死生観-4)

 親しい友人を続けて亡くしました。50年以上の付き合いでした。筆者がこのブログを書き続けているのは、〈苦しい時に支えとなる言葉をさがすため〉です。死についての不安などその最たるものでしょう。2人を見送った時、改めて死生観というものを考えさせられました。

 一人は大学時代からの友人で、同じ職業に就いたため、何かにつけて行動を共にしていた男です。彼は絵が得意で、年賀状には毎年独創的な版画を送ってくれていました。そのほかにも年に数回、いわゆる〈季節の便り〉をやり取りしていました。ある年の秋、こちらから消息を訪ねても返事がありません。けっして手紙を出して返事をくれない友ではなかったので、〈?〉と思いました。ところが数か月後の年賀状は届いたのです。ただ、いつもの版画ではなかったので、〈??〉と。そこで年明けに「どうした」と問い合わせたところ、息子さんから「いま入院中です。完治するにはもう少しかかるでしょう」との返事。「入院中でも本人が手紙が書けないはずがない」と再び問い合わせますと、息子さんから「母も入院していますが手紙は転送されますのでご懸念無く」。「転送?」。どうしても納得できないので折り返し「お互いに科学者だ。事実は事実として受け止められるはず」と強く言ってやりました。すると、息子の奥さんから直接電話がありました。「今(義)父はがんが転移して、認知症が加わっています」と・・・・。それが事実だったのです。「転送」は「本人宛転送されます」とも受け取れますが、じつは息子さんへ転送されていたのです。つまり、父親が認知症になったことをなんとかして隠そうと、取り繕っていたのですね。友人は半年後に亡くなりました・・・・。

 もう一人は、中学時代からの古い友人でした。同じ高校へ通っていた同級生と合わせて5人が、年に一回は集まって食事をしたり、旅行をしてきた仲間です。彼はさっぱりとした人間で、共に天文学に興味があったので、約4km離れたお互いの家を、夜遅くまで行き来していました。当時テレビはNHKのみで、帰宅した時11:15分のエンデイング画面が流れていたことを覚えています。

 75歳になったあるとき彼は言いました。「お互い永遠に生きると思っているだろうが、せいぜい80までだ」と。彼は80歳になった時、油断のならない病気になりました。死も覚悟しなければならなかったのです。その頃また5人で集まりますと、彼曰く「あと10年は生きたい」と。「話が違うじゃないか」と思いましたが黙っていました。その2年後彼は逝きました。自衛官のトップにまで上り詰め、好きな酒を飲み、ゴルフ三昧の人生だったので満足な人生だったでしょう。余技の絵もなかなかうまく、信濃の奈良井宿を描いた水彩画は、今も筆者の居間に飾ってあります。俳句や詩吟もやっていましたから充実した〈定年後〉だったでしょう。ただ、最後の1ケ月は呼吸困難になって入院したのが気の毒でした。ただそれも仕方のないことで、葬儀の席で弟さんと「別に不摂生をしたわけでもないのに」と言い合いました。

 筆者の友人が著書出版を祝ってくれた食事会で、出席者の一人から「あなたの死生観は何ですか」と、かなり厳しい調子で聞かれました。本の内容がよくわからないため、少し苛立ちがあったのでしょう。筆者の答えは「その時になってみなければわからない」でした。あの仙厓義梵や一休さんのような高僧でも、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか。

 最後に筆者の死生観についてお話しなければなりません。このブログシリーズの執筆や、上記の友人たちとの〈別れ〉を通じて、「どうなろうとしかたがない」と思っています。科学者として生きてきましたので、〈事実は事実として受け止める〉気持ちは〈習い性〉になっていますし。

立花隆さんへの反論7)

 立花隆さんを「知の巨人」と呼ぶことに多くの人に異論はないでしょう。NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が」は3回放映され、筆者はそのつど視聴しました。

