(1) 河口慧海師(1866-1845)は禅の黄檗宗の僧侶。中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえ、釈迦本来の教えがわかる物を求めて、サンスクリット語の原典とチベット語と訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットチへの入国を果たしました。
当時チベットは厳重な鎖国政策をとっており、中国僧と自称して、ネパール経由で間道の間道を通って2年をかけてチベット入国を果たしました。それは文字通り命懸けの旅であり、事実、以前同じ目的で再三チベット入りを企てた能海寛(ゆたか)はが行方不明になっているほどです。慧海の燃えるような求道精神は、あの玄奘三蔵のインドへの旅に匹敵するでしょう。慧海の準備は周到で、大石を背負ってヒマラヤ越えの体力をつける訓練をしたり、チベット人少年から俗語まで学んでいます。そしてチベットへ大乗経典の原典を求めてチベットへ渡ったのです。
1897年32歳で日本出発。念願のラサに到着したのは4年目、1903年6年ぶりに多数の仏典を持って帰国しました(1913~1915)にも2回目のチベット入境を果たしています)。慧海が持ち帰った資料はチベットやインド、ネパールなどから持ち帰った経典や仏像、仏具や、数千種類のヒマラヤの高山植物の標本類、貨幣、女性の髪飾りなどの装身具など多岐にわたり、一括して東北大学に寄贈されています。ただ、著書を「チベット探検記」とせず、「チベット旅行記」としたのは慧海の謙虚さを表しているでしょう。しかし、慧海は仏教家というより、探検家、あるいは民族学者というべきでしょう。その理由は以下のとおりです。
まず、慧海はチベットへ行く前は上座部仏教(初期仏教)を「小乗教」と蔑み、小乗の仏典は必要ではなく、最も必要なものは大乗仏典であると考えました。そのため、日本でパーリ語を学んでいた釈興然(セイロンへ留学して初期仏教を学んでいる)と激論し、結局はパーリ語の教授を断られています。筆者もこの点に大きな疑問を持って、慧海のチベット旅行記を読み始めたのです。
その結果、驚くべきことに、20代後半頃の慧海に見られた熱烈な大乗仏教への傾倒は影を潜め、むしろ釈迦の直説経典と言われる「阿含経」(四阿含)こそが正統な仏典で、声聞もまた正統な仏子だと言います。そして、そうした元々の仏教は元来「大乗」なのであって、それらを「小乗」と貶する「自称大乗教徒」の方が誤っていると批判しました。さらに、大乗仏教でも特に大集経典(密教的な要素が多い)や密教経典には正統性が無いことを指摘するなど、考えをほとんど180度修正しました。河口慧海のチベット語仏典の研究は、「在家仏教」としてまとめられました。内容については次回お話します。
註1チベット旅行記(上・下)講談社学術文庫
註2チベット仏典 チベット大蔵経は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂されたチベット仏教経典が集成されたもの。インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっています(以上、ネットWikipedia「河口慧海」記事から)。
(2) 筆者は河口慧海のことは、困難を克服してチベットへ行った人くらいの知識しか持たず、「チベット旅行記」も読んだことはありませんでした。しかし、下記のように、河口師の考えには筆者も共感するところが多いことがわかりました。
慧海は帰国後、1921年(大正10年)に還俗(!)しました(その理由については自身の著書「在家(ウパーサカ)仏教」(国立図書館コレクションKindle版)に詳しく記されています)。すなわち、在家でも悟りに達することができること、「四阿含経」などの初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えであること、大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いことなど、筆者の考えと同じくするところが多いのです。すなわち、
1)大乗経典類は釈迦の直説ではなく、初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えである
