なぜ「空」思想が大切か(1-5)

なぜ「空」の観かたが大切か(1)

 いよいよ「空」理論の本題に入ります。今回は、筆者がお話してきたことの簡約です。

 禅を理解するのに一番大切な言葉は「空」ですね。これまで高名な禅師でも、正しく理解した人は、筆者の知るかぎりほとんどいません。

 このブログシリーズでくわしく検証してきましたように、たとえば「空とは実体のないこと」と解釈した人たちがします。澤木興道師の弟子・松原泰道師などです。これらの人たちは、お釈迦様の教えの一つである縁起(因果)の法則を誤って理解し、援用しているのです。「縁起(因果)の法則」とはふつう「あらゆるモノゴトには原因がある。原因がなければ結果としてのモノゴトはない」と解釈されています。しかし、お釈迦様がおっしゃっているのは、「あらゆるできごとには原因がある」であり、現象を指し、モノまでは含んでいないのです。つまり、「あなたの今の苦しみや悩みには必ず原因があるので、それを突き止め、取り除くかこだわりをすてなさい」と言う意味なのです。筆者がよく、そういう解釈をする人の目を覚まさせるには「ポカンとたたいてやりなさい」とはそのことです。「痛い」と怒るでしょう。それが肉体という実体があることの証拠ですね。

 「空」理論を初めて体系化したのは龍樹(ナーガールジュナ)だと言われています。龍樹も縁起の法則に基づいて「空理論」を完成したと言われています。しかし、前にお話したように、般若心経で言う「色即是空」の「空」は、龍樹の「空理論」とはちがうのです。

 松原師などが言うもう一つの根拠は、「空」を、あらゆるモノは変化するから実体はないと解釈するものです。筆者が30年前、初めて禅に関する本(松原師の著作!)を読んで違和感を感じたのはこの点なのです。無常も釈迦の教えの基本だとされています。しかし、「空」の解釈に「無常の概念」を援用するのも間違いなのです。たしかにモノは常に変化しています。私たちの体の成分も常に合成と分解を繰り返していることはよく知られています。しかし、だからと言って実体がないのではありません。まぎれもなく実体はあるのです。「固定的な実体がない」ということを、「実体そのものがない」と概念を広げてしまうから間違えるのです。

 もう一つの誤った解釈の例は、西嶋和夫師のものです。東京大学卒で、長く一流会社の役職についていた人ですが、やはり澤木興道師の影響を受けて、専門の僧になった人です。「正法眼蔵提唱」という大著もあります。西嶋師は「空とは、無でもない、有でもない絶対無」と解釈しました。さすがに空を無とは言えなかったからでしょう。しかし、「絶対無」とはどういうことでしょう。ますますわからなくなってしまいますね。
 
鈴木大拙博士
日本語で書かれた「色即是空」についての鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、
 ・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・
筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。

いかがでしょうか。筆者には意味がよくわかりません。

なぜ「空」思想が大切か(2)‐而今(いま、ここに)(i)

 筆者はこのブログシリーズで、「空とは私がモノゴトを見る(聞く、さわる、嗅ぐ、味わう)その瞬間の体験だ」と繰り返しお話してきました。このことを念頭に入れて以下をお読みください。
 「空」のモノゴトの観かたがなぜ大切かを理解するには、まず禅の重要な概念である而今(いま、ここに)の意味を知らねばなりません。この言葉は、作家の中野孝次さんが座右の銘にしていました。

よく、而今の意味を誤って解釈している人がいます。よくあるのは、

・・・ 過去を悔やむな、 まだ来ていない未来に不安を抱くな、事態は何も変わらない。「今、この瞬間」に心を向けて懸命に取り組むことが大切だ・・・

というものです。中野孝次さんもそのように解釈していたのではないかと思います。

 道元は「正法眼蔵・巻十四山水経」の中で、

 ・・・而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽(ぐうじん)の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり・・・

と言っています。「今ここに見えている山や川は、仏法そのものの現われだ」という意味です。この一節の後半の部分について、曹洞宗 東海管区強化センターHPの解釈は、

 ・・・ その「而今」とは、単にいわゆる「今」ではなく、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻で問題とされた「而今」であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて「而今」の他に何もない、それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己といっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているのであります。眼前の山水も「而今なる山水」として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているのであります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を貫くものであります。而今であります(一部筆者の責任で省略) ・・・

