中野禅塾だより(7)東洋哲学の再構築をめざす

中野禅塾だより(7)東洋思想の再構築をめざす

 一夕、読者の方とお話しました。その中で、筆者のブログシリーズが「禅」を掲げながら、浄土の教えや唯識、華厳、神道からスピリチュアリズムと多様であることに話が及びました。筆者は「長い間生命科学の研究を進めてきました。その間、専門分野はもちろん、その周辺分野について、幅広く勉強するのは当然のことで、『知らない』ということはこの上なく恥ずかしいことでした。当然、禅を知るためには周辺思想を知ることは不可欠だと思います」とお答えしました。

 今、仏教という一つの大きな箱の中には、長い紐、短い紐、太いの、細いの、赤いもの白いものなど、ゴチャゴチャに投げ込まれ、絡まり合っている状態だと思います。それらを一本ずつ解きほぐし、捨てるものは捨て、つなげるものは繋ぐ作用がぜひとも必要だと考えています。そのため、釈迦以前のインド古代ウパニシャッド哲学から、釈迦の教え、釈迦以降の原始仏教、部派仏教、そして大乗仏教から禅思想に至るまで、歴史的な変遷をたどらなければいけないと思います。そしてさらに禅以外の、浄土の教えや唯識、華厳など、周辺の。思想もきちんと調べ、禅との関連性を知る必要があると思っています。一方、禅とカントやヘーゲルなどのインド観念論哲学との関連性についても検討します
 さらに、以前お話したように、筆者は神道系の教団に属し、いわゆる「霊感修行」を10年間にわたって続けました。神道思想はスピリチュアリズムとの関連もあります。そこで学んだこともこの研究に生かしていきたいと思っています(これまで1年10か月、ブログをアップし続けてきましたが、まだ神道とスプリチュアリズムについてはまったくお話していません)。

 自由競争を旗印とする資本主義原理は、すでにどうしようもないところにまで来ています。わずかの期間に円の価値が激しく上下し、原油や鉱物資源、そして土地や建物まで、あらゆるものが投機の対象とされています。世界経済に深刻な影響を及ぼした、あのリーマンショックの地元であるアメリカで、もう不動産投機が再び盛んになっているのです。まったく懲りていないのです。ことほどさように、経営者や労働者の必死の努力など、あっという間に吹っ飛んでしまうのが現代です。

 何とかしなければならないと感じ、これまでの、唯物論を中心とする西洋哲学とは根本的に異なる東洋思想に熱い視線を送っているのは、なによりも欧米諸国の心ある人たちです。中国が共産主義思想に転換してしまった現在、わが国こそ東洋思想の中心であるはずです。しかるにわが国の仏教は混乱し、いくつかの宗派など滅びかねない事態です。

 筆者が仏教を歴史的側面から、そして宗派間の思想の違いをできるだけ綜合的に調べようと微力を尽くしているのは、今後の世界のあり方の指標となるような、東洋哲学を再構成する道を探っているからです。
 
楽しい一夜でした。

禅の公案の意味について(1‐3)井筒俊彦博士の見解

禅の公案の意味について(1)

 これから数回にわたって、重点的に禅の公案(語録)についてお話していきます。まず、禅では答えを弟子に直接教えることはタブーとされています。あくまで弟子が自得すべきもので、教えてしまったら本人のためにならないのです。筆者も長い間「うつ病」の学生たちのカウンセリングをして来ましたが、言葉で説得することなど不可能だと身に染みてわかりました。他人や国家間との論争がいかに困難かは、よく知られているところです。お互いがますます頑なになるのが落ちでしょう。
 
 公案とは師匠が弟子に「悟り」のキッカケを与えるヒントを、問答の形で残したものです。馬祖(709-788)や臨済(?-867)、趙州(788-897)などがすぐれた禅師と言われるのは、すぐれた公案を残したからです。
 
