1)読者のお一人、岩村宗康さん(岐阜県真言宗徳林寺住職)から次のような一連のコメントをいただきました。「後でお答えします」と言い、今回、その約束を果たしました。
岩村さんのコメント:道元「正法眼蔵・現成公案編」の巻で注目すべきなのは次の一節です。
・・・魚(うお)水を行くに、行けども水の際(きわ)なく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと雖(いえど)も空の際(きわ)なし。魚鳥、いまだ昔より水空を離れず。只(ただ)用大の時は使大なり。要小の時は使小なり(中略)。しかあるを、水を究め、空を究めて後、水空を行かんと擬する鳥魚あらんは、水にも空にも道を得べからず、処を得べからず。この処を得ればこの行李(あんり)随(した)がひて現成公案す。この道を得れば、この行李随がひて現成公案なり。この道、この処、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、先より在るにあらず今現ずるにあらざる故に是の如くあるなり。
岩村さんの解釈:・・・魚にとっての水、鳥にとっての空は、それらの居る場所であり、生きている処(ところ)です。魚や鳥は、どのように生きるべきかと知り尽くしてから生きるのではなく、つまり、どこにどのような道があるかを参究してから水や空を用いているのではなく、自ずからその処を得て道を行くのです。このような魚や鳥の生き様を、道元禅師は「現成公案す」と言い、そのようにある水空魚鳥の有り様を「現成公案」と呼んでいます。
このような処と道は、大小自他先後などの区別がないと言うのですから、それは「一如」とか「不二」と呼ぶことができます。従って、この一節における現成公案とは、一如不二の処(仏法)であり、一如不二の道(仏道)を指していると言えます。
鳥や魚は、証することなく仏法に処し、修することなく仏道を行じています。ところが、我々人間は、そこに在りながら仏法を疑い、そこに生き、そこを歩みながら仏道に迷い、一如不二から遠ざかっているのです。
我々は、仏法における公の課題(案件)である解脱涅槃が既に成就しているにもかかわらず、その事実に迷い、仏道が現に円成しているにもかかわらず、それに悟入することを目指しているのです(太字筆者)。脚下照顧(きゃっかしょうこ)と言う所以でしょう。
筆者のコメント:太線の文章が岩村さんのコメントの趣旨でしょう。岩村さんはさらに、・・・道元禅師は帰朝早々の開教宣言で、
・・・上堂。「山僧叢林を歴(へ)ること多からず。只是(ただこれ)等閑(たまたま:筆者)に天童先師に見(まみ)えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞(あざむ)かれず、便乃(すなわ)ち空手にして郷に還る。所以(ゆえ)に一毫も仏法なし。任運(心の赴くままに:筆者)に且(しば)らく時を延ぶるのみなり。朝々日は東より出で、夜々月は西に沈む。雲収まって山骨露われ、雨過ぎて四山低し。畢竟如何」。良久して云く、「三年に一閏に逢い、鶏は五更に啼く。久立」。下座。(鏡島元隆訳註「道元禅師語録」講談社学術文庫20p)と言っています。岩村さんは道元の言葉の意味を、
・・・見成(現成)公案は、掲簾・放簾・上床・下床など、日常の行為に現成している。そして、それらが十方の諸仏、古今の諸祖に他ならない。日常底(てい)が仏祖であり見成公案なのだから、いまさら説かねばならないことは無いが、道元禅師は、拄杖 (しゅじょう:杖)を卓し一下して便(すなわ)ち座を下る〉という一連の行為によって仏祖を露呈し、それによって重ねて見成公案を説示しました。この上堂語では、日常の行履(あんり)に仏祖が現成し、日常の行履が見成公案であることを明らかにし、(衆)生仏(陀)一如の仏法、修証一如の仏道が呈示されている・・・と言っています。
岩村さんは、臨済宗妙心寺派を代表する一人のようで、謙虚で真摯な禅の探求者ですが、残念ながらその解釈は根本的に誤っています。その理由は次回お話します。いずれにしましても岩村さんと筆者のやり取りは、読者の皆さんにとっても参考になると思います。
2)岩村宗康さんの考えに対する筆者の回答(2)
前回から続きます。「岩村さんご自身が、
諸法実相
の意味をわかっていない」と筆者が言いました。諸法実相とは、「すべてのものが仏の姿の表れてである」という意味です。つまり、岩村さんはそれに気づかずに、この言葉を使っているのです。
道元や臨済がそれぞれの思想の根底に仏(神)を置いていることの例証はすでに述べました。
岩村さんは次のようにも言っています。
・・・現成公案底が「既成の事実」だからこそ「水空を行く魚鳥は、水を究めず空を究めざれども、処を得て行履(あんり)自ずから現成公案し、道を得て行履自ずから現成公案である」と言い得ると思います。「体験して初めて現成する」と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう。その挙げ句が「眼横鼻直」だと思います。殆どの人は、魚や鳥と同じように処と道に迷ったことがないから「既成の事実」に気付かず「眼横鼻直」も知らないと思います・・・。
すなわち岩村さんは、現成公案が「既成の事実」であることの根拠として、「魚、水をゆくに、行けども水のきはなく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと言へども空のきはなし。しかあれども、魚・鳥いまだ昔より水・空をはなれず。只(ただ)用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭(ずず)に邊際(へんざい)を尽くさずといふ事なく、處處(しょしょ)に踏翻(とうほん)せずと言ふことなしと言へども、鳥もし空を出づればたちまちに死す。魚もし水を出づればたちまちに死す」を挙げています。(これも正法眼蔵現成公案編にあります:筆者)。
しかし、この一節もやはり「体験が重要である」と言っているのです。「鳥が空という体験の外へ出れば、魚が水という体験の世界を出てしまえば死ぬ」と。人間も体験の世界を出れば真に生きることにならないのです。「体験」とは「空(くう)」です。
改めて道元のこの文章を読んでみますと新鮮な感動を憶えます。道元は、じつに巧みに答えそのものを書かず、ヒントを挙げているのです。わかる人にしかわからないように表現しているのです。岩村さんは、まさにそれに引っかかっています。「『体験して初めて現成する』と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう」と言うのには唖然とします。すべての人間にとって大切なことだからです。
公安集を読めば、唐や宋師代の師と修行僧たちの未知のための真摯でひたむきな姿勢がよくわかります。「香厳撃竹」の故事を読んでください。
岩村さん、「神になってしまった塾長に逆らった愚かな人間の間違いがハッキリしました・・・
」などと感情的になってどうするのですか。