となっております。これではなんのことかわからず、さらに解説が必要でしょう。下手な同時通訳と同じで、「言っている言葉は平易だが意味がわからない」でしょう。

 道元が「有時(うじ)巻」で言っているのはとても大切なことですから、次回改めてお話します。肝心なところだけ言いますと、

 ・・・人間が生きているのは今この一瞬だけだ。そのときの生きいきとした体験こそが真実だ・・・

です。なんらの価値判断も加えない、純粋な体験そのものこそ、モノゴトの正しい認識なのです。これが「空」のモノゴトの観かたなのです。以前、生きているということをイメージで次のようにお話しました。

 ・・・人間の一生とは、きわめて大きな円の円周を歩いているようなものです。真中に生命の根源=神がおられ、そこから生命の光ビームが一人ひとりの人間を照らしている。生命のビームによって照らされている時だけ真に生きている。その一瞬一瞬の連続が人生だ・・・

というものです。過去とはもうその生命のビームが消えてしまった時、未来とは未だその光によって照らされていないときなのです。
 いかがでしょうか。而今(いま、ここ)とはこういう大切な時と場所なのです。この大切な いま、ここでの体験こそ、正しいモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」思想が大切か(3)-而今(にこん、いま、ここに)(ii)

 「空」を理解するには「而今(にこん)」を知ることが大切だとお話しました。その理解の手助けになるのが、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻です。前回、曹洞宗東海管区教化センターHPの解釈を紹介し、「これでは解説の解説が必要だ」とのべました。道元が「有時」で言っていますのは、

 ・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり・・・

です。ここで「有」と言っているのは、曹洞宗東海管区教化センターの解釈では「空間」としています。空間という抽象的な概念は道元の時代にはなかったと思います。「存在(モノ)」ということでしょう。そして、「有時とは、時間は空間を離れては存在しない。空間のない時間はありえない」という意味だとしています。つづいて「時間と言っても空間と言っても自己と言っても同一物でありそれを而今と言う言葉で言い表している」としています。これでは何のことかわからないでしょう(註1)。筆者の解釈は以下のとおりです。

 まず、「有」とは存在(モノ)ではなく、「モノゴト」と考えるとわかりやすいです。「できごと」ですね。「できごと」かならず初めと終わりがありますから、時間の経過があります。とすれば、「時間なくしてモノゴトはない」のは当然です。

註1:現代物理学の知識から言えば、時間がなければモノはありません。原子を構成する電子や核内の素粒子は運動しているからです。運動するということは時間があるということです。しかし、もちろん道元の時代にはそんな知識はありませんから、なぜ道元が「時間がなければモノはない」と着想したのかわかりません。瞑想によるインスピレーションかもしれません。

 つぎに、「モノと自己は同一である」。これもよくわかります。なぜなら筆者が言う「空、すなわちモノゴトの体験」にあっては、モノと自己は同一(一如)だからです。

 つづいて道元は、

 ・・・尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり・・・

と言っています。重要な概念で、ここでも「有」をモノゴトと理解するとよくわかります、すなわち、「この世のすべてのモノゴトは一瞬の(体験の)連続だ」と言う意味です。あらゆるモノゴトは、生じては滅し、滅しては生じていく。その連続であり、その連続が時間だと言うのですね。逆転の発想で、驚くべき慧眼だと思います。西田幾多郎はこれを「不連続の連続」だと言いました。

 つまり、過去はありましたし、未来もあるのです。しかし、私が生きているのは「いま、ここだけ」なのです。今ここにいる私は神につながる「生きた人間」です。その「生きた目(耳、鼻・・・)で認識している一瞬の体験こそが真の実在なのだ」という意味です。よくテレビで画面に「Live」と出てくることがありますね。「この映像は過去に撮ったモノではなく、現在撮影しているものだ」という意味ですね。「Live」と断らなければ、過去の映像か、今の様子かはわかりません。しかし現在の映像であることはとても大切ですね。
 一瞬の体験にあっては、どんな判断も感想もありません。思慮分別は一切無いのです。禅で「鳴らぬ前の鐘を聞け」と言います。けっしてわけのわからない禅問答なのではなく、真実を表わした言葉なのです。これが禅のモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」の観かたが大切か(4)-而今(にこん)(iii)

