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旧約聖書コヘレトの言葉と「空」(1-4)

 読者のお一人から「NHKこころの時代『コヘレトの言葉』で、さかんに『空(くう)』と言ってました」とお知らせいただきました。

(1)さっそく調べて見ますと、たしかにEテレ「こころの時代~宗教・人生~それでも生きる旧約聖書『コヘレトの言葉』」と題して6回にわたって放映されていました。筆者も当番組のレジメ冊子と、小友聡著「旧約聖書注解・コヘレト書」(日本キリスト教会出版局)を入手して読みました。以下に従来の解釈と小友さん(東京神学大学教授)の考えと、筆者の感想をお話します。

 初めに旧約聖書は大小39の書からなり、「コヘレトの言葉」もその一つです。キリスト教の成立より古いことが特徴で、紀元前2世紀頃まとめられました。問題は、キリスト教の教えと正反対と思えるところがあり、爾来多くの学者を悩ませてきたのです。

 一番の問題は、冒頭の「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい(聖書協会共同訳旧版)。 その改訂版では、空の空、一切は空である。註1)」 という言葉です。ここで言う「空しさ」とか「空」は原文のヘブライ語で「ヘベル」です。英訳の聖書では、vanity(空しさ)、emptiness(空虚)、meaningless(無意味)、futility(無益)、nothing(無/虚無)、absurd(不条理)、irony(皮肉)、ephemerality(儚さ)、insubstantiality(脆さ)、mystery(神秘)、enigmatic(謎めいた)など、さまざまな訳し方があるとか。

註11987年にカトリック教会とプロテスタント諸派が共同して新訳したもの。2018年に改訂された。

 コヘレトは、「すべては空である」に続いて、

 ・・・日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか(新訳第1章3)とか、

 ・・・たしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである(同14)・・・

と言っています。つまり、新約聖書にあるようにイエスは、徹頭徹尾「生きることのすばらしさ」を説いているのに対しコヘレトは、「人生は空しい」と言っているのですからキリスト者が当惑するのは当然でしょう。

 さらにコヘレトは、 

 ・・・太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである(同8章15)・・・

と言っています。さらに、

 ・・・若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ。〈中略〉若さも青春も空だからである(同11章9)・・・

これでは快楽主義になりかねませんね。と言うかと思うと、

 ・・・朝に種を蒔き夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのかあるいは、そのいずれもなのかあなたは知らないからである(同11章6)・・・

つまり、「人間の努力が報われるのは、働いた人なのか、はたまた他人なのかわからない」と言っているのです。これでは「働きなさい」と言いながら、一方で「働いても無駄だ」と言うのと同じですね。信者はますます困ってしまいます。

 そこでこのパラドックスを解決するために、わが国の指導者には、「神なしに生きることは空しい」「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて」と解釈している人が多いのです。これに対して小友聡さんは別の解釈を提案しています。それについては次回お話します。

 (2)小友聡さんの解釈

 小友さんは「ヘベル」を束の間(時間的に短いこと)と捉えています(註2)。

とすると、

・・・若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ・・・若さも青春も束の間だからである。(11章9-11節)・・・

となり、たしかに筋が通りますね。小友さんが「空=束の間」と解釈した理由は、当時のイスラエル人の平均寿命が35歳くらいだったから」と言っています(註3)。

 註3 しかし、それは誤りでしょう。なぜなら、平均寿命35歳を「束の間」とするのは、現代の感覚からであって(日本:男81歳、女87歳)、当時のイスラエル人は35歳を「そんなものだろう」と思っていたはずだからです。根拠にはなりません。

 この考えに従って小友さんはコヘレトの言葉を、やはり旧約聖書のダニエル書の黙示思想との対比として解釈しています。すなわち、「黙示的生き方とは、来世に価値を置き、現世は堕落して破局に向かうゆえに、これを試練として耐え、禁欲的に生きるという態度である。これに対してコヘレトは、この束の間の人生を喜び楽しみ、すべてを神からの賜物として受け入れ、与えられた生を徹底して生きることを説いているのではないか」と言うのです。つまり、

 「・・・太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである(同8章,

15)・・・

も刹那主義や享楽主義ではなく、ヘベルの人生、つまり終わりのある束の間の人生をどう生きるかを説いているのだ」と解釈しています。そして「聖書で言う終末とは、黙示思想の言うようなこの世の終末ではなく、人生の終わりを言うのだ」と言うのです。

