(NHKスペシャル「見えた。何が。永遠が」より)
1)「知の巨人」と言われた立花さんが2021年4月30日に亡くなりました。81歳で、死因は膀胱ガンでした。おそらくヘビースモーカーだったことが原因でしょう。ガンであることが確定してから、一切の治療、それどころか検査さえ拒否して。「戒名も葬式も墓も無用。死体はゴミとして捨ててくれ。(20万冊から30万冊と言われた)蔵書のすべてを死後絶対に処分してほしい」との遺言を残して。つまり自分の死後は一切を無にしてくれという意味です。この番組は、最後の17年間身近にいたNHKデイレクターの岡田さんが、立花さんがこのすさまじい信念を持つに至った思想の遍歴を辿ったものです(「葬式、戒名、墓不要」は特に珍しいケースではありませんが)。
立花さんの生涯を通じての思索のテーマは、「人間とは何か。どこから来てどこへ行くのか」だったのは衆知のとおりです。とくに後半は「死んだらどうなるのか」でした。もちろん死はすべての人間にとって最大の課題でしょう。しかし大部分の人はそれを意識していません。死んだらどうなるのか・・・ことさらそれを考えないようにしている人もいるでしょう。メメント・モリ(「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」)という言葉は、そういう人に対する警告として伝えられてきました。立花さんは、じっさいにホスピス(末期ガン患者のためのターミナルケアを行う場所)まで出かけ、患者の生の言葉を聞きました。
患者「そのときは家族や周囲の人たちに「ただありがとう、さようなら」というつもりです。それができれば幸せです」・・・・立花さんはこれらの言葉を聞いて、「人間はお互いに支えあって生きている」ことを改めて自覚し、後述するような「人間とはなにか」という重要なテーマの結論を導き出します。そして「人間は死すべき運命にある。しかしそれを自覚したとたんその運命を乗り越えることができるのではないか」と言っています。
立花さん「人間が死を恐れるのは、人が死ぬということはどういうことなのか。人の心は死ぬ時どうなるか。だれ一人確実な知識を持ってない。それゆえ死を考える手掛かりはないからだ。つまり、死ぬとき何があるのかは死ぬまでわからない。だから死が怖いのだ」。
立花さんが、基本的テーマ「人間は(どこから来て)どこへ行くのか」を尋ねる入口としたのは、「死後の世界はあるか」「霊は存在するか」「意識というものは残るか」でした。そして、死後の世界の有無を知る手掛かりとして選んだのが臨死体験でした。死んで甦った人など一人もないので当然ですね。そこで臨死体験を科学的に証明できるかどうかを世界中の研究者に聞いて回りました。立花さんはさらに多くの臨死体験者自身の話を聞きました。日本人だけで300人を超えたと言いますからすごいですね。その結果、「臨死体験というのは体験者しかない。それらは本人にとってはリアルであろうが、他の人に伝達できる客観的な証拠はない」と結論したのです。さらに、立花さんはアメリカの学者が脳に弱い電流を流すと臨死体験ができると聞けば、わざわざそこまで出かけて自ら被験者になったのですからすごい(「何も感じなかった」と言ってましたが)。
そしてこれらの調査と思索の結果を総合して、「(多くの人々は)死後の世界の存在を証明する科学的根拠はなく、死んだら物質的には無に帰る」とか、「霊界といったものはない。死んだらゴミになる。意識なんてものも全く残らないと考える。・・・これが一つの唯物論的な考えで、そうでないと考える人たちもいますが、これは微妙なところです」と言っています。つまり、立花さん自身が納得できる証拠は得られなかったのですが、どうも歯切れが悪いのです。しかし別のところで、「私はこの問題は卒業した」と言っています。
筆者のコメント:筆者は立花さんには及ぶべくもありませんが、目に見えない世界や霊的世界があることは何度も実体験していますから、この問題に関しては立花さんの限界を超えたと思っています。
