本当の終活

 今、婚活、就活、終活などのように「〇〇活」という言葉がよく使われています。いずれも重要な活動ですが、とくに終活はいろいろなトラブルの原因になりがちですね。定年後の生活設計、終末医療をどうしてほしいか、遺産相続の問題などです。筆者は計画などなにもありません。「なるようになれ」です。

 今回ここでお話したいのは、そういったことではなく、他人に対するうらみや、憎しみ、苦しみや悩みなどをこの世で清算しておきましょう・・・です。霊的にとても大切なことだからです。以前お話した筆者の友人A君とB君は、中学、高校、大学までも同じですが、どういうわけか60年以上犬猿の仲です。死ぬまで?

 ひどいことをされたとか、ひどいことをしてしまった苦しみも清算しなければなりません。

(1)もう時効でしょうからお話してもいいでしょうが、筆者の知人にある大学の医学部教授だった人がいます。第一内科教授としての権勢は、外部の人間の想像を越えるでしょう。その人が定年になり、別の大学の教授になっていたころ、突然逮捕拘禁される事態が起こりました。逮捕の理由についてはもう忘れました(公金の流用だったか?)。まさに驚天動地のできごとでした。同じ大学を出た人に事情をよく知っている人がいました。「第一内科医局にいたある医師が、教授である彼の指示を受けて近県の医療機関へ赴任しようとしていたところ、突然別の人に交替させられた」と。その恨みが何年か後に跳ね返ってきたのです。警察に密告したその医師の名がわかってしまいました。怖いことですね。もちろん、訴えられた教授も彼を知っているでしょう。「自分の輝かしい人生をどんでん返しした」彼の名を一生忘れないでしょう。

 じつは、「恨みを晴らした」人も今では苦しんでいるに違いありません。人間の心は本来、そういう悪感情を持つことを持つのを許さないからです。怒りや恨みを持ち続けるということは、じつは自分が苦しんでいるのです。早くそれに気づかなければなりません。恨みでもって恨みに返せば、恨みは消えることがないのです。この連鎖を断ち切らなければなりません。

(2)他人にひどいことをしてしまった人も苦しみます。沖縄戦で出合い頭に日本の少年兵に会い、思わず引き金を引いてしまったアメリカ兵がいました。その人は帰国後、精神を病み、一生それに苦しみました。敵であろうと少年を殺せば心の深い傷を負うのは当然でしょう。世界的な禅僧だったテイクナット・ハン師がロサンゼルスで接心(講習会)をした際、ある初老のアメリカ人が来て、「ベトナム戦争で、待ち伏せに会い、親友が目の前で殺された。報復のため、サンドイッチに毒を入れてその村に置いておいた。それを食べた子供が苦しんで死ぬのを見た。罪悪感で今も苦しんでいる。どうしたらこの苦しみから逃れられるでしょうか」と。その時のハン師のアドバイスが素晴らしかったです。ただ、「他人のためにできるだけ奉仕しなさい」と。

 良寛さんは、ある浜辺の漁師小屋を失火で全焼させたとの疑いを受け、何人かに殴られていた。知り合いの医者が通り掛かり、なにがしかの酒代を与えて解放させたとの話が残っています。「どうして私じゃないと言わなかったんですか」と問うと、「言っても仕方ないから」との答え。また、子供たちと遊んでいると通りがかりの親父に「お経も上げずに遊んでばかりいて」と非難されると、ただ、「これが私です」との答え。良寛さんにとって侮辱も暴力も「関係ない」のです。見習うのはむつかしいでしょうが、心に留める価値がありますね。

 悲しみも死ぬまでにきちんと清算しなければなりません

 大震災や事故で大切な肉親を亡くした人の悲しみはいかばかりでしょう。それでも、死ぬまでにその死を受け止めなければなりません。死んだ人の霊魂を見て癒された人、「私が向こうへ行ったらまた会えるから」と考えて安心する人もいるでしょう。もう成人になった息子を突然失った農家のお母さんが、あまりに悲しむので周りが心配して農薬や刃物を隠したと、新聞で読みました。あるとき夢で、向こうから来た息子さんがお母さんの身体に溶け込んだのを見たそうです。「亡き息子さんも向こうで心配していたのでしょう」と結んでありました。悲しいですが救われますね。

