読者のコメント(8)
柳原さんからのコメント(個人情報保護のため、読者は匿名とさせていただきたいのですが、ブログからお名前だけは削除できませんのでご了解ください):
私(柳原さん)も「仏教のゼロポイント」を読んで「無我だからこそ輪廻する。」という言い方は引っかかりました。本当に浅学ですので、お恥ずかしいのですが、私の理解を記します。和辻氏は、輪廻は主体的なものが業を積むことで引き起こされるゆえ、無我ならば、何が業を積み重ねるのか。と無我と輪廻は矛盾をするという主張をしたものと思います。それに対して魚川氏は釈迦は経験我は認めていたといいます。経験我という言い方が難しいのですが、要するに人間は経験によって変化する五蘊(ここでは魚川氏の解釈により構成要素《肉体のでしょう:筆者》とします)の仮和合であり、固定的かつ実体的な我とは言えないから無我である。しかし、実体的でなくとも経験によって変化する五蘊仮和合が行(い?:筆者)により業を積んでいるので輪廻すると魚川氏は言っているのかと理解しています。しかし、それでは「無我だからこそ」とまでは言えないのですよね。
筆者のコメント:謙遜なさる必要はありませんが、たしかに柳原さんはまだ思想が十分に咀嚼されていないように感じましたので付け加えさせていただきます。要するに、魚川氏が紹介するブッダの思想とは、「私たちが日常生活の中で経験するモノゴトは、たまたまそういう原因があったので起こったのであり、その原因が無くなれば消える実体のないものである。そういうものにこだわるから苦が生じる」でしょう。「経験している私」を経験我と言っていますね。魚川氏は、「日常生活の中で出会うモノゴトに対する経験我の反応如何によって『業』(生まれ変わり思想で言うカルマのことではなく、現世における因と果のことです。それらを区別して読まないと誤解が生じます)を生じる」と言っています。それゆえ、魚川氏が「無我だからこそ輪廻する」と言うのには違和感はありません。和辻氏の言う「主体的なもの」とは、筆者の言う「本当の我(真我)」と同じで、「変わらないもの」のことだと思います。一方、魚川氏の言う「無我」とは「経験我」のことですね。ですから、もともと定義が異なるにもかかわらず同じ言葉を使って解釈しようとするため、誤解が生じるのです。和辻氏は、「主体的なものが業を積むことで輪廻が起こる」と、一般的な解釈です(筆者も同じ)。
筆者は、この思想を本当にブッダが言ったのかどうかさえ疑問にと思っています。ブッダはたんに、「あらゆる苦しみには原因がある。そのことに気付くことが大切だ」と言っただけではないかと思います。それでも多くの人が「ハッと」気付くところがあるはずです。人は「漠然とした不安」(芥川龍之介の言葉ですね)苛まれることがよくありますね。その「苦の発生のメカニズム」に気付いたことがブッダの慧眼だ思うのです。一見素朴ですが、初期仏典に書かれているブッダの思想は、どれもわかりやすい、現実に即したものです。それを弟子や、後世の僧侶や仏教家(魚川氏も)が拡大解釈したため、今日まで誤った解説が延々と続いているのではないでしょうか。「過去は厳然としてあった」のです。それを彼らは「実体がない」などと言い続けてきました。そんな思想が人々に受け入れるはずがありません。あの坂本竜馬の言葉を借りれば、「これまでの仏教界を一度洗濯することがとても大切だ」と思います。
筆者は、和辻(哲郎さんですね)博士のおっしゃることの方が正しいと思います。
読者のコメント(9)その1)
柳原様 前回の柳原さんのコメントに対する筆者の感想には不十分なところがありました。大幅に改変しましたので、もう一度お読みいただければ幸いです。
「読者のもうお一人」は岩村さんです。 この2か月半、岩村さんからのご要望に応えようと、魚川裕司氏の「仏教思想のゼロポイント」について筆者の感想を続けています。筆者のブログの本旨はあくまで「禅に関するもの」ですから、ご不満の読者もいらっしゃるかもしれませんが、参考になると思いますので、御了解ください。
岩村さんのコメント(続き):魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」中、私が注目した箇所を紹介します。コメントを下さると有り難いのですが・・・。
(1)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。「善と悪」という区分は基本的には物語の世界に属するものであり、そして解脱とは愛執のつくりだすそうした全ての物語から解放されることであるのだから、その境地には通常の意識で私たちが想定するような「善」も「悪」も、存在し得ないということだ。
筆者のコメント: 前半部分についてはその通りですね。つまり、「人生の途上で経験するモノゴトは、何らかの原因があって起こった実体のないものだ。なのにそれを愛執や苦へと結びつけるのはおかしい」ですね。ただ、「善や悪も、悟りの境地の達した人の心には存在しない」には違和感があります。ブッダにとっても殺人はまちがいなく「悪」でしょう。つまり、善悪は別のカテゴリーの問題です。したがって、「解脱した人には善も悪も存在しない」というのは、まちがいだと思います。