 立花さんの興味の中心は「人間とは何か。どこから来てどこへ行くのか」でした。「そのためには宇宙の始まりから調べて行かなくてはならない」と。「私の職業は勉強家です。100冊読んで1冊書く」でしたから、やはり常人を越えていますね。「猫ビル」に貯えられていた本は10万冊とも20万冊とも。立花さんの思想の生涯の結論は「人間の歴史は知の連鎖である。それが蓄積されていくとやがては新しい次元へと進化する」だったと思います。もちろん筆者の水準など立花さんには及ぶべくもありません。しかし、この立花さんの思想の流れを聞いていて、「?」と思いました。筆者が最近考えている方向と正反対だからです。

 筆者は「神の世界へ戻るべきだ」と考えています。知識の発達は文化を生み、次々に便利な道具を生み出しました。その結果、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせます。ネットにより他人とのコミュニケーションは便利になり、情報の伝達は瞬時に行えます。人やモノの移動はとてつもなく早くなりました。しかしその反面、大切なものを失いました。人間同士の温かい触れ合い、心のゆとりです。受験戦争は幼稚園から始まります。社会人になってからも競争は熾烈になっていくばかりです。そのため、多くの人が疲れ、心を病んでいます。

 しかし、考えてみてください。こんな社会になったのはせいぜい数百年、欧米では産業革命以後、わが国では明治維新後のことです。それ以前、人々は貧しい中でも助け合って生きていました。身近に本や芸術作品は無くても、自然の風物・・・・春は花、夏は夕涼み、秋は紅葉、冬は雪さえ愛でてきました。自然はすぐそこにあったのです。「そんなことわかっている」ですって?そうでしょうか。

 〈寺院消滅〉という言葉が現実のものになってきました。若者の宗教離れや遠隔地への転勤が、寺院や先祖供養から人々が離れるのは当然でしょう。核家族化も人々の関係を希薄にし、一人暮らしが急速に増えています。夫婦と子供二人という、以前の平均家庭がわずか5%になってしまいました。多くの人々が孤独です。

 立花さんは〈頭で考え、判断する人〉です。知性とはそういうものでしょう。しかし、そういう認識方法には限界があるのです。そういう考えを推し進めてきた結果、世界はもうどうしようもないところまで来ていると思います。欧米の知識人が近年、東洋思想、ことに禅に興味を持つようになったのはそのためです。

 もう一つは、神の目でモノゴトを観る認識方法です。自然の風物や音をありのままに見、聞いて感性でとらえるのです。昔はみんなそうしていました。「モーツアルトの音楽は神の世界だ」と言ったのは小澤征爾さんです。愛・・・誰もが持っている子供に対する愛・・・決して〈頭で考え、判断した〉者ではありません。いかなる見返りも求めませんね。それは神の心そのものだからです。禅の究極の目標は神に回帰し、一体化することだと思います。

 〈頭で考え、判断した〉立花隆さんは最終的に霊的世界の存在を否定しました。「臨死体験のような霊的体験は、あくまでも個人のものであって、他人を説得する証拠に欠けるからだ」と言いました。これが立花さんの思考法の限界なのです。よく「科学的に証明されていない」と言うところですね。しかし、「科学的に証明されないから事実ではない」とどうして断定できるのでしょうか。筆者は、たくさんの霊的体験をしました。たしかに、「その体験は個人のもの」でしたし、他人を説得できる〈証拠〉はありません。しかし、それらは、紛れもない事実なのです。〈客観的証拠?〉それは唯物論的な意味で言う〈証拠〉でしかありません。筆者は生命科学の研究者です。研究はもちろん、唯物論的方法で行ってきました。しかし、それとは別に〈目に見えない世界〉があることも体験しているのです。それどころか、今ではその体験を〈実証する〉方法の目途さえ立っているのです。

 たしかにキリスト教やイスラム教の信者たちは、神に対して日本人よりはるかに敬虔です。にもかかわらず、現代も世界各地で戦争は絶えません。それでも戦争を止めるために「信仰の原点に戻るべきだ」と言いたいのです。

