宗教2世の苦しみ-もう一つの側面1,2)

1)統一教会2世の山上さんが安倍元首相を狙撃した事件は国民に大きな衝撃を与えました。母親による献金が1億に達するとか。ごく一般的な家庭がそんなに巨額を出せたことの異常さに誰しも驚きました。家庭が破壊されてしまったのは想像に難くありません。殺人事件の容疑者であるにもかかわらず山上さんへの同情が集まったのは当然でしょう。統一教会が勢力拡大の手段として自民党と密接な関係を作ってきたことも明らかになってきました。山上さんの一撃はこの問題の解決にとって大きなブレイクスルーになりました。もちろん人を殺して許されるはずはありませんが。

 しかし筆者が気になるのは、この問題がもう色あせてしまったことです。しかるべき筋からの幕引きが図られたとしか思えません。じつはこの宗教2世問題には、巨額献金の他に、もう一つの深刻な側面があるのです。その意味でこの問題を決して忘れてはなりません。以下はNHK「ハートネットTV癒える場所をさがして-宗教2世自分らしく生きる」より。

 宗教2世問題は、けっして統一教会だけでないことは早くから指摘されていました。天理教、創価学会、幸福の科学、エホバの証人、ものみの党・・・・いわゆる新々宗教のほとんどすべてがそうでしょう。上記の「ハートネットTV癒える場所をさがして」で語るのはゴンさん(50、女性)です。「安倍首相銃撃事件の山上さんの境遇を知って自分とすごく重なり、とても他人事とは思えなかった」と言っています。

勧誘の魔力:ゴンさんのお母さんは、伝道者が来て「家族が幸せになる方法を知りたいと思いませんか」でした。ちょうど子育てや夫婦関係などで悩んでいた時だったので飛び付いたと(統一教会では、「だんだんその気にさせていくための」段階的な勧誘マニュアルがあるとか:筆者)。

退会できなかった理由:「教えに背けば裁きが下る」と言われていた。

筆者のコメント:人間の弱点に入り込み、「退会すれば神の罰が下る」は、勧誘者の常套手段です。

退会のきっかけ:ゴンさんが35歳の時、お母さんは重い病気になり、輸血が必要になりました。しかしその教団では輸血を禁止しています(エホバの証人か?:筆者)。結局、お母さんの意思を尊重して輸血をせず、お母さんは亡くなりました。そしてゴンさんは「もうこれ以上母を喜ばせるために自分を偽らなくてもいいんだ」と決心し、退会しました。

2世の人生:生まれた時から信者として育てられた。教会の決めた生活を強制され、進学や就職を自分で決めることはできず、友達との誕生会やクリスマス会など、個人的な自由は一切認められなかった。背けば鞭でたたかれた。子供の時から「どうしてこういう人生なんだろうと思っていた。しかし「何かになりたい」ちは思ってはいけない。自分の将来を思い描かないようにしていた」・・・・。洗脳の恐ろしさですね。

 ゴンさんはお母さんを亡くして7年後、これまでの人生を振り返るためにブログを書き始めた。〈ゴンの徒然ノート〉です。すると思いがけない反応があった。「私も同じような思いでした」と。その人はみどりさん(仮名)という30歳代の「ものみの塔」の女性会員です。そして、ゴンさんは同じような人たちと心を開いてメールをやり取りした結果、「他にも私と同じような思いの人がいることがわかり、気持ちが楽になった」と。そうゆう人たちの輪が広がり、その後、1年に一回、「芋煮会」をしてお互いの気持ちを話し合っています。2022年の会合では20人以上の人が集まっていました(多くの人の顔にはモザイクがかかっていました。今でも顔がわかったら差し障りがあるのでしょう)。

2)筆者がこの番組で見聞きした2世の人たちのお話をさまざま聞いて、この問題の深刻さがわかってきました。彼らには自分の座標軸がないのです。認知症と比較するのは失礼ですが、「ここはどこ、私はだれ」を見当識と言って、それが分からなくなることが認知症の特徴です。じつは見当識を失うということは「人間ではなくなる」ということです。宗教2世の人たちの多くがそうなっているのです。

宗教2世の問題点1):人が「何かになりたい、そのためにどういう学校へ行きたい」と考えるためには、私というものの原点に立って考えることなのです。それを筆者は座標軸と言います。2世の人たちにはそれがないのです。なんという恐ろしいことでしょう。ブログ〈ゴンの徒然ノート〉を読んで「気持ちが楽になった」みどりさんは〈ものみの塔〉の会員でした。みどりさんの深刻さは「ものみの塔を辞めても楽にならなかった」ことです。なぜか?みどりさんには「自分が何か」を考えたり判断したりする部分が完全に欠落していたのです。〈ものみの塔〉の会員として生きたために自分というものの座標軸がなくなっていたのですね。座標軸がなければ「次どうしたらいいのか」もわからないのですね。

