龍樹の「空」と禅の「空」は異なる

ふたたび龍樹の「空」と禅の「空」は異なる

 龍樹の「空」思想

 龍樹の「中論」についてシリーズを続けています。龍樹は、「縁起と仮(け)と空と中道は同じ意味だ」と言っています。つまり、すべてのモノゴトは原因(因)と条件(縁)によって成立した仮のものであり、実体はない」と言うのです。以前にもお話しましたが、筆者は40年以上前、初めて禅に興味を持った時、有名な禅師M詩の入門書を読みました。そこでは「空」の説明として、

 ・・・あらゆるものは空であるから実体がない。それはすべてのものは関わりあっており、あらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではないからだ・・・

とありました。つまり、「縁起の法則」と「無常の法則」に則った解釈ですね。筆者はこの論法がどうしても納得できませんでした。「実体」はあるとしか思えなかったのです・・・。けっきょく30年も禅から離れていました。筆者はよく、「その禅僧の頭をポカンとたたいてみればいい。『痛いじゃないか。なにするんだ』と言うでしょう。その時は『だってあなたという実体はないのでしょう?』」と言います。

 M師のこの解釈は、多くの禅解説者の平均的なものです(ためしにネットで調べてください)。以前、読者から質問がありました。かいつまんで言いますと、
 ・・・M師は臨済宗の著名な禅師です。「M師が、禅の基本思想である「空」の意味を、「あらゆるモノは変化し、他のモノと関係し合っているから実体はない、とする解釈はおかしい」との、あなた(筆者のこと)の指摘はちょっと納得できない・・・
というものです。これらの人たちは、龍樹の「空」思想と禅の「空」思想とは別のものであることに気付いていないのです。勉強不足でしょう。この誤った解釈が、これまでどれほど禅をわかりにくいものにしてきたか・・・。困ったことです。

禅の「空」思想

 このブログシリーズで何度もお話したように、禅では「空」とは、私がモノを見る(聞く・嗅ぐ・味わう・触る)という体験であり、それこそが真の実在だ」と言うのですから、明らかに龍樹の「空」とは違います。筆者は7年前から禅の勉強を再開し、5年目でようやくこのことに気が付きました。仏教の、そして禅の基本概念である「空」の意味が異なるとは思いもよらなかったのです。それに気付いた時はうれしくて、すぐにこのブログを読んでくれている友人に知らせたほどです。つまり、M師は龍樹の「空」概念で禅を理解しようとしたのです。

この「空」の解釈でしたら、「実体のあるなし」とは関係ないので、すんなりと得心が行きます。

龍樹「中論」(1-4疑問)

龍樹「中論」(1)

 今回から龍樹(ナーガールジュナ、以下龍樹)の「中論」について、中村元博士(註1)の同名の著書(講談社学術文庫)を基に考察してゆきます。龍樹(AD150?‐AD250?)はインドの哲学者。大乗仏教に理論的根拠を与え、その後の方向性に大きな影響を与えた人です。

 釈迦入滅後の仏教
 釈迦が具体的にどんな教えを説いたのかは、じつは今となってはよくわからないのです。文章として残されたものが皆無だからです。たしかに釈迦の滅後まもなく弟子たちが集まり、大迦葉を中心にそれぞれの記憶を調整し(第一次結集けつじゅう)、それらを韻文としてまとめ、口伝で伝えられました。インドでは宗教の教えを詩として言葉で伝えることは普通のことだったようです。それらが成文化されたのは、数百年後で、いわゆるパーリ語経典です。初期仏教と言います。しかし、それらの内、どれが釈迦の言葉なのかは、後代の学者によって大きな差があります。その中で「スッタニパータ」(「縦の教え」の意味)はもっとも古いものと言われ、釈迦の言葉をそのまま伝えている部分もあるようです(中村元博士「ブッダのことば」岩波文庫)。中村博士によるとその論拠は、1)釈迦が話していたと思われる東マガダ語が入っていること、2)仏塔や尼僧の話が出てこないこと(これらについてはずっと後から出てくる)、3)くり返しの多い韻文で書かれていることなどです。それにしてもやはり、「釈迦の言葉の一部が残っているかもしれない」という程度だと思います。しかし現代に至っても、パーリ語仏典のみならず、大乗仏教の経典類まで「釈迦の直説だ」と言う宗派があるのですから驚きです(多くの大乗経典は、「如是我聞‐私はブッダからこのように聞いた」で始まります)。
 インド人はよほど哲学好きだと思われ、初期仏教集団には上座部、大衆(だいじゅ)部合わせて10部もあります。これからお話しする「説一切有部(以下有部)」は上座部に属し、さらに8つに分かれるのです。「有部」の根本主張は、「一切の実有なる法体が三世において恒有である(三世実有、法体恒有)」というものです。つまり、「世界のすべてのモノや現象にはその基礎となる「法(原理)」があり、それらは過去・現在・未来にわたって厳存する」というものです。ここが重要ですからご記憶ください。

