道元・良寛さん・賢治と法華経(1)
(1)このシリーズで以前、「道元や良寛さん、宮沢賢治の法華経に対する思い入れは相当のものがある」とお話しました。道元は「法華経は諸経の大王である」と言い、あの「正法眼蔵」には法華経からの引用が随所に見られます。また良寛さんは「法華転」「法華讃」と名付けた漢詩を、それぞれ68編と122編作っています(これだけでも良寛さんの学識が並々ならぬことがわかります)。さらに宮沢賢治は遺言として「私が死んだら法華経を印刷し、経筒に入れて故郷花巻を取り巻く山々に埋めて下さい」と言っているほどです。
わが国の法華系のさまざまな宗教団体が「法華経こそ釈尊がお説きになった最高の経典である」としています。しかし、法華経が、いわゆる大乗経典の一種であり、釈迦の直説でないことは、学問的にはすでに確定しています(註1)。とは言え、筆者はけっして大乗経典を軽んじているわけではありません。釈迦以降にもインドにはすぐれた思想家が数多く輩出して、法華経という思想体系を作り上げたのでしょう。
そこで、今回から、このシリーズの締めくくりとして、良寛さんの「法華転・法華讃」に基づいて、法華経についてお話します(註2)。
まず、法華とは宇宙の真理を指します。そして法華転とは、森羅万象のすべては仏がお造りになったものであり、仏の働きそのものだ、という意味です。法華経では諸法実相と言い、繰り返し説いています。法華経ではさらに多くのたとえ話を巧みに使って、人間には仏としての本性があると言っています。法華七喩(しちゆ)と言います。それについては次回お話します。
1)諸法実相について
良寛さんは諸法実相について、法華転・第六十三の偈で、
風定(さだ)まって花尚(な)お落ち
鳥啼(な)いて 山更(さら)に幽(しずか)なり
観音の妙智力(かんのんみょうちりき)千古空(むな)しく悠々
と読んでいます。「これらの自然の風物こそ仏のはからいそのものだ」と言うのです。さらに、唐の詩人で禅者である蘇東坡が悟りに至った時の感激を読んだ有名な詩、
渓声便(すなわち)広長舌、山色豈(あに)清浄身(しょうじょうしん)に非(あら)ずや(谷川の音は仏法を説く声であり、山の姿は仏の清浄身の現われである)
も引用しています(法華讃・偈第十四)。
註1 ここでは、あの中村元博士が「法華経の成立はどんなに遡っても紀元40年を越えることはない」と言っていることだけを追加しておきます(宮本正尊 編『大乗仏教の成立史的研究』(昭和29年) 附録第一「大乗経典の成立年代」)。釈迦滅後4~500年後のことです。
註2 現代語訳は中村宗一「良寛の法華転・法華讃の偈」(誠心書房)を参考にしました。
道元・良寛さん・賢治と法華経(2)
2)人間の本性が仏であること(法華経の比喩)
法華経の教えはたとえ話をよく使って説かれているのが特徴です。すなわち、
①火宅の喩(たと)え(譬喩品)
②窮子(ぐうじ)の喩え(信解品)
③薬草の喩え(薬草喩品)
④他城(けじょう)の喩え(化城喩品)
⑤衣珠の喩え(授記品)
⑥髻珠(けいしゅ)の喩え(安楽行品)
⑦医子の喩え(寿量品)
の七つです。ちなみに〇〇品とは法華経の章のことです。
①火宅の喩(たと)えとは、
家に火がついて大変なのに、中で子供たちは遊びに夢中になっている。外から父が「こっちには羊の引く車があるから出てこい」と言っても子供らは聞かず、「鹿の引く車がある」と言っても聞かなかった。そこで最後に「(最高級)の白牛が引く車がある」と言ったら、それに惹かれて子供たちが出てきた、という話です。子供たちとは、二流(二乗)の教えや三流(三乗)の教えを信奉している修行僧たちのこと。そして白牛の車とは、最高(一乗)の教え、つまり法華経を指し、「早くこの尊い教えに乗り換えろ」と父は言うのです。
②窮子(ぐうじ)の喩えとは、
長者の息子でありながら家を飛び出し、数十年後乞食となって放浪するある日、豪奢な家の前に立った。父親はすぐに息子とわかったが、息子はすっかり忘れていた。そこで父親は息子を便所の掃除人として雇い、だんだんさまざまな仕事を与えた。ようやくその行いや精神が正しくなったと認めた時、初めて我が子であると明かし、長者の家を相続させたという譬え話です。つまり、「本来人間には仏としての本質があるのにそれを知らずにいる。早くそれに気付きなさい」という教えです。
⑤衣珠の喩(たと)えとは、
友人を訪ねて酒をふるまわれた貧困の男が酔いつぶれているうちに、友人は所用のために出かけることになり、男の着物の中に名宝を縫い付けておいた。男は後に友人からその話を聞き、貧困から脱することができた。
他に、誰に対しても、どんなに悪罵されようとも、「あなたは仏になれる人です」と礼拝した常不軽(じょうふきょう)菩薩についても「道友である」と言っています(法華讃・偈頌第五十六)。宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」の詩で「みんなにデクノボウと呼ばれ(るような人になりたい」と言っている僧です。
しかし、良寛さんは、
昔日の三車(羊車、鹿車、白牛車)名のみ空しくあり
