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V.フランクルのロゴセラピー(1)

 NHKこころの時代 宗教・人生「ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある」より。

日本ロゴセラピー協会会長勝田茅生さんと作家小野正嗣さんとの対話から。

V.フランクルのロゴセラピーについては以前のブログでも紹介しました。

 E.フランクル(1905~1997)は、1905年ウィーン生まれ。ウィーン大学在学中より精神医学を学ぶ。フランクルは10代で、G.フロイト(1856-1939)との書簡のやりとりによって精神分析について学び、20代でA.アドラー(1870‐1937)精神科医)に師事。30代で、独自のロゴセラピー(註1)についての構想を持ち、臨床を行っていた。しかしユダヤ人であったためナチスによって強制収容所に収監され、その構想を記した論文も没収された。この体験をもとに著した「夜と霧」は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている(「夜と霧」霜山徳爾訳(初版1956年)/池田香代子 訳(新訳版 2002年 みすず書房)。発行部数は英語版だけでも900万部に及んだ。ちなみに「夜と霧」とは「収容者は夜、霧の中を処刑場へ連れられて行く」の意味です。

 強制収容所に入れられる前にですでにロゴセラピーの理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言っています(「意味による癒し ロゴセラピー入門」山田邦男/監訳)。フランクル自身は極限的な体験を経て生き残った。しかし両親は収容所の中で、妻は収容所を生き延びたが、極端な衰弱により、その後まもなく亡くなった。

 後にウィーン大学病院精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任。度々日本にも訪れ、講演をしている。

註1以前にもお話ししましたように、困難な状況にある人に「生きる目標」を与える心理療法です。たとえば、強制収容所にいた人に「遠くで待っている子供と再会するまで」とか、「あなたが温めている著書を完成するまで」などの生きる希望を見出させる心理療法です。フランクル自身も心理学者としての収容所での体験を、なんとか学問としてまとめたいと、ひそかに手に入れた紙片にキーワードを書き留め、将来の出版の希望としたのです。つまり、これらの人達は、あのきわめて困難な状況に陥った自分を、将来への希望を見付ることで客観的に眺めることができた人達だと言うのです。傾聴すべき体験報告ですね。フランクルは、突然将来への希望を発見したことを「人生観のコペルニクス的転換」と表現しています。

信仰の質の変化(1)

 以前にもお話しましたが、筆者は40歳代から50 歳代にかけて前後二つの神道系教団に属し、もっぱら霊感修行をしていました。そこでは主宰神がどなたかなど、よくわかりませんでした。話題にも上らなかったのです。その後それらの神道系団体をやめ、近所の産土神社の氏子会員となり、毎月の月例祭や大祭に出席しています。そこでは同じ市内の熱田神宮から天照大神の分け御霊を頂いているということでした。

 筆者は60年来、生命科学の研究をしてきました。ある時、筆者のグループが突き止めた酵素タンパク質の遺伝子DNA構造を眺めているとき、突然「生命は神がお造りになった」と直感しました。それ以来、信仰の質が変わっていったのです。つまり、「神とは信じる存在」から、「信じるというより、ただただ感謝する」という形に変わっていったのです。

 今では神のありがたさを思わない日はありません。神はさまざまな生命を造り、それぞれに生きるすべを与えてくださいました。私たち人間に食べ物、衣服、住まいを、そして何よりも高度な知能を授けてくださいました。地球以外に人間のような知的生命がどれほどいるのかはわかりません。いや、筆者は人間が宇宙で唯一の存在だと思っています。なぜなら、地球は人間を作るためのきわめて偶然性の高い条件を持っているからです。たとえば、太陽の大きさが今の10倍もあったら、寿命はわずか2700万年だったと言われています。2倍でも13億年。地球で人間という知的生命体ができるのに35億年かかったことを考えれば、短かすぎます。ちょうどこの大きさであったために、寿命が100億年もあるのです。また、太陽からの距離がプラスマイナス2%違っても人間はできませんでした。さらに、きわめて幸運にもちょうどよい位置に月がありました。月がなければ地球の自転軸がふらつき、気候は著しく不安定になってしまうのです。信じられないほどの偶然が重なった結果、人間ができたのです。こうして進化した人間は今や宇宙の成り立ちや構造まで理解するに至ったのです。人間宇宙論と言いますが、筆者もそう思います。

