読者のコメント(8-10)

読者のコメント(8)
柳原さんからのコメント(個人情報保護のため、読者は匿名とさせていただきたいのですが、ブログからお名前だけは削除できませんのでご了解ください):

 私(柳原さん)も「仏教のゼロポイント」を読んで「無我だからこそ輪廻する。」という言い方は引っかかりました。本当に浅学ですので、お恥ずかしいのですが、私の理解を記します。和辻氏は、輪廻は主体的なものが業を積むことで引き起こされるゆえ、無我ならば、何が業を積み重ねるのか。と無我と輪廻は矛盾をするという主張をしたものと思います。それに対して魚川氏は釈迦は経験我は認めていたといいます。経験我という言い方が難しいのですが、要するに人間は経験によって変化する五蘊(ここでは魚川氏の解釈により構成要素《肉体のでしょう:筆者》とします)の仮和合であり、固定的かつ実体的な我とは言えないから無我である。しかし、実体的でなくとも経験によって変化する五蘊仮和合が行(い?:筆者)により業を積んでいるので輪廻すると魚川氏は言っているのかと理解しています。しかし、それでは「無我だからこそ」とまでは言えないのですよね。

筆者のコメント:謙遜なさる必要はありませんが、たしかに柳原さんはまだ思想が十分に咀嚼されていないように感じましたので付け加えさせていただきます。要するに、魚川氏が紹介するブッダの思想とは、「私たちが日常生活の中で経験するモノゴトは、たまたまそういう原因があったので起こったのであり、その原因が無くなれば消える実体のないものである。そういうものにこだわるから苦が生じる」でしょう。「経験している私」を経験我と言っていますね。魚川氏は、「日常生活の中で出会うモノゴトに対する経験我の反応如何によって『業』(生まれ変わり思想で言うカルマのことではなく、現世における因と果のことです。それらを区別して読まないと誤解が生じます)を生じる」と言っています。それゆえ、魚川氏が「無我だからこそ輪廻する」と言うのには違和感はありません。和辻氏の言う「主体的なもの」とは、筆者の言う「本当の我(真我)」と同じで、「変わらないもの」のことだと思います。一方、魚川氏の言う「無我」とは「経験我」のことですね。ですから、もともと定義が異なるにもかかわらず同じ言葉を使って解釈しようとするため、誤解が生じるのです。和辻氏は、「主体的なものが業を積むことで輪廻が起こる」と、一般的な解釈です(筆者も同じ)。

 筆者は、この思想を本当にブッダが言ったのかどうかさえ疑問にと思っています。ブッダはたんに、「あらゆる苦しみには原因がある。そのことに気付くことが大切だ」と言っただけではないかと思います。それでも多くの人が「ハッと」気付くところがあるはずです。人は「漠然とした不安」(芥川龍之介の言葉ですね)苛まれることがよくありますね。その「苦の発生のメカニズム」に気付いたことがブッダの慧眼だ思うのです。一見素朴ですが、初期仏典に書かれているブッダの思想は、どれもわかりやすい、現実に即したものです。それを弟子や、後世の僧侶や仏教家(魚川氏も)が拡大解釈したため、今日まで誤った解説が延々と続いているのではないでしょうか。「過去は厳然としてあった」のです。それを彼らは「実体がない」などと言い続けてきました。そんな思想が人々に受け入れるはずがありません。あの坂本竜馬の言葉を借りれば、「これまでの仏教界を一度洗濯することがとても大切だ」と思います。

筆者は、和辻(哲郎さんですね)博士のおっしゃることの方が正しいと思います。

読者のコメント(9)その1)

柳原様 前回の柳原さんのコメントに対する筆者の感想には不十分なところがありました。大幅に改変しましたので、もう一度お読みいただければ幸いです。

「読者のもうお一人」は岩村さんです。 この2か月半、岩村さんからのご要望に応えようと、魚川裕司氏の「仏教思想のゼロポイント」について筆者の感想を続けています。筆者のブログの本旨はあくまで「禅に関するもの」ですから、ご不満の読者もいらっしゃるかもしれませんが、参考になると思いますので、御了解ください。

岩村さんのコメント(続き):魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」中、私が注目した箇所を紹介します。コメントを下さると有り難いのですが・・・。
(1)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。「善と悪」という区分は基本的には物語の世界に属するものであり、そして解脱とは愛執のつくりだすそうした全ての物語から解放されることであるのだから、その境地には通常の意識で私たちが想定するような「善」も「悪」も、存在し得ないということだ。