 坐禅・瞑想は、禅の専売特許ではありません。そもそも、釈迦が悟りを開いたのも、インドに古くからある坐禅・瞑想によってでした。仏教の各宗派にも坐禅・瞑想はあります(浄土系宗派を除いて)。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で開悟したのも坐禅・瞑想によってでした。東大寺は華厳宗のお寺ですが、大仏様は坐禅・瞑想の姿をしています。では、禅独特ものは何か。それが公案です。1000年以上にわたって、僧たちは公案を手掛かりにし、坐禅・瞑想を重ねて、文字通り命懸けで厳しい修行を積んできました。(「なぜ人は悟りを開かなければならないか」という根源的な問いにも答えなければなりませんが、それつについては一まず置きます。)

 禅の世界では、ひたすら坐禅・瞑想を実践する曹洞宗系宗派があり、古来黙照禅と呼びます。一方、禅問答を重視するのは臨済宗系の宗派です。後者を看話(かんな)禅と呼んできました。両者が相互に相手を批判する時代もありましたが、本来、上級者は他宗を批判することなどありません。道元は栄西を尊敬し、その命日には栄西の思想を賛美する講話をしていました。臨済宗でも坐禅・瞑想はもちろん重視していますし、曹洞宗でもしばしば公案を取り上げて弟子を指導しています。なにより、道元の「正法眼蔵」は、僧たちに対する指導書であり、公案を引用した話もたくさん出てきます。いくら「只管打座(ひたすら坐禅せよ)」と言っても、語録(公案)の参究(研究)なくして開悟はありえませんし、逆に坐禅・瞑想をせずに禅をわかろうとしても徒労でしょう。

 小川隆さん(駒澤大学教授)は「文字にとらわれず、自身の参禅体験を拠りどころとして主体的に語録を読みこなすという言いかたがあるが・・・(中略)・・・あらゆる既成概念の拘束を脱して、自由かつ主体的にそれを解しうるとは考え難い」と言っています(「語録の思想史」岩波書店p3-4)。つまり、「参禅体験を拠りどころとして語録を理解することなど考えられない」と言うのです。しかし、それはおかしいと思います。筆者は毎日、坐禅・瞑想を欠かしませんが、それによって語録の解釈も一層進むと期待しています。

 小川さんは「自らの開悟を目指すのなら坐禅と作務(労働)の道を行くべきであろう。しかし歴史上の禅を学問的に研究しようとするならば、禅問答の解読によって、禅というものがそれぞれの時代に、如何に捉えられ、表現されてきたかを考える作業が基礎となるべきである(文字数の制約のため、一部、筆者の責任で簡約しました)」とも言っています。小川さんは禅語録を学問として研究してきた人であり、前記の「語録の思想史」は力作で、以下の筆者の論述にも同著のいくつかの部分を引用させていただきます。ただ、小川さんの言う、「開悟を目指さない禅語録の研究」にどれほどの意味があるのか疑問です。

 禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その1)

チンプンカンプンなやり取りを「禅問答のようだ」と、よく言いますね。そこで今回から、禅語録についての井筒俊彦博士(1914-1997東洋思想研究者、神秘主義哲学者、慶應義塾大学名誉教授)の見解を、「意識と本質」(岩波文庫)に基づいて紹介します。井筒博士は、

  ・・・有名な禅師たちの特徴ある行動は常識的観点から見る限り、すべて、ほとんど無意味である(つまり禅師と修行僧たちとの問答《註1》には、答えとしては意味をなさず、問いと答えの間になんの連関もない:筆者)・・・
と言っています(p356)。

註1 例えば洞山守初(宋時代の禅師)の有名な「麻三斤」(「碧巌録」第十二則の公案)

  問い:如何是仏(仏とは何でしょうか)
  答え:麻三斤(三斤の麻だ)

 井筒博士はこの「無意味」の説明として、

 ・・・(言)語は「存在(事物の本質、宇宙原理、端的に神と言っていいでしょう:筆者)」を分節した形で提示する(これを有意味性の言語と言っています:筆者)。世界はバラバラに切り離されて独立に存立する事物の集合体として現れる。暗闇の舞台に無数のスポットライトが照らされ、数限りないものが浮び出る。ハイデッカー的に言うと、「存在」は見失われ、「存在者(事物:筆者)(註2)」のみが顕現する・・・

