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中野禅塾だより

中野禅塾だより(1)

このコーナーは、正式のブログとは違って、筆者の禅に関する雑感を、折に触れて書いたものです。気楽にお読みください。

禅は、「わかったか、わからないか」の世界である、とよく言われます。私も学び始めたころ、つくづくそう思いました。それでもその後、だんだん事情がわかってきました。まず、「禅は教えてはいけない、ヒントを与えるだけで、直接修行者の心に響かせる」という鉄則があるからです。「直指人心」と言います。たしかに教えられてしまったら、かえって心に残らないからで、あくまで自力で理解することが大切です。もう一つ、禅のわかりにくさは、どうもこれまでの僧侶や仏教の解説者自身が、よくわかっていないためではないかと思うようになりました。

たとえば、生涯に100冊近くの仏教に関する著書を出し、数多くの講演をした有名なM禅僧がいました。私が禅の思想の基本とされる、般若心経について初めて読んだのは、彼の書いたものでした。40年前のことです。なかなか良いことが書いてあると思ったのですが、どうしても「空(くう)」についての彼の解釈には納得が行きませんでした。その本は今でも手元にありますが、

・・・あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わり合っている。だから苦しみや不安などの実体は無い・・・

と言うのです。ここのところがどうもピンと来なかったのです。この「どうもピンとこない」という感覚は大変重要なのですが、それは次回以降、触れて行きます。そして、「どうやら彼自身もしっくりいってないのではないか」と感じました。たぶん、あらゆるものを「ない、無い」と言っても、生身の人間まで否定できるのかと、自分でも不安になったのでしょう。なによりも、そう言う人の頭をポカンと叩いてみれば、「イタッ」と、実体があることがわかるはず。そのため彼は「否定の否定」などと説明していました。どうしても苦し紛れのつじつま合わせとしか思えません。禅はきわめて厳しい世界です。「わかったか、わからないか」だけなのです。「わかったと思う」というのはないのです。

「空」の思想は大乗仏教の要諦だと思います。「空」に関心を持ったのなら、「色即是空・空即是色」と広げて下さい。般若心経の一節ですね。この経典は、大乗仏教の根本教典の一つ、大般若経600巻のエッセンスだとされています。わずか276文字からなるものです。ついでですが、この経典は短いのでぜひ暗記して下さい。いつでもどこででも口ずさむことができますし、それを読誦することが大きな意味を持つのです。それは後でお話します。「空」の思想は、インドの龍樹によって確立されました。しかし、じつは龍樹の「空」思想は、禅の「空」思想とはまったく別ものだと、私は考えています。

こんなわけで、般若心経については、じつに多くの解説書が出されています。僧侶、仏教学者、仏教評論家などによるものです。一度、書店や図書館を訪れ、宗教関係のコーナーへ行ってみて下さい。般若心経の解説書がいくつも目に付くはずです。それほど多くの人の関心を集めているのでしょう。しかし、さきほど述べたM禅僧のものをふくめ、驚くべきことに、「色即是空・空即是色」の解釈のほとんどは間違っていると思います。

この問題は、次回、さまざな解説者の解釈を比較することによって検討します。

中野禅塾だより(2) (2015/2/1)

 「空」は大乗仏教の基本理念の一つです。「空」について、従来のさまざまな解釈を紹介しますと、

 1)前号で紹介したM師の解釈は、
  ……あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない……
でした。一方、

 2)Hさんは、
  ……空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである……

と解釈しています。また、

 3)N師の解釈は、
 ……(「色即是空」について)色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張……

と述べています。

筆者のコメント:そもそも「絶対無」とは一体なんでしょう。「無」とどう違うのか。おそらくN師は、般若心経には別に「無」という概念があるので、別の概念を入れざるを得なかったのでしょう。しかし、それにはその正確な定義が必要だと思います。それがなくてはN師の主張のすべてては成り立たない。それが「論理」というものだと思います。

