日本大乗仏教の衰退

     日本大乗仏教の衰退(1)

 後ほどお話しする、「空思想」の発展型である唯識思想は、法相宗として薬師寺・興福寺などに伝えられました。一方、華厳思想に基づく華厳宗は東大寺がその総本山です。
 聖武天皇が鑑真和上をわざわざ唐から招いたのは、よく言われるような、日本の仏教を盛んにするためだけではありませんでした(註)。すなわち、奈良の上記など寺院勢力が増すとともに、僧侶が政治も口を出すようになり、天皇の施策上侮りがたい勢力になったからです。聖武天皇はそれに対抗するため唐から鑑真を招いたのです(最初から鑑真和上を考えていたわけではないようです)。その名目は鑑真が授戒(受ける僧から言えば受戒)、すなわち僧になるための儀式のエキスパートだったからです。これは正式に僧として認可されるための免許ですから、既存の奈良の大寺院の僧と言えども、それを受けないものは公式な僧として認められないことになり、大問題でした。聖武天皇の意図はこうして達成されたのです。しかしこの目論見は鑑真の死後、既存仏教の反発により唐招提寺は衰えてしまいました。
 こうして薬師寺、興福寺、東大寺等の奈良仏教が再び勢力を張るようになりました。しかし、平安時代に入るとそれらの寺院は急速に衰えてしまったのです。その最大の理由が、桓武天皇による平安遷都です。平安遷都にも聖武天皇と同じ深い政治的意図がありました。すなわち桓武天皇は奈良仏教勢力に対抗するため、遷都と言う大パフォーマンスを行ったのです。それは大成功でした。以後、奈良仏教は衰退してしまったからです。
 
 わが国の仏教を考える上で、このような視点はとても大切だと筆者は考えます。このような構図はエジプトの王と神官たちとの関係も同じで、あのツタンカーメンの父アメンホテプ4世は大胆な宗教改革(多神教であったエジプトをアテンを唯一神とするアマルナの改革)を行いました。これによって神官たちの権力は大きく後退しました。

註 授(受)戒:仏教で新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う儀式のことです。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧集団内での規則を「律」と言います。日本に仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んでした。しかし、奈良時代に入るとそれをないがしろにする者たちが徐々に幅を利かせたと言います。そこで10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐へ渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた・・・これがこれまでの通説です。

 こうして平安遷都から1200年、奈良仏教が日本人の思想や文化に与えた影響はほとんどありませんでした。ご存知のように現在は観光寺院としてだけ有名です。

 今度の東日本大震災にあたって、遺族達をなんとか勇気付けようと、奈良の有名寺院の僧たちが次々に被災地に派遣されました。しかし、その試みはほとんど挫折したのです。NHK特集で、その心情を涙ながらに吐露していた僧は、薬師寺の衆生済度を担当する青年部のエリート僧でした。この僧の同僚が説いていた「般若心経」の解釈は明らかに間違いでした。東日本大震災は、はからずもわが国の奈良仏教の衰退を如実に示したのです。

 日本大乗仏教の衰退(2)浄土思想の衰退

 以前「歎異抄には新しい思想はない」とお話しました。文字通り「親鸞の教えを勝手に解釈するようになった不肖の弟子たちを歎く」内容に過ぎないからです。
 法然の「選択本願念仏集」や「一枚起請文」にはまさしく法然思想の神髄「ただ南無阿弥陀仏と唱えよ」と書かれています。親鸞の「教行信証」にはそれを超えるものは何一つあません。たしかに法然は世界仏教史の中でも画期的な位置を占めています。親鸞の凄さは法然の教えをいじらしいほど固く信じていたことにあります。浄土真宗をさらに堕落させたのは八世蓮如(1415-1499)です。蓮如は生涯に5度婚姻し、男子13人、女子14人の子をもうけ、男子は新しい寺の開基としたり、有名寺院の後継者として送り込む一方、女子はやはり有名寺院の住職の妻としました。さらに重大なことは、蓮如は上記の我が子たちを中心に構築する巨大な宗教団を作り、下記のように法事などの催行を独占して莫大な財政基盤を確立しました。さらに蓮如は親鸞の「教行信証」の一部を「正信偈」という短い経文(?、内容はありません)に仕立て、信者が毎日唱誦するものとしました。なんだか現代のAKB48グループ経営会社のようなアイデアですね。