今日の一乗実も亦(また)休す・・・
(今では三車の譬えなどの法華経の教えも単なる物語として受け取られて形骸化し、一乗の教えも口にされなくなってしまった・・・)
と嘆いています(法華讃・偈第二十四)。そして、
「(今では)坊さんが金襴の袈裟を着けて法座に上り、形ばかりの法要、説法に終始している。「嘆ずべきかなこの末世の仏法」と悲しんでいます(法華転・偈第七十五)」
良寛さんも道元と同じように法華経が最高の教えであると言っています(法華転・偈第一)。すなわち、
口を開くも法華を謗(そし)り
口を閉じるも法華を謗る
法華 法華 如何にか讃(たた)えん
焼香・合掌して曰(いわ)く
南無妙法華・・・
(法華経を説明することも、説明しないことも法華経を謗ることになる。ではどのように法華経を讃ずるべきか。ただ焼香・合掌して「南無妙法華」と言うだけだ・・・)
道元は「正法眼蔵・法華転巻」で、禅の六祖慧能の言葉、
「心迷えば法華に転ぜられ(真理を離れ)、心悟れば法華を転ずる(真理と一つになる)」を引用しています。
道元・良寛さん・賢治と法華経(3)
竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(1)
前回、「法華経の重要さは、諸法実相(自然のすべてはそのまま仏の声や姿の表れである)ことと、人にはすべて仏としての本性があることの二つの重要な思想を説いていることにある」とお話しました。今回は、竹村牧男さん(1948-)のお考えをご紹介します(「良寛さまと読む法華経」大東出版社)。まず、「諸法実相」に関して、
「薬草喩品」に対する良寛さんの讃:
習風昨夜煙雨を吹き
山河大地共に一新す
東公意無く恩沢を布(し)き
資(もたら)し始(はじ)む千草万樹の春
竹村さんの訳:春風は昨夜、けぶるような雨をそよがせ、今日は山河大地すべてが面目を一新した。春を司る君公ははからいなくすべてに恵みをもたらし、ありとあらゆる草木が春らしい粧(よそお)いとなった(仏の大悲は、差別なく一切のものに働き、各々が各々の生命を輝かしていく。p79)。
竹村さんの解釈:如来(釈尊:筆者)の説法は、皆、悉(ことごと)く、人々に一切智地、すなわち仏地に到達することを実現せしめるものだ、ということです・・・法華経には一切智についての説明はありませんが、一切智(一切法:筆者)とは、まず真如・法性(宇宙の最高の真理:筆者)に通達して一切の存在に行き渡る本質・本性を体証する智慧でしょう・・・(筆者の責任において少し言葉の前後を変えましたp71)。「一切智についての説明はない・・・」これこそ江戸時代の平田篤胤が「(法華経は)効能書きばかりで中身のない丸薬」と言う理由でしょう。
そして竹村さんは、「薬草喩品」の一節、
如來は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂(いうところは)、解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂の滅相にして、終(つい)に空に歸す。
を引用して、「一切法は空(くう)である。その一味こそが、如来の説法の核心だと言うのです。もっとも、空は無ではありません。空ということの中に、仏智の世界もあります。生き生きとした生命のはたらきの世界があります。ここが誤解されると、ニヒリストに陥ったりしますから、この真理を説くは用心が必要です・・・」と言っています。
この竹村さんの「空」の解釈は筆者とは異なります。何よりの証拠は「空」は「無」と対比すべき概念ではないからです。
道元・良寛さん・賢治と法華経(4)
竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(2)
つぎに「人にはすべて仏としての本性がある」について、
「方便品」に対する良寛さんの讃:
騰々任運只麼過 騰々任運只麼(しも)に過ぐ
困来眠 飢来餤 困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)う
唯此一事也不要 唯だ此の一事も也(また)要せず
不知何処度二三 知らず何れの処にか二三を度せず
竹村さんの訳:ただぼんやりと時を過ごしている。眠くなったら眠り、お腹がすいたら食べる。ただそれのみ。方便を設けて、ああでもないこうでもないという必要もない。
竹村さんの解釈:自己が自己に対してはからう(あれこれ考える:筆者)以前にある真実、それに目覚めるのが仏知見だとしたら、(法華経が言っている)一仏乗(仏の最高の知恵・一切智・一切法の理解に至る道。法華経のことですね:筆者)などということをふりかざすでない。ああでもないこうでもないという必要もない。
筆者の感想:前回の「習風昨夜煙雨を吹き・・・」の詩や、今回のこの詩のように、良寛さんは法華経を最高の経典と崇めながら、それについてさえ批判的ですね。「時の流れのままに、困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)うの生き方でいいじゃないか」と言うのです。しかし、それは、あらゆる厳しい修行と思考・勉学を修めた良寛さんだから言えることでしょう。良寛さんはさらに、法華経を学ぶ目標についても厳しい批判の目を向けています。すなわち、
