AI(人工知能)と人間(その2)


AIと人間(その2-1)無くなる業種

 AI(人工知能)の発展は急速ですね。筆者もとても興味を持っています。「AIとこころ」についてです。まず、企業のAI導入によって無くなる業種(米国の試算)として、

  1. 小売店販売員
  2. 会計士
  3. 一番事務員
  4. セールスマン
  5. 一般秘書
  6. 飲食カウンター接客係 (以下略)

などが挙げられています。

 NHKの「人間とは何か」シリーズでも取り上げられていましたね。このシリーズは、AI発達の現状を伝えるとともに、逆に「人間とは何か」を問うことになる良い番組です。今回はその最終回として、この基本テーマに戻りました。

 その中で哲学者の小林康夫さん(東京大学名誉教授)は、「人間にとって最も重要なことは生きること。そのために闘争してきた。それこそ人間らしさだ」「労働して世界を作っていくことが人間らしさの最大の定義だ」「もし100年後か200年後に世界レベルでAIやそのロボットの機能が完璧になれば、人間のやる仕事がなくなってしまう。そうなれば闘争という人間らしさの原点がなくなる(註1)。中には『自分などいなくてもちゃんと世界は回るのではないか』と考える人も出てくるかもしれない。これまでとはまったく違った『人間らしさ』を探らなくてはならない。人間の生きる目的の大転換が必要だ。それはAIのデイープラーニング(AIの画期的技術)をはるかに超えた人間の心の深い所から求めなくてはいけない」と言っています。哲学者としては魅力的な課題でしょう。アシスタントの徳井義美さんは「世界が平和になったら無感情な人間がただ生存しているだけになってしまうのではないか」と言っています。

註1ここには「世界中の人々に富は均等に配分される」という言外の了解があります。ものすごい飛躍ですが。経済学者の井上智洋さん(駒澤大学)は、ベーシックインカム(すべての人に最低限の生活費を一律給付する制度)という言葉を使ってこれを説明しています(「AI時代の新・ベーシックインカム論」光文社新書)。すなわち、

大量失業の時代

・・・2050年には全人口の1割ほどしか働いていない社会になる・・・ベーシックインカムをひとことで言えば、すべての人に最低限の生活費を一律給付する制度です。現在の「子ども手当」に「おとな手当」もつけた「みんな手当」のようなもので、財源は税金です・・・(以下略)

近い将来まちがいなく来る深刻な事態ですね。国は早急に具体的な手を打たなければならないでしょう。すぐれたAIを持ったものが勝ち、勝ち組と負け組の所得格差は大きなものになるでしょう。井上さんは「三島由紀夫の言う『文化がふつふつと沸騰するような社会』になるのではないか」と言っています(逆だと思いますが、別の機会に:筆者)。

人間の生きる目的の大転換が必要?

 小林康夫さんのこの言葉は大問題ですね。皆さんはどう考えますか。じつはこれらの論理には大きな誤りがあるのです。最初これらの考えを聞いた時、筆者は「なるほど大変だ」と思いましたが、すぐに「なんかおかしい」と感じたのです。じつは、人間の闘争は未来永劫無くならないのです。理由は簡単です。人間には能力や容姿(言葉の美しさも含む)に遺伝的に大きな差があるのです。富が平均化すれば貧困層は喜ぶでしょう。しかし、能力のある人たちは「なんであんな奴らと同じ収入なのか。俺だったら・・・」と考えるはず。当然新しい経済闘争を発案するでしょう。さらに、世の中には少数の美人と、大部分の「そうでない人」がいます。当然、大部分の男は美人を求めるはず。とすれば必ず競い合いが起こる。あるいはお金、あるいは人間的魅力をもって・・・。闘争が起こるのは明白でしょう。

 小林康夫さんは東大名誉教授。世に知られた哲学者でしょう。しかし、こんな単純明白な前提も考えずに論理を展開しているのです。「新しい生きる目的」など不要です。ちなみに司会の松尾豊(東大准教授)さんは「人間の闘争はなくならない」と言っています。