 後年、蓮如は本願寺の書庫で「歎異抄」を見つけ、
 ・・・寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願の働きにすべてお任せして、深い信心を頂くなら、それこそ本願のお心に叶うことでありましょう(第十八条 筆者訳、下線も)・・・とか、
 ・・・親鸞には一人も弟子などおりません(第六条 同)・・・
と書いてあるのを見て大変驚き、末尾に「妄りに読ませはいけない」と書き加えたのは、蓮如のやったことが、親鸞の教えとあまりに違うからでしょう。

 さらにこの浄土真宗教団の巨大化の追い風になったのは江戸幕府の「寺請制度(檀家制度)」でした。宗教統制が目的の権力機構で、民衆は何れかの寺院を菩提寺としてその檀家となる事を義務付けるものでした。それによりキリスト教を禁制として、信徒に対し改宗を強制しました。それまでの民衆の葬式は一般に村社会が執り行うものでしたが、檀家制度の制定以降、僧侶による葬式が定まったのです。そして檀家制度は、寺院に権威と収入を保証しました。さらに妻帯が認められ、職業は世襲化されました。そのため僧侶とその家族は、当時としてはきわめて恵まれた生活を送れるようになったのです。さらに寺僧たちは無学文盲が多かった村社会においては教養も高く、特権階級となって行きました。僧侶たちの仏教を深く学ぶ意欲が低下して行ったのは自然の成り行きでしょう。そしてついに葬式仏教と化したのも当然でしょう。現在、東西両本願寺の門徒は1200万と公称し、その頂点に立つ本願寺門跡は貴族化しました。わが国最後の貴族はここにいるのです。
 明治になって寺請制度が廃止されると、寺が徐々に衰退して行ったのは驚くことではありません。今日、わが国では家族が分散して先祖供養も満足にされないため無縁墓が増え、葬儀は専門会社によって代行さるようになりました。それどころか最近ではネットによる僧侶の派遣事業も始まり、寺の経営上大きな脅威となっています。基盤であった葬儀や法事すら寺の手を離れ始めているのです。

 東日本大震災の遺族を慰めるため派遣されたエリート僧たちが挫折感を味わったとお話しました。浄土真宗でも同様だったのです。筆者は法然や親鸞の思想はすばらしいと考えています。その原点に戻って教えを説き、人々を救わなくてはなくては寺の将来はないのです。

鈴木大拙の即非の論理

         中野禅塾だより (2015/12/20)

鈴木大拙の即非の論理

 鈴木大拙と西田幾太郎は同郷(金沢)の親しい友人同志で、「お互いに影響を受け合った」と言っています。すなわち鈴木博士は以下に述べます即非の論理、西田博士は絶対矛盾的自己同一理論がそれぞれ禅と哲学における画期的な思想でした。

 鈴木博士の「即非の論理」は「金剛般若経」をヒントに案出されました。以前お話したように「金剛般若経」は、「般若経典類」の中でも初期に成立(紀元150-200頃、ちなみに「般若心経」の成立は4世紀頃)しました。空の思想が述べられていますが「空」という言葉自身はありません。その意味でも初期のものであることが推定されます。鈴木博士は「金剛般若経」には「即非」という言葉が繰り返し出て来るのに注目しました。たとえば、

 ・・・仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是経名金剛般若波羅蜜(如来によって説かれた<智慧の完成>は、智慧の完成ではないと如来によって説かれているからだ。それだからこそ<智慧の完成>と言われるのだ)・・・とか、

 ・・・所言法相者 如来説即非法相 是名法相(それではどのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ)