4)G師の解釈(「面白くてよくわかる般若心経」アスペクト社)は、
 ……ものには「客観的な姿」というような実体はなく、それを見たり聞いたり匂いをかいだりする個々の感覚器と脳とで把握できるだけの現象しか認識できない……
「色即是空(色すなわちこれ空なり)」……私達が知覚するあらゆるもの、現象は、すべて実体がなく、絶えず流動している空である……このとらえ方は、釈尊の教えである「諸法無常」「諸法無我」と同じ意味をなしています。「諸法無常」とは、「この世のすべてのものは絶えることにない変化のなかで流動しており、移りゆく無常のものである」ということですし、また諸法無我は「すべてのものに永遠不変な実体はなく、他のものと関係しながら成り立っている」という意味ですこの、「ほかのものと関係しながら成り立っている」というのは釈尊の教えの縁起という考え方です……
「空即是色」……これは前項の対句となる言葉です、つまり空であるがゆえに縁起は絶えず起こり、あらゆることは関わり合いを持ちながら変化し、その時々の「色」として現れる、空があらゆるものになる、という意味を持っています。

筆者のコメント:つまり、M師、Hさん、G師ともに、釈尊の教えの基本原理である、縁起と無常をもって「空」を説明しています。これが平均的解釈でしょう。しかし、そもそも釈尊の教えは、それらとは違うのです。仏教を解釈する上でいちばん注意しなければならないのは、釈尊の教えが、その後次々に深化し、選択され、拡大していった事実です(これを「増広」と「損耗」と言います)。つまり、釈迦の教えはその後変貌してしまったのです。いわゆる大乗非仏説(大乗経典は釈迦の説いた法とは別ものである)です。私は、釈尊の説いたのは因果の法であり、それが因縁起の法となり、さらに縁起の法となって行ったと思っています。さらに、無常や無我の思想も、釈尊の思想が後に大乗仏教徒によって付け加えられたものだと考えています。これらについては後ほど改めてお話しします。上でお話した事情を理解していただいた上で、G師の解釈について筆者の感想を述べますと、
 まず、「色即是空・空即是色」の「即」は、G師の言うような「すなわち」ではありません。「即座のそく」なのです。これは重要です。さらに、「空即是色」は「色即是空」の単なる対句ではありません。対句という解釈は多いのですが、じつは、これらの言葉には大切な意味があるのです。中国唐時代から、わが国の栄西、道元に続く祖師達が、死に物狂いで理解しようとしてきたのはこの点なのです。これらのことがわからなければ、この重要な思想はわからないのです。

5)柳澤桂子さんの「空」の解釈(堀文子と共著「生きて死ぬ智慧」小学館)

お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです

「あとがき」で柳澤さんは、
 ・・・私たちは原子でできています。原子は動き回っているために、この物質の世界(宇宙か?:筆者)が成り立っているのです……一面の原始が飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところ(人間や物質?)があるだけです……あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです・・・と述べています。

中野のコメント:この解釈は誤りです。宇宙物理学から言ってもこの説は間違っています。それ以外にコメントしようがありません。

読者の皆さま
 私のブログのアップも、最初の頃は慣れていなくて、抜けてしまったところがあります。そこで、改めて以下を再投稿させていただきます。本来は3月にアップしたものです。

中野禅塾だより(3)(2015/3/1)

 私のホームページも、登録後3ヶ月たってようやくオープン、すなわちネットで検索していただけるようになりました。そこで、今後皆さんにお伝えしていきたいことのアウトラインについてお話しします。
 著者プロフィールにも書きましたように、これまで禅に関する著書を3冊出版しました。とくに第1冊目は、道元禅師の「正法眼蔵」について、できるだけわかりやすく解説しました。現在までに完成している禅関連の著書原稿は、

1.「永平元禅師語録」(つまり「永平広録」のエッセンス)の筆者新訳

2.「臨済録」の筆者新訳

3.「禅の本流に戻る I」(近・現代の代表的な禅師の考えの比較評論)

4.「禅の本流に戻る II」(同 続編)

5.「禅はすばらしい」(釈迦以前のインド哲学から、釈迦の思想、それ以降の原始仏教、大乗仏教から、禅思想に至る仏教の歴史を考察したもの)

6. 「私の祈り、あなたの信念」(「祈り」について考察したもの)

