なぜ禅を学ぶか

 禅を学ぶ理由の一つは「どんなに困難な状況でも平常心を保てるようになること」でしょう。死生観の確立と言っていいかもしれません。江戸時代中期の禅僧仙崖義梵 が、死の床で弟子たちから「何かお言葉を」と言われて「死にとうない」と答えた逸話が、「高僧も悟りきれなかった話」として有名ですね。一休禅師にもそういう話があります。

 筆者が禅を学び、こういうブログシリーズを書き続けているのは、もちろん「どんなに困難な状況でも平常心を保てるようになるため」です。筆者がいざという時動揺してしまったら、仙厓のように笑われるだけでしょう。知行(こう)合一(思想と行いが一致すること)は陽明学の重要な命題です。熊沢蕃山から本居宣長、福沢諭吉、小林秀雄と続く思想家たちも「思想が実生活に生かされなければ意味がない」と言っています。もちろん仏教各宗派でも同じです。

 数年前のことです。筆者は、かなり突っ込んだガン検診を受けました。血液中のマーカーの値が上がってきたため、MRI検査から生検へと進んだのです。生検が終わったとき、看護婦さんから「来週結果を聞きに来るときは、どなたかおうちの方と一緒にいらして下さい」と言われました。ガンと宣告されてパニックになる人もいるようでした。ガンだとわかれば、抗ガン剤の服用や、放射線治療の費用と時間、ストレスも相当なものでしょう。筆者は「いや何を言われても大丈夫ですから」と答えました。そしていよいよ結果を知らされる前日に鏡を見てみましが、別にこわばっても蒼くなってもいませんでした。結果はでしたが、別に家族に報告もしませんでした。たとえガンであっても、それを受け止めるしかないのです。それでもとわかってから徐々に喜びを感じて行きましたが・・・。

 以前、筆者の研究所の同輩が次々に亡くなって行ったことがありました。いずれも60歳前後でした。その一人はガンで、何度もお見舞いに行きました。久しぶりに会議に出てきたとき、わずかな期間にあまりに面変わりしていたのを見て胸を突かれました。大学恒例の最終講義で話をするのを楽しみにしていましたが、それも叶わなかったのです。他の一人も定年前でした。2‐3日大学へ来なかったので、研究室員が怪しみ、遠方にいた奥さんに電話して鍵を開けてもらうと・・・・。心筋梗塞でした。2人とも立派な人でしたが、やっぱり避けることはできなかったのです。葬儀で息子さんが「道半ばで逝ってしまい、無念だったでしょう」と言っているのが印象的でした。好きな言葉ではありませんが、運命としか言い様がありません。 

 瑩山紹瑾(けいざんじょうきん1268-1325)は、鎌倉時代の曹洞宗の僧侶で、師の徹通が「まだまだだ。更に悟りについて語ってみよ」と突っ込むと、瑩山は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」とさらりと答えたと言います。それが禅の心です。

 

死後の世界が実証されたら-1,2)

1)「もし太陽系の外に人間のような知的生命(註1)が居るという確かな証拠が得られたら、私たち人類の価値観が根底から崩れる」という考えがあります。私たちはかなり安易に太陽系外生命のことを考えていますので、こんな話を聞いても「ああそういうものか」と思うだけでしょう。しかし、哲学者や思想家ならこの考えに納得するでしょう。これと同じように、「もし死後の世界がある」ことが証明されれば、やはり、人間の価値観に根本的な改革を迫られるでしょう。わたしたちはふだん、天国とか地獄、あるいは地獄と極楽を簡単に考えすぎているようですから、死後の世界があることの確実な証拠が挙がっても、やはり「ああそいうものか」と思うだけでしょう。しかしちゃんと物事を考える人たちにとっては、「価値観を根本的に変えなければいけない」事態でしょう。

 「知の巨人」と言われた立花さんは、臨死体験(註2)や生まれ変わり現象に深い興味を持ちました。それは「人間とは何か」を知りたいという根源的な知識欲の一環でした。日本でもスタニスラフ・グロスが開発した「ホロトロピックセラピー」の講習会があると聞くと、さっそくそこに参加したそうです。「一種の宗教的な解脱体験に近いものが、たしかに得られた」とも言っています(註3「生、死、神秘体験」書籍情報社p62)。立花さんはさらに、カナダのマイケル・パーシンガーという脳科学者が側頭葉に神様体験の座があってそこを弱い磁力で使役すると、臨死体験のような宗教的な体験が起こると言っているのを聞いて(註4)、実際にそこを訪れて体験しています。結局「何も感じなかった」そうですが。