 「空」の思想を理解するには、禅語の而今(にこん)を理解することが大切だとお話しました。今回は、「空」のモノゴトの観かたがなぜそんなに重要かについてお話します。

今日一日を生ききる

 ホスピス研究所岡崎代表金田亜可根さんは、8年前から自宅を開放してガン患者のお話を聞く会を開いています。余命〇〇ヶ月と宣告された人、すでに何度も手術をした人、そして遺族の人たちに食事を提供し、いっしょに食べながら真心こめて患者たちの胸の内を聞くのです。テレビ報道を視聴して印象的でしたのは、金田さんは「癒しの場とか、安らぎの場を提供するのではない。それは上から目線になってしまうからだ」と言っています。医療・介護をする上でとても大切な気持ちだと思いました。
 さらに強く心に残ったのは、そこに集ってお話をする患者さんたちが、とても明るいのです。でもその理由は筆者が感じたのとは違いました。金田さんは言います「あの人たちは、いつガンが再発するのか、いつ容体が悪化するのかはわからない。だからこそ、今、ここで生きていることをとても大切にしていらっしゃるのです」と。いかがでしょうか。味わい深いお話ですね。ガン患者さんたちは、文字通り命懸けでこの真理を体得されたのでしょう。

つぎもこの真理をギリギリの状況の中でつかんだ舞台美術家の妹尾カッパさんの言葉です。(「少年H」講談社文庫)。前著「禅を生活に生かす」でも紹介しましたように、

妹尾さんは、神戸大空襲で実家が焼け落ち、街はつぎつぎに飛来するB29の大編隊が投下する焼夷弾で火の海になった。その中を逃げ惑い、やっと開けた野原にたどりつき命拾いしたと言います。その時、クリスチャンだったお母さんが口にした言葉が「感謝やね」だったのに驚き、「自分の家が焼け、こんな目にあってもか!」と怒鳴ったと言う。するとお母さんは「怪我もしないで今こうして生きているじゃないの」と言われ、参ったと書いている。「今生きている。その言葉が妹尾さんのその後の人生の一番大事な言葉になりました。「明日は分からないが今生きている。今、今、今が重なって明日になり、明後日になる」。「明日生きて友達に合えるかどうか分からない」生きるか死ぬかの瀬戸際になっても神を信頼できるお母さんの信仰の力の凄さでしょう。そして、妹尾さんが体得した「明日はわからないが、今生きている、そのことに感謝する」との思いは、ギリギリの状況であっただけに本物でしょう。これは「空」の思想、「ものごとの体験は今のみ、過去も未来もない」と共通し、禅で言う而今(今ここ)の禅の考えそのものですね。

真実は今ここの一瞬に現れる

  日本画家の田淵俊夫さん(1941-)は現在再建中の薬師寺食堂を飾る阿弥陀三蔵像を描いた人です。田淵さんは言います「植物にしろ動物にしろ、対象は十分に観察します。それらのものはつねに変化していますが、そのうち、その本質が一瞬に現われる線として見えます。それをとらえるのです」。何十年と自然の姿を見てきた人の究極の境地だと思います。まさに筆者の言う「空」の思想ですね。
 筆者も長年携わって来た生命科学の研究生活で、同じようなことを考えていました。勉強もしますし、真剣に考えねばなりません。しかし、いま振り返ると、研究のアイデアや進め方は、すべて一瞬に決まりました。

なぜ「空」思想が大切か(5)
 過去はあった‐正しい禅
 
これまで「而今(にこん、今ここ)」と言う禅の重要な言葉についてお話してきました。「而今」の解釈としてよく「過去はない。未来はまだ来ない。あるのは現在だけだ」と言われています。たとえばある人は、「アーナンダ賢善一喜経」(「原始仏典 中部経典4」(第7巻)中村元監修 春秋社)にある「およそ過ぎ去ったものは捨てられたものなり」を引用して「而今」の意味を解説しています。しかし、本当に過去は捨てられたものでしょうか。あの東日本大震災や熊本大地震で大切な人を亡くした人、交通事故でかけがえのない子供を亡くし人たちが「過去はありません」と言われて救われるはずはありませんね。到底納得できない教えを説かれても心は癒されないでしょう。

 じつはこういういう解釈は誤りなのです。「あらゆるものは変化する」は、仏教の基本的な教えとされています。禅でなくても科学的事実として、あらゆるものが変化するのはまぎれもない事実です。しかし「過去はない」のではありません。「変化はしているがモノゴトはある」のです。まぎれもなく過去はあったのです。それらをゴッチャにするから「釈然としない」のです。

 道元は「正法眼蔵」「現成公案編」で、
・・・たき木(薪)、はい(灰)となる、さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちあり、さき(先)あり。かのたき木、はいとなりぬるのち、さらにたき木とならざるがごとく、人のし(死)ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるとい(言)はぬなり・・・
と言っています。まさに「而今」の思想ですね。
 ・・・薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり・・・灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり・・・ 生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり・・・
「生が死になるのではない、生は生、死は死だ。前後は切れている」と言うのです。味わうべき言葉ですね。

