金縛りは睡眠麻痺か

 金縛りには霊的現象もある(2)

 以前のブログ金縛りには霊的現象もある(1)で、脳科学者の上田泰己さん(東京大学医学系研究科教授)が科学的に解明できている」と言っているのをご紹介しました。上田さんも「金縛りは睡眠麻痺である」と説明していました。

 金縛り・・・就寝中、意識がはっきりしていながら身体を動かすことができない症状・・・にかかった人は少なくないと思います。NHKの「チコちゃんに叱られる」(2021年1月)でも取り上げられていましたね。ゲストの江戸川大学睡眠科学研究所の福田一彦所長(早稲田大学文学部心理学専攻修了!)は、「そのメカニズムはすでに科学的に証明されている」と言っていました。睡眠麻痺ですね。専門医たちもそう説明しています。ただ、メカニズムは人によって少し異なります。福田教授は「昼寝をし過ぎて夜眠りが浅くなる人。仰向けに寝ると睡眠麻痺になりやすい」と言っています。「では」とNHKのデイレクターがやってみましたが、4回やっても1度も金縛りにはならかった。それを言うと「高齢者はなりにくい」と。「それはないでしょ」ですよね。デイレクターはどう見ても40歳代でした。

 一方、ある人は、

・・・思春期に起こりやすく、仰向けの姿勢、不規則な生活、寝不足、過労時差ぼけストレスなどから起こる・・・とし、上記「睡眠科学研究所」所長は、「普通の人は眠るとしばらくして深い睡眠状態(ノンレム睡眠)になり、やがて眠りは浅くなりレム睡眠となる。レム睡眠とはRapid Eye Movement、つまり眠っていても目を動かしている状態で、「夢を見ている」と考えられています。1晩の間にレム睡眠を繰り返し、やがて目覚める。ところが昼寝をし過ぎた人はノンレム睡眠に入らずに最初からレム睡眠の状態になる。人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、身体を触られているといったような、何かが見えたり聞こえたりするのは、夢に過ぎない。レム睡眠中は筋肉を動かせない状態なので、「金縛り状態」になる。非常にはっきりした夢なので、あたかも目覚めているように錯覚するのだ。幽霊や心霊現象ではない」と説明しています。

筆者の体験:もちろん筆者は睡眠麻痺によるものも否定しません。しかし、それに加えてまったく別のケースもあると考えています。筆者は40代に2週続けて金縛りを体験しました。そんなことを言えば、読者の皆さんの多くは上記の知識があり、一笑に付されるでしょう。でもまあ聞いてください。今もその状態を鮮明に記憶しています。当時、筆者は神道系教団に入って霊能開発修行をして.いました。その結果、次々に霊的現象に出会っていたことは、この問題をお話するに当って重要でしょう

 1回目は、眠っていて「ハッ」と目覚めました。その時一瞬、隣の部屋で勉強している息子の部屋の明かりが見えましたから、絶対に夢ではありません。すると天井から黒い幕がバサッと落ちてきて、何も見えなくなりました「アッやられた」と思い、隣で寝ている家内を起こそうとして愕然としました。声も出ず、手も動かないからです。そして掛け布団の上に誰かが乗っている重さを感じました。ちょうど布団蒸しのようです。・・・この辺はよく言われる「金縛り」と同じです。その時筆者は赤ちゃんのように手を上にあげて寝ていたようで、そこへサラサラした長い髪を感じました(「家内のかな」と思いましたが、翌朝、家内はショートカットであることがわかり、驚きました)。焦りましたがどうしようもなく、ハッと気づいて「南無阿弥陀仏」と唱えるとフッと楽になり、金縛りが解けたのです。しかし、もう怖くて眠れません。ふと気づいて「お守り」を身に着けて寝たところ、もう大丈夫でした。

 2回目は1週間後でした。小学1年の娘が「学校で要るから」と、近所の公園へ松ぼっくりを取りに行きました。拾っていてフト見上げて「しまった」と思いました。そこは広い霊園だったのです・・・。果たして夜、また金縛りに会いました。今度上に乗ったのは明らかにゴツゴツした体型の男のようでした・・・。

 いかがでしょうか。今お話したように、けっして夢ではないことが読者にもおわかりいただけるでしょう。筆者の金縛り体験は、それ以前にも、以後、今日に至るまで一度もありません。神道系教団での霊感修行の成果(?)が活発に表れていた時期だからとしか考えられません。

