私がこの番組を視聴していて、途中で「アッそれはちがう」と気が付いた理由は以下の通りです。
まず、「わざわざ宗教色が濃くて問題がある宗教リテラシ-を確立していくより、(日本人の)良識や倫理観を涵養していく方が重要ではないかと」思ったのです。つまり、大人のモノゴトの観かたですね。カルトかどうかもその範囲内で判断できると思います。多くの日本人がその観かたで「あれはおかしい」と思ったはずです。
さらに重要なことは、宗教は人間の心の問題であって、教育などによって他人によって規定されるものではないはずです。すなわち、リテラシーの確立など論外だとさえ思うのです。私はかねがね「宗教を学問として扱うのはおかしい」と思っていました(他の演者である島薗さん、櫻井さん、小原さん、井上さんがやってこられたことを否定(?)する立場ですが・・・・)。
じつは、演者の中で若松英輔さんだけが異質な発言をされていました。かなり婉曲的な表現で、最初はわかりにくかったのですが、よく考えますと十分共感を覚えるのです。若松さんが「1年前にもと居た大学を辞めたのは(当局の)強い圧力を感じたから」とおっしゃっていたことは前にもお話しました(元東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)。大学当局から圧力を受けたのは、おそらく若松さんは、授業で宗教学について話すだけでは不十分で、ご自身の宗教的信念抜きにしては成り立たないと考えたためでしょう。自分の宗教的信念を話すのは、得てしてきわめて個人的な〈思い〉になってしまうと思います。それが大学当局が「授業としてふさわしくない」と判断した理由ではないでしょうか。若松さんがおっしゃる通りで、逆に、「宗教など一般論で話せることではない」としか思えません。大学当局の方が間違っているのです。
旧著で日本の宗教学者・元東京大学教授岸本英夫さんの話をしました。自分がガンになり、死期が近づいたと感じた時、岸本さんは「神の元へ行く」などとは一切考えず、「それは私の知性に反することだ」と言い、葛藤の上、「死とは別れである」と納得して逝ったのです。つまり、宗教学者でありながら、神の存在を一顧にもしなかったのです。それを読んで私は大きな矛盾を感じました。神の存在を問題にしない宗教学者なんであってはならないのでは?
いかがでしょうか。
はじめまして失礼します。
宗教教育やリテラシーのことを
学者さんたちは、思想的に解説されております。
しかし、宗教というのは思想ではなく、生活であり居場所であり、見えない神に行き着くまでは、人間の愛着形成や人格形成の最中に感じ取るもの、安心感や心配り同情や、自他の自尊心の育つところ、空気を吸い他者との交わり生活するそのの場であると感じます。
統一教会という組織と、そこにいる人々を分けたほうがいいと思います。そこにいる人々は、統一教会を生んだ人でも無く、組織を作り出した人ではなく、既に作られた組織に誘われて組み込まれて大きくなっているのです。統一教会の教えや人間関係は勧誘により広がります。勧誘された人は、そこで、神との関係や世界平和など目新しい教えを通して、心の故郷を見出してゆくのです。そして、地上の天国と云われる韓国の清平という聖地に行きますし、天国の聖本や、ロウソク、壺、塩や土を持っています。そのように、統一教会の人々は、自分の生きる居場所を、この世で満たされなかった愛着を、新たに見出していき、他の人を勧誘伝道するのです。神の家族を増やすために。
その人たちが、正しい宗教教育をリテラシーやカルト異端の識別を育んでいれば、騙されなかったかというと、わかりません。騙される人の定義も、マインドコントロールと洗脳の定義も専門家の言う人それぞれだと思います。
わたしも、キリスト教に縁があり、子どものころから、学生のときまでミッション系居ましたし、洗礼も受けました。しかし、疑問をもち、町中で出会う青年の勧誘で、知らぬ間に統一教会に組み込まれていきました。長年その組織なや居ましたし献身もしましたし、結婚もしました。しかし、神はこんな人生を喜んでいるのか、わたしは幸せではないとおもい疑問悩みの末、何度も脱走しましたが、統一教会にはいかなくなりました。そして、奈良県での事件が、おきました。わたしは、いかなくなりよかったと思う反面、逃げるようにおいてきた元統一教会の元旦那や奈良県の嫁ぎ先の現統一教会家族に罪悪感もありました。また、相談相手のクリスチャンや福祉系である既婚者の男性たちにそそのかされたりもありました。