 物質の究極の構成要素は素粒子です。しかし、それが17種類であること、それぞれが固有の性質を持っていることなど、偶然と言うにはあまりに巧妙です。筆者には神の御業としか思えないのです。

 このように筆者にとって神は絶対真なのです。絶対なるものは信仰する必要などありません。ただただありがたく受け入れるだけです。生命の根元である太陽は、人間が信仰しようとしまいと厳然と存在するのです。その意味で、太陽は信仰という人間の行為の対象ではないのです。「無条件で感謝すべきものだ」と筆者は考えるのです。

 このように近頃は私の信仰の質は変わったと感じています。

どんなに無念でも(1)

 Aさんは筆者が出会った尊敬する人です。地方の中企業の元社長で、筆者と同年という親しさから、ここ10年親しくお付き合いいただいています。もともと国家公務員として将来を約束されたコースを歩いていましたが、30歳代にお父さんが急死し、跡を継ぐことにしたと。統計によりますと、近年起業した会社が続けられるのは平均3~5年とか。それを50年以上維持してきたのですから立派です。お父さんの会社を閉めて、自分は元のエリートコースを進むという選択肢もあったはずですが、そうはできなかったのです。聞くところによりますと、地方の会社を潰してしまうと、もうそこには住んでいられないとか。一定の雇用もありますから、地域の人たちの家族が路頭に迷ってしまうからでしょう。同じ公務員であった筆者には想像もつかなかったことです。

 Aさんから学んだことは多いのですが、その一つをご紹介します。

「他人に騙されたこと、裏切られたことは何度もある」と。誇り高いAさんにはどれほどか無念だったことでしょう!またある時は、代金を中々払ってくれない事業所があった。中小の会社というものは、その年の分はその年内に決算しなければ立ち行かないことは、素人の私でもわかります。その会社へは何度も足を運んでお願いしたそうです。もちろんそのときは腹を立てたり理屈を述べることなどできません。そんなことをしたら次がないでしょう。

 仕事の注文は努力しなければ得られないものです。「注文が得られたときは100%、なかったときは0%。次はどうしよう。眠れない夜が続く・・・・・」。最近、筆者の近所の大きな商店が倒産しました。かなり手広くやっていたことが窺われていましたから、ショックでした。店舗のガラスには「ここにあるすべての商品を移動することを禁じます」という弁護士の張り紙が。驚いてAさんに報告したところ、「事業者はいつも、明日はわが身と思っています」との返事。まことに厳しい世界ですね。筆者は公務員として生活に不安を感じたことはありません。「申し訳けないようなことです」と言いますと「研究者が生活の心配をするようではよい研究はできません」との返事でしたが・・・・。

 Aさんの誠実さは病気の治療にも表れています。専門家の目で見て、油断のならない持病をお持ちなのですが、病院に行くのも薬も飲むのも主治医の指示を忠実に守り、「あなたは優等生です」と言われているとか。そのため、体調はきちんと管理され、お仕事にも支障がないのです。ふつう、こういう長期間自己管理を必要とする病気に掛かると、多くの人が、得てして「めんどうだ」と医師の指示をきちんと守らないことが多いのです。

 いろいろお話を聞くと、いつも「会社はこの人で持っている」と強く感じます。つまり、引退したくてもできないのですね。「余人には任せられない」のです。「会社をもっと大きな会社に吸収合併してもらう」という話も出たようですが、なかなか難しいようです。お会いするたびに「もう義務はとっくに果たしていらっしゃるので、これからは美味しいものを食べ、いろいろなところへ遊びに行ってください」と言っています。しかし、毎月というわけにはいかないようです。お会いした時はいつも「明日は仕事で〇〇へ」という忙しさです。ただ、筆者と同じように、東北地方が好きで、太宰治のふるさとや、花巻の宮沢賢治ゆかりの地、遠野の里に何度も足を運んでいると聞いて、ホッとしています。

