金縛りは睡眠まひ?

 以下はNHK Eテレの人気番組「又吉直樹のヘウレーカ!」(水曜22時~)で放映されたものです(書籍化したものは「又吉直樹のヘウレーカ!何気なく感じるフシギを解き明かす」扶桑社)。お笑い芸人で作家の又吉直樹さんはよく金縛りにあうそうで、ライブで幽霊の悪口を言ったその晩に金縛りにあったことも。「霊のしわざでは?」という悩みに対し、脳科学者の上田泰己さん(東京大学医学系研究科教授)が科学的”に解明しています。お二人のやり取りは以下の通りです。

又吉:睡眠と金縛りとどういう関係があるんですか? 上田:頭の状態っていろんな状態があるんですが、おもには「覚醒(かくせい)」「ノンレム睡眠」「レム睡眠」の3種類があります。  そのうち不思議な状態にあるのが「レム睡眠」で、脳は覚醒の状態に近く、筋肉はノンレム睡眠の状態に近い。体が寝ているのに頭は起きているような、それがレム睡眠なんですね。

又吉:夢を見るのもレム睡眠中って言いますね。

上田:夢では、いろんな突拍子もないことが起こりますよね。レム睡眠中は体をあえて動かさないよう、脳からブレーキをかける指令が出ていると言われているんです。なので、そのときにたまたま起きてしまうと、脳からブレーキがかかっているので体は動けない。 又吉:はい。

上田:金縛りというのは、レム睡眠中にたまたま目が覚めてしまったという状況で、体はまだ起ききっていない“睡眠まひ”と呼ばれるような状態だと言われているんです。頭と体の不一致みたいなことが起きているだけなんです・・・

筆者の感想:ネットで調べても必ずこういう「回答」が載っています。しかし筆者はその回答はかなずしも正しくないと思っています。すなわち、霊的な現象もあると思うのです。 まず、霊的現象についてのフランスの哲学者H.ベルグソン(1859-1941)と日本の思想家小林秀雄さんの考えをお聞きください(これについては以前当ブログでご紹介しましたので内容についてはそちらをお読みください)。要するにベルグソンや小林さんは予知夢を例として、「すべてが間違っていると考えるのは正しくない。中には本物もある」と言っているのです。上田さんのような脳科学者には、金縛りを“睡眠まひ”として解釈している人が多いのでしょうが、そう結論するには重大な問題があるのです。上田さんの研究には方法論上の決定的な欠陥があるのです。脳波などを測定してそう判断しているのでしょう。しかし、1)金縛りが起こっている時に検査しているかどうか、次に2)被検例がどれほどあるかが問題なのです。金縛りはまったく偶発的なものですから、いつ起こるかわかりません。被検者は「今起こっている」と言うこともできません。そのため、少なくとも2週間は毎晩脳波を取り、あとで「金縛りが起こったかどうか」を確認し、起こっていなかった時の脳波と比較しなければなりません。上田さんがそれを実践した上での判断かどうかが問題なのです。さらに、たとえ99例が“睡眠まひ”と判断されようと、残り1件が霊的現象であるかもしれないのです。つまり、10例や20例の被検者について調べても、ほとんど無意味なのです。これで、実験科学者であった筆者が、「上田さんたち脳科学者の研究には決定的な瑕疵がある」と言ったわけがおわかりいただけると思います。

 筆者は、金縛り現象を2回経験しています。ある時期に続けて起こりました。明らかに霊的現象と思われるものです。それについて詳しくお話することは止めます。実りのない感情的な反論が出るだけでしょうから。

無と空(森正弘さん)

 森正弘さん(1927- 東京工業大学名誉教授・名古屋大学工学部卒)はロボット工学者。ロボットコンテストの創案者。臨済宗の師家について30年来指導を受け座禅を続けた。「仏教新論」佼成出版社・「今を生きて行く力『六波羅蜜』」教育評論社・「親子のための仏教入門ー我慢が楽しくなる技術」幻冬舎〈幻冬舎新書〉など仏教関係の著作も多い。筆者と同じ大学の出身ということもあり、「非まじめのすすめ : ゴミを砂金にする発想」(講談社)など、古くからの愛読者です。

