正法眼蔵・道得・將錯就錯

 このところ読者のお一人huさんのコメントについて筆者の考えをお話しています。よく勉強していらっしゃいますし、謙虚な態度に好感が持てます。なにしろ「正法眼蔵」や「スッタニパータ」の文章を自己表現の手段としていらっしゃるのですから。前回のコメントに、

 ・・・(筆者の「huさんの解釈には誤りがあります」とのコメントに対して)・・・ありがとうございます。真摯に受け取らせていただきます。今現在の私の考えに過ぎないので否定していただいてよろしいです・・・正見できるよう精進したいと思います。將錯就錯、「道得を道得するとき、不道得を不道するなりを肝に銘じます」・・・

とありました。良い機会ですので、これらの言葉について解説します。

 まず、將錯就錯(しょうしゃくじゅしゃく)から。

「正法眼蔵・行佛威儀」に、
 ・・・たれかこれを夢幻空花と將錯就錯せん。進歩也錯なり。退歩也錯
一歩也錯、兩歩也錯なるがゆえに錯錯なり・・・

筆者訳:進むも錯(あやまり)、退くも錯(あやまり)、一歩すすめば錯、二歩進も錯であるから錯の連続である。このむなしい努力を夢幻空華としてやりすごすことはでむきない。間違えても間違えても進むしかない。

夢幻:ゆめとまぼろし。また、はかないことのたとえ。「夢幻のこの世」

空花:目の見えない人が空中に花を見たように錯覚すること

筆者のコメント:huさんは「間違えても間違えても前へ進む」とおっしゃっています。謙虚な感想ですね。

次に「道得(どうて)を道得するとき、不道得を不道するなり」について。

 これも「正法眼蔵・道得巻」にある言葉です。「諸仏諸祖は道得なり」から始まります。「諸仏諸祖は道得なり」とは、これまでの優れた先師たちは、仏法(真理)は言葉で言い得て、それを実践できる人だ」という意味です。「道」とは「言う」という意味で、仏法(真理)は言葉で言い得るかどうかです。とても重要な問いですね。禅の世界では師から弟子へ、言葉を通してではなく、直接心に訴えることを重要視します。直指人心ですね。それもわかりますが、筆者は言葉でも通じると考えています。思想とは言葉です。言葉なくして思想はありません。キリスト教では「初めに言葉(ロゴス)あり」と言います。「光あれ」と神がおっしゃったので光が現れたのです。筆者は、これは決して単なる神話とは思いません。たとえば、ビッグバンは何もないところ(無)で起こったのです。宇宙は無からできたのです。まったく不思議ですが事実です。筆者がこのブログシリーズを続けていますのは、言葉によって仏法が伝えられると思うからです。言葉を通じてわかれば奇跡は起こります。

 huさんも「仏法は言葉で言い表せると考えているからコメントしている」とおしゃっているのですね。

嘱託殺人?でも医師を支持します

(以下、主な情報は、毎日新聞7月24日朝刊の記事から引用しました)

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っていた51歳の女性Aさんが安楽死を選び、かかわった医師二人は嘱託殺人の疑いで逮捕されました。24時間続く激痛、最後は呼吸筋も弱って人工呼吸器を付け、栄養補給も胃に開けた管からされます。Aさんは障害福祉サービス「重度訪問介護」を利用して、一人で暮らしていました。SNSで「体は目だけしか動かず、話すことも食べることもできず、呼吸苦と戦い、寝たきりで窒息する日を待つだけの病人にとって、安楽死は心の安堵と今日生きる規模を与えてくれます」「こんな身体で生きている意味はないと思っています。日々の精神・身体的苦痛を考えると窒息死を待つだけナンセンスです。これ以上の苦痛を待つ前に終わらせてしまいたい」「操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「主治医に栄養を減らして身体を弱らせるようと相談したが自殺ほう助罪に当たるとして断られた」 と。