7.「悟りとは気付きである」

などが完成しています。さらに、浄土系思想を考察した、

8.「親鸞を問う」

また、命の根源について考察した、

9.「私とは何か、いのちとはなにか」

10.「死後の世界はあるか」

についても原稿は完成しております。その他、「従容録」(「碧巌録」と重複する部分が多い)の筆者新訳を現在執筆中です。

 つまり私は、禅を中心に精神世界や、信仰について、できるだけ広い視野で考えていきたいのです。したがって私のホームページは、現在のこの視点に立って書き進めているのだということをご承知ください。

なお、今回のキーフレーズは、神は実在されるです。

中野禅塾だより(4) (2015/4/1)

今回は、禅のお話を進める前に、もう少し基本的なこと、「悟り」についてお話いたします。

 悟りについて

 「悟り」について、次の三つの疑問があります。すなわち、

 1)「悟り」の目的は何か
 2)「悟り」とはどういう状態か
 3)なぜ神は限られた人にしか「悟り」を与えないのか

です。
 1)については、「悟り」は仏教信仰の究極の到達点だということです。仏教信仰の目的はさまざまでしょう。苦しみや悲しみから抜け出て絶対的な心の平安に至りたい、という人もいるでしょう。もちろんそれは重要なことです。一方、おもに専門の修行僧達は、釈迦の教えが出る以前、インドの古代宗教であるヴェーダ信仰の時代から「悟り」を目指して修行してきました。「悟り」とは神との一体化であり、信仰を持つものなら当然それを目指すはずでしょう。キリスト教やイスラム教では、「悟り」のための修行はなさそうです。その理由については次回以降にお話します。

 2)仏教では「なま悟り(わかったつもり)」を厳しく戒めています。「なま悟り」かどうかは自分ではよくわかりませんが、それを示す良い例があります。あの弘法大師空海は、室戸岬の洞窟(御厨人窟みくろど)で「虚空蔵求聞持法」という真言(短いお経)を百万回唱えることによって悟りに達したと言われています。じつは、この修法は今でも、高野山の限られた僧だけが実践しています。108個の数珠玉をまさぐりながら1日2万回なら50日、1万回なら100日唱え続けるのです。それがどれほど過酷な修行かは、2万回唱えるには8-10時間かかること、100万回唱えても奇跡が起こらなけばもう一度やり直さなければならないことからわかります(奇跡の内容については秘密ですが、想像はできます)。

3)もちろん「悟り」は神によって公認された修行です。しかし、「なぜ神はごく一部の人にだけそれを成功させるのか」という疑問があります。答えを得るには、まず、人間がこの世に生きる意味を考えなければなりません。私の想像を交えて一口で言いますと、「神は自分の完全さを知るために人間をお造りになった。人間は不完全なものであり、この世に生きる間にさまざまな苦しみや悲しみに会う。生まれ変わりを繰り返す間にそれらを克服し、魂の成長を遂げて、最終的に神の境地に達する」というものです。生まれ変わり(輪廻転生)は、人によっては何千回、何万回にもなると言います。それどころか、人間以外の動物や虫になることさえあると言います。親鸞が「人身得難し、今すでに得(う)く」を言ったのは、「今、人間としてこの世に生まれてきたことのありがたさを思いなさい。この世にいる時だけ魂の成長ができるから」との意味です。
 「この生で一度に悟りに達するか、何千回も苦しい人生を繰り返して悟りに達するかは、その人の自由だ」これが(筆者の考える)神のご意志です。神はけっして人間を指図されません。

 中野禅塾だより(5)(2015/10/15)

 筆者のブログを読んでくださっているから質問がありました。

 ・・・平安時代の文盲の人たちはただ「南無阿弥陀仏」を唱えればいいでしょうが、現代の人たちは全て教育を受けていますから、力で悟らなければいけないのですか?多分ほとんどの人が自力で悟りを開ける人はいないように思えます。ただ習慣で先祖代々の宗教で疑いもせずお参りをして(満足はしていないと思いますが)一生を過ごす人が特に日本人には多いと思います・・・