 アメリカ航空宇宙局の担当者が、UFOの目撃情報を徹底的に調べた結果が報告されています。それによりますと、その95%は「見まちがい」でした。しかし「後の5%は、現代科学では説明できない」と言っています。ここなのです。筆者が体験したのは霊的現象としか考えられません。つまり「すべてを睡眠麻痺で説明するのは正しくない」と考えるのです。ではなぜ浅い睡眠時に霊に憑り付かれるのか・・・以前のブログで「自分を失うと霊に憑り付かれやすくなる」とお話しました。浅い睡眠の時は「自分意識が稀薄になる」のです。こういう時に霊的現象が起こってもふしぎはないのです。

「無門関」趙州狗子(1-3)

 (1)公案集「無門関」の第一則に、

趙州和尚(註1)、因(ちな)みに僧問う、

「狗子に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや」

(趙)州云く、「無」。

:ある時、一人の僧が趙州に問うた。「犬にも仏性があるでしょうか」

趙州は答えた「無い」

筆者のコメント:有名な「無字の公案」です。「無門関」の著者無門慧開(1183-1260)はこの「狗子無仏性」の公案で悟りに至ったと言われています。そのため、最重要の公案として第一則に持って来ているのですね。

 無門は「では、最も重要な関門とは何か。ここに提示された一箇の「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つに他ならない。そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるだけでなく、同時に歴代の祖師達とも手をつないで行くことができる」 と言っています。

 無門はさらに、「全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない・・・そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう」と言っています。

1)臨済宗・黄檗宗の公式サイト臨黄ネット」:山田無文師の「無文全集」の一節を引用して、・・・「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」、これはまさしく仏教の根本原理である・・・犬に仏性が有るか無いか、と探究するならば、それは動物学の問題であって、精神文化としての禅の問題ではない。禅の問題は常に自己の探究にある。従って、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」という質問は、「犬のごとき煩悩だらけの無自覚な私ごとき人間にも仏性がござりますか、いかがですか」という切実な問題であらねばならぬ仏性とは何か・・・臨済禅師はこれを「無位の真人」と言われた・・・仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である。生まれたままは遅い。生まれんさきがよい。親も生まれんさきがよい。これを父母未生以前の本来の面目と言う、などと説けば説くほど屋上に屋を重ねることになる。やはり趙州和尚の「無」の一字、この一字以上の言葉はない。ただこれ「無」。

筆者のコメント:「仏性とは個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性である」ではないのです。その理由は次回お話します。

2)千葉県正木山西光寺無玄師の解釈

 ・・・趙州に対して(修行)僧は、「一切衆生悉有仏性(一切のものには仏の性質がある)」が常識であるとされている中で質問したのです・・・この「無」は、有るとか無いとかの「無」ではないのです。虚無の「無」でもありません。強いて言えば絶対の無です。それは如何せん言葉では説明が出来ないのです。ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。それは本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。まさにこの無字が一大経蔵であり、大宇宙であるのです。どうですか、「無」とは何か追求してみては。あなたが宇宙、宇宙があなた、あなたが仏、仏があなたになれる最も合理的な方法ですよ・・・

筆者のコメント:仏性とは、無文師の言うような「個性じゃない、自我じゃない、自我以前、個性以前の、生まれたままの純粋な人間性、臨済が言った『無位の真人』」ではないのです。理由は次回お話します。

 一方、西光寺無玄師の言う「絶対の無」とは何でしょうか。西嶋和夫師もそう表現していましたが、意味不明の言葉だと思います。「絶対の無」などと言われても多くの人は途方に暮れるでしょう。「言葉では説明できない」とは、要するに無玄師自身も「わからない」のでしょう。これでは参考にもなりませんね(ちなみに以前お話した西田幾多郎博士の「絶対無」とはまったく別の意味です)。一方、ある人は「これは仏性とは何かを問うている」と言っています。しかし、筆者はまったく別の解釈をしています。さらに「言葉では説明できない」「体験してこそ分かる」も、何をどのようにして体験すればいいのか、取り留めがなく、参考にはなりませんね。

 重要なことは、両者の見解はいずれも、「一切の衆生、悉く皆な仏性をす」を土台にした解釈だということです。じつは道元は「そういう解釈をしてはいけない」と言っているのです。筆者もそう考えます(次回に続きます)。