 以前、このブログで紹介したKさんは、多系統萎縮症という、同じように24時間激痛を伴う病気に罹り、スイスで安楽死を受け入れた人です。Kさんも51歳でした。

 昨年の参院選でれいわ新撰組から当選した舩越靖彦議員(ALS患者)がコメントを発表し、「患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知った」、『苦しみながら生かされているのは本当につらい』などの反応が出ていることについて、「こうした考え方が難病患者や重度障碍者に『生きたい』と言いにくくさせる社会的圧力が形成していく」「どんなに障害が重くても、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命」と言っています。毎日新聞の論説では「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」と。一方、生命倫理政策研究会共同代表の橳島(ぬでしま)次郎さんは、「日本でも命の終結につながる行為をどこまで認めてよいか、きちんと議論すべきだ」と言っています。

 安楽死は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダで合法化されています。フランスでは安楽死は認めていないが、延命治療中止は認めています。日本も概ねそうです。

 わが国の判例では、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する方法が他にない(4)患者の明らかな意思表示がある-の4要件が示されています。Aさんは(2)だけが該当しません。

 前述のKさんは、進行した同じ病名の患者の専門施設を訪れ、「ただ生きているだけの植物状態になった人たちを目の当たりにし、安楽死を決断した」と言っていました。とても誇り高い人で、「おむつまでされて生きたくない」と、姉二人とスイスへ渡り、安楽死を選びました。「生きたいという権利と同様に、死にたいという権利も主張したい」と言うのです。その通りでしょう。わが国の法律により遺骨は持ち帰ることができず、スイスの川に流しました。姉たちは、あの選択が正しかったかどうか、今でも悩んでいます。しかし、たとえ安楽死を中止して帰国しても必ず何度目かの自死を試みたと思います。Aさんもスイス行きを考えたそうですが、付き添いの人も「ほう助罪」に問われるとかであきらめたと。Kさんの姉たちには「ほう助罪」は問われませんでした。

 たしかに安楽死を認めている上記の国々では、それ以前に大がかりな国民的議論がなされたようです。しかし、日本は、その種の国民的議論など到底できないと筆者は考えています。欧米諸国には国民による議論の歴史が日本とはくらべものにならないほど長いのです。橳島(ぬでしま)次郎さんの言うような「きちんとした議論」などできるはずがありません。マスコミが煽り、テレビのワイドショウで「専門家」たちがさまざまに言い、司会者や常連のゲストが言いたい放題で終始するのは、今のコロナ騒動を見ればよくわかります。

 第一、人の命に関わるこのような重要な問題は、患者自身とその家族だけしか発言する資格はないはずです。専門医の信念などで判断することではありません。舩越靖彦議員の言う「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」は、患者や家族の決定とはまったく別の問題なのです。

 ALS治療法に関する研究はまだ始まったばかりです。神経化学の研究をしていましたから現状を見て、3年や5年で実用化されるはずがないと思っています。しかし、患者は今、ひどい苦しみの真っ只中にいるのです。治療法の希望の灯が見えてきた将来の話ではないのです。将来のことは将来議論し直せばいいのです。

 SNSで知り合っただけの医師二人が、主治医でもないのにAさん宅を訪れて薬剤を投与したことについては筆者にも抵抗があります。Kさんは自分で薬物チューブを開けました。Aさんはどうしたのでしょう。しかし、主治医が反対しているのにどうして相談できるか。やはり、筆者はこの二人がやったことを支持します。100万円以上の報酬を得たそうですが、報酬が伴わなければ、逆に医療活動とは言えなくなるのです。

 これまでわが国では罪に問われたケースが5件ありました。2件の有罪判決を除き、最近ではほぼ不起訴処分になっています。ことに裁判員制度で裁かれることが多くなったからで、やはり、専門の裁判官より、人の心をより多く斟酌するようになったのでしょう。