「阿含経」は、「長阿含経」(初期仏教の内の法蔵部の根本経典、以下同じ)、「中阿含経」および「雑阿含経」(説一切有部)、「増一阿含経」(大衆部)からなりますが、河口師は「阿含経こそ正統な仏典である」としています。そして大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いと言っています。
筆者のコメント:筆者はむしろ、釈迦仏教より釈迦以前の(以後も続く)ヴェーダンタ信仰の、人間には個我(アートマン)という「本当の我」があり、ブラフマン(神)との一体化を目的とする思想を尊重しています。この考えは、初期仏教の一派、説一切有部の考えとも一致します。説一切有部は後の大乗仏教各派から激しい批判を浴びましたが、むしろ当然でしょう。
2)近代における「出家仏教」維持の困難
出家仏教は、貨幣経済が浸透し徴兵制がある(わが国の戦前の:筆者註)近代国家においては実践不可能である。それゆえ、「近代以降も実践可能で、正統性のある唯一の仏教」として、在家仏教を勧奨すべきであると主張しています。
筆者のコメント:これは言いすぎでしょう。当時も今も、永平寺や、高野山金剛峰寺、山川宗玄師の正眼寺を始め、多くの寺院で厳しい修行が行われています。もちろん筆者は彼らの生活を尊いものと思ってますが、彼らの修行方法(ことに禅問答)には形式に堕したところが少なくないのです。それゆえ筆者は、むしろ形式にとらわれていない分、在家の方が悟りに達するには有利ではないかと考えているのです。言うまでもなく在家でも座禅瞑想は不可欠で、筆者も毎日実践しています。
4)以下、河口師は各宗派批判(註3)として、
天台宗批判:・・・天台宗が依拠している天台智顗(ちぎ)の教相判釈(以前お話した、五時八教説、つまりすべての経典を釈迦が悟りに至ってからの年代説明)は、史実と照らしてデタラメである・・・。
日蓮宗批判:四項目挙げられています。その一つに・・・妙法蓮華経(法華経)は妙法そのものではなく、言わば妙法の「効能説明書」たる一経典の名(見出し)に過ぎない・・・とあります。
筆者のコメント:両方とも前回のブログでお話しました内容と一致します。
真言宗批判:(略)
浄土教批判:・・・称名念仏(南無阿弥陀仏の名号を口に出して称える念仏)による極楽往生を保証するはずの「第十八の本願文(註4)」は、康僧鎧(?-?、252年頃の人)訳の「仏説無量寿経」のみに見られる改変捏造された無根拠な記述である。
筆者のコメント:
康僧鎧訳「仏説無量寿経」は、浄土宗や浄土真宗で根本経典とされています。筆者はサンスクリット原典と漢訳の無量寿経との比較調査を行いましたが、サンスクリット原典にも第十八願の「唯除五逆謗法」に相当する文章はありました。しかし筆者は、別の観点から「仏説無量寿経」に書かれた「弥陀の本願」はナンセンスだと考えています(すでに以前のブログでお話しました)。
禅宗批判:その一つに
・・・「拈華微笑」も大梵天王仏決疑経なる偽経を根拠とした中国人による完全な創作である。
筆者のコメント:これについてもすでにお話しました。
その後の河口師の信仰生活:
遺族によると河口師は、朝夕2回家の外に掲げられた板木を鳴らし、
「謹んで一切衆生に申し挙ぐ
生死の問題は至天にして
無常は刹那より速やかなり
各々務めてさめ悟れ
謹んで油断怠慢するなかれ」
と歌うように唱えていたと言います。
まとめ:筆者はチベット仏教の経典類も、その原典であるパーリ語原典も読んだことはありません。さらに、河口師の「在家仏教」を読んだのもごく最近です。しかし、ブログを系統的に読んでいただいている方にはおわかりいただけると思いますが、筆者の考えは、チベット仏教の経典類を原語でくわしく研究した河口師の論説に共感するところが多いのです。それらのことは、現在私たちが入手できる情報からもわかるのです。
それにしましても、あれほど初期仏教に批判的だった河口師が、チベット仏典を入手し、研究した後は、それらを支持するように180度転換し、大乗経典類やそれに依拠するわが国の仏教各宗派を厳しく批判するようにのなったのには驚きます。危険を冒し、大変な努力をしてチベット入りした河口師は激しい人だったのでしょう。
註3 上記の各宗派批判は、その一部の記述を筆者が選びました。詳しくは河口師の原著をお読みください。
註4 弥陀の第十八願:(現代語訳)わたし(阿弥陀仏)が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そ)しるものだけは除かれます。