 NHK「心の時代・二つを一つにする」では仏教の「価値の三性の理」に基づきお話をしていました。「三性の理」とは、人の性には善性、悪性、および善でも悪でもない中性の無記(むき)の3種の性があるという考えです。森さんは、「善人と悪人とを対立して考えるべきではなく、価値判断をしない無記という性質がある。たとえば昔、説教強盗という者がいた。強盗に入って家人を縛り付けたのち、『こんな戸締りではダメだ』と説教した犯人です。逮捕された後、専門的知識(?)生かして各地を講演して回った(註1)。このように、一人の人間の中に善と悪がある。よく善悪は表裏とか、人間の性は善が70%、悪が30%という人がいるが、そうではなく、善悪が融合している。それが本性だ」と言っています。そしてそれを「二元対立論的一原論」と名付けています。森さんはさらに「言葉で言うと対立になる。無記とは仏法(真理)であり、言葉では言えないもの、それを仏教ではとかと言う」とおっしゃっています。さらに、「知識を増やす、複雑化する、言葉が大切などの、現在養われている陽の頭と、今後絶対に必要な、観察力や直観力を養う、単純化が重要、体験が大切などの陰の頭の二つを合わせた向こうに、いま有名な般若心経の般若の知恵がある。それはこの放送で解説できるような簡単なものではない」と。

 しかし、これの解釈は間違っていると思います。第一に、無と空とはまったく別の概念です。それだけでも森さんの解釈は正しくないことは明らかです。それがわからなければ「般若心経」はわかるはずがありません。「般若心経」は「色」と「空」が不一不異であること、つまり「色即是空・空即是色」が中心テーマだからです。筆者による「般若心経」の解釈はすでにお話しました(「禅をただしくわかりやすく」パレード社をご参照ください)。森さんは「無とか空は言葉では言えないもの」とおっしゃっていますが、筆者は「空」の解釈についても何度もこのブログシリーズで言葉でお話しています。キリスト教では「はじめに言葉ありき」と言います。それには深い意味があるのです。「神が光あれとおっしゃったら光ができた」の言葉の通りなのです。真理は言葉なのです。宇宙原理が言葉で表現できないはずがありません。第一、無記とは、「言葉で言い表せない」ではなくて、「釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたこと」を言うのです。

 また、森さんが言う陽の頭・陰の頭とは、いわゆる左脳と右脳のことでしょう。別に目新しい考えではありません。ちゃんとした人ならだれでも両方使っているはずです。さらにそれを般若の知恵と言うのは飛躍があり過ぎです。

 加えて、森さんは「学生たちが夢中になってロボットを作っている状態は三味(ざんまい)だ」と言っていますが、禅で言う三味の真の意味は別なのです。三昧とは、深い瞑想のことであり、頭は働かせていない状態です。脳波の形が全然違うのです。

 前記のように、森さんは30年来、臨済宗の師家の指導を受け、座禅も続けてきたそうですが、30年やろうと40年やろうと同じなのです。禅はわかったか、わからないかの世界と言われるのはこのことです。

註1大正末年から昭和4まで東京市(当時)で強盗・強姦の犯行を重ね、立ち去り際に被害者に防犯の注意をした。服役後は自らの体験を元に各地で防犯講演を行った。

廓然無聖(かくねんむしょう)

代表的な公案集「碧巌録」の第一則に上げられています。編者圓悟克勤も重要な公案だと考えたのでしょう。その本則に、

帝(武帝)曰く「如何なるか是、真の功徳」と。師(達磨大師)曰く「浄智妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如くの功徳、世を以て求めず」と。帝、又、問う「如何なるか是、聖諦第一義諦」と。師曰く「廓然無聖」と。帝曰く「朕に対するは、誰ぞ」と。師曰く「不識」と。帝、領悟せざるに、師、機の契わざるを知る。