AIと人間(その2-2)癒し

 まず問題になるのは、「AIは人間と会話できるか」でしょう。早くも1960年代に会話するAIができて人々を驚かせました。「おはよう」と言うと「おはよう。今朝は寒いね」というような「やり取り」ができたのです。しかし、よく考えれば、「おはよう」という会話に続く「やり取り」の例をたくさんAIに記憶させておいて、適当に再現すればいいのです。つまり、人間同士の心のこもった会話ではなく、文字通り機械的な会話なのです。最近ではマイクロソフト社によって「AI女子高生りんな」が開発されました。すでにユーザーは700万人とか。番組で徳井さんがトライしてみたところ、どうしてもトンチンカンな会話でした。同じマイクロソフトが2014年に中国において提供を開始した女性型会話ボットXiaoice(中国名: 微软小冰)と同じ機能かどうかわかりませんが、以前の報道では、「りんな」よりずっとまともな会話でした。利用者は2億人とも。ある青年が癒しを期待して、自分の好きな「〇○の歌を聞かせて」と頼むと、「今あなたの状態ではダメ。別の曲を」と答えていました。レポーターが「あなたは可能ならこのAI女性と結婚したい?」と聞くと、半分本気で「したい」と。中国では去年、よく知られた男性アナウンサーが、流ちょうな英語で報道をする映像が紹介され、世界に大きな衝撃を与えました。AI技術は日本より大分進んでいるようです。

AIと人間(その2-3)AIは宗教の代わりになるか

 NHK特集「人間とは何か」の究極の「怖れ」は、「はたしてAIは人間の脳に迫れるか(超えるか)」です。AI研究の第一人者の一人、カナダモントリオール大学のヨシュア・ベンジオさんは肯定します。すなわち、

 ・・・私たちの体や脳は物理法則に従うだけです。人間のニューロン(神経細胞と繊維)はさまざまな信号を受け、それを次のニューロンに伝えます。脳のニューロン一つひとつに情報処理能力はないのです。AIのシステムとまったく同じなのです。シグナルを受け、シグナルを出す大量のニューロンが力を合わせると、それがルールに従うように集まってシステムを成します。それによって非常に知的な能力を発揮するのです。この仕組みは脳でもコンピューターでも同じことです。ただ非常に複雑なシステムだという科学的な視点を取るならば、私たちは本質的に機械だとも言えます・・・一方、これを受け入れない人もいます。私たち人間は絶対に違う。人間には、どんな機械でも再現できない知性を持つと信じる人もいます。なぜなら人間には自然を超えた「魂」を持つと考える人もいます。それはしばしば宗教的な信念とも結びついています。しかし科学的な視点から言えばそんなものはないのです。私たちはたんなるシステム、しかし壮大で複雑な機械なのです。いつの日か必ず知的な機械を作ることができます・・・

 筆者はベンジオさんの考えには否定的です。筆者も人間には肉体(機械)部分とは別に「魂」があると考えています。筆者の言う「本当の我」です。そして、本当の我は神につながっていると思います。これは宗教的信念などではありません。筆者の実体験に基づくものです。筆者の考えの根拠はすでにこのブログシリーズで何度もお話してきました。本当の癒しは魂と魂が触れ合うことによって成立するのです。

 魂のないAIに本当の癒しができるはずがありません。未来永劫に。

無門関・平常是道(1,2)

(その2‐1)

 公案集「無門関・第十九則」に「平常是道」(びょうじょうぜどう)があります。「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)という言葉は特に有名ですが、この公案(註1)から出ている禅語です。

本則
南泉、因(ちな)みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖(そむ)く。
州云く、擬せずんば争(いか)でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶(なお)大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。州云く、言下に頓悟す。

唐代の趙州(778 – 897)と師匠の南泉(いずれもすぐれた禅師)との問答です(以下筆者簡訳)

趙州「道(悟り:筆者)とはどんなものですか」

南泉「ふだんの心が道である」
趙州「それをめざして修行すればよろしいのでしょうか」

南泉「目ざそうとすると、すぐに外れる」

趙州「目ざさなかったら、たどり着けないではないでしょうか」

南泉「道は知るとか、知らないとかいうことではない。頭で考えることではない。言うに言えない心境だ。そこを無理にああだこうだと云うことなどできない。悟りとは、ちょうど澄み切った大空のようで、広々とした心境だ」