大乗仏教の発展
 いまお話したように、口伝で伝えられた釈迦の教えは、その後いわゆる上座部と大衆(だいじゅ)部などの初期仏教徒によって哲学として練りに練られ、激しい論争を経て深化されてゆきました。それらの初期仏教は王族や貴族の厚い支持を得て、多くの寄進を受けて発展していきました。中でも「説一切有部」がもっとも盛んになり、かれらは特権階級として、壮大な仏殿の奥深くで修行に励み、かつ哲学的思考にふけったようです。それに対し次第に庶民の中から「仏教は大衆のためにあるのではないか」という要求が大きくなっていきました。そうして生まれてきたのが大乗仏教です。その経典は哲学というより、大衆救済のための壮大な物語であったのも当然かもしれません。大乗仏教のスローガン「自未得度先度他(自分が悟りを開くことより、大衆を救うことが大切だ)」は今に続き、時に過激とも言われる勧誘がよく知られていますね。そして「大般若経」「涅槃経」「阿弥陀経」「浄土三部経」などの初期大乗経典が前1世紀ごろから次々に作られて行きました。そして今度は初期仏教徒と大乗仏教徒の間には激しい論争が繰り広げられたのです。その中でナーガールジュナ(龍樹)が出ました。AD150‐250頃と言われています。

仏教史における龍樹の役割
 龍樹が最大の論敵としたのが上座部の一つ、「説一切有部」です。そこで以下に、龍樹の「中論」を解説するために、中村元博士の「龍樹」(講談社学術文庫)に基づいて話を進めます。中村博士(1912‐1999)は、東京大学名誉教授。古代インドのウパニシャッド哲学(ヴェーダ信仰)から、「スッタニパータ」「大パリニッバーナ」などの初期仏教のパーリ語仏典類、さらに「維摩経」「法華経」「般若経典」「浄土三部経」などの、いわゆる大乗経典類などの仏教全体にも及ぶ翻訳・著作活動をした驚くべき学者です。

龍樹「中論」(2)龍樹と有部の論争

「中論」で示された龍樹による有部に対する論難の代表的なものに「運動の否定」があります。その前に、もう一度「有部」主張の根本をおさらいしましょう。その根本主は、「一切の実有なる法体が三世において恒有である」というものです。つまり、「世界のすべてのモノや現象にはその基礎となる『法(ありかた、原理)』があり、それらは過去・現在・未来にわたって厳存する」というものです。いわゆる三世実有法体恒有思想です。「運動の否定」とは(p120)「不来不去」の問題とも言い、「中論」の中心課題で、その説明が延々と続きます(中村博士も釈然とはしていないのではないか?)。

 有部は言う:・・・動きの存するところに去るはたらきがある。その動きは<現在去りつつあるの>にあって、<すでに去ったもの>にも<まだ去らないもの>にもないが故に、<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。
 龍樹は答える:・・・<現在去りつつあるもの>のうちにどうして<去るはたらき>がありえようか。<現在去りつつあるもの>のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに。われわれが「去りつつあるもの」というときには、すでに「去るという作用」に結びついている。もしも「去りつつあるものが去る」というならば、その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。それは不合理である。「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるものの」中に含まれている「去」と、あらたに述語として付加される「去」の二つの<去るはたらき>が付随することになる。