2)では立花さんは人間というものをどう位置付けたのか。「見えた。何が。永遠が」とはどういうことなのか。立花さんはホスピスで死を間近にした女性の「そのときは家族や周囲の方に『ありがとう。さようなら』と言ってお別れします。それができれば幸せです。」の言葉に大きな衝撃を受けたと思います。そして、人間の限りある命は単独であるわけではなく、いくつもの限りある命に支えられて、限りある時間を過ごしている。それは命連環体という大きな輪の一部である。そういう連環体が連なって大きな生命の連環体を成している。そういの生命の連環体がつながってきたのが人類の歴史だ」と結論したのだと思います。つまり、人間一人一人の「今」とは「永遠の一部」なのだということでしょう。まさに禅の心なのです。
立花さんはまた、現代社会における最大の問題は、あらゆる知識がどんどん細分化され、断片化してきていることだ。ありとあらゆる専門家が、じつは断片のことしか知らない。綜合的にはモノを知らない」と言っています。「100冊読んで1冊書く、というのでなくては良いものは書けない」と言っています。20万冊とも30万冊と言われる蔵書の持ち主手あり、私は「勉強家だ」と言った立花さんの言葉だけに重いですね。筆者はこの言葉を聞いて、「まったくその通りだ」と思いました。最近、コロナ問題やウクライナ問題など、何か問題が起こると、すぐに次から次へと「専門家」が出てきます。しかし、彼らの言うことはすべてトンチンカンだと思うのです。「コロナ問題」が起こり、2019年2月に、小中学校を一斉休校とする指導が出たとき、筆者はすぐ、「まちがっている。これは季節性インフルエンザの一亜種に過ぎない。マスコミが騒ぎ、それに踊らされた庶民が騒ぎ、でどんどんエスカレートして行く。パンデミックなどにはならない」と投書しました。日本医師会の尾身会長と、西村担当大臣が連日マスコミに顔を出していましたね。どれだけ多くの飲食産業や旅行業界が壊滅的な被害を受けたことか。使った国家予算も80兆円を越えています。筆者は臨床医ではありませんが、40年間の研究生活のほとんどを医学の研究に携わってきました。その結果、病気というものを「全体として観る」ようになったと思います。その目で観ると、ウイルス感染症の専門家の言っていることにはいつも違和感を感じていたのです。菅元総理が「尾身を黙らせろ」と言ったとか。筆者も同感なのです。それだけに、立花さんのこの言葉を「そのとおりだ」と思います。立
3)知の巨人、知に敗れる
立花さんは前述のように膀胱ガンで亡くなりました。立花さんはガンであることが分かると、例によってガンについて猛勉強をし、海外の有名学者にまで聞きに行きました。あらかじめ「自分のガンを直す方法について調べることは絶対にしない」と岡田デイレクターに言ったとか。「さまざまな調査をした結果、ガンというものは人間の生命活動と不可分であることがわかった」と言います(たとえば、人間の免疫細胞がガン細胞の増殖を促進することもあるのです:筆者注)。つまり「ガンは半分はエイリアンで、半分は正常な組織だ」と。そして立花さんは後に行った講演で、「ガンになれば100%死にます。だからQOL(人間としての生活の質)を下げてまでして、あと少し寿命を延ばそうとは思いません」と言っています。そしてすべての治療や検査を断って逝きました。
立花さんは有名人でしたから、生前の取材や講演活動の映像はたくさん残されています。それを見ますと、それらの多くでタバコを吸っています。つまり、立花さんは、少しでも健康に注意する人なら避けるタブーを犯しているのです。
その立花さんがガンになるとガンについて精力的に調べたのはさすがだと思います。しかし、ガン研究者としての筆者から見れば、立花さんは明らかにまちがった結論をしているのです。筆者はガンが治った実例を知っています。つまり、「ガンに罹れば100%死ぬ」のではないのです。たとえ1%でも立派に回復する人はいるのです。立花さんは「私は勉強家だ」と言っています。そのとおりですが、勉強して得たこと、頭だけで考えたことだけでは正しくガンというものを理解できないのです。実際に多くの患者を診れば病態が一人一人異なることがわかります。そういう経験を積み重ねると、ある種の、ガンというものについての感触が得られます。どんな病気についてでもそうでしょう。頭で考える人には決して得られないものです。この感触が重要なのです。「立花さんは知の巨人であるがゆえに知に負けた」と筆者が言うのはこういうことです。