というふうに、「〇〇〇である。しかし○○○ではない。だから〇〇〇」なのだ」と、マッチポンプ的な表現なのです。ちょっと面喰いますが、じつは重要です。鈴木博士は禅の要諦は即非にありと考えたのです。さすが慧眼だと思います。なぜなら禅の中心課題の一つに概念の固定化の否定があるからです。さまざまな公案集を読んでみますと、それがよくわかります。筆者が研究者時代、あらゆる学説や新しい研究報告に対し信じつつ信じないという態度を一貫して取って来たことは以前お話しました。

 ある人のブログを読んでいましたら、鈴木博士や西田博士に対する厳しい批判が出ていました。たとえば、
 ・・・大拙氏の「即非的自己同一」なる論理はまったくのナンセンスで、そのナンセンスなものをヒントにして作成した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(註)」なる論文は、茶番としか言えないのである・・・鈴木大拙氏の「主客未分(註)」の禅理論が何の根拠もない誤論であることは、わたしは度々指摘した。ゆえに、その誤論を根拠に構築したと思われる「絶対矛盾的自己同一」や「善の研究」はまったく以ってナンセンスとしかいいようがない・・・
とありました。自説に対する批判は少々厳しくても甘受して次の展開の糧とすべきでしょう。しかし、じつはこの人のブログの内容自体にも誤りが多いのです。しかも匿名でした。それは許されません。上記の筆者の解釈をお読みいただければ、鈴木博士の解釈はナンセンスどころか重要な指摘であることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

註 「主客未分」および「絶対矛盾的自己同一」については次回以降にお話します。

死生観

         中野禅塾だより (2015/12/18)

 死生観(1)

ある小さな会合で、「あなたの死生観は何ですか」と尋ねられたことがあります。筆者の著書を話題にした会合で、質問した人の声の響きからけっして好意的なものではないと感じました。死生観など、軽々しく、しかも初対面の人間に聞くものではないと思います。人の心の奥底の問題ですから。
 死は誰にとっても最大の不安でしょう。歳を取れば否応なしに死のことも考え、それに対する心構えをするのが自然の成り行きでしょう。長年神の愛を説いてきた女性が突然ガンであることを宣告されて「神はヒットラーだ」と罵ったケース。宗教学者として、死後の霊魂の存在が人々の宗教に対する最大の拠り所であることを熟知しながら、悪性のガンになって煩悶し、霊魂の存在など認めないことを自分の知性だと頑張った岸本英夫博士。お墓など絶対に作らないと宣言していた吉村昭さんがお墓を作って亡くなり、その考えに同調していた妻、津村節子さんが夫の遺影を飾り、毎朝コーヒーを供えているケース。出家得度し、仏の愛を説いて来た瀬戸内寂聴さんが、病気になってあまりの苦しさに「神も仏もあるものか」と叫んだケースなどについては以前触れました。

 後期高齢者のある知人が「僕はいつ死んでも悔いはない」と言うのを聞いて、「あんなこと言わない方が・・・」と思いました。裸の坊さんが月を指して「を(お)月さん幾つ、十三七つ」と言っている禅画で有名な仙厓和尚の臨終の場で、「何か最後の名言」をと待ち構えている弟子たちに「死にとうない」と答えて当惑させたエピソードはよく知られています。あの一休さんにもそんな話があります。二人とも案外本音だったのではないでしょうか。

 筆者が軽々しく死生観など口にしないのは、どんな人でも「そのとき」になってみなければ分からないと思うからです。筆者の元同僚や後輩にもガンで亡くなった人が何人もいます。退院して久しぶりに学科の会議に出席したその姿を見て、あまりの憔悴振りに驚いたことがあります。隣の研究室の人で、ごく親しく付き合っていましたから、何度もお見舞いにも行きました。しかし彼は終始少しも乱れる様子はありませんでした。15年経った今でも感動しています。
 筆者が長年多くの人の死を見聞きした経験では、どんなに善い人でも、若い人でも、節制や運動にも関係なく、「そのとき」は来たようです。アッという間の人も、苦しみ通しだった人も、痴呆症にもなり6年も施設に入った人もいました。「そのとき」は避けようがなく、否が応でも受け止めるしかないようなのです。