趙州はただちにに悟った。

 後進の私たちには心躍る場面ですね。「平常心」とは、普通考えれば「目の前に何が現われても動じない心」でしょう。しかし、これでは当然すぎて禅語とは言えませんね。実はもっと深い意味があるのです。それについては次回お話します。ちなみに、曹洞宗総持寺を開いた瑩山禅師が師匠の義介禅師(永平寺三祖)から平常心の意義を問われたとき、瑩山は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す(註2)」と答えたと言います。「一切のことにこだわりを持たない」という意味でしょう。よく知られた大切な言葉だと思います。この語によって瑩山 印可(悟りの証明)を受けました。

註1「無門関」は南宋の無門慧開(1183-1260)がによって著された公案集。 彼は古今の禅者達の間に交わされた問答商量の中から48則を選び、評唱(感想)・頌(詩)を付けたもの。修行者が目指す悟りやその悟境の指標になるためのものです。

註2この言葉の前に、瑩山は師匠から平常心の意味を問われて「黒漆の崑崙・夜裏に走る(真黒な玉が暗闇を走る)」と答えています。「そのように見分けがつかない、つまり思量分別を超えた境地」と言いたいのでしょう。

じつは「無門関・第十九則・平常是道」は本則につづいて、(無門による詩)として、

春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、若もし閑事の心頭に挂(か)かる無くんば、便すなわち是れ人間(じんかん)の好時節

と言うのです。「春には様々な花が咲き、秋は月、夏の涼風、冬の雪。もしつまらぬ事柄を心にかけることがなければ、人生はまさに幸せの日々である」という意味でしょう。道元は「春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」と詠っています。人間の悩みとは関わりなく季節は移り変わってゆくと言うのですね。

(その2‐2)

 しかし、無門はつぎに痛烈な一喝をくらわしています。じつは次の一句こそ重要だと筆者は考えます。すなわち、最後の評唱(感想)で、

趙州たとえ悟り去るも、さらに参ずること三十年にして始めて得るべし

と。その通りですね。「もしつまらぬ事柄を心にかけることがなければ」・・・そんなことはだれでもわかっています。しかし、それができずに悩み、苦しみ、迷うのが人生ですね。趙州は南泉師匠とのこのやり取りですべてを悟ったのではないはず。「たしかに大切なことがパッとわかったけれど、本当に自分の血肉になるのにはその後30年の修行が必要だっただろう」と言っているのです。 段落

 ためしにネットで調べてみて下さい。ほとんどの解説ではまでしか触れていません。えらいお坊さんにそう言われれば「なるほど」と感銘を受けるかもしれません。しかし、家へ帰れば忘れてしまうのです。そこが問題なのです。マルクスが「宗教は麻薬である」と言ったのはそういう意味なのでしょう。心の底から理解しなければ、一時の痛み止めで終わってしまうのです。

頓悟と漸悟

 これは有名な言葉です。豁然大悟(かつぜんたいご)は禅を学ぶ者の憧れですね。頓悟(パッとすべてがわかる)のことです。古来、禅では「頓悟か漸悟(徐々にわかる)か」は重要な課題です。筆者は「たしかにある思想がパッとわかることがとても重要である。しかしそれを全身で理解するにはそれからの長い修行が必要なのだ」と思います。完全な頓悟などないはずです。


陶芸と禅


陶芸と禅

 これまで茶の湯と禅、能楽と禅についてお話しました。それならば絵画や焼き物や生け花と禅についても触れないわけにはいけません。まずお断りして置かねばならないことは、筆者は学術的にこれらについてお話しするだけの素養がないことです。単なる個人的な印象とお考え下さい。

 まず、絵画には禅画というものがあります。たとえば仙厓和尚の、裸の太ったお坊さんが天を指さして、「を月さん幾つ。十三七つ」と言っている絵とか、墨で太ぶとと達磨大師が描いてあるものなどです。禅画とは、そのまま禅の教えを表わしているもので、芸術とは言い難いものですから、今回のお話の対象からは外します。ここでお話しする絵画としては、雪舟(1420‐1506?)の「秋冬山水図」や「天の橋立図」が有名です。平安時代後期の「源氏物語絵詞」や、「信貴山縁起絵巻」、さらには各種の合戦絵詞、あるいは江戸時代後期の浮世絵などとはずいぶん趣が違います。雪舟の絵はほとんど墨一色で描かれています。中国の山水画の影響を受けているとは言え、雪舟の画風はやはり日本絵画史上特異な位置にありますね。

