神は人が乗り越えられないような試練は与えない

 東日本大震災で大切な家族を亡くした人の中には、当時よく言われた合言葉「がんばろう」とか「絆」、「立ち上がれ」にさえ、強く反発している人も少なくありません。筆者は以前から、このブログを書く理由の一つが、そういった耐え難い苦しみを持った人たちの心を癒す少しでも力になればとの思いです。

 作家の田中澄江さんは、息子さんが子供の時から重い脳の病気で、音楽教師だった娘さんも若くして脳溢血で体が不自由になったという苦しい人生を送った人です。「遠い日の花のかたみに」(婦人画報社)の中で、

 ・・・瀬戸内寂聴さんから、「あなたの家は熱心なカトリックで、お嬢さんも熱心な信者なのに、病院の処置が悪くてひどい目になって、神様を恨まないんですか(註1)」と尋ねられ、「神さまのなさることはまちがいがない。娘はこういう苦しみに突き落とされたけど、その意味はきっと今にわかることと思っている。でも、山のてっぺんで神様助けて下さいと、祈りながら泣くこともあえいますよ」って・・・とあります。

註1 瀬戸内さんはひどい腰痛で苦しんだとき、あまりの辛さに「神も仏もあるものか」と言った人です(このことは以前のブログで描きました)。

 しかし、大震災の遺族の皆さんにとって、「神様は、人間に耐えられない苦しみは決してお与えにならない」の言葉は癒しになるでしょうか。じつは、聖書の原典ではちがった表現なのです。「カソリック・プロテスタント共同訳聖書」コリント人への第一の手紙10章13節に、

 ・・・神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます・・・

とあります。大切な部分はむしろ後半なのです。つまり、 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいますに主眼があったのです。素晴らしいしい言葉ですね。聖書には珠玉のような言葉が満ち溢れています。

 禅では「昨日の苦しみは過ぎ去った。明日はまだ来ない。しかし今日一日は耐えられそうだ」と言います。末期の胃ガンで苦しむ人で、ちょうどこのようにして毎日を乗り切っている人が、ギリギリの状況でつかんだ支えの言葉だと思います。

読者のコメント(12)

 以下は、読者bompuさんのご質問と筆者の感想です。bompuさんからはこれまでにも何度もご質問をいただきましたが、どれも適切で、よく勉強していらっしゃることがわかり、
充実したやり取りになっています。

bompuさんのご質問:
・・・六根の内の「意」と六境の内の「法」との出会いですが、これは具体的にはどういう経験(体験)なのでしょうか。妄想(思慮分別、価値判断、感想)をさしはさまないということは、「意」は、思慮分別、価値判断、感想ではない、何か、言うなれば〈精神的〉な働きですね。それはどんなものでしょうか。統覚とか、悟性あるいは、意志?意識?といったものでしょうか。また「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか。
 どうも、この「意」や「法」が禅を理解する上での躓きの石となっております。「意」には、思慮分別、価値判断、感想の働きもあるのではないか、とつい考えてしまいます。「意」にはそういう働きはないとすれば、この思慮分別、価値判断、感想はどこで行われているのでしょうか。あるいは、「意」にはそういう働きもあるが、ストップもできるのだということでしょうか。「法」についても、「仏道」と「仏法」とはどう違うのか、といったものです。
 中野さんがときに引用されます、師匠につかずに悟ったというあの方も、「法」に悖るかどうかで、その禅僧が悟っているかどうか一発で分かるとか・・・・
 以上くだくだしく述べてきましたが、どこで迷っているのか、ご教示いただけますならば、幸甚に存じます。よろしくお願い申し上げます。

筆者の感想:
 1)「意」と「境」の出会いについて:
まず、六根のうち、眼・耳・鼻・舌・身などと意とは本来カテゴリーが違うものだと思います。前五者は感覚、つまり、たとえばカメラで言えばフィルムに映ったもの・・・というふうに。それに対し「意」は判断、たとえば「赤い・青い」、「きれい・きたない」とか、「うまい・まずい」ですね。見たもの、味わったものについての判断ですね。仏教ではよくこういう、本来カテゴリーの違うものを一まとめにすることをよくやります。あなたが、
 ・・・「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか・・・
と「なにかおかしい」と思っていらっしゃる原因はここにあると思います。事実、仏教には眼・耳・鼻・舌・身を五識とし、意(識)と分けるやり方もあります。さすがに誰かが一まとめにするのはおかしいと気づいたのでしょう。