井筒博士の論述の一部のみ抜書きしたこと、それは専門的(哲学的)表現であることから、このままでは読者にはわかりづらいでしょう。そこで以下に、筆者の責任において簡約します。

 ・・・事物の本質を言葉で表現するには根本的な制約がある。たとえば「山」と言っても、その本質を表わすことは不可能である。しかし、言語を持ってしかそれを表現し、他人に伝えることはできない。ましてや「沈黙」をもってすることもできない(禅ではしばしば「沈黙」が答えになります:筆者)。

註2:言語で表現した事物を仮に「分節I」とし、事物の本質(宇宙原理)を「無分節」とします。

 しかし、何とかして事物の本質を修行僧に伝えなけらばならない。そこで禅では言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だ、と言うのです。

井筒博士はこのことを説明するのに青原惟信(宋時代の禅師、生没年不詳)の有名な言葉を引用しています(筆者訳)。すなわち、
 ・・・自分が未だ禅に参じていない時、自分にとって、山は山と見え、水は水(分節I)と見えた。その後、善知識(すぐれた禅師:筆者)に出会って、悟入の契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった。それが休歇(けつ、休養:筆者)の処を得た今となってみると、あい変わらず、山はただ山に見え、水はただ水(後述する分節II)に見える(「五燈会元」巻十七」) ・・・
つまり、井筒博士は「禅問答はけっしてチンプンカンプンなやり取りではなく、師匠と弟子の間にはちゃんとした思想の伝達があるのだ」というのです。

 しかし、禅語を聞いて「パッ」とわかるのは、修行を積み、悟りの寸前にある人だけでしょう。言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だと言われても「そうかもしれないが・・・」というのが正直な気持ちでしょう。第一、無分節、つまり、事物の本質とはどのようなものか・・・雲をつかむような話でしょう。ことほどさように、井筒博士の言葉は、開悟を目指す者たちにとって参考にはなりませんね。

禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その2)

 井筒博士は続いて、
 ・・・しかも、人はさらに翻って目に見える「山」という有意味性の次元に戻らななくてはならない(註3p367)・・・

註3:これを分節IIとします。

 つまり、「分節I→無分節→分節IIとしなければならない」と言うのですね。しかし、なぜ分節IIへと戻らなければいけないか、その理由が明示されていません。井筒博士はこの問題に関して、「無門関」第二十四則「離却語言」にある風穴禅師 (臨済宗の禅師896-973)と弟子との次のやり取りを紹介しています。すなわち、

 ・・・ある僧が風穴延沼禅師に尋ねた「語黙、離微に渉(わた)って如何せば通じて犯さざる」
風穴禅師はこの僧の質問に対して、ただ、次の杜甫の詩(註4)を口ずさむのみであったという。

 長(とこし)なえに憶(おも)う、江南三月のうち
 鷓鴣(しゃこ、キジ科の鳥)啼くところ百花香(かんば)し

註4 風穴禅師がこの杜甫の詩を取り上げたのは、憶(おも)うワレ(人)と、鳥が鳴き、花が咲く江南の春(境、対象)が一体化していることを表わす好例と考えたからです(筆者)下記の臨済の「人境倶不奪」の境地ですね。

井筒博士はこの「語黙、離微に渉(わた)って・・・」の解釈として、

 ・・・語を使えば必然的に「存在(本質:筆者、以下同じ)」は分節され、もの(事物)に固定化され、限定されてしまう。それを避けようとして、全然言葉を使わなければ、沈黙はよく「存在」の非限定面を指示しようが、それでは限定的側面は無視されてしまう。言葉を使っても沈黙のごとく、沈黙していても言葉を使うごとく、「存在」の非限定面を共に生かすにはどうしたらよいか《下線筆者》p368)・・・

と言っています。

 じつは「無門関」第二十四則「離却語言」にある、
 ・・・風穴和尚、因みに僧問う「語黙離微に渉(わた)り、如何にせば通じて不犯なる・・・
の正しい意味は、言葉で表現しても沈黙しても、主客分離(離微)に陥り、真の実在を示すことができません。どうしたらそういう過ちを犯さないことができますか)です。