 焼き物については、志野茶碗や織部などは、後代の染付け、古九谷や色鍋島、さらには柿右衛門とはかけ離れています。筆者は染付や鍋島の作品群も好きですが、やはり心に染みるのは志野や織部です。以前のブログで、昨年織部茶碗と皿を作ったとお話しましたが、もちろん素人の手すさびです。ただ、実際に作ってみますと織部の心の一端を垣間見ることができたように思います。わが国の染付は中国明代や清代の染付の影響を受けていると思いますが、あの鮮やかさに感動します。一方、志野や織部はこれらとはまったく異なる日本独自のものですね。能楽の観阿弥は道元の死から80年後に生まれた人(1333‐1384)、志野茶碗「卯花墻」は1570-1600年頃、本阿弥光悦(1568‐1637)の「不二山」とほとんど同時代に作られました。筆者は三井記念館所蔵の志野茶碗「卯花墻」を実見し、感動しました。やはり日本陶磁器史上特別なものですね。

 京都五山  鎌倉幕府の五代時頼が禅宗を信仰し、道元を招いて教えを聞いたことはよく知られています。室町時代になると、尊氏、義満、義政なども禅を重んじたため、足利幕府の宗教的側面となりました。そのため夢想疎石が中心になって、天龍寺や相国寺などの京都五山が特別視されるようになりました。つまり、室町時代は禅宗が盛んになったのです。茶の湯、能楽、生け花などが禅の影響を受けたのも時代の流れでしょう。その最後の輝きが志野や織部などの陶芸と言っていいのかもしれません。

 事情は江戸時代に入るとガラリと変わりました。初期から中期にかけて古伊万里色絵磁器などがオランダ東インド会社を通じて盛んにヨーロッパへ渡り、今でも豪壮な貴族の館には、日本にあれば国宝・重文級の名品が並んでいます。ただ、それらは中国の染付のように華やかなものばかりで、日本人の感性にはやや違和感があります。

 なぜ日本人の感性がこのような歴史的な変遷をたどったのかはとても興味ある問題ですね。単純に言えば、気持ちが外に向かった時に華やかなものが好まれ、内に向かった時、禅と関連した芸術が好まれたのでしょう。現代世界の各地で起こっている紛争や、明らかな資本主義の行き詰りの時代、各国の人びとの心が禅へと向いているのは当然でしょう。

補記:焼き物と言えば、先年、テレビ東京の「開運なんでも鑑定団」で、中島誠之助氏が「これこそ新発見の第四番目の窯変天目茶碗です」と鑑定したのを、親子二代にわたって窯変天目を作り続けていらっしゃる長江惣吉さんが疑問を呈されて話題になりました。その後中島氏は一切口をつぐみ、テレビ東京側は「これは私たち独自の鑑定です」と言い、まだ決着していないようですね。筆者はあの時のテレビ放映を見ていましたが、一目見て「こんなものは窯変天目ではない」と確信しました。模様もはっきりせず、器の肌も濁った、「似ても似つかぬものだ」と思います。「遠くから見てもわかります」が中島氏の口癖ですが、一体どうしたのでしょう。 

一期一会

 有名な言葉ですね。ネットで引いてみますとほとんど茶の湯心得とされています。すなわち、「どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきこと」と。元来は利休の言葉とされ、高弟の山上宗二が、「茶湯者覚悟十躰」に、「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏(かしこまる)ベシ」という一文を残しています。ネットにはさらに、「一期はもと仏教語であり、人が生まれてから死ぬまでの間、すなわち一生を指す」とあります。利休が禅にも造詣が深いことは以前お話しました。

