法然は釈迦と並び立つ宗教家です(1-3)

 1)法然は日本浄土系宗派の宗祖であり、その思想の根拠としているのは、いわゆる「浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)」です。「無量寿経」は本来、サンスクリット語で書かれています。それを漢訳したものには、日本では特記が無い限り康僧鎧(中国三国時代の魏の訳経僧、生没年不詳 3世紀ごろの人)の訳を示します。浄土宗や浄土真宗では根本所依の経典とされています。とくに、法然が重視したのは、弥陀の本願の書かれている「無量寿経」です。弥陀の本願には、四十八あり、その第十八願が、

 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法

です。

中村元博士和訳では、

・・・たとい、われ仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆(の罪を犯す者)と正法を誹謗する者を除かん。

(現代語訳:私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、〈万が一にも〉往生しないということがあるならば、〈その間〉私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪〈註1〉を犯す者と、仏法を謗〈そし〉る者は除くことと〈唯除五逆謗法〉する)

この解釈が一般的でしょう。しかしこの康僧鎧訳は、法然や親鸞の思想を考える上で、正しくありません。その理由について中村元博士の「浄土三部経(上)」(岩波文庫)に重要なヒントが書いてあります(p310)。それによると、

・・・「乃至(ないし)十念せん」は、善導によって初めて「十たび念仏を(口に出して)声で唱えること」と意味に解されたのですが、康僧鎧の漢訳では、「極楽浄土に生まれたいと願う心を十たび起こすことによって」となっている・・・

とあります。つまり、康僧鎧の漢訳では「願う心を十たび起こす」となっているのに、善導(613‐681唐時代の僧)は「声で唱えること」と変えているのです。ここが法然の浄土思想を考える上で大問題なのです。

註1五逆:母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること

 2)じつは、第十八願についてのサンスクリット原典の該当部分(中村元訳「浄土三部経」岩波文庫)を読んでみると、康僧鎧の漢訳とも、善導の解釈とも違うことがわかります。すなわちサンスクリット原典では、

・・・もしも、わたし(アーナンダ)が覚を得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心を起こし、わたしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信じる心)をもってわたしを念(おも)い続けていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、わたしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったなら(太字筆者)、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように・・・

となっています。つまり、サンスクリット原典には、康僧鎧の漢訳「願う心を十たび起こす」とも、善導の解釈「少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、万が一にも往生しないということがあるならば」などとも書いてないのです。このように、仏教では思想が次々に変化するのです。いわゆる「増広」ですね。こういうところに注意しなければなりません。

 そして、前述のように、善導は、康僧鎧による漢訳を「願う心を十たび起こす」から、「十たび念仏を声で唱えること」とさらに変化させたのです。

 わが国のどの文献でも、「無量寿経の第十八願こそ、中国や日本の浄土教では重要な論題とされてきた」とあります。その理由は、たとえば、

 ・・・法然が専修念仏を唱道したのは、善導の「観無量寿経
疏 」「散善義」の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである・・・

とあります。しかし、これではなんのことかわかりませんね。筆者の考えはつぎのようです。すなわち、

筆者の考え:法然は、善導が無量寿経の漢訳で「願う心を十たび起こす」となっていたのを、「十たび念仏を声で唱えること」と解釈しているのを読んで、「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行ける」とまったく別の思想へと飛躍させたのです。これはすごいことです。

 くり返しますと、「無量寿経」の(サンスクリット原典)で、弟子のアーナンダが釈迦に言っているのは、「もしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、わたしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったなら、私は正覚(この上ない悟り)には至りません」なのです。それを法然は「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行ける」と、無量寿経の抽象概念を一気に飛躍させて新しい思想とし、具体的な方法まで示したのです。

 法然の思想は、「仏(神)が救ってくださる」という、キリスト教と同じ思想です。つまり、釈迦仏教とは正反対なのです。釈迦仏教は「厳しい戒律を守り、実践して初めて成し遂げられる」という、徹底した自力本願です。筆者が、「法然は釈迦と並び立つ偉大な思想家だ」と言う理由です。

 これが親鸞が、「正信偈」つまり「教行信証」で、度西天論家としてとくに善導を取り上げ、「善導独明仏正意」(善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して釈尊の教えの真意を明らかにされた)

と言っている理由でしょう。

3)- 歎異抄の呪縛

筆者は以前のブログで「歎異抄の呪縛から早く脱するべきです」と題したお話をしました(2015年10月)その一部を再掲しますと、

・・・・「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の教えを、不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している()、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生(がくしょう)であったにもかかわらず、ひたすら法然を信じたことにあります。「歎異抄」にも、

・・・(私は「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」という思想に傾倒しており、たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候(たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞には何の後悔もないのだ)・・・。

と言っているのです。
 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話した多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。

「色即是空」の別の解釈?