ふつう以下のように解釈されています。

梁の武帝が達磨大師に聞いた。「仏法の根本義はどのようなものですか」 達磨:「からりと晴れ渡った青空のように何も無いわい」 武帝:「朕に向かいそのようなことを言っているお前は一体何者だ」 達磨:「そんなことは識(し)らん」 武帝は達磨の心を理解できなかった。達磨はついに江(揚子江)を渡って魏に去った。

筆者のコメント:「無聖」を「聖も俗もない(悟りや迷いもない)」と解釈する人もいますが、やはり、「廓然」と同じ「なにもない」だと思います。「お前はいったい何者だ」は、もちろん単に(達磨の)素性や知識を聞いているのではありません。「人間とは何か」を問うているのです。達磨が「そんなことは識(し)らん」と答えたのも、当然でしょう。「私の言葉の真意をわからない人に、私が誰であるか答える必要はない」と言いたかったのかもしれません。

 筆者は、「正法眼蔵」を学び、「道元禅師語録(永平元禅師語録)」、および「臨済録」を現代語訳するなど、長年禅を学んできました。その上で 達磨の言う「仏法の根本義など、からりと晴れ渡った青空のように何も無いわい」は名言だと思うのです。「アッ」と思いました。「論語読みの論語知らず」になってはいけないとの警句だと解釈しています。

「景德傳燈録」第三巻にはこのやり取りの前半が書かれています。すなわち、

帝(武帝)問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師(達磨)曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖(いえど)も実には非ず(実体の影のようなもので、実体などありません)」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て求まらず」

筆者の簡約:「寺を建てたり、写経をしたり、僧侶を養成しても、そんなものは単にこの世の些事に過ぎません。悟りはすばらしいものであり、この世の些事を超越するものです。

悟りに至ることこそ大切です」・・・これもよい言葉ですね。

無我-凡愚さま

 筆者の考えをよく理解していただいている凡愚さんからコメントがありました。他の皆様にもご参考になると思いますので、ここでご紹介させていただきます。

 ・・・凡愚です。ご回答ありがとうございます。自我とは心理学の方では、自分が考える「自分」アイデンティティ「自我同一性)」であり、自己とは自分と他人を通しての「自分」パーソナリティと、区別されるようです。
 「無我」ですが、我という実体はない、という風に使われているように思えます。これは、我(アートマン)が無いといっているのか、おおよそ実体というものはない(無常に照らすと)、だから、我は無いと言っているのか。この場合、実体というものではないが、仮に「自分」を措定して、わたしたち意識(意識は全て自己意識である)あるものは、「自分」があると考えたら良いのか。
 本日(2019.7.27)Eテレ「こころの時代」を観ていると、正眼寺住職の山川宗玄氏が、「(無我といっても)我が無いわけではない」とおっしゃられたように聞こえました。すると、我が引っ込んだ状態なのかな、とも思えます。我が引っ込んでも、考えてないわけのではないので、何かが考えている、その何かを、「自己」と言えるのかもしれません。
 無我は難しいです。中野さんのご教示を、よろしくお願い申し上げます・・・

筆者の考え:

 凡愚さんは「我」について、少し混乱があるようです。まず、「我」はかけがえのないものです。私たちは「我」のために懸命に生き、家族を養い、世の中にも貢献していることを再確認してください。しかし他人もそうしていますから、当然確執が生じ、苦しみも生じます。仏教はそのためにあります。

 仏教では永遠に続く我(アートマン)というものを否定しています(註1)。「、現代の宗教家や、仏教解説者のほとんどが、「すべてのものは変化する(無常)。だから「我」などない」と解釈しています。「我と言う固定的なものがなければ、苦しみもない」と言うのでしょう。

