岩村宗康さんとの対話-禅と神(その5)

 対話は続きます。

岩村さん:塾長の「神」についての論述から連想するのは、西田幾多郎著「善の研究」第二編第十章「実在としての神」の下記の記述です。

 ・・・・宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである・・・・実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。………。実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・「善の研究」第二編第二章は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」と記述されているので、上記の「実在」も「意識現象(直接経験の事実)」を指しています。後にそれは、「絶対無の場所」と言い換えられますが、指している事実が変わったとは思えません。
 上記の西田博士の提言を「等正覺」内容の表明として見れば何も問題が無いのですが、実在している筈の宇宙や自然や人間社会に立脚すると納得することはできません。
 原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・「善の研究」の用語で『諸法は実相である』を解くと、「各自の即今・此処の意識現象(諸法)は現に在る事実(実相:直接経験の事実)である」と、言えます。

筆者:前回もお話したように、岩村さんは禅の要諦である色即是空・空即是色を理解していらっしゃいません。つまり岩村さんは、西田博士は、宇宙・自然(モノ)も実在するという禅の色(しき)については言及していないことをわかっていないと思います。それゆえ、「西田博士の〈純粋経験思想〉では、宇宙・自然が説明できない」と、もどかしさを感じていらっしゃるのでしょう。

 つまり、西田博士は「直接経験こそが真の実在である」と言っているのであり、筆者の言う禅の〈空(くう)〉と同じで、モノゴトの観かたです。岩村さんはその〈実在〉の意味と、宇宙や自然(モノですね)が〈実在〉していることと混同していらっしゃるようです。西田博士はモノは実在するという、禅の〈色〉に該当する概念までは言及されていないからです。禅ではいずれも実在することに変わりはない。つまり「空(くう)と色(しき)は一如である」と言っているのです。空(体験)は実在であり、色(モノ)も実在し、両者は一如である・・・・これこそ禅の要諦であると筆者は考えます。このモノゴトの観かたを完全に体得することが、等正覚なのです。

 西田博士は「このモノゴトの観かたは宇宙原理そのものである」と言っています。しかしそれでは片手落ちなのです。西田博士の考えを突き抜けて「宇宙・自然(モノ)も実在する・・・・色即是空・空即是色、この禅の思想こそ宇宙原理だ」と筆者は考えます。

岩村さんはさらに、

・・・・原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・・決して、この災禍を「仏の姿の現れ」とは言わない筈です・・・・

筆者:岩村さんは「神が実在されるなら、なぜこれらの人類の災厄を黙って見ているのか」つまり、「神も仏もあるものか」とおっしゃりたいのでしょう。宗教者にあるまじき発言ですね。原爆もコロナ禍もまぎれもなく「仏の姿の表われ」なのです。神は人間のすることを見守るだけで、手を下さないのです。神の摂理に反することなら早くそれに気づき、神の心を取り戻すのを待っていらっしゃるのです。これが筆者の考える〈神とは〉です。岩村さんは神(仏)についての基本的なことがわかっていないと思います。

 たしかに西田博士の言う〈純粋経験〉は宇宙原理につながるものでしょう。禅の空思想(空観)も同じです。しかし、それを宇宙原理そのものだと言っては飛躍がありすぎだと思います。

 しかし、残念ですが、岩村さんの知識の多くはピント外れだと思います。岩村さんの最後の言葉、は「塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。

 筆者が禅と神を結び付けたこと、つまり、「悟りとは仏と一体化すること」への(感情的)反論でしょう。しかし、すべての宗教はその根底に神(仏)をおいているのです。仏教が例外であるはずがありません。大日如来は宇宙の主催神ですし、浄土宗の言う阿弥陀如来も間違いなく「仏(神)」です。〈道元も正法眼蔵・生死巻〉ではっきりと「(生死の問題は)仏の家へ投げ入れて仏の方から行われ、それに従い持て行く・・・」と言っています。〈法華経〉で常不軽菩薩の言う「あなたは仏になれる人です」の「仏」とは何なのか、悟りとは「仏と一体化する」でなければ何なのか。これでも仏教の根底にはすべて「仏(神)などない」と言うのでしょうか。

 要するに、岩村さんは筆者が禅を神と結びつけたことに違和感を感じるのでしょう。筆者は、岩村さんを初め、何人かの臨済宗の師家、曹洞宗の西嶋和夫さんやその師・澤木興道さんの著書など、さまざま読みました。その結果、「これでは日本の禅宗は滅びる」と思っています。彼らは旧来の禅にドップリ浸かり、師から弟子へ同じ誤りが伝えられ、マンネリ化した法話をしているのでしょう。「日本の禅をこんなにしたのはだれか」。

 これに対し筆者は、禅と神(仏)を結び付けることがそのブレイクスルーなると思うのです。じつはこのことは臨済宗の宗祖臨済も、あの道元も気付いているのです。いかなる宗教思想の根底に仏(神)があるのは当然です。注意深く読めばわかることなのです。岩村さんは「自分の宗教家としての人生全部を否定された」と思っていらっしゃるかもしれません。そのいらだちが、「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの感情的発言になったのでしょう。筆者は別に気にしていません。学問の論争に感情など入り込む余地などまったくないからです。岩村さんとの対話は筆者の考えを映す鏡でした。鏡に映すことによって考えを整理することができました。また岩村さんや他の方々と議論することが望まれます。

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