日本仏教の問題点

 現代の日本仏教は混迷しています。いろいろな人がいろいろなことを言い、仏教というものがよくわからなくなっているのです。それは真剣に学んでいる若い人たちすべての感想でしょう。今回はその基本的問題の一つと、禅に絞ってお話します。

 まず、混迷から抜け出るためには、ブッダの教えと、数百年後に成立した大乗経典類とはまったく別のものであることを理解しなければなりません。宮沢賢治と法華経については前回お話しました。「法華経は仏典の大王だ」などと言ったあの道元も誤解しているのです。碩学中村元博士の「法華経に関する経典はAD40を遡ることはない」という一言で筆者の言うことが納得されるでしょう。

 次に禅について必要なことは、

 第一に「空(くう)」を正しく理解することです。筆者の解釈についてはすでに何度もお話しました。このキーワードを理解できると、さまざまな公案、つまり、禅の課題もわかるようになります。さらに、「日本古典の中で最も難解だ」と言われている、道元の〈正法眼蔵〉も理解できます。

 ためしに「色即是空 空即是色」という〈般若心経〉のキーワードについての現代の仏教学者の解釈を無作為に紹介しますと、

・・・・色形あるものは実体を欠いているものであり、実体を欠いているものは色形あるものだ(正木晃さん)

・・・・色であるものは、空性であり、空性であるものは色である(立川武蔵さん)

 いかがでしょうか。読者はますます困ってしまいますね。

 第二に、禅と仏(神)との関係です。そして、それはとりもなおさず、「(個)我」の実在です。仏教はこれまで「個我」(それ以前のヴェーダ信仰におけるアートマン)の存在を否定してきました。ヴェーダ信仰では「アートマンと神(ブラフマン)との一致を信仰の究極の目的とします。ブッダがこの考えを否定したのは当然でしょう。ヴェーダ信仰のアンチテーゼとして起こしたのがブッダの思想ですから。しかし、道元禅や臨済禅を正しく理解するためには、仏(神)の存在を考慮の中に入れないわけにはいかないのです。さらに筆者は、座禅・瞑想を実践するためにもこの視点は不可欠だと思います。座禅・瞑想と言っても、「只管打座(ひたすらすわる)」だけではだめなのです。

 「現代の日本仏教は混乱している」と言いました。その中に入り込めば、がんじがらめにされるだけでしょう。現代、書店に行けば、たくさんの仏教解説書が出ています。それらの大部分は「混乱に混乱を積み重ねたもの」ばかりだと思います。それから逃れるにはどうしたらしいでしょうか。その本質を洞察するのです。そのためには、仏教を歴史的に把握し(縦の関係)、仏教と他の宗教、すなわちキリスト教や神道、スピリチュアリズム(心霊主義)や神秘主義などとの比較(横の関係)が不可欠だと思います。「膨大な文献を読んで本質をざっくりと把握する」、これができたのは江戸時代の富永仲基でした。「ブッダの思想は大乗経典類とは別だ」と洞察したのです。天才と称されるゆえんでしょう。富永の判断は正しいと、筆者も根拠を上げて説明できます。

 以上の私見はこれまでのブログをお読みいただければわかります。現に「最初から読み直した」とおっしゃっている方がいらっしゃるのです。

宮沢賢治と法華経‐1,2)

1)日本の数ある小説家の中で100年後、200年後でも読まれるのは宮沢賢治の作品だけだと言われています。〈銀河鉄道の夜〉〈風邪の又三郎〉〈どんぐりと山猫〉〈注文の多い料理店〉〈グスコーブドリの伝記〉・・・・筆者も賢治の作品のほとんどを読みました。 賢治が法華経の教えを下敷きにして多くの名作を書いたと言われています。それらはいずれも日本人の心に永く残るものでしょう。

