龍樹「中論」(2)

龍樹「中論」(2)龍樹と有部の論争

「中論」で示された龍樹による有部に対する論難の代表的なものに「運動の否定」があります。その前に、もう一度「有部」主張の根本をおさらいしましょう。その根本主は、「一切の実有なる法体が三世において恒有である」というものです。つまり、「世界のすべてのモノや現象にはその基礎となる『法(ありかた、原理)』があり、それらは過去・現在・未来にわたって厳存する」というものです。いわゆる三世実有法体恒有思想です。「運動の否定」とは(p120)「不来不去」の問題とも言い、「中論」の中心課題で、その説明が延々と続きます(中村博士も釈然とはしていないのではないか?)。

 有部は言う:・・・動きの存するところに去るはたらきがある。その動きは<現在去りつつあるの>にあって、<すでに去ったもの>にも<まだ去らないもの>にもないが故に、<現在去りつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。
 龍樹は答える:・・・<現在去りつつあるもの>のうちにどうして<去るはたらき>がありえようか。<現在去りつつあるもの>のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに。われわれが「去りつつあるもの」というときには、すでに「去るという作用」に結びついている。もしも「去りつつあるものが去る」というならば、その「去りつつあるもの」がさらに「去るはたらき」と結びつくことになる。それは不合理である。「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるものの」中に含まれている「去」と、あらたに述語として付加される「去」の二つの<去るはたらき>が付随することになる。

筆者のコメント:龍樹の言い分はなんかへ理屈みたいですが、この論法は後に出てくる「不一不異」や「不常不断」の論争でも使われていますので、よくお考え下さい。さらに、皆さんは「これが一体どんな重要な論争なのか」と思われるでしょう。ここのところを、中村博士の解説(p135)は、
 ・・・法有(有部)の立場は自然的存在を問題とせず、その「ありかた」が「有る」、となすのであるから、一人の人が歩む場合に「去る」という「ありかた」と「去る主体」という「ありかた」を区別して考え、それぞれに実体視せねばならないはずである・・・したがって龍樹は概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を否定したのでもない。概念に形而上学的実在性を付与することを否定したのである・・・
筆者のコメント:要するに、「有部」は「法(ダルマ、原理)には不変の実体がある(三世実有法体恒有思想ですね:筆者)」と言っており、それを龍樹が問題にしているのです。なぜなら、龍樹は、「そもそも釈迦の釈迦の教えの絶対的基本は、『いかなる個人的存在も、またいかなる個人的事物も永久に存在(常住)すると考えてはならない』である。それゆえ、「有部」はまちがっている(註1)」と言ったのです。つまり、「法・ありかた・原理といえど、永久に存在するものではない。それは釈迦お教えの根本に反する」と言ったのです。
 
 龍樹の考えの根拠
  龍樹はその思想を、いわゆる縁起の法則に基づいています。縁起の法則とは、「あらゆるモノゴトは必ず原因(因)と条件(縁)によって起こるのであって、それ自身では起こらない(無自性)。つまり「あり方(法・原理)」も例外ではない」と言うのです。この「法の無自性」こそ、龍樹が「有部」を批判する最大のポイントなのです。

龍樹と中観派の論法:プラサンガ

 龍樹とその信奉者中観派はけっして自らの主張を立てることはしません。龍樹曰く、
「もしわたくしに何らかの主張があるならば、まさにそれゆえに、わたしには理論的欠陥が存することになるであろう」(p129)。つまり、龍樹や中観派は「自分たちの理論は絶対不敗だ」と言っているのです。これをプラサンガ(破邪の論法)と言います。「他の宗教や仏教の宗派を徹底的に批判するだけで、(それが取りも直さず自説を示すことになるから)負けることはない」と豪語するのです。はたしでそうでしょうか?

