殺してみたかった(その2)

(2-1)

 以前のブログで、殺して見たかったから殺した(1)を書きました。もう一度お話しますと、

 ・・・最近「ただ殺して見たかったから殺した」との不可解な犯罪が目立つようになりました。恨みからでも金銭がらみでもない異常さには、多くの人が重苦しい気持ちになったと思います。とくに印象深かったのは、昨年の名古屋大学女子学生のケースではないでしょうか。キリスト教会に誘ってくれた老婦人を殺してバスタブに隠し、何食わぬ顔をして故郷へ帰っていた事件です。理学部の学生でした(筆者の勤めていた大学ですからショックも大きかったのです)。

 警察はすぐに彼女を容疑者と特定して東北地方にある実家から呼び寄せました。心配して名古屋まで付いて来た母親を無理にホテルに泊め、自分は1ヶ月前に殺した女性の遺骸のあるアパートで一晩寝た(!)というのですから、聞いただけで鳥肌が立ちますね。

 もちろんマスコミも大々的に取り上げ、教育・臨床心理学者のコメントも多く紹介されました。警察が立件する前に精神鑑定をしたのも当然でしょう。しかし今日お話するのはそこなのです。心理学者たちが「家庭の教育に問題がある」と言っているのはおよそ的外れだと筆者は思うのです。それは単なるきっかけに過ぎないと考えます。

 彼女にはいわゆる邪霊が付いているに違いありません。邪霊と言ってもその正体が何であるかは筆者にはわかりません。筆者が10年以上神道系の教団に属していた経験から言っているのです。ぜひ優れた霊能者に見てもらうべきです。そうしなければ何一つ問題は解決しないと思います。まずその霊能者はその邪霊の正体を突き止めるでしょう。そして、除霊をするはずです・・・

以上のコメントは、筆者の憶測によるものです。ただし、筆者は10年にわたって、神道系の教団でさまざまな霊的現象を見聞きしていましたので、ほとんど確信だったのです。じつは最近、佐藤愛子さんの「私の遺言」(新潮社)を読んで、1997年に起きた「神戸児童連続殺傷事件」の犯人「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと。少年「A」)についてのコメントとピッタリ合いましたのでここに再録しました。同書を読めばお分かりのように、佐藤さんはじつに30年以上にわたって、くり返し耐え難い心霊現象に遭遇した経験がある人です。その上で上記のような感想に至ったのでしょう。

(2-2)

 上記のように、元名古屋大学女子学生による猟奇的事件について、筆者はかねがね検察や裁判所による審理や、臨床心理士によるカウンセリングのやり方に強い疑問を持っていました。あんなやりかたでは決して解決しないと思っているのです。現に本人は「今でも時々人が殺したくなる」と言っています。仮に刑期を終えて出所しても、必ずまた殺人事件を起こすでしょう。それでは家族も、本人も一生救われないはずです。筆者はこの考えを裁判所や検察庁、あるいは担当弁護士に伝えようと思いました。しかし、筆者の気持ちが担当部局に伝わるまでに、どれだけ多くの不愉快さを乗り越えなければならないかは、眼に見えています。受けるであろう疑問、不信、侮辱・・・。そのときふと、「私のブログに書こう」と思い立ちました。「ブログを読んで下さった人の中には、まじめに受け取って、裁判所や弁護士にメッセージを伝えてくれる人も出てくるのでは」と思ったのです。

 筆者が名大女子学生による殺人事件を知って、「これは悪霊の憑依によるものだ」と感じたのは、長い霊的体験があったからで、佐藤さんのこの本を知るずっと以前でした。自分が殺した人間の遺骸がある部屋で寝たり、拘留中の現在でも「人を殺したい衝動が湧く」との発言はあまりにも異常です。判決は無期懲役とせざるを得ないでしょう。「今でも人を殺したくなる」人間を世に出されたらたまったものではありません。現在、彼女は臨床心理士などのカウンセリングを受けているはずです。しかし、そんなことで矯正されるとは思えないのです。しかるべき霊能者によって、まず彼女に憑いている強い悪霊を除かない限りは。それを裁判所か検察、あるいは担当弁護士に、なんとか伝えたいのですが、良くても無視、悪ければひどい中傷を受けて傷つくはずです。佐藤愛子さんも「少年Aは悪霊の憑依だなどと書けば、私を黙殺あるいは嘲笑するでしょう」と言っています。

