道元、良寛さん、宮沢賢治はなぜ法華経を信奉したのか(1‐4)

 「法華経は諸経の大王」は道元の言葉です。「正法眼蔵」に「法華轉法華巻」を書いています。死の間際に、法華経の一節を口ずさみながら経行(きんひん、歩き回る)したと言われています(詳しくは筆者の2017年6月のブログをお読みください)。あの良寛さんも法華経を信奉し、「法華転・法華賛」と名付けた偈頌(漢詩)を残しています。そして宮沢賢治も「私が死んだら法華経を400部印刷して四方の山に埋めてほしい」と遺言したとか。

 筆者もこれまでに法華経をきちんと読んだことはありましたが、なぜこれらの人たちがあれほど信奉するのか、よくわかりませんでした。

 「法華経は、効能書きばかりで、中身のない薬だ」と言ったのは、江戸時代の平田篤胤(1776-1843 註1)で、まったくその通りだと思いました。なにしろ、法華経の中に「法華経はすばらしい、法華経はすばらしい」と書いてあるのですから。あの源氏物語の中に「源氏物語を読みました」と書いてあったら?!現代のある僧侶は、「仏教学者の中には、『法華経そのものは、仏が広大な功徳を持つ有り難いお経を説いた』と述べるだけで、説かれた筈の肝心の経の内容については何も説かず、恰も薬の効能書きだけで中身のない空虚な経だと言う者もいる。然しそれは正に彼等が仏法を知らないことを自ら暴露するものである」と言っています。ただ、筆者にはその人の「正法眼蔵・法華転法華」の解釈はよくわかりません。

 そこで筆者もあらためて法華経を読み直してみました。そうすると、ようやくその理由がわかりました。今回はその理由についてお話します。

註1平田篤胤は神道家・思想家として、死後の世界の重要さについても言及しています。すなわち、死後人間の魂は異界へ行く。その異界は現世のあらゆる場所にあり、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓に留まるものだとしました。また、平田は人間の生まれ変わり現象にも興味を持ち、「生まれ変わり体験者」小谷田勝五郎にも会い「勝五郎再生記聞」を残しています。

(2)ではこれらの人たちは、法華経のどの思想に感銘を受けたのか。それぞれご本人に聞いてみなければわかりませんが、おそらくその理由は次の二つではないかと思っています。すなわち、

1)諸法実相

 「諸法実相」とは、人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華(法の華、宇宙の真理)、すなわち仏の姿の現われであるということです。たとえば良寛さんは、「法華転63」の偈頌(詩)で、

 風定花尚落  風が止んだというのに花が散っている

 鳥啼山更幽  鳥が啼き山色渓水の眺めが一層幽邃(ゆうすい)となる

 観音妙智力  この風光こそ観音の妙智力であり

 千古空悠々  千古空々悠々たる清浄身である

と歌っています。

2)人間の本性が仏であること

 良寛さんは、「法華讃8」で、

・・・人人(にんにん) 箇の護身府有り。一生再活して用うるも何ぞ尽きん・・・

(人間には一つのお守りがある。一生の間に何度使っても、その働きはなくなることはない)と吟じています。ここで言うお守りとは、仏性、つまり仏としての素質のことでしょう。これも法華経の主題の一つです・・・。

 ただ、筆者には長い間、なぜこの人たちが法華経にそんなに思い入れが深いのか、ピンと来ませんでした。筆者にとっては、自然のすべてが神(仏)の創造物であること、人間の本性が神(仏)であることなど、当然のことと思っているからです。「でも道元禅師や良寛さん、宮沢賢治が、あれほど信奉していた法華経だから、私の勉強が足りないのではないか」と考え、もう一度一から考え直してみました。そうしているうちに「アッ」と気が付きました。

 本来、「人間の本性が神(仏)であること」との思想は釈迦仏教にはなく、釈迦以前のインドの古来のヴェーダ信仰の思想なのです。ヴェーダ信仰では、「人間の本性は不滅の個我(魂、アートマン)であり、絶対神(ブラフマン)に近づくことが、信仰の目的だ」と言うのです。釈迦仏教は、このヴェーダ信仰のアンチテーゼ(対立命題、乗り越えるもの)として生まれたのです。それゆえ、不滅の個我とか、絶対神の存在を認めるはずがないのです。おそらく道元や良寛さんは、長い修行と思索の結果、ヴェーダ信仰と同じような思想へ戻ったのでしょう。当然だと思います。その理由をこのシリーズでお話しています。

