聖書は唯一絶対か(1)
筆者はキリスト教を素晴らしい宗教だと考えており、国内外の教会に通ったこともあります。その前提で以下の話をさせていただきます。
友人に熱心な信者がいます。その宗派は、第二次大戦中「いかなる理由であれ、人を殺すことは神の摂理に反する」と兵役を拒否したことでも知られています。当時のドイツや日本で、兵役を拒否すれば、シベリアや網走刑務所送りなど、過酷な結果になったはずです。それでも曲げなかった信念に驚き、尊敬しています。
それらの信者は、聖書を神の言葉であると絶対の信頼を置き、人生の規範としていたのでしょう。今回は、1)聖書の内容は絶対かと、2)聖書は神の真理のすべてを網羅しているか、の二つの素朴な疑問についてお話させてください。
1)について:聖書がキリストを通じて伝えられた神の真理であることは間違いないでしょう。しかし、聖書の中には神話、つまりフィクションや、直接のキリストの言葉ではなく、当時の言い伝えや、使徒たちの受け取り方の違いや誤解もあったはずです。聖書をまとめるに当たって、使徒たちのキリストの言葉についての調整(結集)あったことがその証拠です。近代の人々には、それに合った新しい解釈も必要なのではないでしょうか。
2)について:聖書が神の真理のすべてを網羅しているとは、とても考えられません。キリストという一人の「人間」が生きたのは限られた時間であり、出会った人たちも当然、限定されます。キリストが伝えたのは真理の一部に過ぎないことは間違いないでしょう。
筆者は科学者として生きてきました。「いかなる定説も信じつつ信じない」という、科学に対する基本的スタンスを取り続けています。というより、長年科学研究に携わって来ることによって得た「智慧」です。その視点に立てば、「新しく表われて来る事実には、既存の定説では解釈できないものがたくさんある」はずです。その場合には新しい法則、つまり真理があるのではないかと考えます。科学者として当然の態度だと思います。
これをキリスト教信仰で言えば、つぎのようになるでしょう。聖書にある数々の教えが、当時の人たちすべてに当てはまるとはとても考えられません。さらに、2000年後、そのこれだけ価値観が多様になった現代人のすべてに当てはまるとも思えないのです。そういう意味で聖書は絶対とは思えません。聖書以外の神の摂理も知る必要があると思うのです。
「キリストは神の言葉を伝える唯一の人間か」というのも筆者の疑問の一つです。イスラム教のムハンマドも神の意志を伝えた人でしょう。聖書が唯一とは思えないのです。その意味で、大乗仏教を考えた人たちも、釈迦には及ばなくても、やはり神の意志を伝えた人たちだろうと思います。それゆえ筆者は大乗仏教も尊重するのです。
じつは禅は経典を通り越して、直接神の真理に達することを目指しています。つまり、私たちでもイエス・キリストと同じように、神の真理に達することができるというのです。キリスト教とは決定的に違うところですね。
筆者がキリスト教信者について不安を覚えるのは、ときに聖書を絶対視するのあまり、頑なになることです。ある宗派が輸血を拒否する理由を、「血は人間の魂であるから」として理解できます。それが輸血に変わる医療の発達を促すことも。しかし、交通事故や大きな手術でなどで、緊急輸血が不可欠な必要なケースでさえ拒否するのはいかがなものでしょう。近代文明を拒否して100年前の風俗を通しているアメリカのあるキリスト教村のケースには、やはり違和感があるでしょう。
これらが筆者の宗教感です。
アインシュタインの言葉:何も考えずに権威を敬うことは、真理の最大の敵である。
聖書は唯一絶対か(2)
以前このブログで聖書は唯一絶対と考えている(と思われる)後輩にささやかな疑問を呈したことがあります。その人は誠実そのものの人柄ですからもちろん「やんわりと」でした。今回はその続きです。
マタイ伝5・3に「こころの貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という一節があります。クリスチャンではない筆者でも知っている有名なパラドックスですね。この言葉はちょうど「歎異抄」にある「善人なおもて往生を遂ぐ、いはんや悪人においておや」と類似の、困惑がかえって魅力になっている「さわり」の部分です。
じつは聖書のこの言葉は誤訳なのです。山浦玄嗣(つぐはる)さんという市井の医者(自称です)がいらっしゃいます。東北の辺境の一山村(これも自称)で唯一のクリスチャンの家庭に育った人です。山浦さんは「心貧しい人・・・」の一節に疑問を抱き、60歳から新約聖書が書かれている古代ギリシャ語を学んで「この疑問を解こう」と決心しました。その結果、誤訳であることを知ったのです。
山浦さんによると、「心貧しき人」とは、私たちが理解している「品性低劣な人間」ではなく、奴隷や最貧の人たちのように、「惨めで、望みなく、頼りなく、心細い人でも神様はお救い下さる」とのキリストの力強い励ましの言葉だったのです(’11年版ベスト・エッセイ集『人間はすごい』文芸春秋社)。
このように、現代に私たちが読む聖書は唯一絶対ではなかったのです。筆者が学生のとき、熱心なクリスチャンだった語学教官が「キリストは、ちょうど円と直線の接点のように、神が地球に降臨された唯一の例である」と言いました。「神は人間とは遥かに隔絶した存在である」というのがキリスト教の基本的教えですから、キリストがこの世に現れたのは矛盾することになってしまいます。筆者は子供心にも「この説明はおかしい」と感じました。
ことほどさように、キリスト教にも絶対視するあまりの矛盾があるのです。もちろん、以前お話したように、キリスト教はすばらしい宗教だと考えている前提で述べています。
禅は、修行によって悟りに達することを究極の目的にしています。悟りの状態とは、神と同一化し、神の声を直接聞けるようになることなのです。神と人間はけっして隔絶した間柄ではないのです。ここがキリスト教とはまったく異る点です。