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なぜ今だに法華経なのか‐100分で名著(2)

 筆者は以前、法華経を通読して奇妙な読後感を持ちました。法華経の中に「法華経はすばらしい」「法華経は最高の教えである」と何度も書いてあるのに、その中身が示されていないからです。後に江戸時代の学者平田篤胤が、「法華経はみな能書きばかりで、かんじんの丸薬 がありはせぬもの」と筆者と同じことを言っているのを見付け、噴き出しました。まさに「王様は裸」だったのでは?

 要するに法華経の趣旨は1)すべての人間には仏性がある(長者窮子ちょうじゃぐうじの比喩 《信解品》や髻中明珠けいちゅうみょうしゅ《安楽行品》の比喩、常不軽菩薩 じの比喩《常不軽菩薩品》など。「すべての人間」の中には、悪人(ダイバダッタ)や女性が含まれています)、2)すべての人間は最高の悟りに達することができる、そして、3)法華経を伝えることの大切さ、だと思います。創価学会会員の、ときには異常と思える熱心な布教活動は、3)の教えによるのでしょう。そして、道元や宮沢賢治が法華経を尊重したのは、おそらく1)の理由からだと思われます(註3)。たしかに重要な教えですが、道元以前の禅の世界では繰り返し指摘されている事柄です。わざわざ法華経にもどるまでもありません。そして道元は永平寺という雪深い修行道場を本拠とし、けっきょく3)は実践しませず、悟りに達するためには専門僧になることを強く勧めています。「すべての人間」ではありませんね。むしろ初期仏教の教えに添うものですね。

 法華経にたいするもう一つの重要な疑問は、悟りに至る方法についてはまったく触れられていないことです。釈尊は、悟りを得る「ある方法」を地涌の菩薩のリーダーに与えたとありますが、その方法は法華経には書かれていません。天台智顗は、悟りの内容を「一念三千」という形で体系づけ、瞑想のような方法で自ら実践はしていたが、公開して人に勧めるようなことはしなかった。日蓮は、「法華経の文の底」から「釈尊の真意、真理」を読み取り、「一念三千の法」を文字漫荼羅として顕わし、「南無妙法蓮華経」と唱えていくことで、「すべての人が今世で悟りを得ることができる」と説きました。

 筆者は法華経には屁理屈が少なくないと思います。たとえば、初期仏教(部派仏教)徒を小乗仏教徒と貶め、「彼らの修行法では最高の悟り(ブッダ)には至れない。法華経で説かれた方法が最高の教えである」と言っています。しかし、初期仏教も釈迦が説かれた教えなのです。この矛盾を法華経では「釈尊はあれは方便だったと言っている」と説明しています。つぎに、「女性も悟りに至ることができる」は、法華経の眼目の一つです。八歳の竜女が悟りに至った(提婆達多品)とありますが、「釈迦の弟子たち」が『そんなはずはない』と言いますと、竜女はパッと男に変身して、「だから私も成仏できた」と説明しています。変成男子ですね。「女性も悟りに至ることができる」とは矛盾していますね。さらに、とつぜん地面から膨大な数の菩薩が出現した(地湧菩薩)。釈尊が彼らすべてを悟りに至らせた、と言うのです。それに対し「弟子たち」の『悟りを開かれてから亡くなられるまでわずか45年だ。そんな短い間にそれほどのひとを成道させられるはずがない』という当然の疑問に対し、「釈尊は何度も生まれ変わっていらっしゃる。その生涯毎に成道させた人たちだ」と説明するのです。ご都合主義に唖然としますね。

註3道元は、法華経を尊重する比叡山延暦寺で修行した人ですから、正法眼蔵や永平広録などの教えの中で法華経の言葉を多用するのは当然でしょう。

なぜ今だに法華経なのか-100分で名著(1)

 最近、植木雅敏さん(仏教思想研究家)をゲストにNHKで放映がありましたね。しかし筆者には「なぜ今ごろ」と思ううのです。番組の内容を簡単にまとめますと、

・・・釈迦の死後仏教界は分裂し、約20の部派に分かれたこと(註1)、その中で「切一切有部」がもっとも勢力が大きいこと、しかし次第に権威主義的になり、「自分たちだけが悟りに達すればいい」と考えるようになったことが、後に強い批判を浴びるようになり、それに対する反発が徐々に新しい思想へと発展しました。いわゆる大乗仏教ですね。まず般若経や維摩経としてまとめられました。そこでは部派仏教を「小乗仏教」と決め付け、教えを「聞いて」学んだ者を声聞(しょうもん)、独学した者を独覚とに分けました。ちなみに「乗」とは乗り物を指し、悟りに至るための手段のことです。つまり、小乗とは初期仏教徒をバカにした言葉です。