 賢治が法華経の熱烈な信者であったことはよく知られています。弟の清六さんによりますと、賢治が最も感銘を受けたのは〈妙法蓮華経・如来寿量品十六〉だったとか(〈兄のトランク〉筑摩書房)。賢治は遺言として「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と父親に言い残しました。

 まず法華経についてお話します。仏典には「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などの初期仏典に加えて、華厳経、阿含経、維摩経、般若経、法華経など多くがあります。それらすべてを集めたものは、わが国では最終的に〈大正蔵経〉と呼ばれ、全部で約12,000巻になります。そう聞けば誰しも「どれが一番大切なお経なのか。一体お釈迦様はそんなにたくさんの教えを残されたのか?」と考えますね。当然でしょう。その〈矛盾〉を説明するために、「お釈迦様が悟りを開かれて最初にお説きになったのが華厳経・・・・最後に御示しになったのが法華経だ」という説が出されました。〈五時八教〉と言います。つまり、「法華経は釈迦の教えの集大成だ」と言うのです。そして「法華経だけが救われる道である(一乗ですね:筆者)」とも言ってます(法華宗や日蓮宗、創価学会や立正佼成会など)。筆者にはこじつけとしか思えません。

 その〈こじつけ〉の辻褄を合わせるために、「初期仏典(スッタニパータなど)にあるブッダの教えやエピソードと、大乗経典類の内容との差異については、聞き手のレベルにあわせた方便である」としているのです。別のところでもお話しましたように、スッタニパータに説かれているのは〈生活の知恵〉で、大乗経典類のように思想を説いているのではありません。両者はまったく異質です。つまり〈法華経〉は釈迦が説いたものではないのです。それを初めて洞察したのは江戸時代の学者富永仲基で、やはり天才としか言いようがありません。近代仏教学の碩学である中村元博士も、「法華経はAD40年より遡ることはない」と明言しています。賢治が法華経に熱中した理由は筆者にはよくわかりません。あるいは、よく言われるように、賢治の実家が裕福な質屋・古着屋で、貧しい人たちのなけなしの家財を売り買いしてきたことに対する〈後ろめたさ〉が、〈苦しみ悩む人たちを救済しよう〉という、大乗経典の中心思想と一致したのかもしれません。

 賢治の父親政次郎は熱心な浄土真宗の門徒で、しばしば東京から高名な僧侶を招いて講演会をしていたと言います。賢治も幼い時からそれに参加していたと。しかし、高僧の一人島地大等から〈漢訳法華経〉を教えられ宮沢賢治は「心が震えるほど感銘した」とか。

 筆者が〈法華経〉を初めて読んで驚いたのは、〈法華経〉には、「法華経はすばらしい。法華経はすばらしい」と書いてあるばかりで中身がないことでした。後になって江戸時代の平田篤胤が「効能書きばかりで肝心の薬がない」と言っているのを知って、まったく同感でした。道元や法然は「法華経こそ最高の教えだ」と言っています。現に正法眼蔵の中にも多く引用されています。しかし、筆者にはそこだけがよくわかりません。賢治の法華経に対する思い入れは大きく、浄土真宗の熱心な信者だった父親や、盛岡高等農林の同級生で親友の保坂嘉内を折伏しようと激しく口論したり、花巻市内をあの団扇太鼓をたたきながら行進したりしたとか。保坂嘉内は、日記の末尾に書いた「宮沢賢治来訪す」という文字を後で消しています。義絶したのですね。

 賢治の人生が〈人に尽くす〉ものであったことは〈雨にも負けず〉の詩からもよくわかります。賢治が書いた小説や詩は、日本人の心に永く残るでしょう。しかし、こんな、釈迦の教えでもないものを熱狂的に信じる人が近くに居たら、たまったものではありませんね。「敬して遠ざける」人でしょう。

2)〈妙法蓮華経・如来寿量品十六〉には、大略、

・・・・私(ブッダ)が、死んだと見せかけたのは方便である。今でも私を慕う者の前には現れて法を説いている。それにより悩み、苦しんでいる人たちを仏の道に入らせる。そして美しく安らかな仏国土へと導く・・・・

