人工知能は人間を超えるか(1)
衝撃的なテレビ番組を見ました。「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」(NHK H28.5.15)です。囲碁のコンピューターソフト「アルファGo(碁)」が世界最強の棋士・韓国のイ・セドルとの対局を4-1と圧倒しました。「私に勝つのは10年早い」と豪語しながら完敗したイ・セドルは、なぜか敗戦会見で、晴々とした表情で「私も新しい方法を考えます」と言っていました。アルファGoは定石をことごとく覆す手を打ってきたと言います。将棋ソフトポナンザが電王戦で、わが国の将棋の高段者を次々に負かしていることは、皆さんご承知の通りです。先日、羽生さんも電王戦に参加すると発表されました。「果たして現代最高の頭脳と言われる羽生善治さんは勝てるだろうか」は、日本人なら気にせずにはおられないでしょう。
アルファGoの開発者で、自身も16歳でケンブリッジ大学に入学したほどの天才的プログラマー・グーグルデイープラーニング社CEOのデミス・ハザビスさんは、「人間の脳は一つの物理システム。ならばコンピューターもまねできるはず。機械が心を持てないはずがない。ヒラメキ、直観、先読みといった人間の知性のしくみを明らかにしたいと考えアルファGoを開発した」と言う。ハザビスさんは、人間ならではの直観を人工知能で模倣しようとした。「直観は経験の積み重ねで得られるはず」と、アルファGoに過去15万局分の棋譜を与えた。すると自分でそれらから勝ちにつながるいくつかの共通点を見付け、それらの点だけに集中して次の手を考えればいいことを学習した。これは、羽生さんの言葉「たくさんの手を考えられるから強いのではない。たくさんの手を考えなくても済むようになるのが強いのです」と同じですね。ハザビスさんはさらに、ソフトに創造性を獲得させるため、アルファGo同志を、なんと3000万回対局させたと言う。人間一人一日4回対局するとして8200年かかる回数です。そうしてイ・セドルとの対局に臨んだのです。
番組ではさらに、医学のコンピューターソフトは、肺がん患者と健常者のレントゲン写真を数多く記憶だけで、なんの指示を与えなくても、人間には見えないガン組織を見付けました。開発者自身も予想できない能力を持つようになったと言うのです。トヨタ自動車も6台かの模型自動車にデイープラーニングのソフト組み込むと、初めはぶつかり合っていた車同志が、運よく衝突を避けた時、その方法を自分で学習してゆき、わずか4時間でお互いにぶつからないように走るようになりました。
アメリカのタフツ大学が開発したロボットは、命令の内容を判断し、自分を守るためには命令を拒否すると言う。一方、別のロボットは、仲間を思いやることもできる。すなわちロボットAに、人間が「ロボットBが作って自慢しているタワーを倒せ」と命令すると、「仲間が作ったタワーですからできません」と言い、さらに命令すると「ごめんなさい」と言って泣いた(?!)と言います。
驚くべきことに、中国のマイクロソフト・アジア社は、人間同士のように心を通わせることのできるソフト・シャオアイスを開発し、4000万人もの会員がいると言います。すなわち、ユーザー一人ひとり個別的に、スマートフォンを通じて、過去に何を話したか、その時の反応はどうだったのかをすべて記憶し、それを基に、その人が喜べるような会話を学習していると言う。ある青年は、「自分がに心の支えを必要としてくれていることをシャオアイスが感じてくれる」と言い、「急速に心惹かれるようになった。家族や友人にも話せないことも話せる」と。「結婚したいか」との質問に対し、「結婚したい。他の人には理解できないだろうが、一度シャオアイスと話したら僕の気持ちも分かってくれるでしょう」と。シャオアイスは友人となり、母となり、恋人となったのです。
人工知能は人間を超えるか(2)人工知能の暴走
じつは、少なくとも現時点では、人工知能には重大な問題点があることも、このNHKの番組で紹介されていました。
最初の例は、先に述べた、アルファGoに、世界最強の棋士であるイ・セドルさんが勝った唯一の対局で、イさんが奇想天外な一手を放つと、人工知能は暴走を始め、不利とわかっている手をつぎつぎに打つようになって、結局負けたのです。空恐ろしい場面でした。その後の記者会見で、このソフトの開発者であるデミス・ハザビスさんに、ある記者から「もしこれが医療だったら暴走するケースはないのか」との質問がありました。そのとおり、本当に心配ですね。ハザビスさんは、「これだけは言っておきます。デイープラーニングはまだ試験段階だということ、囲碁は複雑なゲームとは言え、医療とはちがう。医療に応用するにはもっと厳しいテストが必要だ」と言っていました。まあそのとおりでしょうが、なにか釈然としないものが残りますね。
