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禅問答・読者の皆さんへの質問

 読者の中にはかなり禅を学んでいる方もいらっしゃいます。そこで一つの禅問答を取り上げ、皆さんの解釈をお聞きしたいと思います。

1)景徳伝燈録巻十四には、中国唐時代の龍潭崇信(?~838)と天皇道悟(748-807)の禅問答が書かれています。

 龍潭崇信が天皇道悟に弟子入りして、長く近くに勤めていたが、師匠から何の教えも受けなかった。そこである日尋ねた。

龍潭「こちらに来まして和尚様から何か心要(しんよう、大切な教え)について受け賜りたいと思っていましたが、まだ何の示教を受けておりません」

道悟「お前がこちらへ来てから毎日毎日心要を指示しないときはない」

龍潭「?」

道悟「お前がお茶を持ってくれた時、わしはそれを受け取るではないか。ご飯時にはお膳を持ってきてくれるが、それも頂戴する。それからお前がお辞儀をして下がるとき、わしもまた首を下げる。心要指示のところがどこかとお前は尋ねるが、こんなふうに朝から晩まで、のべつに指示してるではないか」

龍潭「・・・・・」

道悟「見(看)るときはすなわち直下(ぢきげ:即座)に見よ。思わんと擬(す)れば即ち差(たが)う(見則直下便見 擬思即差)」(祖堂集五龍潭崇信章)

筆者のコメント:この問答で龍潭は悟りに至ったと言います。このやり取りの真意は?鈴木大拙博士はこれを「即非の論理」と言っています。

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(6)

 「死後の世界があることが分かったらあなたの死に対する恐れは小さくなりますか」という質問が聞こえてくるようです。そこであらためて思考実験してみました。その結論は「私自身の死生観にはほとんど影響ないでしょう」です。前回、「霊が〈存在〉することは確信していますが、それが死後の世界とどうつながるのかとは別問題です」とお話しました。昔、俳優の丹波哲郎さんが「死後の世界がある」と盛んに言い、映画まで作りましたが、あれはまあ「お話」です。

 ちゃんとした科学者なら、「死後の世界に入ってみたら、それがどんなものであろうとそのまま受け入れる」と答えるはずです。「では死んだら無になると知ったら怖くはありませんか」と聞かれても、「まったくありません」と。心配したって仕方のないことは心配しないのです。「死後の世界などない」という人の中には「死んでしまえば意識もなくなるのだから、恐怖を感じることもない」という人がいます。妙に納得できる考えですね。「極楽や天国へ行くために、生きているうちに善行を積み重ねなければならない」ということを言う人は多いです。しかし、そんなこととは関係なく、人にやさしい言葉をかけ、親切にし、奉仕することは、人間としての当然の務めです。

 「あなたの死生観は何ですか」と切り口上で筆者に聞いた人があります。「その時になってみなければわからない」と答えました。天下の名僧が臨終のとき、弟子たちが期待を込めて「なにかお言葉を」と聞きました。「死にとうない!」。耳を疑ってもう一度聞いても「死にとうない」と。長年、神の恩寵について説いてきた女性識者が、いざ自分がガンだとわかると、「神はヒットラーだ」と叫んだという話があります。その一方、末期ガンの知人を見舞に行くと、あまりの平静さに驚いた友人がいます。「敬虔なクリスチャンとはそういうものか」と。

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(5)

死は怖くない(2)

 立花さんは、「死はこわくない」理由として、「夢の世界に入っていくのに近い経験だから」と言っています。その根拠として、ミシガン大学のジモ・ボルジガン博士の研究を挙げています(註3)。それによるとネズミの脳に電極を埋め込み、薬物注射によって心停止させても、数十秒間は微細な脳波が続いていたこと。さらに、ネズミを生かしたまま脳の各部からごく少量の液体を取り出して分析してみると、神経伝達物資の一つ、セロトニンの放出が増加していたことなどです。セロトニンは人間が快感を感じるときに働くドーパミン神経の調節に預かっています。ボルジガン博士は、「これらに現象こそ臨死体験を起こしている脳の活動の反映ではないか」と言っています。この研究成果のすばらしさは、初めて臨死体験を実験研究する確かな道を開いたことでしょう。立花さんはこれらの事実やさまざまな人の体験から、「人間には死を怖くないようにするため、幸せな臨死体験するためのDNAが組み込まれているのではないか」と結論しています。つまり、「臨死体験とは、死後の世界を垣間見たのではなく、脳の活動の一つである」と言うのです。とても興味深い考え方であり、立花さんのように「それを聞いて安心した」という人々も多かったのです。ちなみに立花さんの死生観は「哲学的&科学的世界観に基づく無宗教派です」と言っています。 

 以前のブログでお話した、遠藤周作さんの臨終の様子を、遠藤夫人が「とても安らかで嬉しそうな表情になった」と言っているのを思い出しました。それも死ぬ間際の幸せ体験ではないかと思います。よく「アッ死ぬ!と思ったとき、過去の人生が走馬灯のごとく思い出された」という話を聞きますが、臨死体験の一つにもそれがあります。ただ、違うのは、そういう時には別に心停止は起こっていないという点です。

註3  Proc. Nat. Acad. Sci. 110 14432 (2013).ネットで検索できます。ただし、脳内セロトニンの上昇に関する論文はまだ出ていないようです。