 「有部」と龍樹の論争は、ともすれば釈迦の教えとはかけ離れたものになって行きました。「釈迦も驚く論争」でしょう。前にもお話したように、釈迦の教えは、もともと現実的で素朴なものだったと思います。それをインドの哲学好きたちが練りに練り、深く深く突き詰めて哲学化して行ったのでしょう。しかし、この論争はやがて、不一不異とか不生不滅というような、禅の思想にもつながっていったのですから、おろそかにはできません。

註1 じつは釈迦はそれに続いて、
 「また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてはいけない」とも言っているのです。ここがきわめて重要ですからよく覚えておいてください。

龍樹「中論」(1)

龍樹「中論」(1)

 今回から龍樹(ナーガールジュナ、以下龍樹)の「中論」について、中村元博士(註1)の同名の著書(講談社学術文庫)を基に考察してゆきます。龍樹(AD150?‐AD250?)はインドの哲学者。大乗仏教に理論的根拠を与え、その後の方向性に大きな影響を与えた人です。

 釈迦入滅後の仏教
 釈迦が具体的にどんな教えを説いたのかは、じつは今となってはよくわからないのです。文章として残されたものが皆無だからです。たしかに釈迦の滅後まもなく弟子たちが集まり、大迦葉を中心にそれぞれの記憶を調整し(第一次結集けつじゅう)、それらを韻文としてまとめ、口伝で伝えられました。インドでは宗教の教えを詩として言葉で伝えることは普通のことだったようです。それらが成文化されたのは、数百年後で、いわゆるパーリ語経典です。初期仏教と言います。しかし、それらの内、どれが釈迦の言葉なのかは、後代の学者によって大きな差があります。その中で「スッタニパータ」(「縦の教え」の意味)はもっとも古いものと言われ、釈迦の言葉をそのまま伝えている部分もあるようです(中村元博士「ブッダのことば」岩波文庫)。中村博士によるとその論拠は、1)釈迦が話していたと思われる東マガダ語が入っていること、2)仏塔や尼僧の話が出てこないこと(これらについてはずっと後から出てくる)、3)くり返しの多い韻文で書かれていることなどです。それにしてもやはり、「釈迦の言葉の一部が残っているかもしれない」という程度だと思います。しかし現代に至っても、パーリ語仏典のみならず、大乗仏教の経典類まで「釈迦の直説だ」と言う宗派があるのですから驚きです(多くの大乗経典は、「如是我聞‐私はブッダからこのように聞いた」で始まります)。
 インド人はよほど哲学好きだと思われ、初期仏教集団には上座部、大衆(だいじゅ)部合わせて10部もあります。これからお話しする「説一切有部(以下有部)」は上座部に属し、さらに8つに分かれるのです。「有部」の根本主張は、「一切の実有なる法体が三世において恒有である(三世実有、法体恒有)」というものです。つまり、「世界のすべてのモノや現象にはその基礎となる「法(原理)」があり、それらは過去・現在・未来にわたって厳存する」というものです。ここが重要ですからご記憶ください。

大乗仏教の発展
 いまお話したように、口伝で伝えられた釈迦の教えは、その後いわゆる上座部と大衆(だいじゅ)部などの初期仏教徒によって哲学として練りに練られ、激しい論争を経て深化されてゆきました。それらの初期仏教は王族や貴族の厚い支持を得て、多くの寄進を受けて発展していきました。中でも「説一切有部」がもっとも盛んになり、かれらは特権階級として、壮大な仏殿の奥深くで修行に励み、かつ哲学的思考にふけったようです。それに対し次第に庶民の中から「仏教は大衆のためにあるのではないか」という要求が大きくなっていきました。そうして生まれてきたのが大乗仏教です。その経典は哲学というより、大衆救済のための壮大な物語であったのも当然かもしれません。大乗仏教のスローガン「自未得度先度他(自分が悟りを開くことより、大衆を救うことが大切だ)」は今に続き、時に過激とも言われる勧誘がよく知られていますね。そして「大般若経」「涅槃経」「阿弥陀経」「浄土三部経」などの初期大乗経典が前1世紀ごろから次々に作られて行きました。そして今度は初期仏教徒と大乗仏教徒の間には激しい論争が繰り広げられたのです。その中でナーガールジュナ(龍樹)が出ました。AD150‐250頃と言われています。

仏教史における龍樹の役
 龍樹が最大の論敵としたのが上座部の一つ、「説一切有部」です。そこで以下に、龍樹の「中論」を解説するために、中村元博士の「龍樹」(講談社学術文庫)に基づいて話を進めます。中村博士(1912‐1999)は、東京大学名誉教授。古代インドのウパニシャッド哲学(ヴェーダ信仰)から、「スッタニパータ」「大パリニッバーナ」などの初期仏教のパーリ語仏典類、さらに「維摩経」「法華経」「般若経典」「浄土三部経」などの、いわゆる大乗経典類などの仏教全体にも及ぶ翻訳・著作活動をした驚くべき学者です。