 Aさんはいわゆる市井の人です。しかし、市井にもこんなに立派な人がいるのだという事を知りました。日本はバブル以降、「空白の30年」を経験しました。ダメな国になってしまったのです。どんなに政治家・経済家が頑張ろうとも、日本人全体の活力を上げるのは容易ではないでしょう。新興国もどんどん追いかけていますし。今後、一体どうなるのかが気掛かりです。ただ、市井にはA さんのようなりっぱな事業者がいることを知って「まだ日本もやれる」と、ホッとしている日々です。

旧統一教会会員の山さんから

山さん:はじめまして失礼します。
 宗教教育やリテラシーのことを学者さんたちは、思想的に解説されております。しかし、宗教というのは思想ではなく、生活であり居場所であり、見えない神に行き着くまでは、人間の愛着形成や人格形成の最中に感じ取るもの、安心感や心配り同情や、自他の自尊心の育つところ、空気を吸い他者との交わり生活するその場であると感じます。

筆者:NHKテレビ「心の時代」で放映された「問われる宗教と”カルト”」と題する討論会は、けっしてあなたのおっしゃっている「思想的な解説だけ」ではないと思います。座長の島薗さんたちは「思想より実際の信仰が大切」とわかっていらっしゃいます。その理由の第1は、若松英輔さんをこの討論会に招いていることです。若松さんは「私は宗教思想の講義より実際の信仰が大切と思っていましたが、大学側に受け入れられず、退職した」とおっしゃってることです。第2に、同志社大学の小原克博さんは、「統一教会を批判すると、そこを唯一の居場所にしてきた信者さんの人生を否定することになる。統一教会には良さもあり、全否定するのは正しくない」ことをよくわかっていらっしゃいます。「山さん」ももう少し全体を見てください。

山さん:統一教会という組織と、そこにいる人々を分けたほうがいいと思います。そこにいる人々は、統一教会を生んだ人でも無く、組織を作り出した人ではなく、既に作られた組織に誘われて組み込まれて大きくなっているのです。統一教会の教えや人間関係は勧誘により広がります。勧誘された人は、そこで、神との関係や世界平和など目新しい教えを通して、心の故郷を見出してゆくのです。そして、地上の天国と云われる韓国の清平という聖地に行きますし、天国の聖本や、ロウソク、壺、塩や土を持っています。そのように、統一教会の人々は、自分の生きる居場所を、この世で満たされなかった愛着を、新たに見出していき、他の人を勧誘伝道するのです。神の家族を増やすために。

筆者:統一教会という組織と信者の人々を分けて考えることは、島薗さんたちも私も当然認識しています。さらに、上記のように、問題のある統一教会であっても信者にとっては居場所であることは島薗さんたちも私もわかっています。ただ、清平修練苑でやっていることは私には疑問です。「この宗教はすばらしい」と考えるのはいいのですが、だからといって他人をしつこく勧誘するのも正しくありません。新興宗教がよくやることです。統一教会もこの範疇に入ります。

山さん:その人たちが、正しい宗教教育をリテラシーやカルト異端の識別を育んでいれば、騙されなかったかというと、わかりません。騙される人の定義も、マインドコントロールと洗脳の定義も専門家の言う人それぞれだと思います。

筆者:私がブログに書いたのも同じ趣旨です。宗教リテラシーだけで騙されなくなるわけではないと思いまのす。私の考える、騙されているかどうか、マインドコントロールされているかどうか「歯止め」の一つは、「宗教をお金儲けの手段にしてはいるかどうか」です。この基準で統一教会は振るい落されます。

山さん:わたしも、キリスト教に縁があり、子どものころから、学生のときまでミッション系に居ましたし、洗礼も受けました。しかし、疑問をもち、町中で出会う青年の勧誘で、知らぬ間に統一教会に組み込まれていきました。長年その組織に居ましたし献身もしましたし、結婚もしました。しかし、神はこんな人生を喜んでいるのか、わたしは幸せではないとおもい悩んだ末、何度も脱走し、統一教会にはいかなくなりました。そして、奈良県での事件が、おきました。わたしは、行かなってよかったと思う反面、逃げるようにおいてきた元統一教会の元旦那や奈良県の嫁ぎ先の現統一教会家族に罪悪感もありました。また、相談相手のクリスチャンや福祉系である既婚者の男性たちにそそのかされたりもありました。