 神の言葉:人間にとってこの世に生きる意味は、魂の成長のためだ。それができなくなったら私のところへ帰ってきなさい。呼吸もできず、ものを食べることもできなくなり、植物人間になってどうして魂の成長ができるでしょう。家族の「生きていてくれ」という気持ちはよく理解できます。しかし、Kさんが言ったように、生きる権利と死ぬ権利は患者自身のものであるべきです。「(植物人間になっても)生きていてくれ」という家族の想いはわかりますが、患者の権利を奪うこともになるのです。

追記:その後の報道で、医師はAさんの胃の管から麻酔薬を投与したことがわかりました。Kさんのケースと同じです。苦痛はなかったはずです。

仏教における「気づき」の大切さ

 読者のhuさんから仏教における「気づき」の大切さについてコメントがありました。たしかにその通りですが、「正法眼蔵・現成公案巻」や、「スッタニパータ874」との関連性についてのhuさんの理解には少し偏りがあるとお話しました。そこで今回は、改めて「仏」教における気づきの大切さ」についてお話します。

 「気づき」は、パーリ語でサテイ。英語でマインドフルネスと訳されているように世界的によく知られている概念です。これについてとくに重視していらっしゃるのは、前にもお話したように、日本テーラワーダ協会長老アルボムッレ・スマラサーナさんです。ためしにテーラワーダ協会HPによりますと、

・・・ 絶対に怒らないぞと決心しても、つい怒ってしまうという人は、無常を理解したほうがいいのです。無常を理解するための具体的な実践方法としては、今やっている行為に「気づく」ことです。手を上げているとき、今手を上げている、歩いているとき、今歩いている、立っているとき、今立っている、水を飲んでいるとき、今飲んでいる、と今の瞬間の行為に気づくことです。この気づきを瞬間瞬間つづけていくうちに、やがて無常を発見することができるのです。どういうことかといいますと、たとえば何か嫌なことがあって怒ったとしましょう。そのとき「今怒っている」と気づくと、怒りがスーッと消えるのです。嫉妬しているとき「今嫉妬している」と気づくと、嫉妬が消えるのです。妄想しているとき「今妄想している」と気づくと、妄想が消えるのです。これが無常ということなのです・・・

とあります。

 もともと「気づき」は「スッタニパータ」にあります。たとえば、

1034 アジタが言った「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか。 その流れを防ぎ守るものは何ですか。 その流れは何によって塞がれるのでしょうか。 それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気を付けることである。〔気づき」をこのような意味だけでなく、瞑想中にさまざまな思いが出てくるときの対処法とを付けることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」 とあります。

  さらにスマラサーナさんは瞑想をするときにも有効だと言っています。すなわち、瞑想をしているといろいろな思いが浮かぶものですが、なにかの思いが浮かぶたびに、それに気づいて「アッ○○だ」と気付けば消えるというのです。

オーム判決-長谷川和広さん

オーム死刑囚の刑執行は国による大量殺人か

 読者の「凡愚さん」から転写していただいた、長谷川和宏さん「オウムの物真似」(「全作家」114号2019)についての筆者の感想です。以下は「凡愚さん」のご厚意に報いるために書きました。筆者は以前、「オーム死刑に対する村上春樹氏の論理」と題して、「死刑制度は反対、しかしオーム容疑者の死刑は賛成」という村上氏の論理のいい加減さを批判するブログを書きました。なお、紙面の制約上、長谷川氏の意見を一部割愛して示します。

 結論から先にいますと、長谷川氏は「オーム死刑囚13人の刑執行は、オームのジェノサイド(大量殺人)を日本は国家がモノ真似した」と言うのです。

 (長谷川)・・・人間による復讐では、全く同程度の復讐は不可能であり、冤罪もまた避けられず、悲嘆と怒りと憎しみの連鎖は人の心を荒廃させる。

筆者のコメント:オームの容疑者が死刑されても、日本人の心は決して荒廃しませんでした。それは読者の皆さんご自身がおわかりのはずです。

 (長谷川)・・・聖書に「自ら復讐することなかれ。神の怒りにまかせよ。主曰わく、『復讐するは我にあり、我これを報いん』」(ロマ書12・19)とある。『我』は当局でも当事者でもなく、神であった。わたしが復讐する!・・・釈迦は言う。「人の身を得ること難く、身を得るも寿(いのち)ある難し」「殺す勿(なか)れ。殺させしむる勿れ」(「ダンマパダ」182/129)・・・。 