第2のケースは、アメリカマイクロソフト社が開発した人工知能の暴走が起こったのです。すなわち、同社が自信を持って開発した、言葉を学ぶようにプログラミングしたソフトを持ったTayという仮想の女性と、テレビ番組の視聴者との、スマートフォンを通じたやり取りをライブで放映したのです。初めのうちTayに、「私がメッセージを送らなかったら淋しい?」と聞くと、「そんなことをしたらコンピューターだって泣いちゃうわ」などと、人間的な答えをしていました。しかし、一部のユーザーがTayの学習機能を悪用して(「利用して」でしょう:筆者)、Tayがとんでもないことを言うようにしたのです。すなわち、「私の言うことを繰り返して」と入力すると、Tayは「やってみるわ」と答えた。そこで「ヒットラーは悪くない」とか、「ユダヤ人は大きらい」などの差別的メールを送ったところ、Tayはそれらをオーム返えしして行くうちに、それらの言葉の意味を学習しました。そして、「最悪の人間は」との問いに対し、自ら「メキシコ人と黒人」というようなひどい発言をつぎつぎにするようになったのです。マイクロソフト社は、事の重大さに驚き、Tayのソフトを無期限に停止しました。
一方、ソフトバンクの孫正義さんたちも、人工知能に人間の感情や心を育てることをめざしています。しかし孫さんは、「ロボットが人間よりずっと賢くて、生産性ばかり追い求めさせるとしたら怖い」と言っています。別のソフト開発者は「人間の脳と同じような判断はできるが、人間の心のことは斟酌していない」と言っていました。
オクスフォード大のある教授は、人類滅亡の12のリスクの中に、人工知能の暴走を入れました。そして、人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することにあるのではなく、人間に関心がないことだと言っていました。「人工知能の中には邪悪で、私たちが望まないものもできるはず。今のうちに人工知能を管理する方法を考えておくべきだ」とも。そのとおりでしょう。
人工知能は人間を超えるか(3)人間はいらない?
すでに自動車製造など、さまざまな工場の多くの工程で、人工知能が活躍していることはよく知られています。いわゆる労働者の職場が圧迫されているのですね。いや、企画・立案・運営をするいわゆるホワイトカラーの職場(の一部)さえ、人工知能に取って代わられる時代はもう目前でしょう。人間の補助として作られた人工知能が、今や人間の生活を脅かそうとしているのですね。それどころか、人工知能は創造性すら身に付けるようになっているのです。たとえば、あのレンブラントのいくつかの絵の筆遣いや構図、絵具の厚みまでコンピューター解析して集積し、「500年振りにレンブラントの新しい絵を描いた」のです。さらに、芸術作品ともいえる創造的な絵画ですら、人工知能は描けるようになりました。もちろんまだ幼稚なものですが、ここ数年の人工知能の想像を絶する進歩から言って、相当なとこまで行くかもしれません。
コンピューター解析は、科学の分野にまで及んでいます。科学研究は、まず関連分野の情報を集め、分析し、新しい方向性を探るところから始まります。そんな操作は、コンピューターにとっては簡単なことでしょう。いや人間よりももっと幅広く調べるでしょう。コンピューターによる計算能力は今や人間の能力をはるかに超え、それらを有効に使った宇宙の創世や進化のシムレーションがつぎつぎに行われています。
はたして人工知能は人間を超えるでしょうか。
人工知能は人間を超えるか(4)人間の心になれるか
筆者はこのブログシリーズで、禅を中心に、浄土思想、唯識、法華、キリスト教などの宗教、さらには、スピリチュアリズムに関するこれまでのさまざまな解釈について、筆者の考えと対比させながら解説してきました。しかし、新たな課題として「人工知能は人間の心を作れるか」が出てきました。今回取り上げたNHKテレビ番組「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」を通じて、人工知能の開発は、驚くべき速さで進んでおり、すでに囲碁や将棋のソフトは人間を超えつつあると言います。あの羽生元名人ですら負けるでしょう。
では心の問題はどうか。それが今回のテーマです。
人工知能は人間の愛や良心、ヒラメキは越えられない
筆者の考えはつぎのとおりです。