 臨済宗・黄檗宗の公式ホームページ「臨黄ネット」には、

 ・・・江戸幕府の大老職、井伊直弼よりも、石州流の茶人「宗観」として名を知られ、著書「一会集」に、同様の言葉が書かれていることが紹介され、つづいて

 ・・・たとえ同じ人に幾度会う事があっても、いま、この時の出会いは再び回って来ない、一生涯、ただ一度限りの出会いであるゆえ、一回一回の出会いを大切に命がけで臨まなければならないというのです。何も茶の湯だけではありません。私達の人生もまた然りです。思えば、出会いの連続が私達の毎日の人生です。父と母と兄弟と、妻と主人と子供と孫と友人と、同僚と上司と部下達と! 否、人間だけではありません。犬や馬の動物、木や草の植物、この世に存在するすべての物との出会いです。たとえ毎日毎日の親子の仲でも夫婦の仲でもその出会いが、一期一会と合点出来たら、自分の在り方、他とのかかわり合い方が自然と今までとは違ってくるはずです。私達の人生、一期一会の連続です。戻っては来ません。あだやおろそかに過ごせましょうか・・・

とあります。たしかに誰の心にも染み入る人生の大切な要諦ですね。ことほどさように、「一期一会」は、禅語の一つと言っていいと思います。しかし、いわば当然のことで、これで禅語と言えるか、ですね。

 筆者は最近、これは「空」思想を端的に表わす言葉だと気づきました。何度も繰り返しますように、「空とは、見る・聞く、味わう・嗅ぐ、触るの一瞬の体験であり、人生とは一瞬の体験の限りない連続だ」と思うからです。以前お話した、弓の中西政次師が「空とは真の実在だ」と言うのと共通するものがあります。禅では師匠が弟子に答えを教えることはありません。あくまでもヒントを与え、弟子に気づかせることを大切にするからです。一期一会は、利休が感得した茶の湯での奥義ですが、ふつう言われているこの言葉の解釈は、茶の湯での応用であり(それも重要ですが)、本義は禅の要諦のヒントなのだと思います。

「空」と「無」(「弓と禅」つづき)


「空」と「無」(「弓と禅」続き)

 以前のブログで「弓と禅」についてお話しました。その時にもお話しましたが、少しわかりにくいとのご指摘もあり、もう一度お話します。

中西政次著「弓と禅」(春秋社)に弓道の師、第二代鷺野暁師範との興味あるやり取りがあります。

弓の中級者で禅の修行も積んでいた中西氏(註1)が、師範に、

中西氏:(弓道の大先輩であり、禅にも造詣が深い)F氏が、「弓を打ち上げた時

    (弓に矢をつがえて頭上に挙げた時)無の境地になる」と言われましたが、

    正しい見解ですか」

師範:正しい見解です。弓を打ち上げた時だけでなく、始めから終わりまで「無」の状態

   です。

中西氏:F氏は「無とは空であり、何物もないことだ」と説明されましたが、私が坐禅

    でわかった無の見解は何物もない”ということではないのです。何もないと

    いう見解が正しいのであれば、弓と禅とは一致しないような気もしますが。

師範:有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです。

中西氏:「凛然たる気、純一無雑な心は「無」という言葉で表現するのは不適当だと

    思います。それは「絶対有」あるいは「真の実在」というべきであると思い

    ますが・・・。

師範:F氏の無の意味も有限界、相対界の無ではないと思います・・・あなたの言われ

   る「絶対有」というのも世間の一般的な言葉では「何物もない」というように

   表現したり、「空」と表現します。

註1中西師はのちに明らかに悟りの境地に達しました(その内容については以前のブログをご参照ください)。したがって中西師とお呼びしたいのですが、今回は悟りの前の言葉として「中西氏」と呼びます。

筆者の感想:

 F氏の言う「無とは空であり、何物もないことだ」は誤りです。何度もお話しているように「空」と「無」はまったく別の概念です。したがって中西氏の言う「無の見解は何物もないと言ってしまったら、弓と禅とは一致しない」は正しいと思います。さらに、師範の言葉「有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです」も誤りと思います。なぜなら「相対界の無ではない」と言うなら別の用語を持ちるべきですから。

 そして中西氏の言う「(空とは)絶対有あるいは真の実在のことだ」は正しいと思います。筆者も「空とは真の実在だ」と考えています。ちなみに筆者は、絶対有という言葉は好きではありませんが。やはり中西氏の方が師範より心境が進んでいると思います。