生きようとする意欲の大切さ

 ふだん気にも留めなくても、人間には生きる意欲・張りがどれほど大切か、筆者は何度も目の当たりにする機会がありました。その一例が、筆者の勤めていた大学の他の研究室の教授です。穏やかで優れた方で、研究室には活気があふれていましたが、ある時、最愛の息子さんを亡くされました。十八歳そこそこの不幸なオートバイ事故でした。それまではよく言う、風邪もひいたこともないようなお元気な方でしたが、それ以来、明らかに生きる意欲を無くし、わずか2年後には幽冥境を異にされました。そんな例を幾人も間近で見ています。

 どんな人でも、一生の内には、辛いことや苦しいことがあるのは当然でしょう。中学時代の友人たちが集まったとき、筆者が「みんなそれぞれいろいろなことがあって、穏やかな今日に至ったのだね」と言ったところ、ある女性に「私は今そういう時です」と・・・困りました。なんでも娘さんのご主人が重いガンだとか(けっきょく、1年も経たずに亡くなったそうです。まだ小学生の娘を残して)その女性には最近も会いましたが、もう昔通り元気そうでした。もともと明るい人だったのです。

 さまざまな人を見ていますと、人は苦しい状況になると、その対応が二つのタイプに分かれることがわかります。一つは、上述の女性のように辛いことは時間とともに忘れて元気を取り戻すタイプ。そういう人が多いのは事実です。マルチタレントだった森繁久彌さんが「人間の素晴らしい能力は忘れることです」と言っていました。いい言葉ですね。もう一つのタイプはマイナス思考になる人です。一度そうなると、次々にマイナス思考、すなわち、負のループに入るのです。そして身体も衰えていくのです。間違いなく。

 筆者は長年、医学の研究を続けてきて、人間の命を守るシステムの巧妙さに驚くことがしばしばでした。しかし最近その考えを改めなければならなくなりました。気力がとても大切なのです。若いときは相当落ち込んでも回復します。しかし、歳を取ると気力が落ちると身体も「もろに」衰えるのです。

 筆者にはすばらしい別の友人がいます。長年、工務関係の中企業の経営者でした。上級公務員としての将来を捨てて、早くに亡くなったお父さんの跡を継いだ人です。何十年も「このプロジェクトが終わったら次はどんな仕事を請け負えるか」と、眠れない夜が続いてきたとか。従業員の生活が掛かっているのです。「もし倒産すればその町には居られなくなる」と。みんなその町の住民だからでしょう。彼の言う経営の要諦は「ただ忍耐です」。それを50年間立派に続けて来られたのですから感動します。そんな過酷な人生ですから、体にも影響がないはずがありません。今では厳密な健康管理が必要だとか。それでも実に明るいのです。いつもニコニコしながら、そういう厳しい人生をさりげなく話す人なのです。今は経営から引退しましたが、なにかと関わっているそうです。話していると「彼なしには経営が円滑にいかない」ことがよくわかります。社長が暗い顔を見せたり、他人の批判ばかりしていたら、従業員のやる気が無くなるのは当然でしょう。彼の明るい性格と生きる意欲の源はそこにあるようです。

 結局、どういう人生を送るかはその人次第でしょう。いつまでも世を恨み、知らず知らずにマイナス思考の人になるか・・・そういう人からは周囲が離れます・・・そして生きる意欲を無くして行く人。一方、過去は過去と割り切り、現実は現実として受け入れ、明るく前進し続ける人。空思想の実践者ですね。困難な状況になったとき、負のスパイラルに陥らないように頑張ることは誰にでもできることなのです。そういう自分に気付き、方向を変えればいいのです。歯を喰いしばってでも。

 筆者も今ご紹介した人たちと同年代です。こういうことをお話する資格があると思いますが・・・。

求道の人 河口慧海(1,2)