 そして、釈迦のみを菩薩と呼び、完全なる悟りに至った人(ブッダになれた人)だとし、声聞や独覚は、それぞれ、声聞果、独覚果という、ブッダより一段低い、阿羅漢の境地にしか至れないとしました。さらに、般若経や維摩経のような初期大乗仏教では、「すべての人間は悟りに至ることができる」と言いながら、声聞や独覚のひとたちを例外とみなすという、自己矛盾に陥っていたのです。そしてそれらを統括する教えとして、「釈迦が最後にお説きになったのが法華経だ」と、法華経を尊重する人たちは言います。しかし、初期仏教の経典類(スッタニパータなど)と大乗経典の法華経とはまったく異質です。

筆者のコメント:まず、小乗仏教と言う言葉が貶称(バカにした言葉)です。にもかかわらず植木氏のような現代人でさえ注釈なしに使うのはいかがなものでしょう。さらに重要なことは、釈迦が「最後にお説きになったのが法華経だ」という考えには根本的誤りがあることです。法華経は釈迦が直接説いた教えではないのです。このことはすでに学問的に確立しています。それゆえ、植木氏がいまだにそう考えているのは驚きです。大乗経典類は、おそらく後代、インドの無名の、しかし優れた哲学者たちが積み重ねていった思想なのでしょう。

 たしかに古来、「すべての経典は釈迦がお説きになった」という根強い考えがあります。さまざまな矛盾のつじつまを合わせるために考えられたのが五時八経説などのこじつけなのです。すなわち、釈迦が悟りを開かれて最初にお説きになった教えが華厳経・・・、そして最後にお説きになった最高の教えが涅槃経や法華経だというのです(註2)。これに対し、「大乗経典は釈迦が説いた教えとは大きく乖離したものである」と見抜いたのは、江戸時代の若き学者富永仲基です。すべての経典を一切経とか大蔵経と言い、約5000巻あります。富永は主要なものを読んで、それらの内容が階層的になっていること、後期の大乗経典類は、初期仏教の経典から大きく変貌していることを見抜いたのです。まさに大天才でしょう。

註1偉大な釈迦が亡くなられた後、迦葉(かしょう)を中心にして「釈尊の教え」について、さまざまな弟子たちの記憶が突き合わされ、調整されたのは当然でしょう。にもかかわらず、その後意見を異にする部派が20もできたのです。それだけインド人は思索好きなのでしょう。

註2天台智顗(ちぎ、隋代の僧侶、天台宗の開祖)が、一切経を釈迦が悟りを開いてから亡くなる前の45年間に説かれたものとして時系列に従って分けた説。華厳時(華厳経)-阿含時(阿含経・発句経)-方等時(阿弥陀経・観無量寿経など)-般若時(大般若経・般若心経など)-法華・涅槃時(法華経・涅槃経など)。日本へは天台宗の最澄が紹介しました。これを日蓮が採用し、「法華経」が最高の教えであるという根拠としたのです。そのため、創価学会など、日蓮宗系の宗派がこの説を採用していますね。

神罰はあるか-辻正信(追加)

 以前、「神罰はあるか-辻正信」についてブログを書きました。それで完了するはずでしたが、最近、辻正信について同じような意見があることを知りました。山本七平氏(「一下級将校の見た帝国陸軍」文春文庫)です。

 山本氏は筆者が昔から尊敬してきた思想家で、「日本人とユダヤ人」の著者です。上述のように、山本氏は自分の戦争体験を通して、今も続く「日本人の宿痾」について論究し、「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」「空気の研究」などを著しています。今回読んだ「一下級将校の見た帝国陸軍」もそれらシリーズの一つで、あらためて山本氏の知性に感銘を受けました。

 以前のブログで筆者が辻正信について取り上げたのは、長年、「日本はなぜあのような無謀な戦争をしたのか」を追求する過程で浮かび上がってきた人物だからです。戦争責任を追及すべきは、東条英機、杉山元、菅原道大、富永恭次・・・など、沢山いました。しかし、特異な元凶として浮かび上がってきたのが、辻正信だったのです。辻はいわゆる将官ではなく、少佐時代から異常な”権威”を振るってきた人物です。

 山本氏は「一下級将校の見た帝国陸軍」でも辻のことが取り上げられています。すなわち、原秀男「出陣における捕虜の取り扱い」(偕行)を引用し《入手できませんので孫引きをお許しください:筆者》、

 ・・・このとき(昭和17年4月9日・バターン米軍降伏のとき:開戦直後の日本軍が連戦連勝のころ:筆者)、大本営参謀の肩書を持つ辻正信中佐は、戦線視察のたびに兵団長以下の各級指揮官に「捕虜を殺せ」と督励して歩いた。第十六師団長森岡中将もこの勧説を受けたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、直接連隊長以下各隊長に「全部殺せ」と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、「その参謀の言うことは師団長の命令ではない」といちいち取り消して廻る騒ぎだった・・・