 青山俊菫師(1939‐2010駒沢大学文学部卒、曹洞宗正法寺住職、愛知専門尼僧堂々長)は、

・・・空(くう)とは、道元の言う「本来の面目」のことです(註1)。「本来の面目」とは、すべての存在(山、川などの自然。人も含めて)は仏性の表れだということです。

 道元はそれを歌にして、

 春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪きえですずしかりけり (「笠松道詠」)

と詠んでいます。

 悟りに至った人はそれを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る・・・以下同じ)ことができるが、悟りに至っていない人には見えない。見えるようになるための修行は、六波羅蜜(註2)を行じること。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の六つです・・・。

と言っています(「般若心経を読む」1996すずき出版より)。

註1「正法眼蔵・弁道話」

註2六波羅蜜寺のHPから

布施:人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあります。有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。
無形のものは、
 知識や教えなどの法施
 明るく優しい顔で接する眼施・顔施
 温かい言葉をかける言施
 恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
 何かをお手伝いする身施
 善い行いをほめる心施
 場所を提供する座施・舍施、などがあります。

 施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。欲張りのない心での行いを施しといいます。あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。

持戒:本分を忘れずにルールを守った生き方で、人間らしく生活することです。自分勝手に生きるのではなく、互いに相手のことを考えながら、仲良くゆずりあっていく生活です。

忍辱:悲しいことや辛いことがあっても、落ち込まないで頑張ることです。物事の本質をしっかりとおさえて、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。

精進:まずは最善をつくして努力すること。良い結果が得られても、それにおごらず、さらに向上心を持って継続することです。

禅定:心を落ち着けて動揺しないこと。どんな場面でも心を平静に保ち、雰囲気に流されないことです。

智慧:真理を見きわめ、真実の認識力を得ること。人は誰でも生まれながらにして仏様と同様の心を持っています。欲望が強くなると、単なる知識だけで物事を考えるようになります。知識ではなく智慧の心を以て考えることです。(六波羅蜜寺の「六波羅蜜」の説明は、大変わかりやすいので、引用させていただきました。)

筆者のコメント:青山師の「般若心経」の空(くう)」の解釈は誤りです。なぜなら、それでは肝心の「色即是空・空即是色」の「即」の意味が無視されてしまうからです。さらに、上記の六波羅蜜は、人として大切な心得でしょう。しかし、そんなことだけでは100 年たっても「見える人」にはなれないでしょう。

禅の人生は何でもありです(2)

 「俳句は芸術として劣る」と言ったのは桑原武夫さん(フランス文学者)です。「第二芸術論」ですね。筆者も俳句を好みません(もちろん否定などしません)。桑原さんのそれに続く言葉「老人の菊作りと同じで、好きな者同士でやっていればよい」に共感しています。ちなみに今朝の毎日新聞の「季語刻々(坪内稔典編)」は「言問橋マスクはずしてわたりけり」です!しかし、俳句と同じ短詩系の「自由律俳句」には深く傾倒しています。

 自由律俳句とは、季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない俳句です。自由律俳句で傑出している人が、尾崎放哉(1885-1926)と種田山頭火(1882-1940)です。いや、傑出しているというより、「自由律俳句はこの二人だけだ」と思うのです。

尾崎放哉の人生

 尾崎放哉(本名:秀雄)は、東京大学法学部卒業後、東洋生命保険〈現朝日生命保険〉に入社・・・というエリートコースを歩みながら、わがままで自制心が全くなく、酒乱になってまともな社会生活もできない人でした。「一緒に死んでくれ」と言われた奥さんが愛想をつかして出て行ったのも当然でしょう。最後は自ら望んで小豆島の小さな庵の番人として孤独に死にました。ほとんど人生を投げた状態でした。結核で食事も受け付けなくなり、餓死同然だったのです。酒乱の他にも、「東大卒を鼻にかける。金の無心をする」・・・。作家の吉村昭さんが、放哉の伝記「海も暮れきる」の取材で50年後に小豆島を訪れた時でも「あんな人間のどこがいいのか」と、島民が口をそろえたというのですから相当なものです。吉村昭さんも「付き合いたくない人間だ」と言っています。

 放哉は師の荻原井泉水に「わたしは馬鹿正直で、世の中とうまくやっていけません」と言うのですから、「手が付けられない」人間なのです。しかし、荻原井泉水の他にも放哉を認めた人間は少なくありません。筆者もその一人です。近所の漁師のおばあさんは、食事から、最後には下の世話までしました。