とあります。 賢治が感銘を受けたのはこの文言でしょう。

 筆者の言う、「法華経はすばらしい。法華経はすばらしいというだけで中身がない」の理由は、以下の通りです。

 法華経には7つのたとえ話があります。

1)三車火宅(譬喩品。以下、現代語訳はWikipediaから)  ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。 筆者のコメント:「では一乗の教えとは何か」・・・・それが示されていません。3),4),5),6)についても同じです。

2)長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)  ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。 筆者のコメント:「あなたは仏の子である」と言われても、「何やらありがたいがピンとこない」としか言いようがありませんね。

3)三草二木(薬草喩品)  大地に生える草木は、それぞれの種類や大小によって異なるが、大雲が起こり雨が降り注がれると、すべての草木は平等に潤う。この説話の大雲とは仏で、雨とは教え、小草とは人間や天上の神々、中草とは声聞・縁覚の二乗、上草とは二乗の教えを通過した菩薩、小樹とは大乗の教えを理解した菩薩、大樹とは大乗の教えの奥義を理解した菩薩であり、それら衆生は各自の機根に応じて一乗の教えを二にも三にも聞くが、仏は大慈悲をもって一味(一乗の異名)実相の教えを衆生に与え、利益で潤したことを例えた。

4)化城宝処(化城喩品)  宝のある場所(宝処)に向かって五百由旬という遥かな遠路を旅する多くの人々がいた。しかし険しく厳しい道が続いたので、皆が疲れて止まった。そこの中に一人の導師がおり、三百由旬をすぎた処で方便力をもって幻の城を化現させ、そこで人々を休息させて疲れを癒した。人々がそこで満足しているのを見て、導師はこれは仮の城であることを教えて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導いた。この物語の導師は仏で、旅をする人々は一切衆生、五百由旬の道のりは仏道修行の厳しさや困難、化城は二乗の悟り、宝処は一乗の悟りであり、仏の化導によって二乗がその悟りに満足せずに仏道修行を続けて、一乗の境界に至らしめることを説いている。法華経では、遥か昔の大通智勝如来が出世された時、仏法を信じられず信心を止めようと思った人々が、再び釈迦仏の時代に生まれて仏に見(まみ)え、四十余年の間、様々な教えを説いて仮の悟りを示し理解して、また修行により真の宝である一乗の教えに到達させることを表している。

5)衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)  ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している。
6)髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)

 転輪聖王(武力でなく仏法によって世界を治める理想の王)は、兵士に対してその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ、もとどり)の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので容易に人に授与しなかった。この物語の転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経(にぜんきょう=法華経以前の様々な教え)、髻中の明珠とは法華経であることを表している。

  7)良医病子(如来寿量品) ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している。 筆者のコメント:良医は釈迦のことで、「死んだと見せかけて、じつは生きて教えを説いている」その「教えとは何か」が示されていません。
 以上、筆者の言わんとするところがお分かりいただけるのではないでしょうか。

斎藤利幸さんへ

 斎藤利幸さんは熱心な読者で、よく適切な質問をしてきた人です。しかし、去年の9月、筆者が澤木興道さんの批判をしたとたん、「すっぱいブドウの論理です」と言って去って行きました。「(筆者は)澤木興道師には到底及ばないので『あれはダメだ』と批判した」と言う意味でしょう。「筆者の考えのどこが納得できないのか」を明示していただかなければ、〈捨てぜりふ〉になってしまいます。おそらく斎藤さんは澤木師に心酔していたため、筆者の澤木批判に、「自分がトータルに否定された」と思ったのでしょう。「去る者は追わず」も禅の心ですが、最近、他の読者の皆さんの参考になるのではないかと思い、もう一度取り上げます。