筆者のコメント神はいかなる罪を犯した人間に対しても復讐なされることはありません。この聖書の言葉は誤りか、訳者が間違っています。ブッダは、後述する「闇サイト殺人事件」の犯人をも「死刑にするな」とおっしゃるでしょうか。「殺人鬼」と言われた男です

 (長谷川)・・・被害当事者の「殺された者をもう一度私どもの許に返して欲しい」との異口同音は、加害者の死を!の願いがたとえ叶っても、その加害者の死は、殺された被害者やその被害と釣り合わない事を示している。「人の命は何ものにも代え難い」と痛感させられているのに、被害当事者が「加害者に死を」と願うのは、かけがえのない人の命の絶対的な重みを自ら掘り崩し、被害者の命の重みをも相対的に切り下げはしまいか・・・。

筆者のコメント:まったく論理のすり替えとしか言いようがないでしょう。筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きます。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(1人目は死刑。3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。彼らは「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺したのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

筆者のコメント:筆者の反論は下記の「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」に尽きるでしょう。「闇サイト殺人事件」は筆者の勤務先のすぐ近くで起った衝撃的事件でしたので、裁判の経過はよく知っています。母一人娘一人の大切な家庭を壊されたお母さんは、「3人の犯人のうち2人目(堀〇)が最高裁判決で逆転無期懲役になったのは絶対に承服できない」と言っていました(3人目は自首したため無期懲役で確定。「自首すれば死刑にならないから」と言っていました。死刑制度はちゃんと抑止力になっているのです)。「殺さないで」と命乞いしている被害者をハンマーで撲殺し、遺体を山に捨てたのです。その後堀〇は、別の殺人(2人)・同未遂(1人)事件が発覚し、その裁判で最終的に死刑が確定しました!「殺人鬼」だったのです。詳しくはja.wikipedia.org/wiki/闇サイト殺人事件で。

 (長谷川)犯罪被害者支援フォーラムの弁護士は「理不尽な犯罪を許さない、被害者の無念を救いたいという大臣の強い姿勢に対して支持する」と述べ、また、「そもそも法に則った死刑と、テロル等による虐殺を同列に扱う考え方がおかしい」というツイートした。しかし、御坊哲(ごぼうてつ)は「不殺生戒と死刑制度は矛盾しない」と言う僧侶に対し、「『より多くの命を生かすためには、一人の人間を殺してもよい』ということ」だから、「倫理というものが全て功利主義に還元されてしまう。死刑制度に賛成することによって、公権力による殺人に加担しているわけで、これはお釈迦様の『殺生することに関わるな』という言葉に明らかに背いている」(ブログ禅的哲学2014.8.1)と主張していた・・・ 

(長谷川)オウムが国家を真似たのか。国家がオウムを真似たのか。その国家はオウム真理教の再審請求中の十人も含めた教組幹部を、二日間で十三人処刑した・・・。

筆者のコメント:結局、長谷川氏の論説は、マスコミがよくやる「初めに結論ありき、後からいろいろな人の意見を論拠として挙げる」に尽きるでしょう。そもそも筆者はいろいろな理由を挙げる人の論説は信じません。必ず「理由の後付け」になっているからです。もう一つ、日本人の80%が死刑制度に賛成していること、仏教国スリランカではいったん廃止した死刑制度を復活したという重大な事実を長谷川氏は引用していません。

 最後になりましたが、死刑制度反対を主張する弁護士グループに対して「あなたの肉親が理不尽に殺されてもその主張を続けますか」という声なき声があります。筆者もそう思います。筆者の死刑制度賛成の論理はシンプルなのです。