(1) 河口慧海師(1866-1845)は禅の黄檗宗の僧侶。中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえ、釈迦本来の教えがわかる物を求めて、サンスクリット語の原典とチベット語と訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たしました。

 当時チベットは厳重な鎖国政策をとっており、中国僧と自称して、ネパール経由で間道の間道を通って2年をかけてチベット入国を果たしました。それは文字通り命懸けの旅であり、事実、以前同じ目的で再三チベット入りを企てた能海寛(ゆたか)はが行方不明になっているほどです。慧海の燃えるような求道精神は、あの玄奘三蔵のインドへの旅に匹敵するでしょう。慧海の準備は周到で、大石を背負ってヒマラヤ越えの体力をつける訓練をしたり、チベット人少年から俗語まで学んでいます。そしてチベットへ大乗経典の原典を求めてチベットへ渡ったのです。 

 1897年32歳で日本出発。念願のラサに到着したのは4年目、1903年6年ぶりに多数の仏典を持って帰国しました(1913~1915)にも2回目のチベット入境を果たしています)。慧海が持ち帰った資料はチベットやインド、ネパールなどから持ち帰った経典や仏像、仏具や、数千種類のヒマラヤの高山植物の標本類、貨幣、女性の髪飾りなどの装身具など多岐にわたり、一括して東北大学に寄贈されています。ただ、著書を「チベット探検記」とせず、「チベット旅行記」としたのは慧海の謙虚さを表しているでしょう。しかし、慧海は仏教家というより、探検家、あるいは民族学者というべきでしょう。その理由は以下のとおりです。

 まず、慧海はチベットへ行く前は上座部仏教(初期仏教)を「小乗教」と蔑み、小乗の仏典は必要ではなく、最も必要なものは大乗仏典であると考えました。そのため、日本でパーリ語を学んでいた釈興然(セイロンへ留学して初期仏教を学んでいる)と激論し、結局はパーリ語の教授を断られています。筆者もこの点に大きな疑問を持って、慧海のチベット旅行記を読み始めたのです。

 その結果、驚くべきことに、20代後半頃の慧海に見られた熱烈な大乗仏教への傾倒は影を潜め、むしろ釈迦の直説経典と言われる「阿含経」(四阿含)こそが正統な仏典で、声聞もまた正統な仏子だと言います。そして、そうした元々の仏教は元来「大乗」なのであって、それらを「小乗」と貶する「自称大乗教徒」の方が誤っていると批判しました。さらに、大乗仏教でも特に大集経典(密教的な要素が多い)や密教経典には正統性が無いことを指摘するなど、考えをほとんど180度修正しました。河口慧海のチベット語仏典の研究は、「在家仏教」としてまとめられました。内容については次回お話します。

註1チベット旅行記(上・下)講談社学術文庫

註2チベット仏典 チベット大蔵経は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂されたチベット仏教経典が集成されたもの。インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっています(以上、ネットWikipedia「河口慧海」記事から)。

(2) 筆者は河口慧海のことは、困難を克服してチベットへ行った人くらいの知識しか持たず、「チベット旅行記」も読んだことはありませんでした。しかし、下記のように、河口師の考えには筆者も共感するところが多いことがわかりました。

 慧海は帰国後、1921年(大正10年)に還俗(!)しました(その理由については自身の著書「在家(ウパーサカ)仏教」(国立図書館コレクションKindle版)に詳しく記されています)。すなわち、在家でも悟りに達することができること、「四阿含経」などの初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えであること、大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いことなど、筆者の考えと同じくするところが多いのです。すなわち、

1)大乗経典類は釈迦の直説ではなく、初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えである

 「阿含経」は、「長阿含経」(初期仏教の内の法蔵部の根本経典、以下同じ)、「中阿含経」および「雑阿含経」(説一切有部)、「増一阿含経」(大衆部)からなりますが、河口師は「阿含経こそ正統な仏典である」としています。そして大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いと言っています。