 筆者は8年前、このブログシリーズを始めるとき、幾つかの決心をしました。

1)「名前や来歴はすべて公開する」。調べてみますと、ほとんどのブロガ―はハンドルネームか匿名で自分の考えを発表していました。まちがいなく、多くの不愉快で無責任なコメントが寄せられていたからでしょう。それに対し筆者は自説を述べる責任上、それはいけないと思いました。

2)「批判は謙虚に受け止め、反論すべきものは反論し、学ぶべきものは学ぼう」。筆者は〈学者〉と呼ばれるカテゴリーの人間です。〈学者〉とは〈教える者〉ではなく、〈学ぶ者〉だからです。

 本題に入ります。

澤木興道師(1880-1965)は「大正・昭和を代表する禅師」と言われてきました。曹洞宗僧侶で元駒沢大学教授。京都市・安泰寺を開設し後進の指導に当たった人です(以下、経歴についてはWikipediaを参照してください)。内山興正師、西嶋和夫師、村上光照師、松原泰道師など、多くの人に影響を与えました。著書には、「禅とは何か」(誠信書房、1962)、「道元禅の神髄」(同1963)など。なお身近に接しその言葉を記録した酒井得元師の「禅に生きる 沢木興道」(同、1956)もあります。澤木師について筆者が書いたブログは、詳しくはその1)(2016/4/6)に書きました。最近ではその2)(2022/9/18)です。筆者は澤木師の著作をいくつも読みましたが、よくわかりませんでした。その2)の(2016/4/6)。一部を再録しますと、

 ・・・澤木師は著書「正法眼蔵講話‐谿声山色」(大法輪閣)で、道元の「正法眼蔵・谿声山色巻」の一節、「恁麼時の而今(いんもじのにこん)は、我も不知なり、誰も不職なり汝も不期(ふご)なり、仏眼(ぶつげん)も覰不見(しょふけん)なり。人慮(にんりょ)あに測度(しきたく)せんや」を、

・・・眼が開けさえすれば、別に何もことさらに知ることは要らない。それは別に勉強して、書物で調べるということでもなければ、聞いて知ったんでもない。つまり現なまの全体をいずれにも曲げられないで見ることである・・・

と解釈しています。また、「山色の清浄身にあらざらん、いかでか恁麼ならん」を、

・・・山色が清浄身であり、渓声が広長舌であるから、桃の花を見てかくのごとく道を明らめ得られるのである。「恁麼」というのはかような道理と言うことであって・・・

と解説しています。しかし、これらはおよそ的外れの解釈です。明らかに澤木師は「空」や、「恁麼」や、「而今」の意味をわかっていないのです。これらは禅を理解する上でのキーワードです。「恁麼時の而今」の正しい意味は、 

 ・・・「空」すなわち、「一瞬の体験」にあっては、「○○である」と判断することなどできず、「恁麼すなわち、なにかあるもの(を体験した)」としか言いようがない ・・・です。

 筆者の上記のブログではさらに詳しく理由を書いてありますが、要するに澤木師は「正法眼蔵」、そして道元禅が分かっていないと思います。わかっていない人がどうして「特別な悟りなどない」と言えるのでしょうか。澤木師はさらに「坐禅が悟りであり、悟りの体験などない」と言っています。ずいぶん乱暴な言葉だと筆者は思います。

 筆者は、澤木師の弟子、内山興正師、西嶋和夫師、松原泰道師の著作も読みましたが、澤木師の著作と同様、内容はピンと来ませんでした。

 いかがでしょうか。澤木師は、自分の寺を持たず、清貧の一生を送った人だと伝わっています。しかし、禅は「わかったか、わからないかの世界」です。どんなに厳しい修行を積もうと、高潔な人生を送ろうと、「わかったか、わからないか」だけなのです。「わかったかどうか」・・・・「それは不思議なことが起こったかどうか」でわかります。ちなみに、筆者は個人を非難することなど決してありません。

斎藤さんの〈批判〉を受けて、もう一度筆者のブログを読み返しましたが、訂正するところはありませんでした。