 筆者には死生観などありません。ただ家内には「過剰な高額治療だけは止めてくれ」と言ってあります。お金は大切なものだからです。

死生観(2)

  前回、立派に死を受け入れた筆者の友人についてお話しました。筆者と一緒に最終講義をするのを楽しみにしていましたが、3か月後のそれも待てずに逝ったのです。
 
 親しく付き合っていましたから、病気になってからの心の推移は想像できます。体の不調を覚えて病院へ行き、「疑いがある」と言われたこと。検査が進み、だんだんその疑いが濃くなって行ったこと。最後にそれが決定的になり、体調もさらに悪化したこと。そんな時、だんだん迫ってくる死への恐れや、家族の将来を考えて夜も眠れなかったことでしょう。しかし、どんなに不安であろうと苦しもうと避けられなかったのです。よく言われることですが、人はこういう時、まず「そんなはずはない」とその状況を強く否定し、つぎに天を呪い、最後にあきらめの境地になると言います。そのとおりなのでしょう。
 それでも彼は終始平静を保ったと、筆者には見えました。お葬式でまだ1歳そこそこのお孫さんを見て、彼も幸せだったろうと救われました。

 前著「禅を正しく、わかりやすく」にも書きましたが、筆者は6年前大変苦しい状況に陥りました。病気ではありませんが。そのとき筆者が長年書き溜めて来たノート3冊を繰り返し読みました。昔から「これはよい話だ。苦しい時には自分を支えてくれるだろう」という文章の一節を、さまざまな本や新聞から書き抜いて置いたものです。しかしいくらそれらを読んでも心は休まりませんでした。さらに悪いことには、体調まで悪くなったのです。視野の中に光が見える症状、心臓の動悸などです。眼科に行っても医者は首をかしげるばかり、内科へ行って「不整脈ですか」と聞いても、「そうではない」との返事。心臓の動悸は、初めの頃は一日数回でしたが、後には5分に1回にもなりました(ところが問題が解決してみると、これらの症状はピタリと治まったのです)。
 不思議なことに、とにかく全力で戦わなければいけないその時に、ともすれば「このままでいいんだ」と現状を肯定する気持ちが働くのです。そのための理屈まで考える始末。
結果としてはそれを抑えて戦い抜きましたが。

 なんとかそういう自分を支えたいと、本格的に禅を学び直したことは前にお話しました。いま考えますとこれは筆者にとってとても良い経験でした。「ピンチはチャンス」とはよく言ったものです。日本人なら一生の間に本格的に禅を学ばない手はありません。いずれきちんとお話しますが、禅はインドで基礎が作られ、西域を経て中国で発展してわが国へ伝えられました。栄西や道元のお蔭ですね。ところが中国ではその後の国家体制の変化もあり、今では禅の系譜は途絶えてしまったのです。曹洞宗では、禅の正統は道元の師、宋の如浄から道元に伝えられたと言います。あながち身びいきな言葉ではない、と筆者は考えます。

 道元の「正法眼蔵」はわが国古典の内でも最も難しいものとされています。しかし原文は漢文ではなく、かな交じりの日本語で書かれているのです。こんな幸運を受け止めなくでどうするのでしょう。

カントと「空」理論(1)

         中野禅塾だより (2015/12/16)

カントと「空」思想(1)

 前著「続・禅を正しくわかりやすく」でもお話したように、禅の「空」思想は、以前紹介した西田幾多郎の「純粋経験」理論とも、カント(イマヌエル・カント,1724-1804)の観念論思想ともよく似ています。すなわち、
 「純粋理性批判」(岩波文庫)においてカントは(一部筆者が簡約)、

