらわれる」(コリント人への第二の手紙12章7~8節)・・・

があります。信仰というものを考えるのにとても良い言葉ですね。主がおっしゃる「わたしの力は弱いところ」とは、その前節に、

 ・・・わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから・・・そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのトゲが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである・・・わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである・・・

とあることから、自分が使徒としての役割を与えられたことに、少しでも高慢にならないようにとの「トゲ」であることがわかります。

 「わたしの恵みはあなたに対して十分である」という主の言葉には心しなければなりませんね。筆者の信仰歴は長いですが、「神には願い事はしてはいけない。ただ感謝すべきである」を戒めとしています。

神は人が乗り越えられないような試練は与えない

 東日本大震災で大切な家族を亡くした人の中には、当時よく言われた合言葉「がんばろう」とか「絆」、「立ち上がれ」にさえ、強く反発している人も少なくありません。筆者は以前から、このブログを書く理由の一つが、そういった耐え難い苦しみを持った人たちの心を癒す少しでも力になればとの思いです。

 作家の田中澄江さんは、息子さんが子供の時から重い脳の病気で、音楽教師だった娘さんも若くして脳溢血で体が不自由になったという苦しい人生を送った人です。「遠い日の花のかたみに」(婦人画報社)の中で、

 ・・・瀬戸内寂聴さんから、「あなたの家は熱心なカトリックで、お嬢さんも熱心な信者なのに、病院の処置が悪くてひどい目になって、神様を恨まないんですか(註1)」と尋ねられ、「神さまのなさることはまちがいがない。娘はこういう苦しみに突き落とされたけど、その意味はきっと今にわかることと思っている。でも、山のてっぺんで神様助けて下さいと、祈りながら泣くこともあえいますよ」って・・・とあります。
田中さんは紫綬褒章や読売文学賞を初めとする数々の文学賞を受賞し、93歳まで生きました。優れた作家、脚本家として立派な人生を送った人です。

註1 瀬戸内さんはひどい腰痛で苦しんだとき、あまりの辛さに「神も仏もあるものか」と言った人です(このことは以前のブログで描きました)。

 しかし、大震災の遺族の皆さんにとって、「神様は、人間に耐えられない苦しみは決してお与えにならない」の言葉は癒しになるでしょうか。じつは、聖書の原典ではちがった表現なのです。「カソリック・プロテスタント共同訳聖書」コリント人への第一の手紙10章13節に、

 ・・・神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます・・・

とあります。大切な部分はむしろ後半なのです。つまり、 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいますに主眼があったのです。素晴らしいしい言葉ですね。聖書には珠玉のような言葉が満ち溢れています。

 禅では「昨日の苦しみは過ぎ去った。明日はまだ来ない。しかし今日一日は耐えられそうだ」と言います。末期の胃ガンで苦しむ人で、ちょうどこのようにして毎日を乗り切っている人が、ギリギリの状況でつかんだ支えの言葉だと思います。

読者のコメント(12)

 以下は、読者bompuさんのご質問と筆者の感想です。bompuさんからはこれまでにも何度もご質問をいただきましたが、どれも適切で、よく勉強していらっしゃることがわかり、
充実したやり取りになっています。

bompuさんのご質問:
・・・六根の内の「意」と六境の内の「法」との出会いですが、これは具体的にはどういう経験(体験)なのでしょうか。妄想(思慮分別、価値判断、感想)をさしはさまないということは、「意」は、思慮分別、価値判断、感想ではない、何か、言うなれば〈精神的〉な働きですね。それはどんなものでしょうか。統覚とか、悟性あるいは、意志?意識?といったものでしょうか。また「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか。
 どうも、この「意」や「法」が禅を理解する上での躓きの石となっております。「意」には、思慮分別、価値判断、感想の働きもあるのではないか、とつい考えてしまいます。「意」にはそういう働きはないとすれば、この思慮分別、価値判断、感想はどこで行われているのでしょうか。あるいは、「意」にはそういう働きもあるが、ストップもできるのだということでしょうか。「法」についても、「仏道」と「仏法」とはどう違うのか、といったものです。
 中野さんがときに引用されます、師匠につかずに悟ったというあの方も、「法」に悖るかどうかで、その禅僧が悟っているかどうか一発で分かるとか・・・・
 以上くだくだしく述べてきましたが、どこで迷っているのか、ご教示いただけますならば、幸甚に存じます。よろしくお願い申し上げます。

筆者の感想:
 1)「意」と「境」の出会いについて:
まず、六根のうち、眼・耳・鼻・舌・身などと意とは本来カテゴリーが違うものだと思います。前五者は感覚、つまり、たとえばカメラで言えばフィルムに映ったもの・・・というふうに。それに対し「意」は判断、たとえば「赤い・青い」、「きれい・きたない」とか、「うまい・まずい」ですね。見たもの、味わったものについての判断ですね。仏教ではよくこういう、本来カテゴリーの違うものを一まとめにすることをよくやります。あなたが、
 ・・・「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか・・・
と「なにかおかしい」と思っていらっしゃる原因はここにあると思います。事実、仏教には眼・耳・鼻・舌・身を五識とし、意(識)と分けるやり方もあります。さすがに誰かが一まとめにするのはおかしいと気づいたのでしょう。

 さて本題にもどりますと、「意」に対する「法」は、本来「ダルマ(原理)(註1)」です。その人の価値判断の基準ですね。その基準はあくまでもその人固有のもので、正しいかどうかとは別のものです。ですから、般若心経で、「悟りとは眼・耳・鼻・舌・身・意」と言うのですね。「悟りとは、あなたが見たもの、聞いたもの・・・とそれに対する判断を超越したものだ」という意味だと思います。

2)仏法とは宇宙原理。仏道とは仏への道、つまり修行のことだと思います。

(註1)「本来・・・」と言いましたのは、ダルマがいろいろなニュアンスで使われているからです。本欄では上記のように「あなたの価値判断基準」という意味で使いました。