 また、前回お話した、

 ・・・朝に種を蒔き夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか。あるいは、そのいずれもなのか。あなたは知らないからである(11章6)・・・

の言葉も、善因善果、悪因悪果のキリスト教的因果思想から外れるとされ、信者を困惑させてきましたが、小友さんは、「コヘレトは、将来受けるかもしれない果報など考えず、とにかく今を生きよと言っているのだ」と解釈しています。

 これも、旧約聖書の内容と新約キリスト教的思想とのパラドックスの一つの解釈ですね。

註3小友さんの解釈と同一線上にある考えの人は他にも少なくないと小友さんは言っています(たとえば上村静さんは「キリスト教の自己批判: 明日の福音のために」新教出版社で、コヘレトの思想が徹底的に此岸《この世》的であり、現世肯定的であること。厭世的なのは黙示思想であり、コヘレトの思想は反黙示であると言っています)。

 従来の考えと小友さんの解釈についての筆者の感想は次回お話します。

(3)筆者の感想

 従来、筆者は聖書にはすばらしい教えがたくさんあると思っていました。たとえば、

 あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:34

 人を裁くな。自分がかれないためである。あなたがたが裁くきで、自分もかれ、あなたがたの量るそので、自分にも量り与えられるであろう」(‬ ‭7:1-2)‬

 汝らの中、罪なき者、まず石をなげうてヨハネによる福音書 8:1‐11

・・・今読んでもすばらしいですね。しかし、これらはすべて新約聖書、すなわちイエス・キリストの言葉なのです。これに対し旧約聖書は、それ以前のイスラエルの人々の人生訓です。つまり、前者は「神の言葉」であり、後者はいわば「知恵」に過ぎません。事実、「コヘレトの言葉」は「知恵の書」と言われています。どちらが人の魂を揺り動かすか、言うまでもないでしょう。

 小友さんが「空(くう)=束の間」と解釈したのはたしかに一つの見識だと思います。「それゆえこの世を神からの賜りものとして楽しもう」となり、前記のパラドックスも解消されるようです。ただ、小友さん自身も「あえてそう解釈した」と言っているように、やはりこの解釈にはかなり無理があります。やはりコヘレトが「風のように空だ」と言うのを「風のように儚(はかな)い」と取る方が、「風のように束の間だ」と解釈するより自然でしょう。

 「コヘレトの言葉」についての上記二つの解釈を公平に見て、やはり「空」を「空しい」と考えるのが自然だと思います。と言いますのもヘブライ語「ヘベル」の本来の意味は「息とか蒸気」ですから、わが国の多くの牧師さんが「この世は空しい、神の存在を考えなけば・・・」と解釈しているのも納得できます。

 すでにお話したように、小友さんの学説は、同じ旧約聖書にある「ダニエル書」と「コヘレトの言葉」との比較においてなされています。しかし、考えてみますと、「ダニエル書」で述べられている黙示思想(この世には終末がある)は何の根拠もない「伝説(註4)」に過ぎません。それゆえ「伝説」についてあれこれ言うことなど、本来意味のないことなのです。10歩下がってその意義を認めたとしても、たんなる「聖書学」の範囲内のことで、およそ後世の人たちが範とする価値はないと思います。言うなれば「古事記」を研究するのは「古事記学」として結構ですが、そこから「人生の教え」を導き出すのは牽強付会(こじつけ)というものでしょう。また、小友さんは「黙示思想が五島勉の『ノストラダムスの大予言は』や、オーム真理教の『ハルマゲドン』として復活した」と言っていますが、そんなものを信じたのはごく一部の日本人に過ぎません。大部分の日本人は醒めていました。ことほどさように、旧約聖書を「人びとへの教え」として研究する学者がいるのには驚きです。筆者はかねてから、聖書学者は聖書を唯一無二のものとして、そこから一歩も出ないのを不思議に思っていました。しかも小友さんはそれを30年も続けてきたとか。