(2-3) 

 速報:このブログシリーズを書いているまさにその時(2019/3/28)の毎日新聞に、覚せい剤取締法違反の罪に問われた女性被告(37)の控訴審判決で、大阪高裁は懲役刑の一部を実刑とした1審の大阪地裁判決を破棄し懲役1年・保護観察付き執行猶予4年を言い渡した、とありました。この女性は過去にも覚醒剤を使ったとして執行猶予中でしたが、再び覚醒剤を使ったとして裁判中だったとのこと。被告は「中年男性である別人格に体を乗っ取られ、『覚醒剤を使え』という指示に逆らえなかった」と主張していた。高裁判決は、この精神科医の診断の信用性を全面的に認定したのです。この病気は解離性同一性障害と呼ばれ、高裁は「当時は別人格で、心神耗弱の状態だった」と判断したのです。実に画期的な判決だと思います。

 まさに、前記の西鉄バスジャック事件(1人死亡2人重傷1999)の17歳少年が事件の前、インターネット上に「自分の中の別の自分が人を殺せと言っている。助けてくれ」と書きこんでいたことと一致しますね。少年「A」(酒鬼薔薇聖斗)に取調官が、「なぜお前は切断した少年の首の口を切り裂くようなことをしたのか」と聞くと、「ただ、そうしたかったんや」と答えたことについて、佐藤愛子さんは「彼の中にはもう一人の彼がいる」と書いています。まさに、複数の人格を持ちそれらが交代で現れる・・・ですね。

 しかし、これではたんに病気の診断をしているだけです。問題は治療法なのです。従来、このような「症例」は以前から精神障害の一種、解離性同一性障害と考えられていました(以下、東京都立松沢病院HPから)。

 解離性同一性障害とは:衝撃的な出来事、事故、災害などの体験や目撃などの極度のストレスが引き金となって突発的に発症するケースや、幼少期の虐待や、あまりにも耐えがたい心理的葛藤から、相容れない情報や受け入れがたい感情を意識的な思考から切り離さざるをえなくなって発症するケースなど、心理的な原因が想定されており、心因性の精神障害に分類される。

症状には、1)自分が誰かという感覚が失われ、失踪して新しい生活を始めたり、ふいに帰ってきてその間の記憶がない(解離性とん走)2)自分が自分であるという感覚が障害され、あたかも自分を外から眺めているように感じられる。外界に対する現実感が急に失われることがある(離人症性障害)、3)患者は複数の人格を持ち、それらの人格が交代で現われる(多重人格障害・解離性同一性障害)、その他がある。

治療法としては、・・・治療初期には、患者さんに安心感を持ってもらうための精神療法に加え、薬物療法を併用することがある。治療が進むにつれ、カウンセリングも行う。苦痛がひどい場合には、入院治療を選択する場合もある・・・。とあります。

 しかし、問題はそれらの病気の治療法なのです。つまり、松沢病院のHPにあるように、これまでこれらの解離性同一性障害は精神疾患の一種と考えられ、病気としての治療が行われていただけなのです。少年「A」や西鉄バスジャック事件の犯人、覚せい剤取締法違反の罪に問われた女性、そして元名大女子学生も、おそらくカウンセリングや薬物療法だけしか行われていないでしょう。それだけではダメなので、こういう「患者」の少なくとも一部には霊的治療が不可欠だと筆者は考えるのです。霊能者による除霊です。その前にまず、「どうしてかれらはああなったのか」について私見を述べます。

(2‐4)なぜ彼らはああなったのか

 前記の「人が死ぬところを見たかった」と言った元名大女子学生の第一回裁判の証言台に立った母親は、

 ・・・小2のとき万引きをしようとして父親に厳しく叱れた・・・小5のある日、それまでは「ママ」と呼んでいたのに、突然「きょうからあんたは下の名前で呼ぶから」と言われ、呼び捨てにされた。宣言するみたいに。理由を聞いたら、「こう決めたから、こうなの」という言い方をされ、注意しても直りませんでした・・・