禅の心を生きた人‐良寛さん(1 – 4)

禅の心を生きた人‐良寛さん(1)

 良寛さん(1758-1831)は、子供たちと手まりを突き、草相撲をして春の一日を遊んだ人として親しまれています。しかし、じつはあの道元以来の禅の達人と、筆者は考えています(註1)。18歳のとき越後の庄屋の地位を捨て、備中(岡山県)玉島の圓通寺へ入って10年にわたる厳しい修行をしました。その結果印可(免許状)を受け、将来どこかの寺の住職になることが約束されたのですが、なぜかそれも投げ捨てて、長い修行の旅に出ました。そして39歳のとき越後にもどって、あの子供たちと遊ぶ日々を送ったのです。
 良寛さんのことは、筆者が前著でくわしく紹介しましたので、このブログシリーズではあえて割愛させていただいていました。しかし最近、前著からの読者で、ブログも熱心に読んで頂いている人から「五合庵(新潟県燕市)へ行ってきた」とのお知らせをいただきました。筆者も9年前に行きましたが、「庵の前に『 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな』の句碑があったことを覚えています。良寛さんの悟境をもっとも端的に表した句だと、碑を作った人が考えたのでしょう。

 じつはあの小林一茶(1763-1828)の句に「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と、ほとんど同じものがあります。びっくりしますが、じつはよく知られた話です。その人からのメールには、
 ・・・両者の句の違いに頭を痛めています。一茶のほうが先に詠んだようで、良寛さんはわざわざ解かってこの句を詠んだのはどのような意味があるのかとても面白い問題です。ネットで一茶の方は「自己を主にした自然への計らい」、良寛さんの方は「自然は自然で恩恵にあずかるのはこちらからである。それを感謝するのもこちらの心からである」と解説しているが今一よくわからない・・・
とありました。たしかにその人が言う通り、良寛さんの心境を考える上で重要な課題ですね。以下に筆者の考えを述べますが、その前に、もう一つの漢詩をご紹介します。
                    筆者訳
 生涯、身を立つるに懶(ものう)く 立身出世など考えたこと
                  はない
 謄々(とうとう)、天眞に任す   ただ、天命に従うまで
 嚢中(のうちゅう)、三升の米   頭陀袋には托鉢でいただ
                  いた米が三升
 爐邊(ろへん)、一束の薪(しん) 炉端には薪一束
 誰か問わん、迷悟の跡       悟りとか迷いなどどうで
                  もいい
 何ぞ知らん、名利の塵       名誉とかお金など興味は
                  ない
 夜雨、草庵の裡(うち)      草庵の外の雨の音を聞き
                  ながら
 雙脚(そうきゃく)、等閑に伸ばす 足を長々と延ばしてい
                  る。他に何が要ろうか

 良寛さんの清貧の生活をよく表したもので、筆者を含めたファンたちの大好きな詩でしょう。ただ、良寛さんの気負いが感じられ、漢詩としての情感もいまいちですね。

 「焚くほどの」の句にもどります。この良寛さんの句は、一茶の「焚くほどは」の句より断然すぐれていますね。それは、前述のように良寛さんの禅の心が表わされているからです。

(註1 道元以来、一休、白隠などのすぐれた禅師がいたと言われているのですが、著書がほとんどなく、思想がよくわからないのです。これに対し良寛さんの悟境は、たくさんの漢詩や短歌、俳句から知れます。じつは、それらの資料さえ良寛さんはありあわせの紙に書き散らしていたのですが、死後、愛弟子の貞心尼が整理して残してくれました。ありがたいことです。)

禅の心を生きた人‐良寛さん(2)

 良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」の句は、小林一茶の「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」の後で作ったと言われています。ほとんど同時代の人で、一茶の句は当時からよく知られていたそうです。なにせ一茶は、俳諧の世界の一方の雄でしたから。筆者は一茶の終の棲家、長野県柏原も訪ねたことがあります。火事で母屋が焼けたため、移り住んだ土蔵改造の建物でした。

 一茶の句は、「風が私に葉をくれた」。良寛さんの句は「風が吹いて葉が私のところへ飛んで来た(だけ)」ですね。前者が、風(自然)と私(一茶)を対立的にとらえているのに対し、良寛さんの句には風(自然)から私(良寛さん)への働きかけなどありません。「なるようになっているだけ」なのです。ここが重要なのです。

