日本人の情感の喪失

歌謡曲は死んだ。

 近頃とても気になることがあります。歌謡曲というものがまったく無くなってしまったことです。演歌は歌謡曲ではありません。歌謡曲の逃げだと思います。その証拠に、歌いたくなるような曲が一つもないからです。若者が好きなビートの効いた洋風の曲は、筆者にはただ騒がしいだけで、歌詞も聞き取れません。歌謡ショーも残っているのはNHKの他には1‐2でしょうか。50歳以上の人なら、歌える昔の歌謡曲の20や30はあるでしょう。「聞いたことがある」ものなら、50曲を超えるでしょう。筆者もその一人です。

 その理由はいろいろ考えられるでしょう。上手な歌手がいなくなったわけでも、すぐれた作詞家や作曲家がいなくなったからとは思えません。日本人の心が変わってしまったのは事実でしょう。「泣けた泣けた」とか、「惚れーてー惚れーてー」とかの生(なま)の言葉を受け付けなったのは当然でしょう。そうではなくて、何よりも日本人の心が情緒とか情感を失ったからではないかと心配なのです。筆者は、よく知られたレコード制作会社が昭和時代に自社が制作した流行歌80曲以上をまとめたCD集を持っています。それらを一人の女性歌手が歌っていますが、その人の歌唱力とあいまって、それらは一つひとつ心に沁みます。つくづく歌謡曲は日本人の心を歌ったものだとわかります。この全巻80数曲は、その会社の歌謡曲制作史の記念として残したのだと思います。まぎれもなく日本の文化史として残るでしょう。

 「歌は世につれ」と言います。では一体、「今の世」はどうなったのでしょう。「歌謡曲が死んだ」ことは、「本が売れなくなった」ことと軌を一にしていると思います。電子本が大きな割合を占めるようになったためとか、ネットから大量の情報が供給されるとかは、理由に過ぎないと思います。やはり、入り込むべき日本人の心のひだの数が減ったからでしょう。

 その理由についてはよく考えねばなりませんが、一つには社会が激しい競争化の時代になったことがあるでしょう。その影響は子供たちにも及んでいます。今は小学生でも塾に行くのは当然のようになりました。よい中学→よい高校→よい大学→よい会社の人生目標が定着してしまったのでしょう。筆者の時代には学習塾などありませんでした。「勉強ができなくてもスポーツで」などは共通の認識でしたし、成績が上位でも実業高校へ行った人はいくらもいました。そして、中卒や高卒で就職してもそれぞれの立場で十分に力を発揮し、重要な役割を与えられた人もたくさんいます。筆者の現在の自宅の近くにもたくさんの子供たちがいますが、彼らが外で遊ぶ姿など見たことがありません。誰も彼も学習塾へ行くようになったのは、団塊世代が小学生の頃で、その子、そして今はその孫・・・。つまり、現代を構成する大部分の人達なのです。これでは情感や情緒が日本人の心から消えて行ったのは当然ではないでしょうか。

 筆者が心配するのは、このような世相が、これから成長する子供たちの情感を育くむ力が衰えてきたのではないかということです。歌や本は、大きな人間の心の支えでもあることは言うまでもないでしょう。それがら急速に失われつつあるのです。学習塾や、子供が好きなゲームなど、少しも情感の発達の役には立たないでしょう。
 そして何より筆者が心配なのは、情感が衰えた子供たちが宗教を必要とする時、それらを受け止められるだろうかということです。宗教は苦しんだり悲しんでいる人たちの琴線のどこかに触れるのだと思います。筆者が「禅塾」と謳いながら、他力の浄土宗系の仏教やキリスト教、神道、そしてスピリチュアリズムと幅広い窓口を開けていますのは、なるべく多くの皆さんの心のひだのどこかに感じていただけるところがあるのではないかとの思いからです。

鈴木大拙 即非の論理(2-4)

鈴木大拙 「即非の論理」(2)

 鈴木大拙博士(1870-1966)は、禅を東洋独自の思想として世界に紹介したわが国の誇る宗教学者です。また、栄西や道元によって伝えられ、日本の文化にも大きな影響を与えてきた禅の世界を、私たち現代人に開いてくれた人です。大拙博士の勉学の広さと深さは、筆者が垣間見るだけでも驚くべきものがあります。