筆者のコメント:以上、ジモ・ボルジギン博士らのグループの業績は、確かに「臨死体験は神秘体験か、あるいは、たんなる脳の働きに過ぎないか」を明らかにするための新たな道を切り開いたと、脳疾患のメカニズムを研究していた筆者も思います。ただ、これだけの研究成果ではこの問題を決着して「死はこわくない」と言うにはあまりにも不十分です。そこは立花さんは科学者ではないからでしょう。筆者から見れば、立花さんが厳しく批判した元東京大学救急医療センター長の矢作直樹氏や江原啓之さんと「どっちもどっち」でしょう。江原さんは「霊が見える人」で、そのことを「死後の世界が存在すること」の根拠とし、それを以て「死はこわくない」と矢作さんと共感しているのです。彼らの考えにも一定の説得力があるのです。

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(4)

死は怖くない(1)

 立花さんがNHKと作った「臨死体験 人は死ぬ時何を見るか」(1991)や、「臨死体験(註1) 死ぬ時心はどうなるのか」(2014)を見た人や、著書「臨死体験」(文春文庫)を読んだ人から大きな反響があったと言います。中には直接立花さんを呼び止めて「ありがとうございました」と声をかけられた高齢の女性が何人もいたとか。NHKスペシャル「臨死体験 死ぬ時心はどうなるのか」では、まず、当時アメリカで最も注目を集めている神経外科医のエベン・アレクサンダー氏の臨死体験について紹介されました。アレクサンダー氏は、「プルーフ・オブ・ヘヴン(天国は実在する)–脳神経外科医が見た死後の世界」の中で、自身が2008年に脳脊髄膜炎によって昏睡状態に陥った際に遭遇した体外離脱と臨死体験から、「意識が脳とは独立して存在するものであり、死後には完璧な輝きを放つ永遠の世界が待ち受けている」と言っています(註2)。

註1一旦死にかけて、蘇生した人の20%が言っている臨死の体験。気が付いたら自分は体から抜け出して、嘆き悲しんでいる親族や、医師、看護師たちを上から見下ろしていた(体外離脱)。その後暗いトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界へ移動して、美しい花畑で家族や友人に会ったり、超越的な存在(神)に出会ったりする。

註2 アレクサンダー氏はこの体験について世界中の教会、病院、医学大学院、学術シンポジウム等で講演を行い、大変な反響を呼びました。筆者も読みましたが説得力があります。しかし、アレクサンダー氏のこの意見ついては批判も少なくありません。自身は重度の細菌性髄膜炎の結果として昏睡状態に入り、その時点で脳の活動はほぼ停止していたと主張していますが、担当医の証言では、アレグザンダー氏が陥った昏睡は医学的な処置として人工的にもたらされた昏睡状態であり、処置の時点では幻覚状態にあったものの意識は持っていた」と言っています。

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(3)

 キリスト教では「人体は魂の入れ物」と考えています。そうすれば「死ねば魂は肉体から離れる」のは、ごく自然な論理の帰結でしょう。そして、魂イコール意識というのも素朴な考えでしょう。

 意識がどこから来るのかは、神経科学の立場からも心理学的にも重要な課題です。とくにアメリカでは多くの大学できちんとした研究が行われています。ある研究者は「脳の働きは神経のネットワークの活動による。脳が作られてから神経ネットワークの形成がだんだん複雑になっていき、ある段階を越えると意識が生じる」と言います。つまり、意識はあくまで脳内の生物現象だと言うのですね。ウスコンシン大学ジュリオ・トノーニ教授は、睡眠時と覚醒時の脳の活動の差を調べたところ、眠っている時になくて、起きている時にあった脳の神経活動は、情報と情報をつなぐ「つながり」だったとか(「意識はいつ生まれるのか」亜記書房)。「嬉しい(感情)、まぶしい(感覚)、誕生日(記憶)、食べる(行動)などのつながりであり、これらを線でつないでいくと蜘蛛の巣のようになった。生物が進化していくと複雑性が増す。その複雑性がある限度を越えると意識が生まれる。犬や猫にも意識がある。鳥や昆虫になるとそのレベルが小さくなっていく。逆に、生物だけでなく、ロボット、インターネットなどの無生物でも意識を持ちうる」と言っています。立花さんは「もしこの考えが体だしいと証明されれば、人が死ねば脳のネットワークのつながりが消え、心も消えることになる」と(「死はこわくない」文芸春秋)。傾聴すべき考えですね。ただ一連のこの考えには大きな飛躍があると思います。

 一方、意識には顕在意識と、神につながる「魂」の意識があるという考えもあります。ふだんは顕在意識が主ですが、「創造的活動をするときに「パッ」とひらめくのは、魂(そして神)とつながったため」だと言うのです。筆者もこの考えです。「モーツアルトの音楽は神のメッセージである」とはあの小澤征爾さんの言葉です。

 立花さんは、なんとか心霊体験や神秘体験について知りたいと、宗教学者の山折哲雄さん、荒俣宏さん、遠藤周作さん、京都大学総合人間学部のカール・ベッカーさんなどとも対談しましたが、結局、その誰からも心霊体験談を聞くことはできませんでした(「生、死、神秘体験 対話篇」講談社学術文庫)。