 筆者はこのブログシリーズで、
 ・・・空(くう)とは、私が対象物を見た(聞いた、さわった・・・)体験そのものが真実だというモノゴトのみかたである・・・
と、お話してきました。そこには私と対象の区別はありません。「両者は一体」(というより、禅では「一如」)です。禅の達人である良寛さんはとうぜんその考えを体得していたはず。そのため一茶の句を知って「私はちがう」と言わざるを得なかったのでしょう。他人の、しかも有名な句を勝手に変更したのは、やや穏当ではないようですが、良寛さんのひたむきさがそうさせたのでしょう。

 「焚くほどは、風が持て来る落ち葉かな」の句は、まさに自然と人間が一体化した世界を表わしているのですね。なぜこの禅のモノゴトの見かたが画期的であるかは、おいおいこのブログシリーズで、さまざまな方向からお話していきます。

 でも一茶を良寛さんと比較しては気の毒だと思います。なにしろ良寛さんは「永平寺より厳しい修行の場」と言われた備中玉島の圓通寺で10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。それに対し、一茶は、すぐれた句をたくさん残した人ですが、なんと言っても農民出身なのですから。一茶が継母や義弟と熾烈な遺産相続争いをしたことはよく知られています。「嚢中に三升の米と、炉辺に一束の薪があれば十分だ」と読んだ良寛さんの心境とはおのずと次元がちがいますね。

禅の心を生きた人 良寛さん(3)-芭蕉と山頭火

 友人であり、このブログシリーズを読んでいただいている人たちと一夜、歓談しました。筆者が良寛さんについて熱っぽく語りますと、そのうちのお一人が、「良寛さんが家庭も持たず、子供も残さなかったのは、生物の一員としての天の摂理に反するのではないか」と指摘されました。理屈はわかりますが、それでは子供さんができなかったご夫婦に失礼だと思います。まあ、酒の上でのことと許容されます。また、筆者が「良寛さんが一生、物乞いして生きたのは大変なことだ」と言いますと、「でも晩年はどうしたろう」と疑問が出されました。

 まず第1の疑問について:
 「もう少し広い視野で見てあげてください。禅の世界では、家庭を作ろうと子供ができようとできまいと、是非の判断は一切無いのです。地位がどうとか、財産や教育の有無についても同じことです。家庭を持ち子供を作れば喜びはもちろんですが、それなりの悩みもあります。高い(?)地位に付けば組織をまとめて発展させて行く苦労も付いて来るのは当然です。
 良寛さんはたぶん、禅の心を一生掛けて体現したいと決心し、それをやり遂げるには幸せな家庭を築くことは無理だと考えたのでしょう。「社会人としてちゃんと生き、幸せな家庭を築きながら禅の道を体現することができる」というのは、「言うは易く・・・」でしょう。良寛さんは自分の将来の限界をはっきりと見通したのでしょう。

 良寛さんは、備中玉島の禅寺で、10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。いずれ、しかるべき寺の住職になり、生活は安定し、弟子たちからも尊敬される一生を送ることもできたはずです。しかし、あえてその道を放擲したのです。自由が縛られると思ったのでしょう。

 あの松尾芭蕉や、自由律俳句の種田山頭火も自然と一体化し、自由に生きた人です。芭蕉の「静かさや・・・」や「古池や・・・」、「荒海や・・・」の句はそのまま禅の心を表わしたものかもしれません。山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」や「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句も同様でしょう。しかし、それぞれ日本各地に信奉者がおり、そこを訪れて句の添削をすれば当然謝礼もいただけたでしょう。「奥の細道紀行」など、彼らの経済的支援があったからこそ成し遂げられたと思います。筆者も山頭火は尾崎放哉と並んで好きですが、二人共大酒のみで、どれほど支援者に迷惑を掛けたかわからないのです。
 山頭火も芭蕉も、それぞれ立派な句集を残しました。一方良寛さんは、詩集「草堂集貫華(そうどう しゅうかんげ)」と歌集「布留散東(ふるさと)」を残しました(いずれも現代の複製があります)が、あとは散らした歌や詩を弟子の貞心尼たちがまとめてくれたおかげで、今日私たちが味わうことができるのです。つまり、芭蕉や山頭火などの「句の宗匠」とはまったくちがうのです。

 第2の疑問「晩年も物乞いをしたか」について:

 晩年は、越後の大庄屋で文化人であった阿部定珍(さだよし)や、解良栄重(よししげ)などに良寛さんの学識や歌が自然に認められ、肩の凝らない交友が始まり、援助と言うより「気軽なお土産」として、いろいろなものをいただいたようです。