大拙博士は、大乗仏教の基本である般若系経典の中心思想は「即非の論理」であると考えました。すなわち、金剛般若経の中の「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密(釈尊は「悟りは悟りではない、だから悟りと名付ける)おっしゃいました」という表現に着目したと言われています(註1)。大拙博士はこれを「Aは即(そのまま)非Aである。ゆえにAである」と抽象化し、禅の基本的考えとしたのです。「即非の論理」についての理解は、大拙博士と筆者とは基本的には同じだと思いますが、少し違う部分もあるかもしれません。以下は、筆者による理解とお考え下さい。

 道元の「正法眼蔵 山水経巻」にも「古佛(註2)云、山是山水是水。この道取は、山これ山といふにあらず、山これ山といふなり。しかあれば、山を參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。」とあります。
筆者訳:古(いにしえ)のすぐれた修行者は言っている。「昔は山は山、水は水にしか見えなかった。その後(修行が進むと)、山は山でなく、水も水でなくなった。ところが、さらに修行が進むと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってきた」と。とても大切なことです。このことをよく考えなさい。

 これらの考えは筆者がこのブログで繰り返しお話している「空」思想=体験と軌を一にするものです。たとえば、「山」は、ふつう考えられていうような「山」だけではなく、「山を見るという体験」、すなわち「体験」の対象的側面もあるのです(ちなみに主観的側面は「観る私」です)。つまり、「山は即山ではない。だから山である」となるのですね。
「空」思想=体験が大切なのは、「あれは山だ」と思ったときはすでに、判断が入ってしまうからです。禅ではものごとが「観念」として一瞬たりとも固定化されることを徹底的に嫌います。「体験は一瞬の出来事であり、すぐ消える」はず。それゆえ、いかなる判断も、観念として固定化されることもないのです。「空」、すなわち「体験」の対象的側面とは、あくまで「なにかあるもの」なのです。それゆえ「山だ!」と思ったらもう山ではなくなる。つまり、「山は即非山」なのです。すなわち、山と非山、これらが一如(いちにょ)になった時が真の実在としての「山」なのです。これが「即非の論理」だと思います。

註1 「金剛般若経」には、類似の文言は多数ありますが、この言葉自体はありません。

註2 雲門文偃(うんもんぶんえん 宋代の禅師864‐949)「雲門廣録」に「諸和尚子莫妄想。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗」とあるといいます。

鈴木大拙 「即非の論理」(3)

 「即非の論理は禅の要諦である。それは、禅では観念の固定化を厳しく戒めているからだ」とお話しました。苦しみや悲しみ、そして怒りは、何度も思い出し、繰り返すたびに深まるものです。苦しみや悲しみ、怒りから逃れるのはとてもむつかしいのです。韓国の人たちは「恨みは1000年経っても忘れない」と言っています。従軍慰安婦像問題のむつかしさや、伊藤博文を暗殺した安重根の「血の一滴」の巨大なモニュメントを作ったことからもわかりますね。考えるまでもなく、それは韓国にとって何一つ良いことにはならないのです。筆者は韓国からの留学生を何人も受け入れたことがあり、今でも深く付き合っています。それだけに韓国の人達のそういった性情を気の毒に思うのです。
 一方、日本人はかなり対照的のようです。悲惨な太平洋戦争が終わって1年もしないうちに、「憧れのハワイ航路」とか、「粋なジャンパーのアメリカ兵が・・・」とか、「ジープの歌」が流行したのは、いささか呆れているのですが。もちろん日本人にとっても恨みや怒りの感情が続くことがあります。もう50年になりますが、1968年に、こんな新聞記事が出て、とても印象深く覚えていることがあります。山口県萩市の青年会議所が、福島県会津若松市の青年会議所に「今年は戊辰戦争からちょうど100年になります。ここらで昔のわだかまりを捨てて友好関係を築きませんか」とのメッセージを送りました。言うまでもなく萩は長州藩の本拠ですね。しかし、会津若松市の青年会議所は一言のもとにそれをはねつけ、古老たちの喝さいを浴びたそうです。
 怒りの感情に凝り固まっている人は、じつは相手より自分自身を傷付けているのです。他人に対する怒りや憎しみは、唯識で言う阿頼耶識=魂を傷付けます。筆者の古くからの知人に、ほとんど何十年にもわたっていがみ合っている2人がいます。2人ともに親しく付き合っていますが、こういうケースであり勝ちのように、相手も同じように自分のことを悪く言っていることに気が付かないのです。死ぬまで憎み続けるのでしょうか。
 