筆者のコメント:龍樹の言い分はなんかへ理屈みたいですが、この論法は後に出てくる「不一不異」や「不常不断」の論争でも使われていますので、よくお考え下さい。さらに、皆さんは「これが一体どんな重要な論争なのか」と思われるでしょう。ここのところを、中村博士の解説(p135)は、
 ・・・法有(有部)の立場は自然的存在を問題とせず、その「ありかた」が「有る」、となすのであるから、一人の人が歩む場合に「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」を区別して考え、それぞれに実体視せねばならないはずである・・・したがって龍樹は概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を否定したのでもない。概念に形而上学的実在性を付与することを否定したのである・・・
筆者のコメント:要するに、「有部」は「法(ダルマ、原理)には不変の実体がある(三世実有法体恒有思想ですね:筆者)」と言っており、それを龍樹が問題にしているのです。なぜなら、龍樹は、「そもそも釈迦の釈迦の教えの絶対的基本は、『いかなる個人的存在も、またいかなる個人的事物も永久に存在(常住)すると考えてはならない』である。それゆえ、「有部」はまちがっている(註1)」と言ったのです。つまり、「法・ありかた・原理といえど、永久に存在するものではない。それは釈迦お教えの根本に反する」と言ったのです。
 
 龍樹の考えの根拠
  龍樹はその思想を、いわゆる縁起の法則に基づいています。縁起の法則とは、「あらゆるモノゴトは必ず原因(因)と条件(縁)によって起こるのであって、それ自身では起こらない(無自性)。つまり「あり方(法・原理)」も例外ではない」と言うのです。この「法の無自性」こそ、龍樹が「有部」を批判する最大のポイントなのです。

龍樹と中観派の論法:プラサンガ

 龍樹とその信奉者中観派はけっして自らの主張を立てることはしません。龍樹曰く、
「もしわたくしに何らかの主張があるならば、まさにそれゆえに、わたしには理論的欠陥が存することになるであろう」(p129)。つまり、龍樹や中観派は「自分たちの理論は絶対不敗だ」と言っているのです。これをプラサンガ(破邪の論法)と言います。「他の宗教や仏教の宗派を徹底的に批判するだけで、(それが取りも直さず自説を示すことになるから)負けることはない」と豪語するのです。はたしでそうでしょうか?

 「有部」と龍樹の論争は、ともすれば釈迦の教えとはかけ離れたものになって行きました。「釈迦も驚く論争」でしょう。前にもお話したように、釈迦の教えは、もともと現実的で素朴なものだったと思います。それをインドの哲学好きたちが練りに練り、深く深く突き詰めて哲学化して行ったのでしょう。しかし、この論争はやがて、不一不異とか不生不滅というような、禅の思想にもつながっていったのですから、おろそかにはできません。

註1 じつは釈迦はそれに続いて、
 「また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてはいけない」とも言っているのです。ここがきわめて重要ですからよく覚えておいてください。

龍樹「中論」(3)

 この「運動の否定」論争(「龍樹」p132)は重要な禅思想でもある不一不異に結びつきます。すなわち、

 ・・・「去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるということは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない」(「中論」第18詩)。「もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるであるならば、作る主体と作るはたらきが一体になってしまう」(同19詩)。「また、もしも、去る<主体>は<去るはたらき>から異なっていると分別するならば、<去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるであろう」(同第20詩)・・・

 チャンドラキールテイー(7Cのインド中観派の思想家)の解説(p132)
 ・・・「もしもこの去る作用が去る主体と離れていない(すなわち去る主体と異ならない)のであるならば、その時には作る主体と作用との同一なることが有るであろう。それ故にこれは作用であり、これは作者(作る主体)であるという区別はないであろう。それゆえに去るはたらきがすなわち去る主体であるとそれ故にこれは作用であり、これは作者(作る主体)であるという区別はないであろう。それゆえに去るはたらきがすなわち去る主体であるということは正しくない。また、去る主体と去るはたらきとの別異なることもまた存しない・・・

筆者のコメント:要するに、人がいるから「去る人」が成立し、「去る」という動作があるから「去る人」が成立する。つまり、「『去る人』にあっては、人と去る動作は同じでもなく、別でもない」言うのですね。あたりまえのことで、別に取り立てて論ずることでもないような気もしますが・・・。