(以下、次回に続きます)。

(3)ことほどさように、道元や良寛さんは釈迦仏教から、ヴェーダ信仰へ回帰したのだと筆者は思います。彼らが勉強したからではなく、長い修行の末、自らそれに気づいたはずです。それが法華経と(部分的に)一致したのでしょう。法華経は言うまでもなく大乗経典の一つです。大乗経典は釈迦仏教とは異なることはすでに確定しています。道元や良寛さんはその中に「諸法が実相であることや、人間の本性が神であること」を見出したのだ、と筆者は思います。

 道元や良寛さんはヴェーダ信仰など知らなかったと思います。この思想(ウパニシャッド哲学)が、チベットや中国を飛び越えて日本に紹介されたのは、ずっと後年、じつに昭和の時代、碩学中村元博士などの功績です(「ウパニシャッドの思想」春秋社)。一方、後述のスピリチュアリズム研究が盛んになったのは19世紀末からです。

 じつは、禅の世界でも同じような体験をした人は何人もいます。たとえば臨済宗の開祖臨済義玄(?~647)が言っている「赤肉団上一無位の真人あり」もそうです。道元も「正法眼蔵・生死巻」で、「(生死のことは)仏の家に投げ入れて、仏の方より行われ、それに従いもて行く」と言っています。「生死のことは仏にお任せしよう」と言っているのです。 明らかに絶対神を指していますね。「正法眼蔵・渓声山色」にも蘇東披(蘇試、1036-1101)の有名な詩偈

渓声は便ち是れ広長舌、

山色は清浄身に非ざること無し

夜来八万四千の偈、

他日如何が人に挙似せん

が引用されています。「谷川の音、山々のたたずまいもすべて仏の姿だ」と言っているのです。

(以下、次回に続きます)

(4)じつは、「諸法が実相であることや、人間の本性が神であること」が、日本の神道思想にもあることは当然です。自然崇拝が基本ですから。筆者は、神道系の教団で10年にわたって霊能開発修行を実践してきました。そのため霊魂の存在など、いやというほど体験してきたのです(註2)。さらに筆者はスピリチュアリズムについても興味を持って学んできました。スピリチュアリズムとは、文字通り神(心)霊思想です。「自然はすべて神仏の姿であること、人間の本性が神仏であること」など、筆者にとっては、法華経など読まなくても、知識の上でも、体験を通じても当然のことです。

 これが、かねがね筆者が、「釈迦仏教ばかりでなく、他の宗派、さらにはヴェーダ信仰を含む他の宗教も学ばなくてはならない」と言う理由です。

註2拙著「禅を正しくわかりやすく」(パレード出版)の「あとがき」をご参照ください

 ところが、多くの人にとって法華経の大問題は、「人間も山も川も木も草も、すべてそのまま法華、すなわち仏の姿(宇宙の真理)の現われである」とか、「人間の本性は仏である」と言われても、「そんなものか」と思うだけで、実感すると言うわけにはいかないことでしょう。良寛さんや道元のような達人だけが感じられることだと思っていらしゃるでしょう。そうではありません。

 以前にもお話しましたが、筆者は、筆者の研究グループで明らかにした、あるタンパク質の遺伝子(DNA)構造を眺めていたとき、突然、「生命は神が作られた」とわかりました。別にそのとき、神のことを考えていたわけではなく、直感的に理解したのです。いまでもその体験はアリアリと思い出せます。その体験をとても尊いものと、うれしく思っています。

  以前、読者の真言宗寺院の僧侶(元臨済宗妙心寺派)が、筆者とのやり取りの最後に、「(筆者が『禅の根底にも神(仏)がある』と言ったのに対し)塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」とおっしゃいました(別に筆者は傷付いてはいませんが・・・)。筆者の考えの元になっているのは、道元や良寛さんについての上記のような思想の変遷です)。

秋月龍珉さんの般若心経(1‐3)

(1)秋月さん(1921-1999)についてはすでにご紹介しました。東京大学文学部哲学科卒。同大学院修了。卯坂光龍師、大森宗玄師に参禅し、印可(修了証書:筆者)を受ける。その後山田無文師にも師事し臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。臨済正宗「真人会」師家。花園大学教授など。真摯な求道者だと思います。今回は、「般若心経の智慧」PHP文庫をもとに秋月さんの般若心経解釈についてお話します。