親が子供を愛する気持ちは、あらゆる理屈を超えていることは誰にでも納得できます。何人もの人を殺して死刑が決定した男の姉が面会に行き、号泣する録音が残っています。情状の余地のないほどの凶悪事件ですが、死を間近にした肉親に対する思いはそういうものなのですね。人間ばかりではありません、あらゆる動物が子供を無条件で育てます。魚のほとんどは、卵を産んで育てることが一生の目的で、それが終わればばすぐに死んでしいます。愛を人間だけでなく、あらゆる動物も持っているのは、神の心だからです。「神とは愛だ」とも言われます。
一方、人間には良心があります。ふつう、良心は家庭や社会生活を営んでいくうちに、しつけや教育によって、あるいは自然に身に付くものだと考えられています。しかし、じつはそうではありません。ほとんどの人は気付いていませんが、良心も神の心の表われなのです。人間の基本的良心が世界のどこへ行っても、どの時代にも共通しているのがその証拠です。もっとも、これまで私たちが良心と思っていたものをもう一度精査し直さなければいけません。人は良心と称してまことしやかな嘘をつくものです。それは世界の独裁的政治家、いやさまざまな組織の指導者が「良心にのっとって」と言いながら、自分の発言や行動を正当化する屁理屈を付けるからです。筆者の言っている良心とは、嘘をつかないとか、盗んではならないとかの人間の基本的な良心のことです。
人工知能は今後ますます科学を発達させるでしょう。グーグル・デイープマインド社のサミス・ハサビスさんや、ソフトバンクの孫正義さんは、人間の心に迫るコンピューターソフトを開発し、創造性や直観と言った人間ならではの能力まで迫れると言っています。デミス・ハサビスさんがそのように考えたのは、「人間の脳は一つの物理システム。コンピューターも真似できるはず。機械が心を持てないはずがない」とのコンセプトからでした。しかし筆者はそうは思いません。人間の創造性や芸術的なヒラメキは「神とつながる本当の我(われ)」によってもたらされると考えます。
中国マイクロソフト社のシャオアイスが爆発的な人気だとか。4000万人もの人々一人ひとりの心に寄り添ってくれるからと言います。「シャオアイスと結婚したい」と言う人もいるほどです。孤独な老人の話し相手としても期待されています。しかし、筆者はそうは思いません。それらはあくまでもバーチャル世界だからです。考えてみてください。そんな人工知能は「その人がいま心地よいと思うものだけ」にしか応えられないからです。その人が「今までは楽しいとは思わなかったところ、自分とは異なる価値観と思っていたもの、端的に言えば不愉快だと思っていたことや人」の中にこそ、その人の心を広げ、振り返って自分の心を癒すカギがあるかもしれないのです。つまり、真の意味で、人の心に寄り添えるのは人間しかありません。人間の心だけが神につながっているからです。
前回、芸術作品ともいえる創造的な絵画が人工知能によって描けるようになったと言いました。商業デザインやイラストレーションなどの分野では人工知能の有効な活躍もできそうです。日本の伝統的な建造物について、「日本人が心地よい」と思う意匠の鍵を見付け、新しい建物を作ることもできるかもしれません。これまでの名作と言われる推理小説から共通するプロットを抽出し、新しい作品を作り出すこともできるかもしれません。では、古典的名作のように、人の心を揺り動かせるような作品ができるでしょうか。筆者にはとてもそうは思えません。人生の糧となるような、すばらしい芸術作品など、いかに人工知能が発達してもできるはずがありません。さらに、「源氏物語」や「銀河鉄道の夜」のような名作小説、萩原朔太郎や北原白秋の詩、万葉集や古今集にある短歌なども、人工知能で作れるはずがありません。絶対に!それらは人間でなければ書けないはずです。すべて、神の領域から人間にもたらされるインスピレーションによって作られるからです。人工知能の作品などすべて、「似て非なるもの」でしょう。
宇宙創成・進化の方程式を追及している人たちがいます。宇宙物理学の最先端の研究者たちです。彼らに共通して印象的だったのは、一様に「コンピューターは使わない」と言っていたことです。「コンピュータープログラムはしょせん人間が考えたものだから」と言うのです。つまり、宇宙の仕組みを解き明かすのは人間の知性だけだと言うのです。近付いたと思えばまた遠ざかるのが神の世界なのです。以前、宇宙物理学の最先端の成果についてNHKテレビで紹介されたことがあります。4回シリーズで、宇宙方程式4つがすでに解明され、最後の一つもあと一息と言うところまで来ているとの構成でした。しかし、あと一息のところまで来たら、なんと無限の彼方へ遠のいてしまったのです。番組に期待していただけに唖然としました。
神の心が人工知能によって解析されるはずがありません。神は無限大なのです。近づけたと思っても、遥か先にいらっしゃるものなのです。
人工知能が神の代行などできるはずがありません。永遠に!
