禅の公案の意味について(1)
これから数回にわたって、重点的に禅の公案(語録)についてお話していきます。まず、禅では答えを弟子に直接教えることはタブーとされています。あくまで弟子が自得すべきもので、教えてしまったら本人のためにならないのです。筆者も長い間「うつ病」の学生たちのカウンセリングをして来ましたが、言葉で説得することなど不可能だと身に染みてわかりました。他人や国家間との論争がいかに困難かは、よく知られているところです。お互いがますます頑なになるのが落ちでしょう。
公案とは師匠が弟子に「悟り」のキッカケを与えるヒントを、問答の形で残したものです。馬祖(709-788)や臨済(?-867)、趙州(788-897)などがすぐれた禅師と言われるのは、すぐれた公案を残したからです。
坐禅・瞑想は、禅の専売特許ではありません。そもそも、釈迦が悟りを開いたのも、インドに古くからある坐禅・瞑想によってでした。仏教の各宗派にも坐禅・瞑想はあります(浄土系宗派を除いて)。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で開悟したのも坐禅・瞑想によってでした。東大寺は華厳宗のお寺ですが、大仏様は坐禅・瞑想の姿をしています。では、禅独特ものは何か。それが公案です。1000年以上にわたって、僧たちは公案を手掛かりにし、坐禅・瞑想を重ねて、文字通り命懸けで厳しい修行を積んできました。(「なぜ人は悟りを開かなければならないか」という根源的な問いにも答えなければなりませんが、それつについては一まず置きます。)
禅の世界では、ひたすら坐禅・瞑想を実践する曹洞宗系宗派があり、古来黙照禅と呼びます。一方、禅問答を重視するのは臨済宗系の宗派です。後者を看話(かんな)禅と呼んできました。両者が相互に相手を批判する時代もありましたが、本来、上級者は他宗を批判することなどありません。道元は栄西を尊敬し、その命日には栄西の思想を賛美する講話をしていました。臨済宗でも坐禅・瞑想はもちろん重視していますし、曹洞宗でもしばしば公案を取り上げて弟子を指導しています。なにより、道元の「正法眼蔵」は、僧たちに対する指導書であり、公案を引用した話もたくさん出てきます。いくら「只管打座(ひたすら坐禅せよ)」と言っても、語録(公案)の参究(研究)なくして開悟はありえませんし、逆に坐禅・瞑想をせずに禅をわかろうとしても徒労でしょう。
小川隆さん(駒澤大学教授)は「文字にとらわれず、自身の参禅体験を拠りどころとして主体的に語録を読みこなすという言いかたがあるが・・・(中略)・・・あらゆる既成概念の拘束を脱して、自由かつ主体的にそれを解しうるとは考え難い」と言っています(「語録の思想史」岩波書店p3-4)。つまり、「参禅体験を拠りどころとして語録を理解することなど考えられない」と言うのです。しかし、それはおかしいと思います。筆者は毎日、坐禅・瞑想を欠かしませんが、それによって語録の解釈も一層進むと期待しています。
小川さんは「自らの開悟を目指すのなら坐禅と作務(労働)の道を行くべきであろう。しかし歴史上の禅を学問的に研究しようとするならば、禅問答の解読によって、禅というものがそれぞれの時代に、如何に捉えられ、表現されてきたかを考える作業が基礎となるべきである(文字数の制約のため、一部、筆者の責任で簡約しました)」とも言っています。小川さんは禅語録を学問として研究してきた人であり、前記の「語録の思想史」は力作で、以下の筆者の論述にも同著のいくつかの部分を引用させていただきます。ただ、小川さんの言う、「開悟を目指さない禅語録の研究」にどれほどの意味があるのか疑問です。
禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その1)
チンプンカンプンなやり取りを「禅問答のようだ」と、よく言いますね。そこで今回から、禅語録についての井筒俊彦博士(1914-1997東洋思想研究者、神秘主義哲学者、慶應義塾大学名誉教授)の見解を、「意識と本質」(岩波文庫)に基づいて紹介します。井筒博士は、
・・・有名な禅師たちの特徴ある行動は常識的観点から見る限り、すべて、ほとんど無意味である(つまり禅師と修行僧たちとの問答《註1》には、答えとしては意味をなさず、問いと答えの間になんの連関もない:筆者)・・・
と言っています(p356)。
註1 例えば洞山守初(宋時代の禅師)の有名な「麻三斤」(「碧巌録」第十二則の公案)
問い:如何是仏(仏とは何でしょうか)
答え:麻三斤(三斤の麻だ)
井筒博士はこの「無意味」の説明として、
・・・(言)語は「存在(事物の本質、宇宙原理、端的に神と言っていいでしょう:筆者)」を分節した形で提示する(これを有意味性の言語と言っています:筆者)。世界はバラバラに切り離されて独立に存立する事物の集合体として現れる。暗闇の舞台に無数のスポットライトが照らされ、数限りないものが浮び出る。ハイデッカー的に言うと、「存在」は見失われ、「存在者(事物:筆者)(註2)」のみが顕現する・・・