 筆者は長い間仏教について学んでいますが、怒りや憎しみを持ったままこの世の生を終えるというのはとてもいけないことだとわかります。人間が肉体を持ってこの世に生まれてきたのは、肉体を持つがゆえに出会う苦しみや悲しみを克服し、魂の成長を図るためだと言われます(註3)。この世のことはこの世で決着しておかなければいけないのです。筆者は「苦しみや悲しみや怒りから逃れるにはどうしたらいいか」、この釈迦以来の課題を受け継いで少しでもお役に立てたいと、このブログシリーズを続けています。のちほど改めて筆者なりに長年学んで来たノウハウについてお話していきます。
 
註3 いわゆるスピリチュアリズムの思想で、シルバーバーチのような高級霊がこの世の霊能者を通じて伝えて来るメッセージです。

鈴木大拙の大乗経典理解
 鈴木大拙 「即非の論理」(4)

 鈴木大拙博士の著作を読んでいて{あれ?」と思うことがしばしばありました。それは、大拙博士は大乗経典類も釈迦が説いたものだと考えているのではないかということです。それを立証する文章を見つけたので紹介します(「禅問答と悟り」春秋社 より)。

 大珠慧海(馬祖道一の弟子)と禅僧(ここでは法師)とのやりとり(原文は漢文。現代語訳は大拙博士による)

法師「師は何の法を説いていらっしゃいますか」
大珠「私には人を説き落として、救ってやるべき法などない」
法師「禅師家というのはそういうものですか」
大珠「あなたは何の法を説いているのか」
法師「金剛般若経です」
大珠「もう何回説いたか」
法師「二十回以上です」
大珠「その経はそもそも誰が説いたのか」
法師「もちろん釈尊です。(ご存知のくせにバカにしないでください)」
大珠「もしそうなら、お前がそれを説くのは釈尊を謗ることになるぞ(釈尊は教説は説くものではなく心で直観的に理解するものだと言っているのです:筆者)。

ここで大拙博士は明言しています。
 ・・・釈尊は「金剛経」どころか「大般若」六百巻を説いている。これを説かぬと言ってよいか。説かぬのが本当なら、一巻のお経もあってはならぬわけだ・・・

筆者註 この一節は経典の講釈を専門にする法師(教相家)と禅師との立場の違いを言っているのです。禅の世界ではひたすら問答と坐禅を重んじ、経典の解釈は二の次にしているからです。そのため当時このような論争がよくありました。経典の文言にとらわれて論争している弟子たちに向かって、道元が「只管打座(ひたすら坐禅せよ)」と言ったのはこのためです。ただ、筆者は小学生に対して坐禅を進めている現代の禅僧の言葉を聞きましたが、何もわかっていない子供に「坐禅をしなさい」など言うのはナンセンスでしょう。仏教では一般に「教行一如(学ぶことと修行はともに必要だ)」と言っています。

 下線の部分にご注目下さい。筆者の予想通り、大拙博士は大乗経典類は釈迦の直説だと言っているのです。現代では、大乗経典類は釈迦の直説ではなく、死後数百年かけてインドの哲学者たちが作り上げた、ほとんど別の思想であることに疑いを持つ研究者はいないと思います。筆者は、大乗経典類を釈迦の直説とするかしないかで、仏教研究者の見識の一つの分かれ目としていますが・・・。

 なお、大拙博士は禅の根本経典は「般若経典類」であると言っています。しかし筆者は、以前お話したように、むしろ「法華経」の方が禅の思想的背景として重要だと考えています。たしかに「金剛般若経」にある「即非」の考えは禅の思想の一つではありますが、むしろ「空」思想の方が重要だと思います。なお、般若経の「空思想」や、あの龍樹の「空思想」は、禅の「空思想」とは異質のものであることは、すでにお話しました。

鈴木大拙 東洋的な考え方

鈴木大拙「最も東洋的なるもの」(新潮CDより)

 鈴木大拙(1870‐1966)は金沢の人。1897年に渡米して、ドイツ人の依頼で老子の「道徳経」の英訳仕事に従事。その翻訳作業を通じて、西洋と東洋のモノの考え方に違和感を感じることが多かった。