2)みどりさんは言います「親・兄弟・親戚がみんな同じ教団に入っていた。なので自分だけ抜けるということは、しがらみが強すぎて自分だけの問題ではない。私が辞めたら彼らが人生を絶望してしまうだろう。「私の姿も見たくない」とかのいろいろな感情が渦巻いちゃって簡単にはやめられない・・・・。「私をこんな人生に巻き込んだ親にはすごく腹が立ちますけどそういうことはなかったですか?」と他の会員に尋ねますと、「母も当時悩んでいましたので全部否定してしまうと自分の人格も否定してしまうことになるので『良いところは良い』とちょっと割り切っていま整理しているところなんです。自分がどう思っているのか、自分が何をしたいのか、自分が何が好きなのかもが最初はわからなくなっているので、そこから探すところから」と(ここでも座標軸のない2世がいたのですね:筆者)。

 ゴンさんは「子供の時から『どうしてこういう人生なんだろう』と思っていた。でも母を悲しませたくなかったから不満や疑問は表わせなかった」と言っています(ここにもこの問題の難しさがあるのですね:筆者)。ゴンさんのブログを読んだり、「芋煮会」で同じ境遇の人たちと話し合った人たちは、「それによってでヒントが見つけられるのでは」と期待していました。「苦しんでいるのは私ひとりじゃないんだと思えてすごく元気になった。本当に生きていてよかった。生きていたら良いこともある。こんな経験ができたのだから」。他の2世の言葉:「親にちょっとでも教会を否定したり、疑問を感じていると言うと、鬼のように怒られた。かといって、学校の友達にも言えないので、毎日中と外を使い分けてきた」。

 長年カルト教団について研究してきた北海道大学の櫻井義秀教授(註1)が開催した〈宗教2世をケアするための臨床心理士や養護教諭など向けの集まり〉での他の2世の言葉:スクールカウンセラーの人に勇気を振り絞ってお話したんですけれど、スクールカウンセラーから返って来たのは「信仰しているのは親で、あなたは信仰をもっていないんでしょ?あなたが親から自立すればいいだけの問題でしょ?だったら何が問題なの?」だった・・・・「やっぱり外の人はこの問題をわかっていないんだな。相談してもダメなんだと、絶望感しか残らなかった。櫻井教授はこの会合で「2世たちが一体どういうレベルで困って、どういう形で支援して行ったら安心できるのか、これまでそういう側面が弱かった」。櫻井教授は長年この問題に取り組んできました。尊いことですが、山上さん事件の方が問題解決にはるかに有効だったのです。

 講習を受けたカウンセラーの言葉:今までも相談を受けていたが、宗教に対する知識がなくて対応に苦慮していた。

註1北海道大学のキャンパス内におけるカルトの勧誘に対して注意喚起を行っていらっしゃいます。統一教会、オウム真理教アレフひかりの輪摂理親鸞会顕正会日本キャンパスクルセード などを団体名を挙げて批判しています。それにしてもこういう活動がありながら、こんどの安倍元首相銃撃事件が起こるまでは、国民が問題を知らなかったことも問題ですね。

 2世問題取り組んできた同志社大学の小原克博教授(神父)は、「現在、2世問題が大きく取り上げられていますが、そのため宗教そのものまで否定されてしまいかねないのが気掛かりだ」と言っています。そのとおりですね。この問題は、禅仏教を中心に宗教の大切さについてお話している筆者にとってもショックでした。

ガンになった緩和ケア医

 (NHKハートネットTV「ガンになった緩和ケア医-親子の日々」から)

 関本剛(ごう)さん(44)は神戸にある関本クリニックの医師。同じ医師のお母さんの雅子さん(71)と共に、末期ガン患者の心や体の苦痛を和らげる仕事をしています。患者の最後を看取ることも少なくない。とくに雅子さんは緩和ケアの日本の草分け的存在として、これまで3000人の患者を看取ったという。剛さんは2019年10月、咳が止まらないことことから「なんの気なしに」CT検査(X線断層)をしたところ重症の肺ガンが見つかった。一瞬、頭が真っ白になった。「すぐ精密検査をしてくれるところへ行かないと」。MRI(核磁気共鳴)で調べたところ、脳幹や小脳にも転移していることが分かった。「脳幹は生命の根幹にかかわる場所で、もう絶望しかなかった」「あと2年の命です」と主治医の言葉。