読者からのコメント(10)

読者のコメント(10)

 再び岩村さんからのコメントに関する筆者の感想:

岩村さんのコメント:禅の空観と龍樹の空観との異同を考察したいと思い、中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読んでいます。今のところ、この著書は龍樹の空観ではなく、中村元博士の空観が述べてられているように見えます。例えば、「一切法空」とか「諸法空相」の「法」の意味が龍樹と博士とが同一であると断定できる材料が見当たらない故です。「法」という語が指している事が博士と龍樹とが異なるのであれば、考察する意味が無くなります。
 博士は「法は『もの』であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この『もの』というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている『ありかた』としての『もの』であることに注意せねばならぬ」と述べています。この一節の理解ができないままで読み進めています。
筆者のコメント:中村元博士は碩学という名にふさわしい学者だと思います。いかなる人でも、龍樹の思想について書きながら龍樹の「法」の意味を勝手に解釈してしまえば学者としての資質を問われるでしょう。中村博士は龍樹の「中論」原典はもちろん、クマラージーヴァ訳のピンガラ釈「中論」(漢語)、チャンドラキールテイーやブッダパーリタなどによる註釈書をいずれもサンスクリット語で読み、チベット語による解説書、さらにプラトーンやヘーゲル哲学も参考にしつつ、緻密な比較検証して「龍樹の思想」としているのです。次に本題に戻ります。
 「もの」というのは経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」、つまり「法」であるは当然です。経験的事物とは、たとえばリンゴのことで、「法」というのはリンゴを成り立させている原理を指します。

岩村さんのコメント:1)中村元著「龍樹」に、「ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。(中略)自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。云々」と記されている。龍樹ではなく、博士の意見です。
「法の領域」を「蘊・処・界」と見なせば、「大智度論」の「三種世間」説と同じだと思うのですが、いかがでしょうか。
筆者のコメント:「ブッダは縁起の認識こそ無明を断じることを悟ったが、たが病み、飢渇もあり亡くなった」は別に矛盾した論説ではありません。前者は心の問題、後者は肉体の問題ですから。「龍樹ではなく、博士の意見です」については上記と同じ感想です。

岩村さんのコメント2)中村元博士の「法の領域」は五蘊・六入であることが確認できました。『龍樹』p85 に「法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。そうしてその法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊)、認識および行動の成立する領域としての六つの場、(六入)などが考えられていた」と述べています。五蘊の解釈が納得できないので困惑しています。
筆者のコメント:以前のブログ「そもそも五蘊の解釈が間違っているのだ」にも書きましたように、五蘊を人間の構成要素とする解釈はじつに多いのですが、誤りです。五蘊が人間のモノゴトに対する認識作用であることは、内容から言っても明白なのです。中村博士も五蘊を「個体を構成する五つの集まり」としています(p85)。五蘊は重要な仏教用語ですから、その解釈を間違えれば、土台が崩れてしまいます。中村博士の言う「六入(註1)」の方が、むしろ五運の解釈としてふさわしいでしょう。
註1同書(p85)には「認識および行動の成立する領域としての六つの場」とあります。

読者のコメント(9)

読者のコメント(9)その1)

柳原様 前回の柳原様のコメントに対する筆者の感想には不十分なところがありました。大幅に改変しましたので、もう一度お読みいただければ幸いです。

「読者のもうお一人」は岩村様です。 この2か月半、岩村様からのご要望に応えようと、魚川裕司氏の「仏教思想のゼロポイント」について筆者の感想を続けています。筆者のブログの本旨はあくまで「禅に関するもの」ですから、ご不満の読者もいらっしゃるかもしれませんが、参考になると思いますので、御了解ください。

岩村様のコメント(続き):魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」中、私が注目した箇所を紹介します。コメントを下さると有り難いのですが・・・。
(1)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。「善と悪」という区分は基本的には物語の世界に属するものであり、そして解脱とは愛執のつくりだすそうした全ての物語から解放されることであるのだから、その境地には通常の意識で私たちが想定するような「善」も「悪」も、存在し得ないということだ。

筆者のコメント: 前半部分についてはその通りですね。つまり、「人生の途上で経験するモノゴトは、何らかの原因があって起こった実体のないものだ。なのにそれを愛執や苦へと結びつけるのはおかしい」ですね。ただ、「善や悪も、悟りの境地の達した人の心には存在しない」には違和感があります。ブッダにとっても殺人はまちがいなく「悪」でしょう。つまり、善悪は別のカテゴリーの問題です。したがって、「解脱した人には善も悪も存在しない」というのは、まちがいだと思います。