 大拙:たとえば西洋ではモノゴトを対立的に考える。恐らく主体(subject)と客体(object)とを分ける言語のスタイルから来ているのだろう。さらに、たとえば、Dogs have four legs.「犬が足を持つ」という言い方は日本人としては変だ。「犬には足が4本ある」だろう。そういうふうに主語を明示しないことも多い。さらに、言葉一つひとつの定義(概念)がはっきりしていない。たとえば西洋では「春風は暖かい」と「事実」を言うが、東洋では「春風駘蕩」と「感じ」を述べる。(以下筆者の感想:あるいは、それは西洋の国同士の言葉の違いによるのかも知れません。概念をはっきりさせないと意思が通じないからでは?。西洋ではそれらの言語的特徴が哲学にも影響を与えたのでしょう)。

 大拙:さらに、主体と客体をはっきりさせるという西洋の言語のスタイルが、人間と自然をも対立させることになったのではないか。それゆえ、「自然を克服する」とか、「人間の害になる虫や雑草を駆除する」という発想につながったのだろう。そのため自然は破壊され、貴重な生物種の絶滅の原因になった。東洋では「人間は自然と共存する」と考える。自然とは人間と対比させるものではなく、「自(みずか)ら然(しか)る」、つまり、「それ自身でそうなっている」と言う。(道元が「正法眼蔵」で言っている「現成公案」《モノはあるべきようにあり、「体験」によって現れる》という考え方ですね:筆者)。

 大拙:「自由」についても同様だ。西洋では「他からの束縛を離れる」ことを言うが、東洋では「自らに由(よ)る」とまったく別の意味で使う(すなわち、「自分をよりどころにし、他人に頼らない」というのです。素晴らしいですね:筆者)。
 西洋と東洋はますます近づいて来ており、これらの「西洋的なモノゴトの考え方」と「東洋的な考え方」をうまく融合させることが重要になって来る。でないと、対立や疑心暗鬼が深まるばかり。これからは両者のモノゴトの考え方の長所を出し、欠点を補い合うことが大切だ。

 以上が鈴木大拙博士の講演の要旨だと思います。

 じつは、「主体と客体を対立させない」ことこそ禅の要諦なのです。筆者がこのブログシリーズで何度もお話しているように、「空(くう)」のモノゴトの観かたそのものです。「モノがあって私が見る」という唯物的な考え方とは異なり、「モノを見るという体験こそが真実である」と言うのです。そこでは「見る私と見られるモノ」は一体になっているのです。その体験は一瞬であり、まだいかなる価値判断も生じない段階なのです。禅の代表的な公案の一つ、「父母(ぶも)未生(みしょう)以前のこと」とはこういうことなのでしょう。

沖田✖華さんから学ぶ

沖田☓華さん
 
 このブログシリーズは、仏教の究極の目的である、「苦しみからの解放」について、さまざまな方向から筆者が学んだものをご紹介しています。今回は、私たちと同世代を生きている沖田✕華さんの感動的な体験についてお話します。

  沖田☓(バッ)華さん(1979-)漫画家(「起きたバッカリ」が筆名の由来)。「ニトロちゃん」「蜃気楼家族」など多数。小中学生のときに学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(AD/HD)、アスペルガー症候群と診断された。いわゆる発達障害ですね。NHKテレビ「バリバラハートネットTV」で紹介された沖田さんの壮絶な半生については、言葉もないくらいです。小・中学生時代は、先生に「明日〇〇を持って来なさい」と言われたことをすぐに忘れ、「お前のためにどんだけ迷惑かけられていると思うんだ!」と怒鳴られたこと。鍋に火をかけたまま、15時間も台所に出入りしてたのに火を消すのを忘れたのに気付かず・・・。努力して看護師国家試験に合格したが、言われたことがやれず、最初の日から医師に「サッサと帰れ」と。看護師の上司から「朝『やっといて』と言ったのに。どうしてそんなことが出来ないの」と叱れたとか。✕華さん自身が「それは私が知りたい」「これから一生叱られて生きて行くのか」・・・。さらに、「もーまじでジャマ。死んでしまえ」とまで言われ、ついに自死を企てた・・・。でも、気が付くと生きていた。縄が切れたのだ。
 その後、風俗の世界に入った。そこでお金が貯まって行くのを見て初めて生きがいを感じた。その風俗店で客として出会った漫画家の言葉によって人生が大転換した。話の流れで自分のこれまでのことを話すと、「君の人生そのものがマンガの種じゃん」と言われた。今のマンガ家としての活躍はご承知の通りです。
 ファンには「苦しさを笑い飛ばす人」として受け止められています。沖田さんは「かわいそうと言って欲しくない。それは発達障害の受け止め方ではない」と言います。自分や周りが発達障害と気付くまでの期間がどれだけ苦しく悲しかったか、涙が出ますね。