  ちんばそに酒にワサビにたまはるは春を淋しくあらせじとなり
(ほんだわらや酒やワサビをいただいたのは、私の春が淋しくないようにとのお心づかいからでしょう)

良寛さんと語り暮れて帰ろうとする友人に、

 つきよみの光を待ちて帰りませ、山路は栗のいがの多きに
(月が出てからお帰り下さい。山道は栗のイガも多いでしょうから)
と詠んだのも二人の温かい交情がよく出ていますね。

 またある秋の夕暮れ、良寛さんが一人の老農夫に呼び止められ、とうもろこしやどぶろくをご馳走になり、「こんなものでよかったらいつでもお寄りください」と言われたとの歌が残っています。

ことほどさように、筆者のような良寛さんファンには、つぎつぎにその歌やエピソードが出てくるのです。

禅の心を生きた人(4)良寛さんの悟境-道元以来の人

 ただ、良寛さんはけっしてすべてを受け入れ許容した人ではなかったと筆者は考えます。そんな人だったらとても敬愛できないでしょう。孤独な生活や、冬の寒さを、「淋しい、さみしい」とか、「寒さが腹にしみとおる」と正直に、なんども詠っています。それだけに春が来て子供たちと遊ぶのが心から楽しかったのです。
 
 きわめて純粋な人であったことは、堕落した同僚の修行僧たちに対する、若い時の厳しい批判の詩からわかります。とほうもない寛容の人だと考えては、良寛さんの禅の心はわかりません。「ぐっと我慢して表面は笑顔で」では、自由な心とは言えませんね。いやなものと付き合うより、避けることで自由さを保ったのだと思います。失火したと無実の罪から殴られても、されるままにしました。「経もあげずに子供たちと遊んでばかりいて」と非難されても、「私はただこういう人間です」とつぶやくだけだったのです。いずれについても詩を残しています。
 
 会って心地よい人達とだけ付き合い、好きなことだけをして自由気ままに過ごす。そのためには家庭や社会的地位、生きる糧を得るための社会的手段をすべて放棄したのです。新潟県北部の国上山にある五合庵に行くと、托鉢や、寒さ防ぎがどれほど大変だったかよくわかります。厳冬期など、明日の米も心配しなければならなかったでしょう。それでも、社会と関わって生活の糧を得るより、自由を選んだのです。自分の心にあくまでも忠実でありたいと思ったのでしょう。良寛さんはそれをやって見せてくれた人なのです。禅の心とは、なによりも自由な心なのですね。

 良寛さんの悟境は、道元以来だったと思います。なるほど道元以降、一休禅師や沢庵和尚、白隠など有名な禅師たちはいます。しかし、みんな基本的な生活は保障されていた人たちなのです。組織を作り、組織に入ればそれなりに自由が奪われるでしょう。「三升の米と一束の薪さえあれば十分だ」と歌った良寛さんの心境とは比べモノにならないのです。

公案の理解と坐禅(1, 2)

禅における語録の意義(1)

ここでお話しする語録とは、公案や禅語のことです。
 禅では、曹洞宗のように只管打座、つまりひたすら坐禅・瞑想をする宗派と、臨済宗のように、坐禅とともに公案についての師弟の問答を重視する宗派があります。一般に前者を黙照禅、後者を看話(かんな)禅と言われています。

 小川隆博士は「語録の思想史」(岩波書店)の中で、
 ・・・禅は一般に、坐禅によって悟りをめざす宗教だとされている。しかし、坐禅・禅定という行の実践は、とくに禅宗に限ったものではなく、さらには仏教独自のものでさえない。文献として残されているものを見るかぎり、禅宗のきわだった特徴は、坐禅よりもむしろ禅僧どうしの問答にこそあった・・・
と言っています。たしかに天台宗や真言宗にも瞑想はあります(止観と言います)。空海は虚空蔵求聞持法にある陀羅尼(短い呪文)を百万回唱えた結果、開悟したことはよく知られています。一方、釈迦以前のインドにも古くから瞑想はあり、釈迦自身が悟りを開いたのも瞑想によります。しかし、やはり坐禅瞑想と言えば禅でしょう。小川氏のこの説は、「語録の思想史」をのべるための、いささか我田引水の気味があります。それは小川氏がつづいて、
 ・・・自らの開悟を目指すのなら、今日でもやはり、自らその道を行くべきでしょう・・・
と言っていることから明らかです。悟りを目的とせず、たんに学問として語録を学んだとてどんな意味があるのでしょう。大部分の人が開悟のために語録を学んでいるはずです。