(2)仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。・・・どれほど長く修行して、一定の境地に達したとされる僧侶であっても、身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではないし、彼の思考と他者の思考に、区別がなくなるわけでもない。
筆者のコメント:魚川氏の単純な勘違いでしょう。身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではない」のは当然ですね。
(3)バラモンたちよ、これらの五種欲が、聖者の律において世界であると言われる。その五つとは何か? 眼によって認知される諸々の色で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの、そして耳によって認知される諸々の声で・・・、そして鼻によって認知される諸々の香りで・・・、そして舌によって認知される諸々の味で・・・、身によって認知される諸々の触覚で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの。バラモンたちよ、実にこれらの五種欲が、聖者の律においては世界であると言われるのである。
筆者のコメント:「聖者の律においては世界である」の「世界」とは、人間が日常的に見聞きするモノゴトのことですね。欲や愛執が生じる世界です。聖者、すなわち悟った人は、それらモノゴトを損得、愛執などの「欲」にまで移行させることはない。それらを単なるモノゴトとしてありのままに受け止めるだけなのでしょう。
(4)六根六境については、相応部の「一切経」で、ゴータマ・ブッダは、「一切」とは何かと問いかけた上で、それは「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法」であると述べており、つまりそれら六根六境(による認知)が「全て」であると言っている。・・・五蘊というのも十二処というのも十八界というのも、衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だということだ。
筆者のコメント:六根とは人間の認識器官(眼、耳・・・と意)、六境とはその対象であるモノゴトです。それらにそれぞれの、(眼識、耳識のような)認識作用を加えて十八というのは、もともとカテゴリーが別のものを一緒にしているのです。おかしいですね。インドの哲学者はこういうことをよくやります(彼らは数字が好きなのです)。したがって、「衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だ」の文章は論理的に成り立たないのです。
読者のコメント(9)その2)
岩倉さんのコメント(続き)
(5)友よ、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような、そのような世界の終わりが、そこへと移動することによって、知られたり、見られたり、到達されたりすることはないと私は言う。だが、友よ、世界の終わりに到達することなしに、苦を終わらせることは存在しないと私は言う。
友よ、実に私は、想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体においてこそ、世界と、世界の集起と、世界の滅尽と、世界の滅尽へと導く道とを、告げ知らせるものである(「ローヒタッサ経」)。
(6)「世界の終わり」は、移動することではなく、「想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体において」実現される必要がある。言い換えれば、「世界」はいま・ここのこの身体において、内在的に超越されなければならない。
(7)「六処相応部」第百五十四経では、もし比丘が、六根を厭離し離貪し滅尽して、執着することなく解脱しているならば、彼は「現法涅槃(いま・この生において達成された涅槃)に達した比丘」と言われるべきである、と説かれている。
筆者のコメント:(5)-(7)はほとんど同じことを言っていますね。つまり、「悟りの世界」というような特別な世界(空間)があるのではなく、「いま、ここ(この身体)にある」という意味だです。これらの経典が言う通りだと思います。
(8)六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある、「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるパパンチャ(戲論)であろう。「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戲論寂滅」であるということだ。(119p)