「授記品」に対する良寛さんの讃:
「授記」とは、将来仏になれるという釈尊の印可。最高の弟子魔訶迦葉がそれを受けたのを知り、魔訶迦栴(正しくは木偏ではなく方偏:筆者)延らもそれを願ったという逸話が書かれています。
それについての良寛さんの讃:
眼華影裏逐眼華 眼華影裏(げんけようり)に眼華を逐(お)い
記去記来無了期 記し去り記し来たって了期なし・・・(以下略)
竹村さんの解釈:眼華とは、眼病によって目の前にちらつく華のようなもので、じつは幻のように実体のないもの・・・眼華を逐(お)うとは本来無いものを求めて追いかけるということで、眼華の虚像の中でさらに眼華を求めるとは、迷中又迷の状態を表しているでしょう。良寛さまは授記などまやかしにも等しいと言っているのです。なぜかというと、やはり即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りであって、その自己を離れて、遠い将来になにか仏として実現するような自己を追いかけるべきではない・・・すでに仏である者が、さらに仏になることはありえないと言うのです。
筆者の感想:ただ、竹村さんの言う「即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りだ」については、「なるほどそういうものか。でも具体的にはどういうことかよくわからない」のが読者の率直な感想でしょう。
道元・良寛さん・賢治と法華経(5)
良寛さん批判?
水上勉のような良寛さんを批判する人が「(若いのに働きもしないで)他人に食物を無心する手紙が49通ものこっている」と言っています。見当はずれの言葉でしょう。「あなただったら3通も続きますか?」と言いたいです。当時の皆さんは良寛さんだから喜んで「無心」に応じたのです。さらに「49通もの無心の手紙さえ残っていることを不思議に思いませんか」とも・・・・・・。そうなのです。人々は良寛さんの手紙が欲しくてしかたなかったのです。無心の手紙を出させ、もらった人は宝にしたのです。
つい、花を採ってしまった良寛さんを「謝罪の文を書いてくれたら許します」と言った人がいます。良寛さんの書が欲しかった偽りの怒りですね。良寛さんは、絵とともに次の句をしたためて謝ったと言います。すなわち、
良寛が 花もて逃ぐる お姿は いつの世までも 残りけるかな
良寛「花盗人」(この書も残っています:筆者)
あるとき浜辺の漁師小屋が焼けたことがありました。ふるさと柏崎のことでしょう。失火の犯人と疑われた良寛さんが、漁師たちに殴られました。そこへ偶然通り合わせた親しい人が漁師たちに飲み代をやって良寛さんを解放させ、尋ねたそうです。「なぜ自分ではないと言わなかったんですか」と。良寛さんは静かに「相手は怒っているのでしかたがない」と。私たちはよく、いわれのない誤解を受けて腹が立つことがありますね。しかし、良寛さんならきっと「誤解してるんだから仕方がない」と受け流すでしょう。
またあるとき、「お経も読まず説教もせず、子供と遊んでばかりいる」批判する人がありました。良寛さんは「ただ、私はこういう人間です」と心の中で答えたそうです(その漢詩も残っています)。人の心情など他人が評価判断できるものではありませんね。良寛さんは、反論など無意味だとわかっていたのです。良寛さんの心はそういう人たちとは比べものにならないほど高く、批判する人たちとはケンカにもならなかったのでしょう。
・・・・・・・
良寛さんは晩年貞心尼という熱心な弟子ができました。現代でも「老いらくの恋」などという人が少なくありません。筆者は数年前、長岡の近くへ行ったとき、車の中から「与板」と言う道路標識を見付けてアッと止めました。そうです。良寛さんファンなら知らない人はいない土地なのです。はたして近くに良寛さんと貞心尼の歌碑がありました。
「誘いて行かば行かめど人の、見て怪しめ見らばいかにしてまし(あなたを誘って行くのは行ってもよいのだが、他人の目から怪しまれないだろうか)」 良寛
「鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ 烏はからすなにかあやしき(何おっしゃるのです。トビはトビ同士スズメはスズメ同士、サギはサギ同士。黒衣のわたしたちカラスはカラス同士仲良く行くのに何が変でしょうよ)」 貞心尼
ほのぼのとした良いやりとりですね。貞心尼は長岡藩士の娘、良寛さんとは40歳も違う人です。大変な美人だったと弟子の尼が書き残しています。向田邦子の良寛さん批判など「〇〇の勘ぐり」でしょう。
今でも良寛さんファンはたくさんいます。筆者もその一人です。現在、良寛さん関連の本は300冊以上あると言います。「良寛さん研究会」も各地にあります。みんな良寛さんのこういった人となりを知って心からホッとするのです。どんな高僧の本や仏教書にも勝るのです。