趙州狗子(2)

一切衆生悉有仏性は、大乗経典の「大般涅槃経」にある言葉です(註1)。その意味はふつう、前記の山田無文師や西光寺無玄師のように、「一切の衆生、悉く皆な仏性を有す」とされています。しかし、道元は「それは誤りである」と言っています。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」にある言葉です。すなわち、その第2節に、

・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり・・・

とあります。しかし、その解釈も人さまざまで、かつまちがっているのです。困ったものです。筆者の解釈は後回しにして、まず、

佐藤隆定さん(曹洞宗僧侶)は、

・・・お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする・・・慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。自分という、この存在が何者であるのか。自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか・・・あらゆるものは仏であり真理であると言っているわけだ。この言葉を体現するとき、この自分こそが身も心もまさしく仏のあらわれとして存在していることを、人は明らかに知るのである・・・

と解釈しています(「禅の視点-Life」-(https://www.zenessay.com/entry/bussyou)。

つまり、「道元は人間とは何なのかと問うている」と言っているのです。筆者の解釈はは後ほど示します)。そもそもこれは、お釈迦様が残した言葉ではないのです(註1)。

次いで、 伊藤秀憲さん(愛知学院大学教授)は、「道元禅師と仏性」(愛知学院大学禅研究所紀要「禅のこぼれ話 平成15年」)で、

道元(以下同じ。一部言い回しは現代文に変更:筆者)は「正法眼蔵・仏性(第41節)」で、「衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんと求むとも、仏性初めて来るたるべきにあらざる宗旨なり・・・と言っています。

伊藤:「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」によって衆生の内に仏性が存在するという考えが否定され、悉有(あらゆる存在)が仏性であると説かれるのです。他の箇所では、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれます・・・待つ想いなかれ」と述べられているように、修す必要があります・・・道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です・・・。

筆者のコメント:「仏性は内在するのではなく、すでに顕在している。悉有(あらゆる存在)が仏性である」と、ここまでは伊藤さんの解釈でよかったのです。しかし、「(しかし)そのためには修行をしなければならない」は、いかがなものでしょうか。

註1じつは、上座部仏教の「大パリニッパーナ経(長阿含経)」にも同名の「大般涅槃経」があり、80歳の釈迦が、王舎城東部の霊鷲山から最後の旅に出発し、マッラのクシナーラーにて入滅(般涅槃ほつねはん)するまでの言行、及び、その後の火葬・遺骨分配の様子が描かれている。大乗経典の 「大般涅槃経」は、それから大きく増広した、全く別の経典、つまり釈迦の言葉ではないのです。筆者がよく言いますように、仏教を理解する上でこういう視点はとても大切です。

趙州狗子(3)

 じつはここでも道元は空思想を述べているのです。答えはすぐそこに隠されています。

すなわち、・・・是什麼物恁麼来(これはなにものかいんもに来る)の道転法輪なり…(中略)・・・すなはち悉有は仏性なり・・・がそれです。空思想についての筆者の考えは、すでにこのブログシリーズで何度もお話しました。「悉有は仏性なり」とは、悉有、つまり、あらゆるモノゴトの体験こそ仏の真理(仏性)の表われであるという意味です。そして「是れ什麼物か恁麼に来る」とは、「純粋体験においては、それが何かとかの判断が起こる前の一瞬の体験のみがある」という意味です。

 それを佐藤隆定さんのように「慧能は『何者が何をしに来たのか』と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた」と解釈してはだめなのです。

 一方、伊藤秀憲さんのように「悉有仏性の意味を知るには修行が必要だ」などと言われたら、「それはないでしょ」と途方に暮れるでしょう。「紙幅の制限があるので・・・」は、「逃げ」に過ぎません。

それにしても道元は「答えを言わずに巧みにヒントを示す」のが実に上手です。まるで隠し絵のように、背景の中に「教え」が隠してあります。トリックですね。それを見付けるにはが必要です。このがわかれば、道元の言葉の真意は次々にわかります。それがわからなければ絶対に「教え」はわかりません。ここにも「禅はわかったかわからないかの世界だ」の例があります。それが「正法眼蔵」が日本古典の中で最もむつかしいと言われる理由なのです。佐藤さんも伊藤さんもあっさり道元のトリックに引っかかってしまいました。

尊厳死(4)