註4 「限られた予言者のみに与えられた神の秘密の開示」と言われていますが、真実かどうか怪しいですね。新興宗教によるある「神の啓示」と同じだと思います。

・・・・・・

 ここで最初にお話した読者のメッセージ「NHKこころの時代のコヘレトの言葉で、小友さんが『空』『空』と言っています」に戻ります。これまでお話したことから、小友さんが番組内で「空(くう)」「空(くう)」と言ったのは、少し言い過ぎでしょう。私たちはどうしても禅の「空(くう)」を連想しますから。小友さん自身も「禅の空とは関係ない」と言っています。

4)聖書と仏教経典

 以前にもお話しましたが、キリスト教と仏教には大きな違いがあることに驚かされます。と言いますのも、キリスト教が2000年来、聖書を唯一無二の聖典とし、いかなる変化を加えることもなかった(註4)のに対し、仏教は釈迦の言葉を基本としながら、その直後からいくつかの宗派に分かれ、それぞれの解釈をしました。また紀元前後には、「般若経」、「維摩経」、「涅槃経」、「華厳経」、「法華経」、「浄土三部経」、「金剛頂経」などのいわゆる大乗経典類、さらには無着と世親(4世紀ころ)によってまとめられた「唯識」や、「密教」(7~8世紀)、禅など、多くの追加や整理が行われてきました。これらの積み重ねはインドの哲学者たちによるものです。このようにインドには幅広い哲学者集団による思索が続いてきたのですね。キリスト教ではおよそ考えられないことです。

 キリスト教は聖書を唯一無二の聖典とし、いかなる変化を加えることもなかった

 筆者の知人にキリスト教の敬虔な信者がいて、毎月「通信」を送ってくれます。それを読んでいつも感じていたのは、どの記事を読んでも「マタイ伝〇〇章○○節」とか、「〇〇への手紙」というように、必ず聖書に則って話していることです。「これでいいのか!」ですね。筆者は「禅塾」を標榜していますが、それ以外に「浄土の教え」、「華厳経」、「法華経」、「唯識」など仏教の他の宗派についても、さらにキリスト教から神智学などカントや西田幾多郎の哲学に至るまで幅広く学んでいます。そういう広い視点に立たなければ禅の本質など到底わからないと思うからです。筆者が長年携わって来た生命科学研究についても全く同じで、専門分野のみ学んでいてはとても生命の本質など明らかにはできません。

 この「コヘレトの言葉」シリーズでも小友さんは終始一貫して聖書、ことに「コヘレトの言葉」がある旧約聖書についてのみ話していました。これに対し、番組で対話していた若松英輔さんが、聖書の内容以外に、ゲーテやドストエフスキー、内村鑑三、芥川龍之介、などの言葉を引用しているのが印象的でした。当然でしょう。 

註4 キリスト教における聖書の正典化は、2世紀前半から4世紀にかけて議論がおこり、4世紀半ばにはほぼ確立しました。しかしいくつかの文書の正当性について争いがあり、正式な正典化は10世紀においてなされたとされています。  

この世に借りを残して逝くな

 以下のお話はすべて筆者の故郷の中学同級生たちに関わる事実です。

 友人S君のところへ突然Y君から電話がありました。「心臓にペースメーカーを入れた。大腸ガンの手術をしたが、他にも転移していた」・・・。「こんな内密な事実を、今まであまり話したこともない僕にどうして電話してきたのか」と、S君が筆者にメールしてくれたのです。

 じつはY君のことは以前から聞いていました。経営していた町工場の資金繰りが最近とみに悪くなったことも含めて。一方、近所に住むK君は退職金を手にした後、クラス会の流れのコーヒー店で「僕が払う」と気前の良いことを言っていた・・・。そういう噂を耳にしたY君がK君に近づき、言葉巧みに大金を貸りたのでしょう。一向に返さないうちにK君は亡くなってしまったのです。友人S君とK君は、とても信頼し合っていた仲で、しょっちゅう行き来して来たと筆者も聞いていました。S君が、末期ガンになったK君をお見舞いに行くと、「じつはY君には大金が貸してあるが、一向に返してくれない」・・・と言ってるうちにK君の調子が悪くなり、「明日も来るから」と言って話を止めさせてS君は帰った。翌日行ってみると、何やら病院の様子があわただしい。「変だと思って聞いてみると。K君は昨日亡くなってた。残念だった」とS君が筆者に言ったのです。K君は秘かに「ホッ」としたでしょう。筆者も義憤を感じて、共通の友人にも相談したのですが、「借用書も見つからない」と、沙汰止みになっていたのです。