 ちなみに風穴禅師は、「人天眼目(宋の智昭編の当時の禅宗五門の要義を集めた書、「禅籍データベース」にあります:筆者)」の中にある、臨済の「人境倶不奪(註5)」に関する評言でも同じく杜甫のこの詩を使っているのです。「人境倶不奪」は、明らかに人(ワレ)と境(対象)との関係、つまり認識論です。つまり、「離却語言」と「人境倶不奪」は同じテーマであり、風穴の答えが同じなのは当然です。井筒博士の言うような、言葉や沈黙がものの本質を表現できるかどうかのテーマとは別問題です。井筒博士は何か勘違いされたのでしょう。

註5 「臨済録」にある、「臨済の四料簡(自己と対象との関係を説いたもの、つまり認識論)の第四「自己も対象(もの)もともに否定しない」。

 認識の問題は禅の主要なテーマだと筆者は考えています。それについては後ほど改めてお話します。

釈迦も驚く日本仏教ー地獄極楽思想(1,2)

釈迦も驚く日本仏教‐地獄極楽思想(1)

 日本仏教は地獄極楽思想をイメージするほど密接に関連していますね。しかし、それは釈迦の仏教とは大きくかけ離れたものなのです。

 現在のわが国の仏教徒は8470万人(2013年統計、ブリタニカ国際年鑑では99%が広義の仏教徒とされています) 、約7万5000の寺院があると言われています。つまり日本人のほとんどは仏教徒なのです。ただ、「自分は仏教徒である」という意識は希薄で、おしなべて「無宗教」と考えている特異な国です)。仏教が日本に入って来たのは538年(552年とも)で、たちまちそれを受け入れ、やがて国の政治方針としたのが聖徳太子(574-622)です。聖徳太子の言葉として「世間虚仮唯仏是真」が有名ですね。「この世の世界は空しい仮の世界で、仏の教えこそ真実だ」という意味です。しかし、太子の妃である橘大郎女(おおいらつめ)が、太子を偲んで天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)という刺繍(現在はその一部が残る。国宝)を作ったことから、少し太子の真意が曲解されるようになりました。すなわち天寿国とは、妃が聖徳太子の往生したとされる世界の名ですが、いつのまにかそれを極楽浄土の世界とされるようになったのです。(天寿は无寿《むじゆ》国すなわち無量寿国,極楽浄土の誤記かという説もあります)。

 釈迦の思想
  釈迦の教えには地獄極楽思想はありません。もともとインドには輪廻転生思想が強く信じられていました(現在でも)。人は死んでさまざまな階層の「あの世」に行き、また生まれ変わってこの世で修行を積み、あの世のさらに高い階層へ行くという思想ですね。釈迦の思想はそれまでのインド哲学を乗り越えるものでした(新しい思想は必ずそれまでの思想を否定するところから始まります)から、輪廻転生思想を否定しました。「死後のことなど考えるな(無記)」と言ったと言われています。

 奈良時代から平安初期の日本仏教
 このころの仏教は、天皇や貴族を中心にした「現世利益(この世での繁栄)」を求めるものでした。それが平安後期になると、地獄極楽思想へと大きく変貌したのです。それを推進したのが末法思想です。末法思想とは、
 正法の時代(釈迦の死後1000年):仏教教義が正しく残っており、教(教説)、行(実践)、証(結果)がすべて完備している時代
 像法の時代(そのあとの1000年):教説と実践のみしか残っていない時代
 末法の時代:教説のみしか残っていない時代、
それがさらに進むとすべてが消滅する法滅期に入る、というものです。