 さて本題にもどりますと、「意」に対する「法」は、本来「ダルマ(原理)(註1)」です。その人の価値判断の基準ですね。その基準はあくまでもその人固有のもので、正しいかどうかとは別のものです。ですから、般若心経で、「悟りとは眼・耳・鼻・舌・身・意」と言うのですね。「悟りとは、あなたが見たもの、聞いたもの・・・とそれに対する判断を超越したものだ」という意味だと思います。

2)仏法とは宇宙原理。仏道とは仏への道、つまり修行のことだと思います。

(註1)「本来・・・」と言いましたのは、ダルマがいろいろなニュアンスで使われているからです。本欄では上記のように「あなたの価値判断基準」という意味で使いました。

龍樹の「空」と禅の「空」は異なる(4)

(3)禅と観念論哲学

 以下は、拙著「禅を正しく、わかりやすく」でお話した内容です。

 西田幾太郎(1870-1945)は、わが国初の本格的な哲学者といわれ、「西田哲学」という、今でも個人名で呼ばれる独自の思想体系を確立しました。西田には「善の研究」(岩波文庫)という、旧制高校生に広く読まれた著書があります。それを端緒とする西田の思想のエッセンスは、

・・・我々が実際に感覚しているもの、それが物自身である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、まだこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいう。少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままをいい、このとき、見る者(主)と見られる物(客)が同一の状態である。そして、この直接(直覚的)経験こそ物や心の認知の基礎である。」という。それを「直接経験」とか「純粋経験」とか「意識現象」と名付けた。それによると、この世の中のあらゆる実在、草木も石も山も、動物も植物も人も、その精神もすべて我々の意識現象、すなわち純粋経験(直接経験)の事実あるのみであり、客観的物質世界というのは単に思惟の要求より出た仮定に過ぎない・・・

というものです。いかがでしょうか。まさに禅の「空思想」ですね。 龍樹の「空」思想とは違います。
 
 西田幾多郎(1870-1945)は金沢の出身。同郷の鈴木大拙(1870-1966)の親友で、お互いに禅を学び、坐禅修行に励みました。両者が深く影響し合っていることは鈴木本人が言っています。その通りでしょう。筆者など、西田の「善の研究」は「禅の研究」と言ってもいいと思っています。おそらく同じような思想に達し、鈴木は「禅」として、西田は哲学としたのでしょう。
 じつは大変興味深いことに、西田と同じような考えがすでにドイツ観念論哲学としてありました。すなわち西田自身が言っていますように、彼がその思想を確立する以前に、カント(1724‐1804)、フィヒテ(1762-1814)やヘーゲル(1770-1831)らの先人達の成果があったのです(くわしくは拙著「禅を正しく、わかりやすく」パレード出版をご参照ください)。西田は謙虚にその旨を述べていますが、彼はすでに高校生時代からそういう考えを持っていたと言いますから、やはりすばらしいですね(註4)。

 東洋の禅と西洋の哲学が同じ思想に達したのは、別に驚くことではないようにも思います。一つの「モノゴトの観かた」ですから。「私がいてモノを見る」という唯物論的モノゴトの見方は、カント以降、18‐19世紀にイギリスから始まった産業革命、すなわちモノを重視する時代からですから。それにしても初代達磨大師が中国へ来て禅を広めたのは5世紀から6世紀のことです。一方、カントが観念論哲学を言い出したのは18世紀、つまり、達磨大師の1300年も後のことですから、いかに東洋思想が素晴らしいかおわかりいただけるでしょう。

註4 拙著「続・禅を正しくわかりやすく」で、「モノゴトを観る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という一瞬の体験こそが真実の姿である」ことを現代物理学の視点から詳しくお話ししました。ご参照いただければ幸いです。