筆者のコメント:筆者はむしろ、釈迦仏教より釈迦以前の(以後も続く)ヴェーダンタ信仰の、人間には個我(アートマン)という「本当の我」があり、ブラフマン(神)との一体化を目的とする思想を尊重しています。この考えは、初期仏教の一派、説一切有部の考えとも一致します。説一切有部は後の大乗仏教各派から激しい批判を浴びましたが、むしろ当然でしょう。

2)近代における「出家仏教」維持の困難

 出家仏教は、貨幣経済が浸透し徴兵制がある(わが国の戦前の:筆者註)近代国家においては実践不可能である。それゆえ、「近代以降も実践可能で、正統性のある唯一の仏教」として、在家仏教を勧奨すべきであると主張しています。

筆者のコメント:これは言いすぎでしょう。当時も今も、永平寺や、高野山金剛峰寺、山川宗玄師の正眼寺を始め、多くの寺院で厳しい修行が行われています。もちろん筆者は彼らの生活を尊いものと思ってますが、彼らの修行方法(ことに禅問答)には形式に堕したところが少なくないのです。それゆえ筆者は、むしろ形式にとらわれていない分、在家の方が悟りに達するには有利ではないかと考えているのです。言うまでもなく在家でも座禅瞑想は不可欠で、筆者も毎日実践しています。

4)以下、河口師は各宗派批判(註3)として、

 天台宗批判:・・・天台宗が依拠している天台智顗(ちぎ)の教相判釈(以前お話した、五時八教説、つまりすべての経典を釈迦が悟りに至ってからの年代説明)は、史実と照らしてデタラメである・・・。

 日蓮宗批判:四項目挙げられています。その一つに・・・妙法蓮華経(法華経)は妙法そのものではなく、言わば妙法の「効能説明書」たる一経典の名(見出し)に過ぎない・・・とあります。

筆者のコメント:両方とも前回のブログでお話しました内容と一致します。

 真言宗批判:(略)

 浄土教批判:・・・称名念仏(南無阿弥陀仏の名号を口に出して称える念仏)による極楽往生を保証するはずの「第十八の本願文(註4)」は、康僧鎧(?-?、252年頃の人)訳の「仏説無量寿経」のみに見られる改変捏造された無根拠な記述である。

筆者のコメント
康僧鎧訳「仏説無量寿経」は、浄土宗や浄土真宗で根本経典とされています。筆者はサンスクリット原典と漢訳の無量寿経との比較調査を行いましたが、サンスクリット原典にも第十八願の「唯除五逆謗法」に相当する文章はありました。しかし筆者は、別の観点から「仏説無量寿経」に書かれた「弥陀の本願」はナンセンスだと考えています(すでに以前のブログでお話しました)。

 禅宗批判:その一つに

・・・「拈華微笑」も大梵天王仏決疑経なる偽経を根拠とした中国人による完全な創作である。

筆者のコメント:これについてもすでにお話しました。

 その後の河口師の信仰生活

遺族によると河口師は、朝夕2回家の外に掲げられた板木を鳴らし、

「謹んで一切衆生に申し挙ぐ

生死の問題は至天にして

無常は刹那より速やかなり

各々務めてさめ悟れ

謹んで油断怠慢するなかれ」

と歌うように唱えていたと言います。

まとめ:筆者はチベット仏教の経典類も、その原典であるパーリ語原典も読んだことはありません。さらに、河口師の「在家仏教」を読んだのもごく最近です。しかし、ブログを系統的に読んでいただいている方にはおわかりいただけると思いますが、筆者の考えは、チベット仏教の経典類を原語でくわしく研究した河口師の論説に共感するところが多いのです。それらのことは、現在私たちが入手できる情報からもわかるのです。

 それにしましても、あれほど初期仏教に批判的だった河口師が、チベット仏典を入手し、研究した後は、それらを支持するように180度転換し、大乗経典類やそれに依拠するわが国の仏教各宗派を厳しく批判するようにのなったのには驚きます。危険を冒し、大変な努力をしてチベット入りした河口師は激しい人だったのでしょう。

註3 上記の各宗派批判は、その一部の記述を筆者が選びました。詳しくは河口師の原著をお読みください。

註4 弥陀の第十八願:(現代語訳)わたし(阿弥陀仏)が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そ)しるものだけは除かれます。