 この論法は、不生不滅思想の証明にも用いられました(p137)。すなわち、
 ・・・いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、けっして生じない。まだ滅びないものも滅びない。すでに滅んでしまったものも滅びない。いま現に滅びつつあるものも同様に滅びない・・・。

不一不異

 仏教とは別のインドのバラモン教の教えにもあります。宇宙の唯一絶対の根本原理(神)ブラフマンと種々雑多な現象界が、ある点では異なり,ある点では同一であると説く立場です。禅にもある重要な言葉ですが、明らかに龍樹やバラモン教の考えとは違います。禅の思想では、あらゆる意味で「概念の固定化」を避けるための理論です。

 龍樹(中観派)の言う「悟り」とは
 「空」とは縁起であり、「縁起の法」を体得することによって、われわれの現実生存の如実相(本当の姿:筆者)を見ることができ、迷っている凡夫が転じて覚者になる(「龍樹」 p306)。つまり、「あらゆるモノゴトは、原因(因)と条件(縁)があって起こることを知ることが悟り(苦しみから逃れる方法)だ」と言うのです(註3)。
 しかし、本当にそうでしょうか。東日本大震災や、阪神淡路大震災で大切な家族を亡くした人に、「あなたのお母さん(子供さん)さんは、あの時ちょうどあそこに居たから津波に巻き込まれた・・・」などと言われて納得できる人がいるでしょうか。

註3「因縁生(縁起)ならざるいかなる法もあることなし」

 中村元博士は、「中論は天台宗、華厳宗、浄土宗などにも影響を与えた」と言っています。確かに華厳経の「インドラの網(インドラ《帝釈天》の宮殿にかかる網。網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出すという深遠な世界を示す言葉)」の思想は、まさに縁起の法則の延長上にあるものでしょう。しかし筆者は龍樹の思想には大きな疑問があると思います。次回はそれについてお話します。

龍樹「中論」(4)龍樹の考えに対する疑問 

 1)縁起の法則は釈迦の思想の拡大解釈では?
 その1)
 龍樹や中観派は、このようにして「モノゴトの『あり方』(法、原理)は、過去・現在・未来にわたって厳存する」という「有部」の思想を徹底的に攻撃しました。「われわれの思想は絶対不敗である」と豪語しながら。しかし龍樹は釈迦の思想を誤判断しているのだと思います。たしかに釈迦は、「いかなる個人的存在も、またいかなる個人的事物も永久に存在(常住)すると考えてはならない」と言っているのですが、それに続いて、「また反対に、ただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてもいけない(註2)」とも言っているのです。釈迦はけっして「常在」だけを否定しているわけではないのです。「常在や断滅は絶対肯定しても、絶対否定してもいけない」のです。いわゆる「牟尼(沈黙)」したのです。ですから、「有部」の考えもあり得るのです。

 縁起の法則は釈迦の思想の拡大解釈では?
  その2)
  くり返しますが、釈迦が言った「縁」とは「あらゆる苦には原因がある。それを突き止めることが大切だ」という現実的な生きるノウハウだと思います。その後、それを初期仏教徒や龍樹などのインドの哲学者たちが、哲学的に深化した結果「縁起の法則」となったのだと思います。そのため、「中論」に書かれている「有部」と龍樹の論争など、意味のない論争と言ってもいいと思います。

2)法は厳存する

 龍樹は、「法には自性などない。縁起によってできた仮のものだ」と「有部」を攻撃しますが、「縁起の法」自体も「法」のはず。その厳在を大前提にしているのですから、自縄自縛に陥っているのです。

 現在宇宙物理学界には、「モノゴトの原理は宇宙開闢以来(多分それ以前からも)厳存する。そしてそれらは宇宙原理とも言うべき基本原理の支配下にある」を疑う人はいません。数学者は言います「三角形の内角の和が180度であることは、宇宙のどこへ行っても成立する」と。むしろ「有部」の考えの方が正しかったと思います。

 いかがでしょうか。龍樹は大乗仏教の発展に大きな影響を与えたと言われていますが、龍樹の思想がこうでは、その後の仏教思想がすべて怪しくなります。