 S君からそのメールをもらった時、すぐに筆者は「恐らくY君は、自分のこの恐ろしい状況は、あるいはK君の怨念と関りがあるのではないかと考えていたのではないか。その苦しみから少しでも逃れようと、K君と親しいことを知っていたS君に突然電話してきたのでは?」と感じました。Y君の病状は予断を許さないところまで来ています。

 K君はこの世に大きな心残りをして亡くなりました。そうさせたY君の罪は、借金に加えて重いです。もちろんY君の病気はK君の怨念などによるものではありません。しかし、K君は自分が犯した不業績の「付け」を今払っているのです。彼の不安と恐れは相当なものでしょう。筆者はY君にこの世に借りを残して逝くなと言ってやりたいのです。K君の遺族にお金を返せばどれほど気持ちが楽になるか。それを言ってあげたいのですが・・・。

 「あいつは許せない」とか、「あの時のあいつの仕打ち!」と繰り返して思い出している人も少なくないでしょう。しかし、許せないことを許して心残り作らないことは、とても大切なことです。許せば神から許されるのです。

眼横鼻直(2)

筆者のコメント:前回ご紹介したいずれの解釈もあたり前の事実を、ありのままに見るのが大切だとしていますね。じつはそれは誤りです。それぞれ言ってることはもっともですが、それらはすべて「仏法」になってしまいます。そのため道元の真意を伝えられません。なによりの証拠は、道元は「宋から学んできたのは特別な仏法などではない」言っていることです。筆者も道元の言う通りだと思います。筆者の解釈は、・・・いかなる高尚な理論も、じつは当たり前のことを言っているのだ・・・です。当然でしょう。言葉は似ていても意味は全然違います。上記三つの解釈は、まさにここがわかってないのです。

 あの物理学者ジョリオ・キュリーが「いかなる大発見も、ここにこうしてインク壜(ビン)が置いてあるのと同じように、当たり前のことだ」と言っているのと同じでしょう。

註1「永平元禅師語録(永平略録、以下略録)」は、道元の孫弟子寒巌義尹(ぎいん。永平寺二世懐奘えじょうの弟子。1217-1300)が道元の「永平広録」10巻その他を携えて1264年に南宋へ渡り、道元の師天童如浄門下の同僚だった無外義遠などに校閲を依頼した結果です。義遠は、もとの全10巻から全1巻に抄出し、「序」と「跋」を加えました。さらに義尹は、同じく如浄門下である退耕徳寧や、虚堂智愚にも「跋」を求め、「永平元禅師語録」としました(この経緯から「永平略録」とも通称されます)。義尹は4年後帰朝し、本書を永平寺に招来し、更にそれは宝慶寺の寂円禅師に伝わった。したがって、「略録」は「広録」そのものの縮刷ではありません。

筆者はすでに「永平元語録」の完訳しています。これから少しづつその内容についてご紹介します。

眼横鼻直(1)

「永平元禅師語録(道元禅師語録)註1」にある有名な言葉です。

  1. 上堂。山僧叢林を歴(ふ、以下、カッコ内は筆者)ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見(まみ)えて、当下(ただち)に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。任運に且(しばら)く時を延ぶるのみなり。朝朝、日は東より出で、夜夜月は西に沈む。雲収(おさまっ)て山骨露(あらわ)れ、雨過ぎて四山低(ひく)し。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏に逢い、鶏は五更に啼く(以下略;筆者)

 読み下し文:上堂して説法した。山僧(私:道元)は、(中国)諸方の叢林をあまり多く経歴したわけではない。ただ、はからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で眼は横、鼻はまっすぐであることがわかって、もはや人にはだまされなくなった。そこで何も携えずに故郷に還ってきた。それゆえ私にはいささかも仏法はない。ただ天の導きに任せて時を過ごしているだけだ。毎朝日は東に昇るし、毎夜月は西に沈む。雲が晴れ上ると山肌が現れ、雨が通りすぎると周囲の山々は低い姿を現す。結局どうだというのだ。(しばらくして言うには)三年ごとに閏年が一回やってくるし、鶏は五更(午前四時)になると時を告げて鳴く(以下略)。