というものです。筆者の答えは次のようなものです。
 
 ・・・法然や親鸞は、ただ文字も読めない、平安時代の人々のために「南無阿弥陀仏と唱えなさい」と言ったわけではありません。もっと深い、例えば現代人にも十分通用するような教えを説いたのだと思います。確かに「ただ習慣で先祖代々の宗教で疑いもせずお参りをして一生を過ごす人が特に日本人には多い」のは事実でしょう。そこが問題なのです。あなたも、その人たちも、法然や親鸞の言う他力本願の真意をわかっていらっしゃらないのだと思います。これは重要な問題ですから、このブログで追々お話していきます。

 あなたのおっしゃるように、禅は厳しく、長い修行が必要だと言われています。しかし、筆者がそもそもこの禅塾を立ち上げたのは、だれでもが、真剣に、そして継続する気持ちさえあれば、いわゆる悟り(究極的な心の平安)にたどり着けるような道を探して、皆さんにお伝えするためです。筆者が、禅はもちろん、浄土思想などの他の仏教宗派やキリスト教やスピリチュアリズムなど、幅広く、できるだけ深く学んでいるのはそのためです。最近、少しづつ見えて来たようです。

中野禅塾だより (6)(2015/10/24)

 筆者のブログを続けて読んでくださっているから質問がありました。

・・・聖書を信仰としてではなく、教養として勉強しています。キリスト教信者は、聖書のみを信仰の原点とし、カトリックはプラトン哲学やアリストテレス哲学を取り入れた神学を認めず、背教と非難します。宗教であれば神の言葉のみを大事にすべきで、人間の解釈などは否定されるべきなのでしょう。あなた(筆者)の新ブログにも書いてあるように、大乗仏教は初期の釈迦の教えからかなり変貌を遂げているようです。哲学なら進化の過程で変貌を遂げても不思議な無いでしょうが、宗教としてみれば神や仏の教えから逸脱したり、他の宗教や思想が混入する(カトリックには北欧宗教の影響が、仏教には老荘思想)のは創始者から見れば背教ととらえられるかも知れません。カトリックも仏教界も神や釈迦の精神を受け継いでいるというのが主張でしょうが、原理主義の人からみれば違うかもしれません。今の仏教界も変貌を簡単には認められないのではないでしょか・・・

筆者のコメント:おっしゃるように、大乗経典は、釈迦の教えからかなり変貌していると思います。もちろん筆者が知りたいのは釈迦の教えそのものですが、大乗仏教も決して否定していません。ただし、幾つかの宗派が言っているような、大乗経典類を「釈迦の言葉だ」することは問題です。インドは、哲学的な国民性だと言われています。もちろん釈迦は傑出した人で、神からの啓示を受けていると思います。それでも大乗仏教を考えた人達も、やはりすぐれた思想家です。現に筆者は、浄土思想もすばらしいと考えています。筆者のブログは禅を中心にしていますが、浄土思想の問題点やすばらしさについてもお話を始めています。

 釈迦の教えを真摯に我がものとしたいと考える上で、その教えを自分の納得できる形で理解しようとするのは、人間としてむしろ当然のことと思います。プラトンやアリストテレスは、もちろん、聖書とは別に、独自の哲学として研究した人たちでしょう。それでもギリシャや西欧の人たちがプラトンやアリストテレスの思想との関連においてキリスト教を学ぶのは、むしろ真摯な信仰の表われだと思います。中国でも老荘思想など、古くから親しまれた思想があり、新しく入ってきた仏教をその基盤の上でとらえたのも、もっともなことでしょう。

 筆者は、キリスト教もすばらしい宗教だと思っています。しかし、人間の考え方や価値観が多様化した2000年後の今日、一人ひとり異なり、かつ、さまざまな人生の局面において、聖書の語句を画一的な絶対の拠り所とするのには、いささか疑問も感じています。自分の尊厳はどうなるのでしょう。ましてや聖書から少しでも外れるのを背教と決めつけるのは、いかがなものか。さらに、ある宗派では輸血も禁じていますが、緊急輸血が必要なとき、両親がそれを拒否したため、子供が亡くなったケースも現にありますね。原理主義という言葉にある、やや特異的な意味合いの現われではないでしょうか。

 筆者は、聖書からいったん離れ、キリスト教を独自の視点で考え直して、初めて救われた人を目の当たりにしているのです。