(9)感覚入力によって生じた認知は、それを「ありのまま」にしておくならば、無常の現象がただ生起しているだけのことで、そこに実体や概念は存在せず、したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては滅尽している。つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。これは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。
筆者のコメント:(8)も(9)も基本的には同じです。「悟りに達した人もモノゴトを見たり聞いたりする。しかし、見聞きしたモノゴトをそのまま受け止めるだけで、分別し、苦しみや悲しみ、愛執などへと導くことはしない」という意味でしょう。たとえば、あの良寛さんが、大地震でわが子を亡くして嘆き悲しむ人に「苦しいときは苦しむがよき候。 悲しきときは悲しむがよき候。死ぬるときには、死ぬるがよき候。これ苦節を避ける妙法にて候・・・」と言ったことと同じです。すごい言葉ですが、その通りだと思います。なお、魚川氏は「これは既に言語表現の困難なところ」と言っていますが、そんなことはありません。それは筆者のこれら一連の解説をお読みいただければお分かりと思います。
読者のコメント(10)
再び岩村さんからのコメントに関する筆者の感想:
岩村さんのコメント:禅の空観と龍樹の空観との異同を考察したいと思い、中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読んでいます。今のところ、この著書は龍樹の空観ではなく、中村元博士の空観が述べてられているように見えます。例えば、「一切法空」とか「諸法空相」の「法」の意味が龍樹と博士とが同一であると断定できる材料が見当たらない故です。「法」という語が指している事が博士と龍樹とが異なるのであれば、考察する意味が無くなります。
博士は「法は『もの』であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この『もの』というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている『ありかた』としての『もの』であることに注意せねばならぬ」と述べています。この一節の理解ができないままで読み進めています。
筆者のコメント:中村元博士は碩学という名にふさわしい学者だと思います。いかなる人でも、龍樹の思想について書きながら龍樹の「法」の意味を勝手に解釈してしまえば学者としての資質を問われるでしょう。中村博士は龍樹の「中論」原典はもちろん、クマラージーヴァ訳のピンガラ釈「中論」(漢語)、チャンドラキールテイーやブッダパーリタなどによる註釈書をいずれもサンスクリット語で読み、チベット語による解説書、さらにプラトーンやヘーゲル哲学も参考にしつつ、緻密な比較検証して「龍樹の思想」としているのです。次に本題に戻ります。
「もの」というのは経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」、つまり「法」であるは当然です。経験的事物とは、たとえばリンゴのことで、「法」というのはリンゴを成り立させている原理を指します。
岩村さんのコメント:1)中村元著「龍樹」に、「ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。(中略)自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。云々」と記されている。龍樹ではなく、博士の意見です。
「法の領域」を「蘊・処・界」と見なせば、「大智度論」の「三種世間」説と同じだと思うのですが、いかがでしょうか。
筆者のコメント:「ブッダは縁起の認識こそ無明を断じることを悟ったが、たが病み、飢渇もあり亡くなった」は別に矛盾した論説ではありません。前者は心の問題、後者は肉体の問題ですから。「龍樹ではなく、博士の意見です」については上記と同じ感想です。
岩村さんのコメント2)中村元博士の「法の領域」は五蘊・六入であることが確認できました。『龍樹』p85 に「法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。そうしてその法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊)、認識および行動の成立する領域としての六つの場、(六入)などが考えられていた」と述べています。五蘊の解釈が納得できないので困惑しています。
筆者のコメント:以前のブログ「そもそも五蘊の解釈が間違っているのだ」にも書きましたように、五蘊を人間の構成要素とする解釈はじつに多いのですが、誤りです。五蘊が人間のモノゴトに対する認識作用であることは、内容から言っても明白なのです。中村博士も五蘊を「個体を構成する五つの集まり」としています(p85)。五蘊は重要な仏教用語ですから、その解釈を間違えれば、土台が崩れてしまいます。中村博士の言う「六入(註1)」の方が、むしろ五運の解釈としてふさわしいでしょう。
註1同書(p85)には「認識および行動の成立する領域としての六つの場」とあります。