放哉の句には

咳をしても一人

肉がやせてくる。太い骨である

墓のうらに回る

足の裏洗えば白くなる

入れ物がない。両手で受ける

障子開けておく。海も暮れ切る

おっ、丸い月が出たよ窓

春の山のうしろから烟が出だした(山には死者の焼き場がありました。辞世です)

 筆者は上の句のどれも、いつでも思い出すことができ、鳥肌が立つような作品ばかりです。しかし、自由律俳句は、凡人が作ればトンマなものになってしまいます。筆者は作らないだけ「まし」でしょう。

 こんな、まったく救いようのない人間の尾崎が、これらの不朽の名作を残しました。そして、放哉を許した人たちがいたのです。人生は「何でもあり」なのです。筆者が敬愛する良寛さんの秀句ですら、まだ「くさみ」が残っているのもがあります。

神様はいらっしゃいます

神々の朝 これは、作曲家でエッセイストの團伊玖磨さん(1924‐2001)「パイプのけむり」に載っていた実話です。

 「おばさんは数年前にご主人を亡くしました」から始まります。「5年生の女の子、2年生と1年生の男の子が残されて、一時は途方にくれました」。おばさんは強度の近視で、普通の女の人のように針仕事で生計を立てることもできません。薦めてくれる人があって、指圧師の講習を受け、免許を取りました。「この子たちと私の生活が懸かっている」と、精魂込めて仕事をし、そのためだんだん近所の人たちに「指圧ならあの人に頼もう」と言われるようになりました。近くに温泉地があり、そこでも呼ばれているうちに、おばさんの誠実な仕事は評判を呼び、いくつかの旅館から「毎晩必ず来てください」と言われるようになりました。

 子供たちも「お母さんが働いてくれるから、私たちも生きていけるのだ」ということをよく理解し、夕食後、おばさんが働きに出てから、食事の後片付けや掃除をしました。女の子の同級生に眼鏡屋さんの子供がいることから、「お母さんにコンタクトレンズをプレゼントしよう」と思い立ち、子供たちはお小遣いを節約し、近所のお店の店番をするアルバイトをして、1年後にようやくお金がたまりました。眼鏡屋のおじさんに相談すると、「お前たちはとても良い子だ。おじさんにも協力させてくれ」と、格安の値段で売ってれることになりました。次の日おばさんが仕事に行く前に眼鏡屋さんに連れて行って、コンタクトレンズを買いました。おばさんは子供たちのやさしさが嬉しくて涙が止まりませんでした。おばさんは、それからは「子供たちと一緒に仕事をしているんだ」と思い、一層誠実にその人たちの疲れをもみほぐしました。

 おばさんの誠実な仕事ぶりがさらに評判を呼び、その日はあるホテルで3人の人を施療したので、夜遅くなりました。雨の中を暗い街灯のアスファルト道を歩いていますと、しばらく前の水道工事のための穴が十分ふさがっていないのに気が付かず、ひどく転んでしまいました。さらに悪いことにコンタクトレンズが二つともどこかへ飛んでしまったのです。「コンタクトレンズを無くしたことを子供たちが知ったらどんなに悲しむだろう」と、眼鏡を無くしてぼんやりした目で、雨の中暗いアスファルトの道を必死で探しました。1時間、2時間・・・見つかりません。おばさんは凍える手に息を吹きかけながら、さらに一所懸命に探しました。

 そのとき、「こんな夜更けに何をしていますか」と尋ねる人がありました。振り返ってみると、ぼんやりした人影が見えました。その言葉の優しい響きに、おばさんは一部始終を話しました。主人を無くして生活のために指圧をしていること。子供たちがコンタクトレンズを送ってくれたこと。それをいま無くしたので探していること・・・。その紳士は「それはお困りでしょう。僕も一緒に探します」と。さらに1時間、そして2時間、紳士も這いつくばってレンズ探してくれました。やがて東の空が白みかけてきたころ、「ありました!」と紳士が。道の反対側にまで飛んでいたのです。そしてさらにしばらくたって、「またありました」と弾んだ紳士の声。おばさんは紳士に涙ながらに心からお礼を言いました。

 コンタクトレンズをはめて見たおばさんは、白髪の紳士が明け始めた朝の光の中を静かに遠ざかって行くのが見えました。その時おばさんは「ハッ」と気づきました。「あの人は神様に違いない」と。

 團さんがおばさんに肩をもみほぐしてもらいながら聞いた話です。團さんも「私もそう思う」と。筆者も、あの紳士は神だったと思います。おばさんは神の心を持つ人ですね。神の心を持つ人が神と出会ったのです。