筆者:あなたが統一教会を退会されたことは賢明な判断でした。また、あなたが「元の主人やその家族を置いてきた」と自責されるのは尊いことです。ただ、「相談相手のクリスチャンにそそのかされた」と言うのはいかがなものでしょう。とにかくあなたは彼らの導きによって救われたのですから。感謝しなければなりません。

山さん:しかし、カルト異端の学びをしたり、他の宗派のキリスト教の門を叩いてこんな私でも罪のないキリストに救われるのかと打ち明けながらも、信頼して祈ると聖霊体験をしました。肩の荷が降りて心の重荷が涙となり流れました。こんな神を探し求めて、生活もできなくなる、ある意味での壮絶な体験をしてきた元統一教会員もいます。宗教は思想ではなく、生活、霊的なものも含めて、心の居場所です。

筆者:聖霊体験とはどんなものでしたか?よかったですね。差し支えなければ教えて下さい。あなたのこれまでの辛い経験もムダではなかったと思います。それどころか、常人より本物の信仰に近づいたように思います。

山さん:そして、信じても信じられない時があります。キリストを心底、信頼信用してないことがわかります。
信仰は、信心や測られるものではなく、神様の救いの賜物を受け取る手なので、愛を感情で感覚で感じなければ、理性だけで信じるのは無理です。義理人情や義務付けるものではなく、神様の愛に、触れなければ信頼するには至りません。わたしは、聖書を読むと、平和だけでなく、苦しみを感じます。シャローム、救われたで、ジ・エンドではありません。聖書は神を明文化されたものなので、日本人の宗教文学とは異なるものです。日本人は、明文化された人格神をなかなか、理解できないと聞いています。

筆者:信仰に迷うのはむしろ健全な態度でしょう。神の愛は頭で考えるのではなく、心で受け止めるべきだとのあなたのお考えには共感します。あなたのこの姿勢は、一見信心深いと思える人よりもはるかに真摯で深いと思います。


山さん:神道系の新興宗教に、いたこともありますが、掟がありませんし、神という立場が大分違うが、神への氏子として人間の願いや甘え、信頼というのは、取次という方を通して聞かれているというのは、人間の祈りという共通のものだと、感じました。

筆者:さまざまな宗教の門をたたき、信仰について試行錯誤していらっしゃるのがよくわかります。それも貴重な体験でした。私も神道系の新興宗教にいたことがあります。周囲にはそれを心配してくださる方もいらっしゃいましたが、いま思えば宗教の体験も決してムダではありませんでした。

山さん:罪人が、救われても、罪がなくならないのは、悪が存在し悪魔が、存在するからです。今すぐ憎い悪魔が悪を滅ぼすとアダムとエバの堕落から罪人の時から関係しているため、人間も滅ぼすことになってしまいます。神は、人間が愛に気付くことを待っているというのです。人間が神のようになるからと樹の実を食べたのは、悪魔を崇拝することではなく、神なくして人間だけで、生きていくということでした。自分が神のように生きるのです。それが罪です。そして、その神のジレンマから、受肉された人間キリストが必要でした。三位一体を否定する人は、この、神の心情と人となられた神の犠牲の有り難みが分からないのだと思います。スウェーデンボルグ派の人々は、三位一体を理性的ではないといいます。彼らの神秘霊的な感性は、ユダヤ教時代の神秘の世界がわからず、西洋化したキリスト教や、ギリシャ哲学や東洋哲学との違いのだと思います。スウェーデンボルグのIQテストが、どんなに200を超えていたとしても、聖書を否定している限り、神の人智を超えた神秘とユダヤ教の神秘がわからないのではないかと思います。

筆者:「自分が神のように生きる」とはとても良い言葉ですが、それが罪なのか、私にはわかりません。あなたのおっしゃっていることは理解できますが、それも一種のリテラシーです。ただ、悪魔うんぬんは、あまり深く考えない方がいいと思いますが。