註1ここで注意しなければいけないのは、「生命」と「知的生命」を混同してはいけないことです。バクテリアはただの「生命」で、それなら火星や木星の衛星にも見つかる可能性が高いのです。天文学者でも「生命」と「知的生命」を厳密に区別せずに使っている人が多いのです。以前、東京国立天文台の錚々たる若手研究者が、「宇宙人はいると思いますか」の問いに対し、6人全員が手を挙げたのを見て驚きました。何一つ根拠がないことについては「わからない」と答えるのが科学者の取るべき態度だからです。

註2 臨死体験とは、「死にかけて、生還した人」が「見た」体験です。「暗いトンネルを出ると光り輝く外へ出た。そこで神のような崇高な存在に出会った」というもので、アメリカの医師エリザベス・キューブラー・ロスなどが報告し、注目されるようになりました。キューブラー・ロスは、心停止の状態から蘇生した人の4〜18%が臨死体験したと言っています。立花隆「臨死体験(上)」(文藝春秋)に詳しい。

註3心身に深く働きかける非常に効果的な呼吸法として、世界各地で過去数十年にわたり実践されてきました。この呼吸法は、音楽をかけ、横になって深くて速い呼吸をすることで、日常よりも深い意識状態で自分と出会い、心身の生命力を活性化すると共に、自然治癒力を引き出すと言います。 立花さんは、「激しい過呼吸によって脳に酸欠が起こし、それが「神秘体験」させたのだろう」と言っています。つまり、「神との遭遇」ではなくて、人間の生理現象の一つだと言うのです。

註4ヘルメットに磁気ソレノイドをつけて弱い磁場(コンピューターモニターから出るのと同じ程度)を発生させて,右大脳半球の側頭葉に磁場を与える装置を考案しました。このヘルメットをかぶった健常人被験者の80%以上が,「神に会った」,「亡くなった夫に会った」などといった不思議な体験をしたのです。パーシンガー氏はその後,同じメカニズムで動作する携帯型ヘルメットを開発し,霊的体験を深める装置として販売しています。この「神のヘルメット」による「霊的体験」はその後,別の研究者の追試により否定されました。

2)  死ぬことへの恐怖として多くの人が感じているのが「死んだら自分というものが無くなってしまう」でしょう(註5,6)。沖縄の小児科医・志慶真(しげま)文雄さんは、子供の時からこの恐怖に苛なまれていたとか。「浄土真宗へ深く帰依したのはそのためだ」とおっしゃっています。それに対して「死後の世界もある」ことが確定されたら、人はどれほどか安心するでしょうか。これが「人間の価値観を根底から変える」ことだと思います。

 一方、「死ぬとき誰かがそばに寄り添ってくれるかどうか」は、死の恐怖を和らげるのに大きな助けになるでしょう。人間は生前善行を積んでおかねばならないのは、最後には自分に帰ってくるからですね。数年前のことですが、筆者の恩師が亡くなられたとき、2人の子供さんの内の1人が来てなかったのを知って大きなショックでした。先生は筆者にとってまさしく恩師と呼べる立派な人だったのですが。

註5 「死なんかこわくない。なぜなら死んだらその意識もなくなってしまうからだ」と言う人たちがいます。「死んだら無になる」という考えにも良いところはあるのですね。

註6 ちなみにキリスト教では死んだら長い間墓の下に眠り、人類が滅ぶとき、神によって天国へ行くか地獄へ行くかが決められるとか。最後の審判ですね。でも人類が滅ぶのは、まだ数百万年(?)も先のことですから、ずいぶん待たねばなりません。

 筆者が40代から50代にかけて、ある神道系の教団で霊能開発修行をしたことはお話しました。それ以来、何度も心霊体験や神霊体験をしました。くわしい内容についてはいずれお話しますが、「目に見えない世界」があることは確信しています。その中に、いわゆる霊魂があることも。ただし、筆者が確実に体験したのは、「霊の存在」で「霊的世界があるかどうか」ではありません。立花隆さんは、筆者とは比べものにならない「知の巨人」ですが、この点だけは立花さんとは違っています。良い経験でした。