 家庭環境に問題があったのは確かでしょう。松沢病院のHPにあったように、・・・衝撃的な出来事、事故、災害などの体験や目撃などの極度のストレスが引き金となって突発的に発症するケースや、幼少期の虐待や、あまりにも耐えがたい心理的葛藤から、相容れない情報や受け入れがたい感情を意識的な思考から切り離さざるをえなくなって発症する・・・のでしょう。少年「A」や西鉄バスジャック事件の犯人の家庭や友人関係については、母親による虐待(少年「A」)や学校でのいじめ(西鉄バスジャック事件)などの説も上げられましたが、今となってはその真相は不明です・・・。霊能者の江原啓之さんによると、「彼らが生まれ育った土地の「気(霊位)」の低さにも問題があるとか。パワースポットの逆ですね。ただ、筆者には土地の「気」についてはよくわかりません。

 一方、以前筆者がお話したケースについては、その原因はかなりはっきりしています。 すなわち、  

 筆者が属していたある神道系教団に二十歳そこそこの女性会員がいて、ある日一人の友人を連れてきて教祖に相談しました。なんでも彼女はこの頃おかしいと言うのです。「〇〇ちゃんがいない」と泣き叫ぶとか。〇〇ちゃんは本人も女性会員も全然知らない人だと。教祖によると、その人には心中した若い女の霊が憑いており、あの世で添い遂げようと相手を探したけど見つからないと言うのです。当然でしょう。人は生前に達した霊位に合った幽界に行くのですから、心中しても同じ世界へ行くとは限らないのです。相談に来た女性は看護師で、終末期医療に携わっているとか。「治る見込みがあればこそやりがいがあるのに、ただ死ぬのを待っているだけの患者ばかり看護してきた今の仕事に希望を無くしてしまった」と言うのです。よくわかりますね。じつはこのような人が危ないのです。心の隙に霊が入り込んだと思われるのです。自分に絶望すると、自分としてのアイデンテテイを無くしてしまい、そこへ「別人格」の霊魂が入って来るのです。あの世(現幽界)でさまよう霊魂は、いつもこの世の誰かの肉体に入りたがっているのです。人は死んで初めてこの世に生きる意味を知るといいます。それは心の成長の場だったのだと。あの世では魂の成長はできないのです。「死んでしまって残念だ。もう一度現世へ戻って修行し直したい」と思うのでしょう。

 元名古屋大学女子大生や、酒鬼薔薇聖斗少年(当時中学2年生)も、おそらく生い立ちに厳しいものがあり、自分を見失っていたのでしょう。その、魂が抜けた肉体へ未浄化霊や邪霊が入り込んで別の人格になって、残虐行為をしてしまったと思われます。もちろん自分を見失ってしまった人がすべて未浄化霊に憑依されるわけではありません。個人差も大きいのでしょう。ただし、ネガテイヴ思考に陥ることはこのような危険があることはぜひ心に留めておいてください。

 筆者もこれまで何度もネガテイヴ思考に陥りそうになったことはありましたが、いつもグッと踏みとどまりました。必ず負のスパイラルに入り、ますます落ち込んで行き、解決から遠ざかることが直感的にわかっていましたから。じっと我慢すれば必ず解決への道が開けてきます。

岸根卓郎氏批判(3,4)

(3) 筆者の検証(2)

 岸根氏はホイーラーの思考実験(物理実験ではありません)の結果(?)から、「電子には心があり、人間の意図を読み取った」と結論付けています。そして、岸根氏の解釈はさらに飛躍します。

 ・・・自然界はすべて、心を持った電子が姿を変えたものである。人間と同じく、動物も植物もすべて電子によって構成されている・・・電子が心(意志)を持っているからこそ、その電子によって構成されている人間にも心(意志)があることが科学的に結論できる・・・ と言っています(註5)。