井筒博士の論述の一部のみ抜書きしたこと、それは専門的(哲学的)表現であることから、このままでは読者にはわかりづらいでしょう。そこで以下に、筆者の責任において簡約します。
・・・事物の本質を言葉で表現するには根本的な制約がある。たとえば「山」と言っても、その本質を表わすことは不可能である。しかし、言語を持ってしかそれを表現し、他人に伝えることはできない。ましてや「沈黙」をもってすることもできない(禅ではしばしば「沈黙」が答えになります:筆者)。
註2:言語で表現した事物を仮に「分節I」とし、事物の本質(宇宙原理)を「無分節」とします。
しかし、何とかして事物の本質を修行僧に伝えなけらばならない。そこで禅では言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だ、と言うのです。
井筒博士はこのことを説明するのに青原惟信(宋時代の禅師、生没年不詳)の有名な言葉を引用しています(筆者訳)。すなわち、
・・・自分が未だ禅に参じていない時、自分にとって、山は山と見え、水は水(分節I)と見えた。その後、善知識(すぐれた禅師:筆者)に出会って、悟入の契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった。それが休歇(けつ、休養:筆者)の処を得た今となってみると、あい変わらず、山はただ山に見え、水はただ水(後述する分節II)に見える(「五燈会元」巻十七」) ・・・
つまり、井筒博士は「禅問答はけっしてチンプンカンプンなやり取りではなく、師匠と弟子の間にはちゃんとした思想の伝達があるのだ」というのです。
しかし、禅語を聞いて「パッ」とわかるのは、修行を積み、悟りの寸前にある人だけでしょう。言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だと言われても「そうかもしれないが・・・」というのが正直な気持ちでしょう。第一、無分節、つまり、事物の本質とはどのようなものか・・・雲をつかむような話でしょう。ことほどさように、井筒博士の言葉は、開悟を目指す者たちにとって参考にはなりませんね。
禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その2)
井筒博士は続いて、
・・・しかも、人はさらに翻って目に見える「山」という有意味性の次元に戻らななくてはならない(註3p367)・・・
註3:これを分節IIとします。
つまり、「分節I→無分節→分節IIとしなければならない」と言うのですね。しかし、なぜ分節IIへと戻らなければいけないか、その理由が明示されていません。井筒博士はこの問題に関して、「無門関」第二十四則「離却語言」にある風穴禅師 (臨済宗の禅師896-973)と弟子との次のやり取りを紹介しています。すなわち、
・・・ある僧が風穴延沼禅師に尋ねた「語黙、離微に渉(わた)って如何せば通じて犯さざる」
風穴禅師はこの僧の質問に対して、ただ、次の杜甫の詩(註4)を口ずさむのみであったという。
長(とこし)なえに憶(おも)う、江南三月のうち
鷓鴣(しゃこ、キジ科の鳥)啼くところ百花香(かんば)し
註4 風穴禅師がこの杜甫の詩を取り上げたのは、憶(おも)うワレ(人)と、鳥が鳴き、花が咲く江南の春(境、対象)が一体化していることを表わす好例と考えたからです(筆者)下記の臨済の「人境倶不奪」の境地ですね。
井筒博士はこの「語黙、離微に渉(わた)って・・・」の解釈として、
・・・語を使えば必然的に「存在(本質:筆者、以下同じ)」は分節され、もの(事物)に固定化され、限定されてしまう。それを避けようとして、全然言葉を使わなければ、沈黙はよく「存在」の非限定面を指示しようが、それでは限定的側面は無視されてしまう。言葉を使っても沈黙のごとく、沈黙していても言葉を使うごとく、「存在」の非限定面を共に生かすにはどうしたらよいか《下線筆者》p368)・・・
と言っています。
じつは「無門関」第二十四則「離却語言」にある、
・・・風穴和尚、因みに僧問う「語黙離微に渉(わた)り、如何にせば通じて不犯なる・・・
の正しい意味は、言葉で表現しても沈黙しても、主客分離(離微)に陥り、真の実在を示すことができません。どうしたらそういう過ちを犯さないことができますか)です。
ちなみに風穴禅師は、「人天眼目(宋の智昭編の当時の禅宗五門の要義を集めた書、「禅籍データベース」にあります:筆者)」の中にある、臨済の「人境倶不奪(註5)」に関する評言でも同じく杜甫のこの詩を使っているのです。「人境倶不奪」は、明らかに人(ワレ)と境(対象)との関係、つまり認識論です。つまり、「離却語言」と「人境倶不奪」は同じテーマであり、風穴の答えが同じなのは当然です。井筒博士の言うような、言葉や沈黙がものの本質を表現できるかどうかのテーマとは別問題です。井筒博士は何か勘違いされたのでしょう。
註5 「臨済録」にある、「臨済の四料簡(自己と対象との関係を説いたもの、つまり認識論)の第四「自己も対象(もの)もともに否定しない」。
認識の問題は禅の主要なテーマだと筆者は考えています。それについては後ほど改めてお話します。