私は禅を中心にして仏教を学ぶことで、苦しい時に耐えられる心を培いたいと考えています。死生観を得るためでもあります。そして、いろいろな人たちが苦しい時を乗り切った知恵も探して、皆さんの参考になればとブログを通して報告しています。
読者の柴田さんは「あの世のことを知ることで悟りに至る助けにしたい」とお考えになったのでしょう。しかし、私のブログを読んで、「あの世のことはやはりわからない」との前言になったと思います。そのお気持ちはよくわかります。私の友人で、熱心にブログを読んでいただいているIさんも「神や霊魂のことだけはわからない」と言っています。それが健全な考えでしょう。しかし、まあお聞きください。
柴田さんがおっしゃる「あの世のことを考えるより、弓道を通して、命続く限り最後の一瞬までこの世を正しく認識できるよう、日々を重ねてゆきたい」について私見をお話します。私は「よいお考えです」とご返事をしました。ただ、図らずも柴田さんの先輩が言った「わたしは正射をめざして三十年重ねてきたが未だに正射には至っていない。いつになったら至れるのかはわからないが、これからも一射一射正射をめざして重ねてゆこうと思う」についてはどうでしょう。ここで言う正射とは「悟り」と言って差し支えないと思います。先輩は「弓道を三十年重ねても悟りには至っていない」と言っているのです。
柴田さんにとって弓道はやはり趣味でしょう。しかし私は40年間、生命科学の研究を正業としてきました。その一方で禅を学び、神について考えてきました。いずれも必死でした。その両者が相まって、あるとき突然「命は神によって造られた」と閃いたのだと思います。
柴田さんは「あの世のことはやはりわからない」とおっしゃっています。柴田さんと私の違いは、霊的体験をどう捉えたかでしょう。柴田さんはそれをネガテイブにとらえました。不愉快な体験だったからでしょう。これに対し、私は「未知の世界に触れることだ」と前向きに捉えたのです。そのため積極的に霊能開発修行に取り組みました。その結果、「禅と神」が結び付いたと思うのです(次回へ)。