 ・・・われわれは認識に当たってモノ自体、つまりモノそのものに触れるのではない。それは未知のXである。われわれが認識するのは現象であるにすぎない。われわれが認識するものは素朴に考えれば、いかにもそこにあるように見えるが、じつはそれはモノそのものではない・・・モノそれ自体存在するものではなくて、われわれの心の内にしか存在しえないものである・・・

と言いました。カントはこの考えを超越的観念論と名付けました。この思想はフィヒテ(1762-1814)やヘーゲル(1770-1831)に受け継がれて発展し、ドイツ観念論哲学の系譜と名付けられました。私たちがごく自然に「モノがあって私が見る」というモノゴトの見かたは、じつは19世紀、産業革命に伴って起こった、モノが大事、科学万能の唯物思想に馴らされている見かたに過ぎないのです。とリあえず現時点では読者の皆さんは「モノゴトの認識法には唯物論的見かたと観念論的見かたの二つがある」と思って下さい。

 要するにカントは、

・・・われわれが「モノがある」と認識しているのは、じつは「モノの本体(カントの言うモノ自体:筆者)ではなく、私たち一人ひとりの教養や感性によって判断された結果の「モノの像」を見ているだけなのだ。「見ている」という現象だけが真実だ。モノがいかにもそこにあるように見えるのは、それまでの経験や、さらに「他の人もそう思っているから」そう判断しているだけだ・・・

と言っているのです。「空」の思想とよく似ていることがお分かりいただけるでしょう。つまり、洋の東西を問わず、こういう考えは文化の発展に伴っておのずと出て来たのでしょう。ただし重要なことは、禅の「空」思想は、けっしてモノ自体を否定していないことです。「色」ですね。そして単に二つのモノゴトの見かたがあると言っているのではありません。「色と空が一如である」、つまり、「色即是空」、これこそ禅がカントらの西洋哲学とは決定的に違う東洋独自の思想だ、と筆者は考えています。

 「一如」とか、「不一不異」を全身で理解するのは容易ではありません。禅の修行の目的はそれを体得することにあると言っても過言ではないのです。それについては今後お話していきます。

仏教とキリスト教は同じ?

     仏教とキリスト教は同じ?(1)澤宮優さんの信仰

澤宮優さん(ノンフィクション作家)が「’10年版ベスト・エッセイ集 散歩とカツ丼 文芸春秋社刊」に書いています。かいつまんで言いますと(一部文章の前後や、てにおはを筆者の責任で変えさせていただきました)、澤宮さんは、

 ・・・30歳を目前としたとき、プロテスタント教会で洗礼を受けたが、長い間悩みを抱えていた。それはキリスト教が頭ではよく理解できても、僕の肌にもうひとつ合わないということだった・・・思い余って、協会の名誉牧師で文芸評論家の佐古純一郎先生に悩みを吐露した。「僕の家は浄土真宗ですし、仏教が肌に合うように思うのですが」。佐古先生は「仏教もキリスト教も同じなんだよ」と答えた・・・2年後京都広隆寺へ誘われ、小さな井戸を示し、佐古先生曰く「これはいらすの井戸と言って、いすらえるの井戸がなまったものだ。じつは秦氏が中国からキリスト教の一派ネストリウス派(中国では景教)を日本へ伝えたんだよ。その根拠がこの井戸だよ」・・・だが以後も僕は教会から逃げようとした。しかし仕事や精神的なことで行き詰ったとき、僕の足はいつしか教会へ向いていた。もう逃げられないな、と観念するしかなかった・・・

 本題に入りますと、澤宮さんは、仏教がキリスト教と同じであることの証拠として、
 1)平安時代には景教の宣教師によって漢訳の聖書が日本へ持ち込まれており、親鸞もそれを読んでいた。つまり、仏教もキリスト教の影響を受けて成り立っている。たしかに浄土真宗はキリスト教の教えによく似ている。
 2)親鸞の悪人正機説(註1)はイエスの教えの「汝の敵を愛しなさい」と意味は同じである。
 3)阿弥陀如来の阿弥陀とはサンスクリット語の「アミターユ」と「アミターバ」を漢字に当てはめたもの。前者が「寿命無量」、後者が「光明無量」という意味で、聖書の「まことの光」と「まことの命」と同じである。