註5 もちろん人間の体は電子だけでできているのではありません。岸根氏が電子にこだわるのは、粒子と波との二つの性質を合わせ持つ物質の例としてでしょう。

 岸根氏はさらに、

 ・・・肉体としての人間が示す電子の波動現象こそが人間の生命であり、人間の心である・・・生まれるといっているのは、心を持った無機物が統合されて、心を持った有機物が作り出される統合作用のことである・・・死ぬといっているのは、心を持った有機物が統合作用を失って心を持った無生物に還るということだ・・・心もまた肉体の輪廻転生と共に、輪廻転生を繰り返す・・・心の住むあの世も、肉体の住むこの世も、ともに存在していて、それらが互いに輪廻転生している・・・自然界全体(大自然、大宇宙)の下では、無生物も生物も基本的には区別はなく、それらは同じ物である電子が姿を変えて互いに流転し、転生しているにすぎない・・・
と言っています。

 何人かの読者が指摘するように、岸根氏の文章は繰り返しが多く、独善的であるためわかりにくいので、筆者がまとめてみますと、岸根氏が言いたいのは、「電子は心を持つこと、時には波になり、時には粒子になる。その性質を輪廻転生と言い、人間も電子からできているから、人間の体も輪廻転生する」と言っているようです。輪廻転生という、仏教やスピリチュアリズムの概念を、電子の粒子と波との変化とくっつけているのには唖然とします。

 さらに岸根氏は、「仏教だけが量子論と統一できる唯一の宗教である」と言い、

 ・・・仏教にいう無量寿(無限の時間の流れ)が量子論にいう電子の粒子性に当たり(なぜなら粒子は速度を持っていて無限の時間を走るから)、無量光(無限の空間の広がり)が量子論にいう電子の波動性にあたる(なぜなら粒子は波動となって無限の空間に広がるから)と考えられるからである。ゆえに私(岸野氏)は(宗教である)仏教と量子論(科学)は同一化する。まさに驚異と言うほかはなかろう・・・量子論の説く粒子性・波動性が神の心と考えられる・・・

と言っています。つまり、岸根氏は「量子論が神の世界の存在を証明する」と称しているのです。

(4)筆者の検証(3)

岸根氏は、

 ・・・これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する、量子論に言う量子エンタングルメント(あの世とこの世の共存性)や量子テレポーテーション(あの世とこの世の情報交換)などの心の共鳴現象を理解せずしてもはや対応できない・・・2500年もまえの東洋の宗教の仏教と、西洋の最先端科学の量子論との間にも、時空を超えて同一性がある・・・

と言っています。岸根氏は「量子は心を持つ」という持論(岸根氏の独創ではなく岡野氏の考えの引用ですが)を量子論的唯我論と称し、それを強く意識した上で量子宗教という造語をしています。

さらに、

 ・・・未来のあるべき宗教は一神教文明で物心二元論の西洋物質文明に基礎を置く西洋の宗教よりも、多神教文明で物心一元論文明の東洋精神文明に基礎を置く東洋の宗教のほうが、心の時代の宗教としては適している・・・

と言っています。しかし、このような考えは岸野氏の独創でも何でもなく、多くの心ある人が言っているのです。

 以上のように、岸根氏のこの本は量子論に基づいて神の心を解き明かそうというものです。しかし、現代物理学でも量子の不思議な性質については、まだ正しい解釈はされていないのです。にもかかわらず岸根氏はその解釈の一つ、それもなんの科学的証明もなされていない意思説を自説に都合よく根拠としているにすぎません。しかがって同書はほとんど妄想としか言いようがないものなのです。

 ある読者の感想文の中に、

 ・・・量子論は日常の常識が通じず余りにも奇妙なためしばしばオカルトのネタとなるが、この本はまさしく量子論をネタにしたオカルト本である・・・

とあります。筆者も同感です。量子のようなミクロの世界は、どんなにそれが私たちには不思議であっても、それにふさわしい解釈をすべきであって、それを人間や宇宙のようなマクロの世界へ敷衍したために岸根氏や、一部のスピリチュアリズムの人達の誤解を生じるのでしょう。

 岸根氏の本は、京都大学名誉教授であるとか、湯川秀樹博士や朝永振一郎の師であることをキャッチコピーにしていますし、文章が巧妙に書かれているため、一部の読者が「すばらしい」と感じるのでしょう。しかし実体は、前述の読者が言っているようにオカルト本としか言いようがありません。真面目な読者が惑わされないように、願ってやみません。