(2)仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。・・・どれほど長く修行して、一定の境地に達したとされる僧侶であっても、身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではないし、彼の思考と他者の思考に、区別がなくなるわけでもない。
筆者のコメント:魚川氏の単純な勘違いでしょう。身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではない」のは当然ですね。
(3)バラモンたちよ、これらの五種欲が、聖者の律において世界であると言われる。その五つとは何か? 眼によって認知される諸々の色で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの、そして耳によって認知される諸々の声で・・・、そして鼻によって認知される諸々の香りで・・・、そして舌によって認知される諸々の味で・・・、身によって認知される諸々の触覚で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの。バラモンたちよ、実にこれらの五種欲が、聖者の律においては世界であると言われるのである。
筆者のコメント:「聖者の律においては世界である」の「世界」とは、人間が日常的に見聞きするモノゴトのことですね。欲や愛執が生じる世界です。聖者、すなわち悟った人は、それらモノゴトを損得、愛執などの「欲」にまで移行させることはない。それらを単なるモノゴトとしてありのままに受け止めるだけなのでしょう。

(4)六根六境については、相応部の「一切経」で、ゴータマ・ブッダは、「一切」とは何かと問いかけた上で、それは「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法」であると述べており、つまりそれら六根六境(による認知)が「全て」であると言っている。・・・五蘊というのも十二処というのも十八界というのも、衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だということだ。
筆者のコメント:六根とは人間の認識器官(眼、耳・・・と意)、六境とはその対象であるモノゴトです。それらにそれぞれの、(眼識、耳識のような)認識作用を加えて十八というのは、もともとカテゴリーが別のものを一緒にしているのです。おかしいですね。インドの哲学者はこういうことをよくやります(彼らは数字が好きなのです)。したがって、「衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だ」の文章は論理的に成り立たないのです。

読者のコメント(9)その2)

岩倉様のコメント(続き)
(5)友よ、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような、そのような世界の終わりが、そこへと移動することによって、知られたり、見られたり、到達されたりすることはないと私は言う。だが、友よ、世界の終わりに到達することなしに、苦を終わらせることは存在しないと私は言う。
 友よ、実に私は、想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体においてこそ、世界と、世界の集起と、世界の滅尽と、世界の滅尽へと導く道とを、告げ知らせるものである(「ローヒタッサ経」)。
(6)「世界の終わり」は、移動することではなく、「想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体において」実現される必要がある。言い換えれば、「世界」はいま・ここのこの身体において、内在的に超越されなければならない。
(7)「六処相応部」第百五十四経では、もし比丘が、六根を厭離し離貪し滅尽して、執着することなく解脱しているならば、彼は「現法涅槃(いま・この生において達成された涅槃)に達した比丘」と言われるべきである、と説かれている。

筆者のコメント:(5)-(7)はほとんど同じことを言っていますね。つまり、「悟りの世界」というような特別な世界(空間)があるのではなく、「いま、ここ(この身体)にある」という意味だです。これらの経典が言う通りだと思います。

(8)六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある、「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるパパンチャ(戲論)であろう。「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戲論寂滅」であるということだ。(119p)
(9)感覚入力によって生じた認知は、それを「ありのまま」にしておくならば、無常の現象がただ生起しているだけのことで、そこに実体や概念は存在せず、したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては滅尽している。つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。これは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。

筆者のコメント:(8)も(9)も基本的には同じです。「悟りに達した人もモノゴトを見たり聞いたりする。しかし、見聞きしたモノゴトをそのまま受け止めるだけで、分別し、苦しみや悲しみ、愛執などへと導くことはしない」という意味でしょう。たとえば、あの良寛さんが、大地震でわが子を亡くして嘆き悲しむ人に「苦しいときは苦しむがよき候。 悲しきときは悲しむがよき候。死ぬるときには、死ぬるがよき候。これ苦節を避ける妙法にて候・・・」と言ったことと同じです。すごい言葉ですが、その通りだと思います。なお、魚川氏は「これは既に言語表現の困難なところ」と言っていますが、そんなことはありません。それは筆者のこれら一連の解説をお読みいただければお分かりと思います。