ひとまずそのまま受け入れる-禅の心

 毎日新聞の「女の気持ち」欄(2022・11・7)で、57歳の看護師・三浦昭子さんが「患者になって」を投稿していました。

・・・・2年前乳がんを告知されたとき「定期的に検診を受けてきたのに、なぜもっと早く見つけてくれなかったの」とショックを受けました。でも意外と気持ちは前向きで・・・・これからすべてを受け入れて行こう、人生のいい経験なるかも・・・家族でなく自分でよかった。身内の心配をするほどつらいことはない、などと診察後の待合室で考えていました。その後の治療、特に手術は私自身がオペ室勤務だったので、逆の立場を経験できることが楽しみで、興味津々で臨みました。風景を目に焼き付けようと周りをキョロキョロしたり、麻酔がかかって意識がなくなるまでの感じを忘れないようにしようと思いました。入院中の看護師さんのやさしい言葉や、いつでも来てくれる安心感を身に沁みて感じました。その後の抗ガン剤治療や放射線治療など、すべてよい経験だったと思っています。自分が弱い立場になり、人のやさしさを改めて実感しました。今も看護師として仕事が続けられることに感謝しています(以上、一部筆者の責任で削ったり言い回しを変えさせていただきました)・・・・

 とても気持ちの良いお話ですね。しかし筆者は、けっして「めでたし、めでたし」とだけ受け取りません。「このエピソードはよいところだけ選んでまとめた。都合の悪いところは隠している」と思うのです。まあお聞きください。

 まず、「自分がガンになってしまった」ことがどれほどショックだったか、死に対する恐れがどれほど大きかったか・・・・深刻な悩みだったはずです。「なぜもっと早く見つけてくれなかったの」は、たんなる恨み言にすぎないと思います。つぎに、三浦さんにも家族、ことに子供さんがいらっしゃるでしょう。「もし私が死んだらこの人たちはどれだけ悲しむだろう。世話はどうするのか」と思わないはずがありません。とくに若いガン患者のお母さんの苦しみはそこにあるという多くの証言があります。さらに、手術の痛み、抗ガン剤の副作用などによる苦しみも感じないはずはありません。

 これで筆者の言いたいことがお分かりいただけたと思います。すなわち三浦さんは、この一連のプロセスや心の変化のうち、ポジティブな部分だけを集めてストーリーとしているのです。つまり、「隠している」という心の痛みがあるはずです。三浦さんはポジティブな面だけ選んで「かっこいい文章」に仕立てたのです。文字数の制限もありますが、むしろ悩みや葛藤を含めたサクセスストーリーでしたら、読者の受ける感動は2倍になったと思います。

 「ひとまずそのまま受け入れる」・・・これが禅の心です。そこには無理がないのです。そこで初めて読者の皆さんも「自分もそうありたい」と思うはずです。

自力も他力も同じ

 前回「アメイジンググレイスの歌を聞いていて、突然、その本当の意味が分かった」とお話しました。「私のような者でも神によってすでに救われている」という意味だとわかったのです。

 I村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の真言宗徳林寺住職です。筆者はブログを通じて岩村さんとはかなり突っ込んだやり取りをしました。しかし、議論は最後まで平行線でした。結局、岩村さんの最後のコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。感情的になってしまったら議論は終りです。

 法然は、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば仏になれる」という、仏教における革命的思想を提唱しました。他力信仰ですね。親鸞は法然の高弟で、「たとえ師にだまされて地獄へ落ちようと師の教え(他力信仰)に従う(筆者訳)」と言いました。キリスト教も「絶対神によって救われる」が根本義で、いわば他力です。

 「寺院消滅」という恐ろしい言葉があります。京都の嵯峨野にある浄土宗正覚寺の住職で元ジャーナリストの鵜飼秀徳さんの著書です。同書には、國學院大学の石井研士教授の試算として、2040年までに日本の宗教法人17万7千のうち35.6%が消滅するとあります。昨今、浄土宗や浄土真宗、そして日本のキリスト教がなぜ振るわないのか。理由はいくつかあると思いますが、もっとも重要な点は「住職自身が他力の本当の意味を分かっていないから」と筆者は思います。なによりの証拠は、試しにネットでさまざまな寺院のHPを開いてみればよくわかります。余分なことばかりが書かれているのです。 

 道元はもちろん自力の人でしたが、正法眼蔵・生死巻で、

・・・・この生死は、すなはち仏の御命(いのち)なり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御命を失なはんとする也。これに留まりて生死に(執)著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…厭ふことなく、慕ふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以て量る(はかる)ことなかれ、言葉を以て言ふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかた(方)よりなはれて、これにがひもてゆくとき、力をもいれず、こころをも費やさずして、生死を離れ、仏となる・・・・

と言っていました。他力そのものですね。

 筆者は長年禅を学んできましたが、行き着いたところは他力の心境なのです。考えてみるまでもなく、自力も他力も、悟りに達するまでの道が違うだけで、富士山に登るのに御殿場ルートや須走ルートなどがあるのと同じです。自力と他力のどちらを選ぶかではなく、他力も分かった上で、自力修行をすればいいのだと思います。筆者は、今でも毎日座禅瞑想を欠かしません。