 そのころ、司令官の知らない異常な「命令」が頻発していたと言います。陸軍刑法で厳禁されている「私物命令」を出していたのです。後ほど、それが辻正信によるものであることがわかったのですが山本氏は、

 ・・・終戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後のはなばなしい辻正信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じた・・・その奥には何か、日本軍も戦後人も共に持つ弱点があるはずである・・・戦後まで戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。あのままで行けば辻内閣ができても不思議ではない・・・

 これこそまさに筆者が、無謀な戦争を引き起こし、今も続いているのではないかと危惧し、追求し続けてきた「日本人の体質」の一つでしょう。筆者のような、戦争の実体験がない者でさえ、辻はあまりにも「うさん臭い」と思えたのです。

 山本氏はこの日本人の宿痾ともいうべき体質を、

・・・ある種の虚構の世界に人びとを導き入れ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である・・・その基礎は気魄という奇妙な言葉である・・・これは帝国陸軍が絶対視、した精神力なるものの重要な一項目でもあっただろう・・・辻正信は「気魄誇示屋」の典型であり、どの部隊にも、どの司令部にも必ず一人か二人はいた、みな始末に負えない小型「辻正信」、すなわち言って言って言いまくるという形の”気魄誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る・・・

 いかがでしょうか。筆者は山本氏とは異なり、戦争の現場にいたことなどありません。それでも山本氏と同じような、現代にも続くと思われる日本人の体質に異様な不安を感じたのです。

 今、福井県高浜原発に関連して、元助役森山某の異様なまでの権力が問題になっていますね。3億円に上る不明朗な金が関電幹部に渡ったこと、しばしば彼らを怒鳴りつける姿が目撃されていたこと、109人もの福井県庁の職員に昇進祝いなど意味不明の金などを与えていたこと、自分の関連する会社が多額の関連事業を請け負っていたことなど、現代では信じられないような権勢を振るっていたことなどが次々に明らかにされています。関係者は返せばどんな仕返しを受けるかわからないのでタンスにしまっておいたと言います。なぜ彼には逆らえなかったのかが不思議なほどです。まさにミニ辻正信とその部下たち(?)でしょう。今でも日本の社会構造は変わっていないのです。

 筆者はもう一つ、マスコミにあおられるとすぐフィーバーになる、「意見を持たない日本人」の体質もあるように思いますが。

わかるということ(1,2)無門関第30則「即身即仏」

(1) 馬祖(註1)、因(ちなみ)に大梅(註2)問う、「如何なるか是れ仏」

祖云く、「即心是仏」

訳:馬祖和尚はある時、大梅から「仏とはどのようなものですか」と質問された。

馬祖は、「心こそが仏そのものだ」と答えた。

33則「非心非仏」

馬祖、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」

祖曰く、「非心非仏」

訳:馬祖和尚は、ある僧から「仏とはどのようなものですか」と質問された。

馬祖は、「心は仏ではない」と答えた。

筆者のコメント:「仏とはどのようなものですか」とは、「仏法の要諦とは何ですか」の重要な意味です。「心こそが仏そのものだ」とは、「お前の本性は仏なのだ」と言っているのです。まさに禅の要諦ですね。それを聞いて大梅は「ハッと」わかったのです。やはり大梅もただ者ではなかったのです。

 ところが馬祖は後に「心は仏ではない」と言いました。そのため多くの仏教解説者が困惑しています。しかし、理由がわかれば簡単なことです。馬祖が「即心是仏」と言ったら弟子たちはそれを頭で考え、心から理解することなしに、そればかりを言っていたのです。そのため馬祖が「心は仏ではない」と逆のことを言って注意を促したのです。禅ではこのように、概念の固定化をとても嫌います。

 その後大梅は、深い山の庵入って出ることなく修行を重ねていました。ある僧がなんとか訪ね入ってきて、「このごろ馬祖禅師は非心非仏といっています」と告げました。その時、大梅は「いま、馬祖禅師が何と言っていようと、私は即心即仏である」と答えた。大梅は馬祖の真意をよく理解していたのですね。そのため、そのことをその僧が馬祖に告げたところ「梅子(ばいす)熟せり(大梅の禅境は進んだな)」と称えました(註3)。

 禅は頭でわかるのではなく、全身でわかることが大切なのです。とても大切なことです。禅を少しでも学んだ人なら「即心是仏」という言葉を知らない人はないでしょう。しかし、その多くは「わかったつもり」なのです。筆者も同様です。それについて次回お話します。

註1 馬祖道一(709-788)唐代の優れた禅師で、南岳懐譲の法嗣、百丈懐海など多数の優れた弟子を育てた。

註2 大梅法常(752-839)。

註3 大梅ですから、「梅の実が熟したな」と言ったのです。

わかるということ(その2)