 NHKドキュメンタリー「彼女は死を選んだ」の放映後、障碍者団体から「公共の機関であるにもかかわらず!」と厳しい批判がされました。NHK スペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(2019年6月2日放送)における幇助自殺報道の問題点についての声明 日本自立生活センター 代表 矢 吹 文 敏

b筆者もこの番組を繰り返し視聴しました。そこで、当センターが問題としている箇所と、それについての筆者の感想を述べますと、

 日本自立生活センターの声明:(詳しくは上記の声明で検索してください)

 ・・・WHO「自殺予防 メディア関係者への手引き」によれば以下のことをメディア関係者は守らねばならず、NHKは当然これを知っていたにもかかわらず、一切守られませんでした(太字筆者)・・・(中略)・・・

(A)今回の報道では、明らかに、障害や難病の苦しみから逃れるため、自殺が一つの方法だと伝えられていました。番組が自殺拡大効果をもっていることについてNHKはどう考えますか?

筆者の感想:まず、「一切守られませんでした」は明らかに感情的な言葉だと思います。次いで「番組が自殺拡大効果をもっている」については、言葉の暴力だと思います。NHKの関連番組の中である介護士が、「私の腕に爪を立てて、『死なして欲しい』と何人もの患者に泣いて頼まれた」と言っていました。この番組を見て「患者さんの希望を聞いてあげればよかった」と言っているのです。

(B)自殺の手段や場所も詳しく伝えられていました。あんな簡単に死ねるんだ、と当事者や家族が見たら、どう思うと考えますか?当事者たちへの想像力は、ありますか?

筆者の感想:これも感情的な発言です。上記の番組でKさんと2人の姉がスイスへ行って病院で処置を受けるのにかかる費用は決して少なくないはずです。なによりも重要なことは、Kさんはあのまま帰国すれば、必ず自死をしたはずです。すでに何回も未遂をしているのです。

(C)リアルに死にゆく様が放映されていました。こんなふうに死ねたらいいなという思いをもった視聴者も多いと思います。現に苦しむ当事者たちにこんなふうに死にたい、と思わせる番組ですか?

筆者の感想:番組の趣旨を取り違えているのです。「あんなふうに死にたい」と思わせてどうして悪いのでしょう。(B)でも述べましたが、Kさんはそれまで何度も自死未遂をしているのです。あのまま帰国すれば、今度こそ完全に実行するでしょう。番組からそれが十分伺えました。

(D)現在は、どんな障害や難病でも社会的支援を得ながら、生きていくことができるようになりつつある世の中です。家族や病院の介護苦にばかり焦点があてられ、社会資源としての組織や専門家の支援を得て生きるすべがあることが一切紹介されませんでした。「自殺のすすめ」のための番組だったのでしょうか?

筆者の感想:こういう論調を繰り返されたら筆者でも「議論する価値がない」と思います。Kさんが日本で見た、もっと病状が進んだ患者はほぼ完全な植物状態で、Kさんが尊厳死を決断したのもよく理解できました。「人間としての尊厳を失ってまでなぜ生きるか」なのです。たしかに番組ではこのような患者に対する社会的支援について、もう少し詳しく紹介されればよかったと思います。

吉村昭さんの尊厳死

 吉村昭さん(1927-2006)は「深海の使者」、「長英逃亡」、「戦艦武蔵」「熊嵐」「高熱隧道」、「ふぉん・しーぼるとの娘」などの作者で、その徹底した取材態度に好感が持てる作家でした。 2005年春に舌癌と宣告され、さらにPET検査によりすい臓がんも発見され、2006年2月2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年7月30日夜、東京三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後に死去しました。 吉村さんは、兄が、瀕死であるにも関わらず、医師が無理な姿勢を取らせて写真撮影したのを目撃しました。それ以来過剰な医療に対して強い疑問を持っていたのです。

 「声明」は、おそらく「必死になって生きようとしている障碍者をないがしろにした」と思ったからでしょう。しかし、まったくの誤解なのです。NHKも筆者も、懸命になって生きようとしている人たちを批判する気持など毛頭ありません。「人工呼吸器を付け、胃ろうや経静脈栄養を受けて、意思表示することもままならい人生など意味がない」と考える人もいるのです。人間は生きる権利とともに尊厳死をする権利も持っていいのではないかと言うのです。もちろん「自死を容認する」というような低次元の問題ではありません。