(註1)歎異抄にある「善人なおをもて往生をとぐ、いはんや悪人においておや」

これらの証拠もあって、けっきょく澤宮さんは「僕はそれまで仏教とキリスト教、この二つを別物と考え、極めて浅い次元で信仰を選ぼうとしていたことを本当にに恥ずかしく思った」と言う。そして「僕がイエスという十字架を、背負ってゆくしかないなと決心したのはこの井戸を見てからだった」と言っています。

読者の皆さんは、澤宮さんのこの告白を読んでどうお考えでしょうか。もちろん信仰は自由で、その動機は本人だけのものでいいのです。
 筆者は以前、熊本城を訪れた時のことを思い出します。美しい石垣を「武者返しと言う」との説明を読んでいた隣の40代の女性が、「銀杏返しとはこのことなのね!」と興奮していました。いえ、武者返しとは石垣の構造の名であり、この城を銀杏城と呼ぶ。銀杏返しとは江戸時代の女の髪型で、3者はまったく関係がない、ということを城好きの筆者はわかっていたのです。つまりこの女性は、あちらをかじり、こちらをかじって得た知識を寄せ集めただけの、自分の「発見」に興奮しているのです。

 仏教とキリスト教は同じ?(2)

 前回お話した澤宮優さんの考えは恐らくキリスト教、仏教双方から反発、あるいは牽強付会説として無視されたでしょう(澤宮さんと同様の考えは、わが国のキリスト教信者の一部にもあります)。それに対し今回はまったく別の観点からキリスト教と仏教の一宗派の思想との類似性についてお話します。

 仏教の一宗派とは浄土系宗派、つまり、浄土宗や浄土真宗のことです。これらの宗派は仏教史において特異な地位を占めます。すなわち、仏教は釈迦の時代から今日に至るまで自力による救済を旨とし、修行僧には伝統的に六波羅蜜などの厳しい戒律が課されておりますし、坐禅・瞑想は重要な修法です。わが国の華厳宗の代表的寺院である東大寺の大仏は冥想の姿であり、真言宗の阿字観瞑想、空海が悟りを開いたきっかけとなったとされる有名な「虚空蔵求聞持法」は、現代でも高野山の奥深くで、限られた僧による厳しい修行として実践されています。もちろん曹洞宗や臨済宗などの禅道場では坐禅・瞑想が主要な修法ですね。
 これらの仏教の流れにおいて浄土思想はきわめて異質です。つまり、厳しい修行によるのではなく、「ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」と言うのですから。もちろん浄土宗の根本経典である「浄土三部経」は大乗経典のうちでも最も早く成立しました。しかし何と言っても、一切の戒律の遵守や修行を無視し、「ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えなさい」という法然の他力思想は独特のもので、法然の天才性・独創性を如実に示しています。よく言われるような、文字は読めず、高僧の教えを聞くチャンスもない当時の大衆の救済だけではないのです。貴族や武士、さらには現代人にも立派に当てはまる重要な教えなのです。そして親鸞こそ、法然の思想を正しく理解した人です。しかしその弟子たちの中にはよく理解せず、自己流の解釈をした者が多かったのです。筆者が「歎異抄は不肖の弟子たちが親鸞の考えを正しく理解していないことを『歎いた』ものであり、新しい思想などはない」と言うのはこのことです。
 ことほどさように、法然の思想は阿弥陀如来という絶対神による無条件の救済であり、まさにキリスト教におけるエホバの神、イスラム教におけるアッラーの神と同じです。その意味でキリスト教と仏教は似ているのです。澤宮さんの言うような「悪人正機説はイエスの教えの『汝の敵を愛しなさい』と意味は同じである」などの根拠とはまったく違うことがお分かりいただけるでしょう。

 それにしても、キリスト教や浄土思想の信者の中で、他力信仰の本当の意味を分かっている人はきわめて少ない、と筆者は思うのですが・・・。