 仏教思想として、筆者が何年もかかって「わかった」ものには、「即心是仏」や、「一切放下」があります。それについては、いずれお話します。今回は日本人の心について体感できたことをお話します。

 小林秀雄は筆者が尊敬する思想家です。小林によりますと、日本人の心を最もよく表しているのは「もののあはれ」の心だと言います。あの紫式部が「源氏物語」で表した心ですね(「小林秀雄講演5」新潮CD)。

 最近、岩手県の中尊寺を50年ぶりに再訪しました。参道を下っている時、ふと目をやりますと、木々の間から眼下に暮れなずむ平泉の町が見えました。いくつかの家々と、広い田畑、そこからは収穫後の稲束かなにかを焼く煙でしょうか、風もなく一筋の白い煙が高く高く昇っていました。その風景を見て深く感動し、とつぜん西行の「こころなき、身にもあはれは知られけり、鴫(しぎ)たつ沢(註1)の秋の夕暮れ」の歌を思い出しました。この歌はずっと以前から知っていましたが、たんに知識として知っていただけだったのです。そして数十年たって、初めて「もののあはれ」を共感できたのです。金色堂のすばらしさ、前九年の役、後三年の役で死んだたくさんの人々を弔うためにこれを作った藤原清衡の思い、長年にわたってそれを維持してきて人々の心情に思いを馳せてきたばかりであったことも、「もののあはれ」を体感できたことの助けになったのかもしれません。

 もちろんそのためには、多くの仏教の言葉や公案の題目などをできるだけ整理して頭の中に入れておかなければなりません。その蓄積が何時か、何かの場面で出てくるかもしれないからです。「アッ」と思ったとき身に付くのだと思います。

註1神奈川県中郡大磯町西部にあった場所。寛文4(1664)年、小田原の崇雪が、西行にちなんで草庵を結んだのが始まり(大磯町HPより)。




「空」がわからなければ禅はわからない


無門関第6則「世尊拈華」

本則

世尊、昔、霊山会上(りょうぜんえじょう)に在って花を拈じて衆に示す。

是の時、衆皆な黙然たり。

唯だ迦葉(かしょう)尊者のみ 破顔微笑(はがんみしょう)す。

世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門有り。 不立文字、教外別伝、 摩訶迦葉に付嘱す」。

(和訳)ブッダが、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を手に持って(拈華)大衆に示した。 この時、大衆は皆な黙っているだけであった。 ただ、迦葉尊者一人だけがニッコリと笑った。 この時ブッダは云った、「私にはモノゴトを正しく見る眼、安らぎの悟りの心とはなにかの精妙な法を理解している。それは文字に表わすこともできないし、 経典にも書けないものである。これを、摩訶迦葉にゆだねよう」。

筆者のコメント:重要な公案の一つですね。山川宗玄師の提唱(解説)は、

・・・「不立文字、教外別伝、つまり、表現しようにも表現できない、伝えようにも伝えられない法をお前に伝えるぞ」とは矛盾した話です・・・私は和歌山県由良の興国寺の住職をしていました・・・その仏殿の本尊がお釈迦様です・・・その像は少し変わっておりまして、右手に花を掲げた如来像です・・・この世尊拈華の話を何度もお参りの方々にしました。しかしこの話をする度にある疑問がだんだん大きくなっていったのです。なぜ迦葉尊者はなぜ破顔したのか・・・ただ肯くだけでもよかったのです・・・ある時、仏殿の花を活け替えていました・・・そのとたんに「アッなるほどなあ」・・・なぜ迦葉尊者は破顔微笑されたのか。理由は簡単でした・・・花が咲くの「咲く」という字は他に「わらう」と読めるんです。仏陀が掲げた花は咲いていました。花は笑っていた。だから迦葉尊者はそれを見てにっこりと笑われた。仏陀もそのとたんににっこりされたのだ・・・これが不伝の法です(「無門関の教え―アメリカで禅を説く」淡交社)・・・です(山川師の原文は長いので、筆者の責任において一部省略しました)。

筆者のコメント:これでは何のことかわかりませんね。以前にもこの公案についてお話しましたが、この公案は「」の思想を表しているのです(詳しくは以前のブログをお読みください)。「空」がわからなければ、この「世尊拈華」エピソードの真の意味はわからないのです。「空」がわからなければ禅はわからないのです。

 山川師も、・・・この内容は実はお釈迦様がお説きになったと言われている「大蔵経」にはございません。中国で作られたと言われている「大梵天王問仏決疑経」の中に載っております・・・と言っていらっしゃいますが、それだけでは不十分なのです。なぜなら、この経典は偽経だからです。おそらく「世尊拈華」のエピソードは禅宗の誰かが創作したのだと思います。