 まず、秋月さんは、・・・お釈迦様は深い瞑想の結果、暁の明星のマタタキを見て、「アッ俺が光っている」、つまり、明星と自己と「物我(もつが)一如」という「真の自己」を自覚された・・・と言っています。「『般若心経』の冒頭の、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時(観自在菩薩は深い智慧の実践を行をしていた時)に続く照見五蘊皆空とは、このことだ」と言っています。

 五蘊について

 五蘊とは、色・受・想・行・識のことですが、秋月さんは、まず、「とは肉体のことであり、 受・想・行・識とは人間の精神作用(意識作用)を分析したものだ」と言っています。

・・・道で美しい少女に会ったとしましょう。美しいなーと感覚します。それがです。ところが別れて家に帰って、目をつぶっても、さっき逢った美しい少女を思い浮かべることができます。それがです。翌日また逢ったとしましょう。その少女に声をかけて「お茶でも飲みませんか」という心の動きが起こります。それがです。そうひた意識作用を識と言います・・・つまり、「五蘊とは肉体と意識作用だ」

と解釈しています(p104)。それはいいのですが問題はその後です。

 色(しき)について

 秋月さんはまず、「色即是空」のとは、(耳、鼻、皮膚についても同じでしょう:筆者)の対象界、つまり、色(いろ)があって形があって、運動するもの。しかしここではもう少し広く物質現象そのものだ」と言っています。しかし、いま、『とは肉体だ』と言ったじゃないですか!このように秋月さんの言葉の定義は、しばしば変わるので注意しなければなりません。秋月さんはさらに、「肉体と精神作用で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、今、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったじゃないですか!どうしてそれが世界になるのでしょうか?前々回お話した西嶋和夫さんの言うように「人間の心の働き、あるいは心そのものが、共通の地盤の上で働いて、われわれの住んでいる世界が出来上がっている」のでしょうか。「物や世界など無い。あるのは意識の働きの結果だ」と言うのが唯識思想ですが、どうやら秋月さんも西嶋さんも唯識思想と般若の知恵を混同しているようです。

 さらに、肉体と精神作用がどうして自我になるのですか?では、世界は自我の対象物ではないのか?ここがまたわかりにくいところです。さらに、後で、自我と対比すべきものとして自己(セルフ)の概念を挙げていますが、「では自己は 色・受・想・行・識の五蘊からなっているのかいないのか」がはっきりしないのです。

 筆者が秋月さんの言葉の定義について厳密に検討しているのは、秋月さんが哲学者だからです。哲学者はまず言葉の定義をはっきりさせてから話を進めるのが鉄則ですから。

 筆者は、はっきりと、「色とは目や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官が認識する対象物だ」と考えています。

(2)

秋月龍珉さんの般若心経(2

 「空(くう)」について

 では、「空」とはなにか。秋月さんは、

 「古代インド語で『シューニヤター』、英訳しますとemptinessとか、voidです」と言っています。ここで筆者は「アッ」と思いました。以前のブログで「鈴木大拙博士の言葉だ」と言いました。そこで秋月さんの経歴を見直してみますと、「鈴木大拙博士に師事」とありました。そこでも言いましたように それは誤訳です。emptinessは無、voidは空(から)としか翻訳できませんから。それでは「空=無」になってしまいます。

  さらに秋月さんは、

 「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。

筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識というと心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「とは肉体だ」とも言っているのです。さらに、秋月さんは「自我とは我欲だ。 その自我が無我であることが空だ 」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」とか「無我」というような価値判断は含まれてはいません。それゆえ、「空(くう)」も「無我」などではありません。

 さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。

「色・受・想・行・識という物と心の五つの構成要素からなっている「自我」、その自我が無我であることが空だ、もちろん世界も空だ。それは、一心不乱に座禅をして体得できる境地だ。自我が空じられて無我になったときに、『本来の自己(セルフ)』が露わになる」と言っています。そして、「色即是空とは、自我の否定を媒介として否定された自己の自覚体験を言う。そう言った後に「空即是色」とすぐに打ち返すことを空即是色と称する。すなわち、『自我』はすなわち空であり、その空こそが自我(私たちの言い方では『自己』である)」と言っています(p109)。