 道元がなぜ、「只管打座」、つまり、「ひたすらざぜんせよ」と言ったのか。それは道元の師・如浄の時代の中国の禅宗の事情にあります。禅はその前の唐の時代に大きく発展し、今に伝えられるそうそうたる禅師たちが輩出しました。しかし、如浄のいた宋の時代になると、ある者は朝廷や貴族に重んぜられるようになり、必然的に権威主義的になり、禅問答ももったいぶって形式的なものになりました。僧侶たちも経済的にも安定し、ひたむきな修行から離れて行ったのでしょう。如浄の禅風は、その流れから屹立したものだったのです。「只管打座」は道元の師・如浄の修法なのです。おそらく、まじめな禅僧たちも、ともすれば無意味な「禅問答」にとらわれ、正しい修行から遠ざかっていたのでしょう。
 道元の死後、師の言葉が弟子たちによってまとめられたものを「永平広録(十巻)」と称しますが、弟子義尹(ぎいん)がそれを持って宋へ渡り、かって道元の兄弟弟子だった無外義遠に校正を頼みました。無外義遠がそれを一冊に抄録したものを「永平略録」とも「永平(道)元禅師語録」とも言います。その序文に筆者が今のべた如浄の功績が書かれています。
 道元が公案を重視していたことは、「正法眼蔵」の中にも、「谿声山色巻」「栢樹子巻」「祖師西来意巻」「三界唯心巻」「即心是仏巻」など、多くの公案が含まれていることから明らかです。ただ、曹洞宗では臨済宗でのような「問答」は重視されませんでした。

 悟りのためには坐禅・瞑想と公案の理解のいずれもが重要だと思います。くりかえしますが、如浄や道元が「只管打座(ひたすらざぜんせよ)」と言ったのは、修行僧たちがあまりにも公案の理解に執心していたためでしょう。現代でも看話禅の宗派では、禅問答が儀式化されているところがあります。儀式も禅の嫌う概念の固定化なのですが・・・。

禅における語録の意義(2)

 筆者は、日々坐禅・瞑想を欠かしませんが、公案や禅語録も重視しています。以前お話したように、筆者は「永平(道)元禅師語録」「臨済録」などの現代語訳をしました(「従容録(碧巌録)」については進行中です)。禅を体得するには、やはり言葉も大切だと思い、詳しく検討したのです。公案の学習は、坐禅・瞑想とともに悟りに至る重要な道だと思うからです。

 筆者は、このブログシリーズで、さまざまな公案を取り上げ、近現代のわが国の著名な禅師たちの解釈を紹介してきました。じつは、もっと多くの禅師たちの解釈を調べたのですが、それらを比較評論するのはかえって読者の皆さんを混乱させると思い、ここでは避けました。結論だけ言いますと、同じ公案についても、禅師たちの解釈は一つとして同じものはありません。もちろん、どの禅師についても直弟子や孫弟子の考えは除外しました。師匠の影響を強く受けるのは当然だからです。とにかく、禅師によってこれほどバラバラな解釈から私たちは何を学べばいいのでしょう。「公案の解釈は人さまざまでいいのだ」という説もありますが、筆者にはなっとくできません。

思想とは言葉である
 悟りとは思想の飛躍的変化ですが、思想とは言葉なのです。言うまでもありませんね。「なにかをわかる」というのは「言葉」としてわかるのです。心を表現するに言葉を持たない人に悟りはありえません。ことほどさように禅において言葉は大切であり、公案の解釈は開悟の重要なヒントになるのです。そしてさらに、悟境(とうぜん、それ以前とはまったく違った世界になっているはずです)を詩で表現することもよく行われています。偈頌(げじゅ)と言います。

 次は、以前お話した、中国宋時代の詩人蘇軾(そしょく:蘇東坡1037-1101)がある時、廬山を訪れ、夜の渓流の声を聞いて突然悟に達したときの感動を常総禅師に呈上した偈頌です。

 谿声(けいせい)便(すなわち)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、
 山色(さんしき)清浄身(しょうじょうしん)に非ざること無し。
 夜来八万四千の偈、
 他日如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん。

筆者訳:渓流の声はそのまま仏のご説法であり、
    山のたたずまいは仏の清浄なお姿そのものである。
    この昨夜からの八万四千の偈文の経を、
    後日 人にどう話せば分かってもらえるであろうか。

 このように、思想とは言葉なのです。そして坐禅・瞑想の実践が禅の言葉を作り出すこともあるのです。道元もこの感動的なエピソードを「正法眼蔵・谿声山色巻」で取り上げています。