しかし、カルト異端の学びをしたり、他の宗派のキリスト教の門を、叩いてこんな私でも罪のないキリストに救われるのかと打ち明けながらも、信頼すると祈ると聖霊体験をしました。肩の荷が降りて心の重荷が涙となり流れました。
こんな神を探し求めて、生活もできなくなる、ある意味での壮絶な体験をしてきた元統一教会員もいます。
宗教は思想ではなく、生活、霊的なものも含めて、心の居場所です。
山様
真摯な信仰体験についてお聞かせいただき、感動しています。これからじっくり読ませていただき、感想をお話させてください。
ご了解いただければ、私のブログにも掲載させていただきたいのですが。他の皆さんの参考になるはずです。
そして、信じても信じられない時があります。
キリストを心底、信頼信用してないことがわかります。
信仰は、信心や測られるものではなく、神様の救いの賜物を受け取る手なので、愛を感情で感覚で感じなければ、理性だけで信じるのは無理です。義理人情や義務付けるものではなく、神様の愛に、触れなければ信頼するには至りません。わたしは、聖書を、読むと、平和だけでなく、苦しみを感じます。シャローム、救われたで、ジ・エンドではありません。聖書は神を明文化されたものなので、日本人の宗教文学とは異なるものです。日本人は、明文化された人格神をなかなか、理解できないと聞いています。
神道系の新興宗教に、いたことまありますが、掟がありませんし、神という立場が大分違うが、神への氏子として人間の願いや甘え、信頼というのは、取次という方を通して聞かれているというのは、人間の祈りという共通のものだと、感じました。
罪人が、救われても、罪がなくならないのは、悪が存在し悪魔が、存在するからです。今すぐ憎い悪魔が悪を滅ぼすとアダムとエバの堕落から罪人の時から関係しているため、人間も滅ぼすことになってしまいます。神は、人間が愛に気付くことを待っているというのです。
人間が神のようになるからと樹の実を食べたのは、悪魔を崇拝することではなく、神なくして人間だけで、生きていくということでした。自分が神のように生きるのです。それが罪です。そして、その神のジレンマから、受肉された人間キリストが必要でした。三位一体を否定する人は、この、神の心情と人となられた神の犠牲の有り難みが分からないのだと思います。スウェーデンボルグ派の人々は、三位一体を理性的ではないといいます。彼らの神秘霊的な感性は、ユダヤ教時代の神秘の世界がわからず、西洋化したキリスト教や、ギリシャ哲学や東洋哲学に違いのだと思います。スウェーデンボルグのIQテストが、どんなに200を超えていたとしても、聖書を否定している限り、神の人智を超えた神秘とユダヤ教の神秘がわからないのではないかと思います。
もし、クリスチャンになろうとも、ある人は葛藤します、死ぬまで。ある人は委ねて平安がおおきいです。その差は何かは、わかりません。
マザー・テレサでさえも、苦労の最中では神は居ないと、嘆いていたといいます。キリストを信頼する前に、義務付ける信心とかではなく、愛を感情で感じる、人間関係や自然界や聖霊との交わりの、愛情を育むことが必要です。わたしも、信頼関係がまだ遠いのです。異端カルトの、統一教会の言われるように、神は落ちた人間まで、降りてくる憐れまれると、キリスト教でも教わります。変わらぬ神の愛というのに気付き、いつか、キリストに捕らえられることに違いありません。
若松先生は、イグナチオ教会ではのミサで、お見かけしたことがあります。著者の、コレヘトの手紙全てのことには時があるというメッセージは感動しました。
体験より、聖句神の言葉に感動すべきですが、聖句が厳しいときは、体験を感動したらいいと思います。
失礼します。
山さん
ブログにアップさせていただきました。お読みください。