 しかし、筆者は、この考えは後世の仏教哲学者が、釈迦の思想を拡大解釈したものだと思っています。以前にもお話しましたが、釈迦おっしゃったのは、「あらゆる苦しみには原因がある。それに気づくことが苦しみから逃れる第一歩である」とう簡単な、しかし重要な人間の知恵だったと思います。縁起の法則ですね。それを後世のインドの思想家たちが、「あらゆるモノゴトには原因がある→原因がなければモノもない(飛躍ですね:筆者)→「我」という実体もない・・・と拡大解釈していったのだと思います。そしてそれを理屈づけるために、「あらゆるものは変化するから、「我」も変化し、固定的な「我」はない(無常の法則ですね)と、釈迦の真意を変化させていったのだと思います。

註1 釈迦はアートマン(個我)もブラフマン(神)も肯定も否定もしていません。「無記(考える必要はない)」と言っているのです。いつもお話するように、釈迦は「苦から逃れるにはどうしたよいのか」という、人間の知恵を説いているのです。つまり、「それを考える際にアートマンとかブラフマンのようなよくわからないものを頼りにするな」と言っているのです。それを後世の仏教哲学者たちが、それ以前のウパニシャッド哲学を乗り越える(アンチテーゼ)ための理論としまったため、「アートマンやブラフマンはない」とか、「無我」という概念を作り上げたのです。

 一方、山川宗玄師は、「修行僧たちが作務を共同でするとき和合が大切だ。それを円滑に行うには自己主張してはいけない。それを「無我」と言います。しかし我を無くしたわけではありません」とおっしゃってるのです。いわば当然のことで、禅語とも言えないものですね。

 筆者は「無我」を「空理論」との関わりで理解しています。「空」についての筆者の解釈は、すでに何度も当ブログシリーズでお話しました。かいつまんで言いますと「空(くう)とは人間が(見た、聞いた・・・)体験こそが真実だ」というモノゴトの観かたです。その考えでは「『我』は体験の主観的部分、(モノゴトは客観的部分)」に過ぎず、そこには自己という独立したものはないのです。いかがでしょうか。

註1 ちなみに筆者は、この部分ではむしろウパニシャッド哲学の方に共感を覚えています。

岸根卓郎氏批判-田中善積様(2)

意識は量子論で説明できる?

  そもそも人間の意識を量子論と関連付けて解明しようとする考えは、けっして岸根氏の独創ではありません。おそらく量子の不思議な性質が人間の心の不思議さと似ているので両者を関連づけようとしてきたのでしょう。多くの人が関心を持ち、イギリスのB・ジョセフソンもその一人です。B・ジョセフソン(1940-)は、弱く結合した2つの超伝導体の間に、超伝導電子対のトンネル効果によって超伝導電流が流れる現象を発見し、33歳で日本の江崎玲於奈博士とともにノーベル物理学賞を受賞した量子力学の権威です。彼はその後、ケンブリッジ大学でMind–Matter Unification Project(精神-物質統合プロジェクト)を指揮し、人間の心や意識を科学的に解明しよう研究しています。さらに、テレパシーやサイコキネシス(念力)、さらには幽霊まで科学的に明らかにしようとしているのです。しかし、このプロジェクトが始まって以来15年以上経ちますが、成果はまったく上がっていないのです。B・ジョセフソンは謙虚な人ですから、「これらの問題は量子論がもっと発達するか、まったく別の理論によらなければ解明できないだろう」と言っています。これが科学的態度です。

 いずれにしましても岸根氏は当然、著書でこれら他の研究者のことに触れなければなりません。それが科学のルールです。これだけでも岸根氏は失格なのです。

 一方、前述のマックス・テグマークも「やがてうちの研究グループは意識を数式化できる」と思い切ったことを言っていますが、どうでしょう。

 筆者も、人間の意識はどこから来ているのか、科学的に解明できるのかについて強い興味を持っています。そのために量子力学のコペンハーゲン解釈について調べ、B.ジョセフソンやM.テグマークの著作も読んでいるのです。その上で岸根氏の論説は受け入れ難いと言っているのです。

参考文献2「科学は心霊現象をいかにとらえるか」ブライアン・ジョセフソン著、茂木健一郎・竹内薫訳(徳間書店)