浅原才市ー他力信仰の真髄

浅原佐市

 前回、「清原満之と暁烏敏のあと、本当の意味の他力信仰を理解していた人はいないのではないか」と言いました。ただ、石見の下駄職人浅原佐市(1850-1932)だけは例外です。佐市は、幕末から昭和7年の死まで、阿弥陀如来を心から信じて生きた人です。下駄造りで出たカンナの削りくずにすなおな信仰の気持ちを書き続けました。その内容は素朴ですが、心に響きます。
    ええな せかいこくうがみなほとけ
    わしもその中 なむあみだぶつ 

    ねるも仏
    おきるも仏
    さめるも仏
    さめてうやまう なむあみだぶつ
    むねに六字のこゑがする
    おやのよびごえ
    慈悲のさいそく
    なむあみだぶつ

    目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 
    南無阿弥陀仏と 声でしられる
    死ぬるは浮世のきまりなり
    死なぬは浄土のきまりなり     
    これが楽しみ 南無阿弥陀仏
    世界をおがむ 南無阿弥陀仏  
    世界がほとけ 南無阿弥陀仏

    聞いた聞いた
    いいこと聞いた
    凡夫が仏になること聞いた
    聞いても聞いても何ともない
    何ともないのが目当てと聞いた

    ほとけから
    ほとけをもろうて
    なむあみだぶつ

    なむあみだぶつが
    わしのほとけよ
    こんなさいちわ(才市は) かくことわやめりゃゑゑだ 
    いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません 
    ほ(法)をたのしむかくもん(無学者)であります
    まことにゆかいなたのしみであります
    明ご(名号)のなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります
    道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ
    あさましと知られた心 仏の心よ

    凡夫わからにゃ邪慳なり 凡夫わかれば慚愧なり なむあみだぶつ
    おなじ迷い迷いと言いましても 
    迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違いがしてをります 
    自力他力はここでわかります
    他力には自力も他力もありわせん 一面他力なむあみだぶつ
    煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ

    如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる    
    才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ
    名号は不思議な慈悲で 合点がいらぬ 
    合点いらぬがなむあみだぶつ

    念仏は仏の念仏 仏が申す念仏 ただの念仏 
    わたしゃ用なし ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ
    なむあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなむあみだぶつ
    称(たた)えても 称えても また称えても
    弥陀の呼び声なむあみだぶつ
    名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ

    才市や何処におる 浄土貰うて娑婆におる 
    これがよろこび なむあみだぶつ
    わたしゃ浄土を先に見て 娑婆で申すなむあみだぶつ

    才市や臨終すんで 葬式すんで 
    なむあみだぶつとこの世にはをる云々
    影を見よ 光明の光のおかげで 影がみえるぞ 
    浄土の影がこれでわかるぞ 
    ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつ

    才市や何がおもしろい 迷いの浮き世がおもしろい 
    法をよろこぶ種となる なむあみだぶつの花ざかり

    昔はありがたいこと たよりに思い なんともないこと ちからをおとし 
    いまは あろうがあるまいが ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ

    ありがたいの ありがたいの ありがたいのがあなたの慈悲で 
    うれしうないのがわたしの心 うれしかろうがかるまいが
    機法一体なむあみだぶつ これが知れたらありがたい

    わたしゃあさまし 親のごをん(御恩)がよろこばれん 
    よろこばれんならほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ 
    ごをんうれしやなむあみだぶつ
    へいぜい(平生)に臨終すんで葬式すんで 
    あとはあなたをまつばかり
    なむあみだぶつに 臨終はない

    おがみようがない
    おがまれてよろこぷ
    なむあみだぷつ

    才市はなむあみだぶつをどう心得てをるか 
    へ はなむあみだぶつに貰われましたよ 
    御報謝をどう心得てをるか 
    へ 御報謝は思い出したり忘れたり あさましいものであります。

    才市よい うれしいか ありがたいか 
    ありがたいときや ありがたい なつともないときや なつともない 
    才市 なつともないときや どぎあすりや(どうするか)
    どがあもしよをがないよ なむあみだぶと どんぐりへんぐりしているよ 
    今日も来る日も やーい やーい
いかがでしょうか。解説など要りませんね。浅原の言葉からは、以前お話した、東日本大震災を受けた僧侶の「葬式仏教のなにが悪い」の境地など論外であることがおわかりいただけるでしょう。

「蓑笠の人浅原才市」水上 勉(講談社学術文庫)、鈴木大拙編著「妙好人浅原才市集」新装版(春秋社)