 すでにインドで成立した中期大乗経典の「大集経(大方等大集経)」(「大正新脩大蔵経」 大蔵出版)に見られます。注意しなければならないのは、末法思想とは本来、「このままでは釈迦の法は廃れるぞ」という、専門の僧侶たち相互の戒めだったのです。それがいつの間にか「世界が滅びる」という思想に拡大されてしまったことです(註1)。
註1このように、仏教ではさまざまな思想が次々に整理・拡大されてきました(増広と言います)。そのため、どこまでが釈迦の教えなのかはもうはっきりとはわからなくなっているのです。それが仏教を解釈する上での大きな問題点であることは、すでにこのブログシリーズでお話しました。キリスト教が、新約と旧約など、変更はごくわずかだったことと大きな違いです。
 そして釈迦入滅後2000年目が日本では永承7年(1051)とされ、当時大火や自然災害、疫病や飢饉がくりかえし起こっていたという社会情勢から、末法思想が現実のものとして受け止められるようになったのです。そのため、この世での幸せより、死後の世界での幸せを願う心が庶民にまで広がったのです。
 その要望に応えたのが源信(942-1017)でした。源信は天台宗の高い地位まで登った人ですが、その地位を放棄し、984年に43歳で横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に隠遁し、天台浄土教の原典ともいうべき「往生要集」(985)を完成しました。
 源信は、この「往生要集」において、浄土思想の観点に立ち、多くの仏教の経典や論書から極楽往生に関する重要な文章を集めました。まず、地獄の様子を、等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界として鬼気迫る迫力をもって描きました。そして極楽の様子も描写し、極楽浄土に往生するための方法を詳細に説いたのです。すなわち、「極楽や仏たちのありさまを強くイメージせよ」と言っています。

 釈迦も驚く日本仏教‐地獄極楽思想(2)

  前回、「釈迦は輪廻思想を否定した」とお話しました。つまり、それまでのインド哲学が、インド独特の身分制度(カースト制)の理論的根拠になっているとして否定したのです。そのため、釈迦仏教の思想は「下層社会」の人々から熱烈な支持を得たのでしょう(註1)。ご承知のように、その後インドでは仏教が排斥されてしまいました。その理由は、バラモンやクシャトリアなど「上層階級」の人々による巻き返しにあったためです。
 しかし、その後、仏教でも輪廻転生思想が受け入れるようになりました。と言うより、それを利用しました。当時のインドの人々の根強い感覚を無視できなかったからでしょう。ただ、重要なことは、仏教では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天とは、死後に行く世界(空間)ではなく、心の状態のことを指すことです。たとえば、天道界に行けば、心の状態が天のような状態であり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態だ、ということです。

 それをそういう世界(空間)があると考えたのは、源信の驚くべき独創なのです。しかも、地獄を生前に犯した罪悪に従って八つに分け、そのありさまを見てきたように描いたのです。たしかにその思想は当時の人々に強烈な印象を与え、極楽往生を切実に願うようになりました。そして死ぬ間際には、その人を極楽浄土へ導くために迎えに来た阿弥陀如来の姿を描かせ(聖衆来迎図)、その手から導かれた五色の糸を握って死んでいったのです。今も残るそれらの絵には、阿弥陀如来の手の部分に二つの小さな穴が残っているものものがります。五色の糸を通して死にゆく人と結ばせた跡ですね。
 この思想はその後1000年後の今日まで、日本人の精神に強いインパクトを与え、数多くの地獄極楽図や閻魔像が作られました。その意味では源信の大きな功績でしょう。
 「仏教はそれぞれの時代や国の事情に合わせて大きく変貌して行った」と、なんどもお話しました。地獄極楽思想はわが国におけるその例証の一つですね。

註1 釈迦が六道輪廻を説いたかどうか、諸説もありますが、インドの政治家で思想家、ネルー内閣の法務大臣でインド憲法の草案を作った、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956)という人がいます。アンベードカルは、インド社会のカースト制度に強く反発し、独特のパーリ仏典(初期仏教経典)を研究した結果、「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解を得ました。この アンベードカルの考えが、「釈迦は輪廻転生を否定した」との説として現在有名です(「ブッダとそのダンマ」山崎素男訳 光文社)。筆者もこの説に賛成です。そうでなければ、古代インドのウパニシャッド哲学に対し、釈迦仏教が名乗りを上げる理由がありませんから(それについては、改めてお話します)。