よく、教外別伝・以心伝心・不立文字・直指人心と一まとめにして言われます。禅の重要な思想と言われています。たとえば、
〈無門関〉第六則〈世尊拈花〉にある有名な公案では、 ・・・・釈迦が弟子たちを集めて説法したとき、釈迦は何も言わずに蓮華の花の一輪をひねった。弟子たちの多くはそれが何を意味しているのかわからなかったが、ただ一人、弟子の迦葉(かしょう)だけがその意味を理解し、微笑したという・・・・。
その意味としてほとんどの解説者は「禅の思想は言葉で伝えるのではなく、以心伝心で伝えるものだ」と言っています。もちろん釈迦がこんな「臭い」芝居をするはずはありませんが、思想としてはよくわかりますね。このエピソードの根拠は〈大梵天王問仏決疑経〉にあるとされていますが、この経典そのものが偽経、つまり後代に中国で作られたものと言うのです。ただ、いかにも「禅の奥義とはそういうものだ」と説明するのに好適なのでしょう。筆者は、おそらくそのために禅宗の誰かが創作したものと考えています。
しかし、禅の思想は言葉で表現されうるものです。なによりも思想は言葉なのですから。 たしかに、なにごとも言葉で説明するのは不十分です。私たちの日常でもよく経験することですね。しかし、言葉で説明できない思想などありません。考えても見てください。詩人はすばらしい洞察力で思想を言葉で表現します。次は筆者の好きな中原中也の〈汚れつちまつた悲しみ〉の詩です。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる・・・・・(以下略)
俳句の松尾芭蕉でも同じです。芭蕉は禅の修行をした人で、あるとき師の仏頂に「今の心境は」と聞かれ、「蛙飛び込む水の音」と答えたとか。つまりあの有名な俳句は、あとから「古池や」と付け加えて出来上ったのです。