山さん:もし、クリスチャンになろうとも、ある人は葛藤します、死ぬまで。ある人は委ねて平安がおおきいです。その差は何かは、わかりません。マザー・テレサでさえも、苦労の最中では神は居ないと、嘆いていたといいます。キリストを信頼する前に、義務付ける信心とかではなく、愛を感情で感じる、人間関係や自然界や聖霊との交わりの、愛情を育むことが必要です。わたしも、信頼関係がまだ遠いのです。異端カルトの、統一教会の言われるように、神は落ちた人間まで、降りて来られて憐れまれると、キリスト教でも教わります。変わらぬ神の愛というのに気付き、いつか、キリストに捕らえられることに違いありません・・・・・・

失礼します。

筆者:マザーテレサのような人でさえ「神は私の心の中には居ない」と言っていたことは私も知っています。あなたが信仰に悩んだのは当然の行為で、尊いものだと思います。

 あなたのこのコメント全体を読んで、「本物の信仰とは何なのか」を改めて考えた人も多かったのではないでしょうか。とても貴重な信仰遍歴だと思います。よかったですね。私の甥がカソリック系の雑誌の編集をしていますので、参考になると思います。よければあなたのこの遍歴書を送ります。あなたはこれまでは大変な人生でしたが、これらの経験が生かされ、人生の再出発ができるよう、心からお祈りいたします。

イスラム教徒に対する誤解(2)

 クレイシさんはパキスタン出身で、24歳の時ITを学ぶため日本へ留学しました。2年後帰国しようとしたとき、親しい日本の友人から「君は自分のため、家族のため、パキスタンのためだけに、君が学んだ知識を生かしていくつもりか、それとも広い見地に立って日本で困っている人たちのために働くのか」と課題を与えられたと言います。じつは、クレイシさんがそのような福祉活動に目覚めたのは、パキスタンの両親の影響でした。父親ムハンマドさんは大学教授。母親とともに熱心なムスリムで、「ジハード」の実践者でした。当時隣国アフガニスタンがソ連の侵攻を受けたため、大量の難民がパキスタンに流れ込んで来ました。ムハンマドさんはその一人一人に声をかけ、「お腹は空いていませんか、家へ食べに来てください」と言っていたとか。

 クレイシさんが帰国すべきかどうかムハンマドさんに聞いたところ、「日本の隣人のためにジハードを実践すべきだ」との答え。じつはムハンマドさんは大学退官後、サウジアラビアや企業などから好待遇で招かれた。しかし、それらを断り、貧しくて学校へも行けない子供たちのために自費で学校を立てたのです。もちろん授業料は無料です。しかも朝元気のない子たちが朝食抜きだったことを知り、クッキーを用意していたのです。ジハードとは「隣人のために奮闘せよ」ということですね。クレイシさんは日本留まりました。それから30年、クレイシさんは、やはりムスリムである日本人の夫人と4人の子供たちに恵まれ、今は車の輸出を生業とし、その傍ら、ムスジド大塚を拠点にして幅広い福祉活動をしています。

 クレイシさんはあのムスリムの過激なテロ活動には反対です。「およそジハードの教えには反するものだ」と。それはこれまでのクレイシさんたちの活動からもよくわかりますね。もう一つ印象的だったのはクレイシさんが「ムスリムに対する日本人のネガテイブな印象の原因にはマスコミの報道姿勢にもある」とくり返していたことです。

 じつはそれを筆者も感じていました。ウサマ・ビンラデインは過激派の頭目としていつも報道されていましたね。ただ、筆者にはかれらのテロ活動の理由の一端もわかっていました。たとえば、アフガニスタンには一時8万人の米軍兵士が駐留していました。もちろん政治的な意図があったからですが、ムスリムの人たちには「聖地に土足で入って来たと感じ、耐えがたいことだった」だったのです。それがNY貿易センタービルへの突入にもつながったというのです。筆者はかねて「日本のマスコミは大衆の正義に迎合した報道姿勢を取っている」と考えています。私たちは「正義」を振りかざしてはいけないのです。「正義」を口にするとき、つねに相手の事情もよく考えねばなりません。

 これが筆者がムスリムに対する誤解と偏見から目覚めた事実です。