なぜ「空」が大切か

 筆者は、このブログシリーズで繰り返し「空」の概念についてお話してきました。「空がわからなければ禅はわからない」とも。最近、山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」(文芸春秋)を読んでいて、「空」と関係がありそうな,、とても興味ある意見を知りました(スペースの都合から筆者の責任で少し簡約しました)。

 ・・・よく人から「戦場のことをよく憶えていますねえ」とか「山本さんは記憶がいいですねえ」と言われて戸惑います。少なくとも戦場のような命の危険を感じる状況で受けた経験は人間の記憶とは別種のものだからである(註1)・・・簡単に言うと「見る」ということ、および「見る」という状態(そのもの)なのである・・・じつは、人は普段はものを見ていないで、「見た」と思った瞬間、その前後に「判断」が付随しており、こ「判断」がいわば一種のシャッターとフィルターと絞りのような役をし、それがまたある種の緩衝作用もしているのだが、何かの異常な恐怖のようなものでこの「判断」の機能が停止すると、人間はものを「見るだけ」になり、そしてその対象は直接に脳髄に焼き付けられてしまう状態になる。これが「記憶とは別種のもの」の意味である・・・普通に生活しているとき、人は「見ること」と「判断すること」とは別だなどという意識は全くない。しかし、判断というフィルターもシャッターも絞りもなくなった、「純粋に見ること」とはどういう状態なのか・・・たとえば、舞台で「処刑の場」が演ぜられている。観客は「見る」の前後に、「芝居」という判断が付随しているから椅子に座って見ていられるのであって、なにかでその判断が停止して、ただ「見たら」全員恐怖のあまり総毛立ち、化石のようになってしまうだろう・・・「脳髄焼き付け」という以外にない。そして焼き付けられたものはもう、もがいてもあがいても消えない。記憶には判断が入っているから判断で操作できるが、この焼き付けはもうどうにもならない・・・一体この「判断停止」「ただ見ることだけ」「脳髄焼き付け」という状態は、どんな時に起こるのだろうか。それはおそらく処刑寸前、戦死寸前、拷問寸前といった状態で起こるもので、頭の中がスーッと空っぽになり、周囲がすべて澄み切ったようになり、あらゆる映像が異常に鮮明に見え、すべてのものがはっきりとそのまま目に飛び込んできて脳髄に焼き付くが―何も理解していないと言った状態である・・・

いかがでしょうか。山本氏の話を聞いていた人が「私も交通事故で『あわや』と言う時、相手の運転手の無精ひげまで見えた」と言いました。「脳髄に焼き付けられる」は、専門外の山本氏ならではの表現で、実際には「脳の通常の記憶が保存される部位以外に蓄えられる」と言う意味でしょう。つまり、脳ではなくの部分のことだと思います(註1)。

 山本氏の言う「ただ見たという経験」とは、まさに「空」の概念と同じだと、筆者には思われます。「空」とい概念を別の言い方で表したように思うのです。そこに何の判断も入らない「見たという体験」は、そのまま魂と感応し、そこへ保存されるのではないでしょうか。

 「空」の概念は、モノゴトの認識方法だと、何度もお話してきました。過去を後悔したり、思い煩ったりせず、未来を思い煩わないことは、現実生活での「空」思想の応用です。それはそれでとても大切な禅の知恵です。しかし達磨大師以来、1800年以上に渡って培われてきた禅思想の真のすばらしさは、このモノゴトの観かたにあると筆者は思います。「ものがあって私が見る」という、唯物論的なモノゴトの見方は、たかだか、産業革命以来300年くらいで出来上がったものなのです。

註1「精神活動(こころ)は脳の(生物学的な)働きによるものかどうか」は、古くからの重要なテーマで、現代でも決着は着いていません。山本氏の「記憶とは別種のもの」と考えと関連があるかもしれません。人間の魂を考える上でとても重要なテーマです。以前、このブログで少し触れました。いずれ再び話題にします。