 そして、「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ。衆生が仏になるのでなければ、いくら般若心経を読んでも無駄である。私(秋月さん)が「空とはこだわらない心だ」などという般若心経談を口を極めて非難するゆえんです(p110)」と続けています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。まず秋月さんはここでは「自我とは、色・受・想・識というと心の五つの構成要素からなっているもの」と言っていますね。前回お話したように、秋月さんは、別のところで「とは肉体だ」とも言っているのです。さらに秋月さんは「自我とは我欲だ」と言っていますが、筆者は、色・受・想・行・識とはモノゴトの認識作用だと思います。そこには「我欲」というような価値判断は含まれてはいません。

 さらに秋月さんは、色即是空に続いて空即是色が来るのかがわかっていません。それは「すぐに打ち返す」という言葉からわかります。わからないからそう言わざるを得ないのでしょう。ちょうど西嶋和夫さんが「仏教の理論は、こういう往復的な説明だ」と言っているのと同じで、内容のない言葉です。じつは、色即是空のあと空即是色が続くのにはもっと深い意味があるのです。さらに、「即」は秋月さんの言うような「すなわち」ではありません「即座の即」なのです。この差は重要です。それがわからないので秋山さんは「すなわち」と解釈しているのです。さらに、秋月さんは「本来の自己を自覚体認することが絶対に必要なのだ」と言っていますが、それでは凡愚(たぶん秋月さんも含めて)は、「そんなものか」と思うだけで、「ではどうしたらいいのか」がわからず、途方に暮れるだけでしょう。

秋月龍珉さんの般若心経(3

 秋月さんは、卯坂光龍師、大森宗玄師、山田無文師さらには鈴木大拙博士など、錚々たる禅師に教えを乞う、とても真摯な求道者だと思います。しかも後に臨済宗系の花園大学教授になったほどの専門家です。

 しかし、秋月さんは、「色即是空・空即是色」という、禅の根本義がわかっていません。

まず第一点、

 なるほど「色(しき)を自我(エゴ)、空(くう)を本来の自己」としたのは一つの解釈のように思えますだ。しかし、それは色即是空の概念とはとはなんら関係ありません。

 まず、まず、秋月さんの「色(しき)」の解釈がはっきりしないこと。(1)で述べたように、秋月さんはとは、目の対象界(物ですね:筆者)だ」と言ったり、「(人間の)肉体だ」と言っています。しかし、と自分の肉体はまったく別ですね。物は肉体の外に存在しますから。さらに秋月さんは「肉体と精神作用(両者を合わせると五蘊)で形成しているものを自我(エゴ)と言う。小宇宙としては自我、大宇宙に広めて考えても、世界はこの五つの要素でできている」と言っています。しかし、自我と世界とはまったく別の概念です。「世界はこの五つの要素(五蘊)でできている」とも言っていますが、「五蘊とは肉体と精神作用だ」と言ったはずです。人間の肉体と精神作用は、世界とは対象的な存在です。つじつまの合わない論理は成り立ちません。論理は神理ですから、それが成り立たなければ正しくないことになります。

 これに対して筆者は、「五蘊とはモノゴトについての認識作用だ」と考えています。モノゴトには、もちろん世界(対象界)も入っています。筆者の考えでは、五蘊のとはモノ(物)のことであり、後の四蘊がそれに対する人間の認識作用です。

ついで第二点、

 秋月さんは西嶋さん同様、なぜ、色即是空と言ってすぐ 空即是色と続くのかがわかっていません。以前お話したように、それには重要な意味があるのです。それがわからなければ禅はわからないはずです(以前のブログをお読みください)。

 前述のように秋月さんは多くの先師に教えを乞うています。しかし、それがかえって仇になったようです。筆者が尊敬する橋田邦彦先生は、当時(昭和初期)、たくさん出ていた「正法眼蔵」の解説書にはには目もくれず、道元の弟子による「正法眼蔵御抄」から出発しました。

 秋月さんは「今日ベストセラーだと言われるような『般若心経』の解説書を読むと『空とはこだわらないということだ』という解説がある。そんな説教ないし精神修養談で『(般若)心経』をどんなに見事に解説しても、一切的外れだ。それでは仏教の話にならない」と厳しい。しかし考えてみてください。お釈迦様が暁の明星を見て悟った「物我一如」の実体験が最高の悟りだ」と言われてみても、お釈迦様や空海だからこそ実体験できたので、現代人のいったい何人がその境地を追体験できるでしょう。秋月さんの言うことを聞いて大部分の人は、「ああそういうものか」と思うだけで、それこそ絵に描いた餅でしょう。秋月さんが強く批判した人たちが誰かは、今となってはわかりませんが、筆者はその人たちが言う「空とはこだわらないこと」の方が度一切苦厄(すべての苦しみから解放される)への道に近いと思います。つまり、筆者には「空とはこだわらないことだ」と言う方が、よほど「救い」への道に適っていると思います。