 2020年10月からNHKテレビの取材が入り、丸1年間剛さんの心とからだの変化を追った。雅子さんは、たくさんの同じような患者を診てきているので、「そのような患者が置かれている厳しい現実が剛さん自身と重なった」と言う。それからの剛さんの生きる姿勢が尊い。趣味のスキーや楽器演奏を楽しみ、「最後まで良い人生だったと言って生きて行きたい。そうしないと負けた人生になったような気がする」。雅子さん「亡くなるのは仕方がないけど、最後まで彼らしく生きて行ってくれたら」。雅子さんの心配は、ガン患者には最後に人格が破壊されてしまう人もいること。中にはせん妄状態になって、他人を激しくののしったり、あらぬことを口走ったりする人もいる。剛さんが子供のことを分からなくなったり、「今まですてきなお父さんだったのに、全然そうではなくなってしまったら・・・・」。剛さん「(テレビの取材が入って)自分がそれにふさわしい人間かどうか、恥じる気持ちはあるけど、一人でもポジテイブな気分になってくれたら」と、今までと変わらず患者ときっちり向き合ってきた。雅子さん「自分が患者であるからこそ、患者の気持ちに入って行けるのでしょう。緩和ケア医として立派だと思います」。運動を司る小脳にも転移がある剛さんは、趣味のトランペット演奏もママならなくなっていった・・・・。本人は「長生きするばかりが人生ではない・・・・」。剛さん「あと1~2ヶ月で、自分の古くからの患者を、ちゃんと次の医者に受け継いでもらえる体制を作ります」・・・・。

筆者のコメント:率直に言って、筆者にはここまでは「きれいごと過ぎる」ような気がしました。これでは実際の末期ガンの人たちが「お手本」にすることは難しいと思うからです。しかし、最後に雅子さんの「『世の中のためになるような生き方をしなさい』と育ててきたのに・・・・と何日も号泣しました」・・・・・。このように正直に言っていただいた方がむしろ他の人の励みになるのではないでしょうか。

 取材は2021年10月25日で終わっています。「?」と思いネットで調べてみますと、剛さんはその半年後、2022年4月に亡くなっていました。もちろん剛さんの生き方は末期ガン患者として立派でした。多くの同じような患者の参考になるでしょう。それにしても、現代のマスコミはここまでリアルに重症患者の生き方を追うようになったのか!残酷過ぎるのではないでしょうか。

自利か利他か1,2)

 自未得度先度他
 意味:自分は彼岸にいかなくても他の人をまず彼岸に渡してあげなさい

1)大乗仏教の基本的な考え方ですね。そもそも大乗仏教が起こったのは、それまでの部派仏教の修行者たちが、あまりにも自分たちの悟り(自利)に一所懸命だったことへの反発からだったのですから当然でしょう。自未得度先度他(他利)は、もとは涅槃経にある言葉ですが、無量寿経の精神も全く同じです。いずれも代表的な大乗経典で、有名な弥陀の四十八願がそれです。たとえばその第十八願は、

・・・わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません(以下略)・・・・です。

 道元も「正法眼蔵・発菩提心巻」でも取り上げています。その第三節で、

・・・・発心とは、はじめて自未得度先度侘(他)の心を起こすなり。これを初発菩提心と言ふ。この心を起すより後、さらにそこばくの諸仏に逢ひ奉まつり、供養し奉まつるに、見仏聞法し、さらに菩提心を起業す、雪上加霜なり。衆生を利益すと言うは、衆生をして自未得度先度侘の心を起こさしむるなり。自未得度先度侘(他)の心を起せる力によりて、われ仏にならんと思ふべからず。たとひ仏になるべき功徳熟して、円満すべしと言ふとも、なほ廻らして衆生の成仏得道に回向するなり。この心われにあらず、侘(他)にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海を掻けばたちまち甘露となる。

筆者簡訳:発心(菩提心を起こす)とは、初めて自未得度先度他(自らが悟りの彼岸へ渡る前に、先ず他を渡す)の心を起こすことだ。この心を起こしてから、さらに多くの仏たちにお会いしておもてなしし、法を聞いて利他の心を堅固にするのだ。(しかし)他人を先に彼岸へ渡すことを、自分が仏になる手段としてはいけない。たとえもう少しで仏になれるところまで行ったとしても、なお他人を助けるべきだ。こういう尊い心は自分のものでも他人のものでもない・・・・。

筆者のコメント:筆者はこの文章を初めて読んだとき、道元の思想とはあまりにもかけ離れていることに驚きました。上記のように、道元ははっきりと「自利より利他を優先すべきだ」と言っているのですから。私たちがイメージする道元の修行に対する心構えは、「出家をして修行に専心しなければならない」と言うほど厳しいものだったはずです。あの冬の寒さには格別なものがある、福井県永平寺を修行の場としたのもその姿勢からでしょう。つまり、まず自分が悟ることを第一にしてきた(自利)はずです。それがここでは一転して、「自分よりまず他人を(利他)」と言うのですから。この問題は多くの曹洞宗の仏教家も悩ませたようで、現代の曹洞宗派の内部でも、激しい論争がありました。袴田憲昭、角田泰隆、石井清純、星俊道さんなどによるもので、概要は、「道元禅師における『自未得度先度他』について」 印度仏教学研究第48巻1号p107(平成11年12月)に書かれています。「道元の思想が変わったかどうか」に関わる重要な問題だからでしょう。