沖田さんの体験から学ぶこと
 沖田さんの体験から学ぶことはたくさんありますね。まず、初めて自分の価値に気付いたのが、風俗嬢をしてた時、貯金がだんだん貯まって行った時だと言います。人は「存在を認められた」と感じることがどれほど大切かわかります。先生や、医師、看護師の上司を頭から「ひどい」と決めつけるわけにもいかないところに、この問題のむつかしさがありますね。ただ、沖田さんに自死を決意させてしまったのが、上司による沖田さんの完全否定だったことはあまりにも重大です。
 沖田さんが発達障害者の集まりに招かれて、「会話をスムーズに進めるにはどうしたらいいですか」と聞かれ、「なるほど、なるほどとか、そうですねと言うことです」と答えたのはとても印象的でした。沖田さんの言葉は、厳しい長い間の実体験に基づくものでしょうから、改めて我が身を振り返って自問します。

人間原理

人間原理

 人間が知ることのできるこの宇宙(ユニバース)以外にもたくさんの宇宙があると考えている科学者は少なくありません(マルチバース説)。「そこには人間と同じような知的生命体も存在しうる」と考えている人もいるでしょう。しかし、最近の宇宙物理学によれば、個々の宇宙の構造はそれぞれまったく違うと考えられているのです。というより、この私たちのいるユニバースこそ、それらの中で奇跡的存在なのです。アインシュタインの一般相対性原理で示された「宇宙定数(その宇宙を成り立たせている基本的な単位)」の値が、私たちのユニバースについては奇跡的に人間が存在するのに適しているのです。さらに物質の基本単位である素粒子の数や種類も、他の宇宙では違うかもしれないのです。以前お話したように、このユニバースで、現在知られている素粒子は17種(18種)あることが知られています。それぞれの性質や意義は、今後の研究によってますます明らかにされて行くでしょう。しかし、なぜ17個なのか、なぜそれぞれがそれぞれの性質を持っているのかは、永遠にわからないのです。生命についても同様です。遺伝子DNA塩基の種類が4つで、たんぱく質を構成するアミノ酸が20種類であることはわかっていますが、なぜそれぞれ4種と20種となっているのかについても「神が決めた」としか言いようがないのです。筆者が、筆者のグループが突き止めたあるたんぱく質遺伝子の構造をながめているとき、突然「生命は神が造れらえた」と感じたことは、お話しました。

 一方、近年、この銀河系にも地球型惑星の発見が相次いでいます。あるいはそこには人間のような知的生命体もいるかもしれないとの期待もあります。この太陽系にも土星の衛星エンケラドスやタイタンにも生命が存在する可能性が言われています。しかし、間違えてはいけません。地球外生命の存在と、人間のような知的生命体の存在とはまったく別の問題なのです。以前お話したように、地球上で知的生命が生まれたのは奇跡としか考えられないのです。人間のような高等生物が生まれたのは、水が液体の状態で存在しうる、地球が太陽からの距離の100±1~2%のごく限られた範囲にあること、月という衛星がちょうど良い位置にあったことなど、偶然に偶然が重なったからです。地球が火星ほどの大きさだったら、大気は宇宙へ拡散してしまいます。

 「神は自分の業を客観的に知るために人間をお造りになった」という考えがあります。
そしてまさにこのユニバースが造られてから138億年経った今、人間は生命の秘密や、宇宙の構造をつぎつぎに明らかにしているのです。138億年という気の遠くなりそうな時間の、わずかここ100年のことです。驚嘆すべきことではありませんか。

 このユニバース宇宙の基本方程式は4つあると考えられています。そのうち3つまではすでに明らかにされました。「あれが最後の一つだ」という山の頂に立とうとしています。しかし、あと一息というところまでまで来てみたら、その先、はるかかなたまで真理の平原は広がっていたのです。

 筆者が以前このブログでお話したように、人間は一兆分の一の一兆分の一のそのまた一兆分の一というような信じられないような偶然が重なってできたのです。「人間を生み出すために地球はでき、この宇宙はすべてその背景である」これを人間原理と言います。筆者が「宇宙も人間も神が造られた」と言うのはたしかに論理の飛躍です。「わからないところで神を持ち出すのはずるい」と言う人もいるでしょう。しかし筆者には「神がお造りになった」としか考えられないのです。