解説1)臨済・黄檗ネットより、

 眼横鼻直、読んで字の通り、あたり前の事実を、ありのままに見て、しかも、そのままである真実を頷(うなず)き取る。道元禅師でさえ四年の歳月がかかったのです。易しくて、難しい事実です。私達は果たしてすべてを、見るがまま、聞くがまま、あるがままに受け取っているでしょうか・・・他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか ・・・

 2)愛知学院大学禅研究所「禅語に親しむ」より、

・・・当たり前のことを当たり前に認得して人に瞞(だま)されないというのです・・・「朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。」というのも、自然の法則にかなった当たり前の現象です。しかし、われわれの日常生活は、我見我執に執われた自我意識を中心にしてまわっています。その為、当たり前のことや当たり前の現象を、自分の立場を中心にして自分勝手に認識しようとします。そのことが、当たり前でありのままの事実から知らず知らずのうちに離れていってしまい、誤った認識をすることとなります。結局、自己中心的な我見我執に振り回され、心は、右に左に揺れ動き定まらないでいます。それ故、実体のない多くの悩みや苦しみを抱え込み、迷える凡夫(ぼんぷ)としての明け暮れをしているのが実情です・・・

 3)鏡島元隆「道元禅師語録」より

 ・・・眼横鼻直は、ごく当たり前のことであって、それはもののあるがままの相(すがた)であるといえよう。だが、このごく当たり前のことがわかるために、道元は如浄の下で身心脱落するまで生命がけの修行をしたのである。したがって、身心脱落して見られたもののあるがままの相と、それ以前のもののあるがままの相とは、天地の違いがある。それを一言でいえば、それ以前のものは「我」に執われて見られたものであるが、それ以後のものは「我」の執われを脱け出たものである・・・

じつは、これらの解釈はいずれも誤りなのです。以下は次回に。

欧米に寝たきりはない

安楽死?嘱託殺人?(4)

 この驚くべき報告(中央公論社刊)は、宮本顕二医師(北海道中央労災病院院長)・礼子医師(認知症)によってなされました。なぜ欧米には寝たきり老人がいないのか。その理由は、高齢者が終末期を迎えると食べられなくなるのは当然で、経管栄養や点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからだと言います。そして多くの患者は、寝たきりになる前に亡くなるのです。欧米ではほとんどの高齢者は自立している。歩けなくても、心が子供や病院に頼ることがないという意味です。ヘルパーやドクターの訪問が充実しており、問題がない限り自宅でテレビを見て、または外の景色を見て過ごす。家族は土曜日に兄弟が交代で、親をパブに連れ出す。「一人でいられる」というのが彼らの誇りなのです。イギリスやオランダやスエーデンでも同様です。その理由は、何と言っても長く培われた個人尊重の精神でしょう。機械の助けまで借りてどうして個人と言えるか?でしょう。意識がないことは、たとえ息をしていても死である。当然、胃ろうや中心静脈栄養と等の行為は再生を妨げるため、悪である・・・。つまり「誇りを捨ててまでして、1年や2年延命しても意味がない」と多くの人が考えているのでしょう。日本人と人生の価値観が違うのです。

 いかがでしょうか。この人間としての誇りこそ、以前ご紹介した小島ミーナさんや、「嘱託殺人事件」の林優里さんが必死なって守ったことなのです。「おむつなどされたくない」、「人工呼吸器など着ければ言葉が話せない。言葉も話せなくては生きる意味がない」、「自分で死を選ぶことさえできない」・・・つまり「人間としての誇りは捨てたくない」。じつは林さんは本来の主治医になんども「人工呼吸器を外してください」と頼んでいたのですが断られました。そこでSNSで未知の医師に頼んだのです。

安楽死を容認している国々

スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、アメリカ(カリフォルニア州など6州)、カナダ、オーストラリア(ビクトリア州)、大韓民国

安楽死に関する日本の判例
(1962年(昭和37年)の名古屋高等裁判所の判例では、以下の6つの条件(違法性阻却条件)を満たさない場合は、違法行為となると認定している。

  1. 回復の見込みがない病気の終末期で死期の直前である。
  2. 患者の心身に著しい苦痛・耐えがたい苦痛がある。
  3. 患者の心身の苦痛からの解放が目的である。
  4. 患者の意識が明瞭・意思表示能力があり、自発的意思で安楽死を要求している。
  5. 医師が行う。