 これに対して筆者の考え、「正しいモノゴトの観かた」は、真摯に訓練すれば到達できるのです。

 いかがでしょうか。秋月さんは1999年に亡くなられ、筆者のこの批判に反論できません。しかし、すぐれたお弟子さんもいらっしゃるでしょう。読者の皆さんも含めて筆者のコメントに反論していただけることを待っております。

出家の功罪

 世の中には、本来世俗にいた人が出家して専門僧になるケースと、逆に専門僧だった人が寺を飛び出して還俗するケースがあります。ここで話題にするのは、仏教を学ぶのにどちらがいいかということです。

 前者には、以前お話した秋月龍珉さん(1921-1999)がいました。秋月さんは東京帝国大学哲学科卒。在家で禅の修行を行い、50歳を過ぎた1972年に臨済宗妙心寺派の僧籍に入る。1973年には丹羽廉芳師(永平寺77世貫主)のもとで出家。臨済正宗「真人会」師家、埼玉医科大学教授、花園大学教授。一方、西嶋和夫さん(1919-2014)は、東京大学法学部出身で卒業後大蔵省入省。その後、日本金融証券等に勤務のかたわら仏教研究を行い、仏教に関する多数の著書があります。すなわち、道元の「正法眼蔵」全巻の現代日本語訳「現代語訳正法眼蔵全12巻」、さらにその詳細な解説をした「正法眼蔵提唱録全34冊」など、昭和を代表する禅師でしょう。以前お話したネルケ無方さん(1968-)はドイツ出身で、日本で出家。2002-2018に曹洞宗安泰寺住職。在俗から出家して戸籍の名前まで変えてしまう人もいることは驚きです。

 一方、寺を飛び出した人には、あの良寛さんが有名ですね。

出家の問題点

 まず、出家することの良さは、日夜学び、修行することにあることは言うまでもありませんね。ブッダも道元もそれを勧めています。ただ、その問題点は、一人の師から弟子へ同じことが伝わるだけだ、ということです。以前お話したネルケ無方さんは「天地一杯の我」をキャッチコピーとしておられますが、じつは、同じ安泰寺の2代前の住職で、著名な澤木興道師が口癖のように言っておられた言葉なのです。最近、曹洞宗永平寺や、岐阜県美濃加茂市宗玄僧堂での修行をテレビで視聴しましたが、筆者の感じでは「問答」はかなり形式的なものに思えました。彼らは他の宗教や仏教の他宗派の教義はもちろん、西洋哲学やスピリチュアリズムを学ぶこともほとんどないでしょう。これでは、視野が狭くなるばかりでしょう。それゆえ出家することは逆に、悟りへの道から遠のくこともあると思います。

 一方、良寛さんは、備中玉島圓通寺で厳しい修行を積み印可(免許)を得た人ですが、その後そこを飛び出し、日本各地の名僧を訪ね歩いて教えを乞いました。しかし、そのすべてに飽き足らないものを感じて、無所属になりました。39歳で故郷の越後に戻って国上寺の五合庵などに住み、世俗の人たちと分け隔てなく付き合って、多くの人に慕われました。良寛さんの行動に現れた無言の教えは、200年後の現代にまで伝わり、多くの書籍が出版されています。筆者は良寛さんこそ、道元以来、いや道元を超える禅者だと考えています。

 筆者はもちろん出家する気持ちなどありません。禅を深く学びたいのはもちろん、ブッダ以前のヴェーダ信仰、原始仏教、それに続く大乗経典類、さらにはキリスト教から神秘思想まで、幅広く学ぶことが不可欠だと思うからです。瞑想は毎日欠かしませんが、安泰寺のように、問答もせずに年間1800時間も瞑想するのは多すぎると思います。道元の言う「只管打座」は、そんな意味ではありません。「無意味な問答をするより座禅をしなさい」という意味なのです。

 なお、筆者には「在家仏教」は論外で、たんなる気休めに過ぎないと思っています。