西田哲学と禅(2)

   西田哲学と神の問題は、とても興味あるところです。西田博士は、

・・・・我々が自然と名付けておる所の者も、精神と言っておる所の者も、まったく種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起こる区別である。自然を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかって言った様に、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である。一言にて言えば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない。実在の根底が直ちに神である。主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一したものが神である・・・・実在の根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・(第二編第十章実在としての神〈善の研究〉岩波文庫p128)・・・・

と言っています。要するに

 「真の実在とは純粋経験である。とすれば神とは人間の純粋経験だ」と言うのですね。言い方を変えれば、「神が創り給うたモノ(宇宙)など無い。あるのは人間の純粋経験のみだ」と言うのです。そうとしか言いようはないでしょう。「西田哲学の純粋経験は禅の空思想と同じだ」と言いました。しかし、「西田哲学には根元的な問題があり、禅思想はそれを越える」と思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です