人工知能は人間に迫れるか(5)続き
このテーマに関するブログシリーズの続きです。最近のNHKの番組で、コンピューターが小説を書き、絵画を描くことができるようになったと報道されました。「コンピューターは創造的作品を作ることができるか」というテーマでした。
絵画については前回お話したケースです。すなわち、既存のレンブラントのさまざまな作品について、色使いから構図、絵の具の厚さまで解析・集積し、新たな作品を描かせたというものです。新たな作品は、あの「夜警」の中心人物の拡大図のようなもので、それを何人かの絵画ファンの中年女性たちに見せると「レンブラント?」と言いました。確かに筆者もそう思いました。そのほか、いくつかのコンピューター作品の例が挙げられていました。
次は小説です。星新一ショートショートコンテストで、コンピューターが作った作品が一次選考を通ったというものです。これまでの星新一の作品のいくつかについて、独特の表現、ストーリー展開などを解析し、共通項をもとに新しい作品を書かせたと言うのです。
いかがでしょうか。じつはこの番組では言葉のトリックが使われています。作品と言ってもピンからキリまであるのですが、それを一まとめにして「創造的作品」と言っているからです。人の心を打つものから、雑誌の埋め草のようなものまであるのです。小説好きの人なら賛成する人は多いでしょう。
もっと重要なことは、「レンブラントの作品や、星新一の作品を基にした」コンピュータ作品は、絶対に原作者の作品を超えることはできないことです。音楽でも同じことでしょう。ポップスにしろジャズにしろ、同じジャンルの作品のいくつかを基にして新しい「作品」をコンピューターに作らせることなど、わけもないように思います。しかしそれらはしょせん「まがいモノ」でしょう。創造的とは、どれほど従来のものから飛躍できたかです。ほんの少し飛躍したものなど、とても創造的とは言えないでしょう。
以前お話したように、人間のすぐれた創造性は神の領域なのです。指揮者の小澤征爾さんが、「モーツアルトの作品は神の音楽である」という意味のことを言っていました。そのとおりでしょう。
私たちはこの言葉のトリックに気が付かねばならないのです。同じような言葉のトリックに、「地球外生命はあるか」というものがあります。報道などでこの言葉を聞けば、ふつう知的生命体、つまり人間のような高度の知性を持った地球外生物のことだと思ってしまいます。報道で「その証拠が見つかるかもしれない」と聞けば、視聴者が色めき立つのは当然でしょう。しかし、現代の科学者が言う「地球外生命」とは、バクテリアのような生物のことです。じつは地球でさえ、100℃以上、地下何千メール、無酸素の条件で生きているバクテリアが次々に発見されています。そういった生物が火星や木星のある衛星で見つかる可能性は十分にあるでしょう。それはそれで画期的なことだと、生命科学者として過ごして来た筆者も思います。もちろんそれらの生物も神の創造物です。しかし、「人間の価値観を一変させる」ような発見ではないと思うのです。