2)

 じつは自利を優先するか、その前に利他をすべきかは、大乗仏教が始まった当初からの課題でした。上記のように、大乗仏教は、それまでの部派仏教徒が、あまりにも自分が悟ることを目指していることへの反発から起こりました。しかし、「自分が悟っていないのに他人を悟らせることができるか」という原理的な問題があるのは当然です。そこで、「自利と利他のバランスを取る」という折衷案も生まれたのです。初期大乗経典類の般若経典類の一つ「八千顛(はっせんじゅ)般若経」がそれです。

 こういう歴史があったので、道元がこの問題を取り上げたのはむしろ当然でしょう。前記のように道元は「あくまでも利他は重要だ」としています。しかし、筆者には道元の言葉とは思えません。なによりも道元の宗派は一切、衆生済度の活動などしていませんから(鎌倉幕府の北条氏に招かれて講演したのは、とても衆生済度とは言えないでしょう)。真意は別にあると思います。

 それにしても、駒沢大学の人たちはもちろん、それ以前の、インドの大乗仏教の研究者たちは、この問題をあくまでも過去の経典類を基に解決しようとしました。じつはそれこそが大問題なのです。ちなみにこれら大乗経典類にはどれにも「釈尊がこう言われた」とありますが、もちろんその後にインドの哲学者の創作です。つまり、こういう問題は、頭で考えてはいけないことなのです。

 筆者はもちろん自未得度先度他を知っていました。しかし、最近この言葉の本当の意味がわかったようです。先日、急な予定が入り、いつもの40~50分間の座禅・瞑想の時間に食い込みそうになったのです。その後のボランテイア活動もしなければなりません。「座禅の時間を減らそうか」と考えた時、「パッ」と「座禅もボランテイア活動も同じ修行だ」という考えが浮かんだのです。筆者が、これまでの仏教研究者とは異なり、実際の修行を通して得たことが重要だと思います。道元も実体験から導き出したのだと思います。いかがでしょうか。

悟ると奇跡が起きる

 筆者はこれまでに、「禅の要諦は、1)こだわりを捨てる。2)概念の固定化を避ける。3)価値判断をしない。・・・・」と言って来ました。筆者の畏友で熱心にブログを読んでいただいている人が「もっとやさしく」とくり返すものですからそう言ったのです。最近、「4)諦観もその一つ」と言いましたら、「本当に悟りに至った人など現代にもいるのか」と疑問を呈せられました。しっかり心に留めておいていただきたいのは、それらはあくまでもエッセンスであって、「悟り」とは別です。

 現代の、ある名の知られた仏教学者が「・・・・私にとって早朝座禅は、ほとんど雑念妄想と遊びたわむれる時間になっている。いや、無念無想の時間でなければならぬと錯覚(太字筆者。以下同じ)していた時期もあったが、その誤りに気づいてからは気分が晴れた。雑念妄想によってこそ、思考の創造的飛躍は準備されると悟ったからである・・・・むろんそれは、まだ生悟りのままだ。さればいたし方もない。今度は外界を歩きに歩いて、この雑念妄想の網目に亀裂を入れ筋道をつけることで、ひそかにひとり仕事の新展開をはかるのみである・・・・と、よくわからない論理で早朝5分(!)の座禅を勧めています。もちろんそれは生悟りでしょう。

 本当に悟りに至ったかどうかは、奇跡が起こったかどうかです。前にも紹介しましたが、あの高野山には、選ばれた修行者だけが許される悟りのための特別な修法があります。虚空蔵求聞持法と言い、〈虚空蔵菩薩の真言〉という短い真言を1日1万回なら100日、2万回ずつなら50日間、つまり都合100万回唱えるというものです。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で行った修法と同じです。1日2万回真言を唱えるということがどれほど大変なことか!やってみればわかります。食事やトイレの時間を除いて8時間もかかるのです。しかも、もしやり遂げたと思っても奇跡が起こらなければ失敗で、また1からやり直さなくてはならないのです。これまでたくさんの修行僧が挑戦しましたが、成功したのはわずかに数人でした。それは成功者だけが納める感謝のお札の数からわかります。このように、悟りには「生悟り」とか、「悟ったと思う」はありません。はっきりと自分でわかるのです。

 じつは、頂きに達するには別の道もあります。筆者はそれを実践しました。そして確かに「さまざまなふしぎなこと」が起こりました。