筆者のコメント: 前半部分についてはその通りですね。つまり、「人生の途上で経験するモノゴトは、何らかの原因があって起こった実体のないものだ。なのにそれを愛執や苦へと結びつけるのはおかしい」ですね。ただ、「善や悪も、悟りの境地の達した人の心には存在しない」には違和感があります。ブッダにとっても殺人はまちがいなく「悪」でしょう。つまり、善悪は別のカテゴリーの問題です。したがって、「解脱した人には善も悪も存在しない」というのは、まちがいだと思います。

(2)仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。・・・どれほど長く修行して、一定の境地に達したとされる僧侶であっても、身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではないし、彼の思考と他者の思考に、区別がなくなるわけでもない。
筆者のコメント:魚川氏の単純な勘違いでしょう。身体が溶けて崩れるわけではないし、彼の視界が他者の視界と混ざるわけではない」のは当然ですね。
(3)バラモンたちよ、これらの五種欲が、聖者の律において世界であると言われる。その五つとは何か? 眼によって認知される諸々の色で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの、そして耳によって認知される諸々の声で・・・、そして鼻によって認知される諸々の香りで・・・、そして舌によって認知される諸々の味で・・・、身によって認知される諸々の触覚で、好ましく、求められていて、意に適う、可愛の諸形態で、欲を伴い貪りに染まったもの。バラモンたちよ、実にこれらの五種欲が、聖者の律においては世界であると言われるのである。
筆者のコメント:「聖者の律においては世界である」の「世界」とは、人間が日常的に見聞きするモノゴトのことですね。欲や愛執が生じる世界です。聖者、すなわち悟った人は、それらモノゴトを損得、愛執などの「欲」にまで移行させることはない。それらを単なるモノゴトとしてありのままに受け止めるだけなのでしょう。

(4)六根六境については、相応部の「一切経」で、ゴータマ・ブッダは、「一切」とは何かと問いかけた上で、それは「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法」であると述べており、つまりそれら六根六境(による認知)が「全て」であると言っている。・・・五蘊というのも十二処というのも十八界というのも、衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だということだ。
筆者のコメント:六根とは人間の認識器官(眼、耳・・・と意)、六境とはその対象であるモノゴトです。それらにそれぞれの、(眼識、耳識のような)認識作用を加えて十八というのは、もともとカテゴリーが別のものを一緒にしているのです。おかしいですね。インドの哲学者はこういうことをよくやります(彼らは数字が好きなのです)。したがって、「衆生の認知の内容を分類したものであるという点では同じであって、異なるのはその分け方だ」の文章は論理的に成り立たないのです。

読者のコメント(9)その2)

岩倉さんのコメント(続き)
(5)友よ、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような、そのような世界の終わりが、そこへと移動することによって、知られたり、見られたり、到達されたりすることはないと私は言う。だが、友よ、世界の終わりに到達することなしに、苦を終わらせることは存在しないと私は言う。
 友よ、実に私は、想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体においてこそ、世界と、世界の集起と、世界の滅尽と、世界の滅尽へと導く道とを、告げ知らせるものである(「ローヒタッサ経」)。
(6)「世界の終わり」は、移動することではなく、「想と意とを伴っている、この一尋ほどの身体において」実現される必要がある。言い換えれば、「世界」はいま・ここのこの身体において、内在的に超越されなければならない。
(7)「六処相応部」第百五十四経では、もし比丘が、六根を厭離し離貪し滅尽して、執着することなく解脱しているならば、彼は「現法涅槃(いま・この生において達成された涅槃)に達した比丘」と言われるべきである、と説かれている。

筆者のコメント:(5)-(7)はほとんど同じことを言っていますね。つまり、「悟りの世界」というような特別な世界(空間)があるのではなく、「いま、ここ(この身体)にある」という意味だです。これらの経典が言う通りだと思います。

(8)六根六境が「滅尽」した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにおいて「ある」とか「ない」とかいった判断を成立させる根底にある、「分別の相」、即ち、拡散・分化・幻想化の作用であるパパンチャ(戲論)であろう。「世界の終わり」で起こることは、認知の消失なのではなくて、「戲論寂滅」であるということだ。(119p)
(9)感覚入力によって生じた認知は、それを「ありのまま」にしておくならば、無常の現象がただ生起しているだけのことで、そこに実体や概念は存在せず、したがって「ある」とか「ない」とかいうカテゴリカルな判断も無効になっていて、だから(それ自体が分別である)六根六境も、その風光においては滅尽している。つまり、そこでは「世界」が立ち上がっていない。これは既に言語表現の困難なところだが、敢えて短く言い表せば、「ただ現象のみ」というのが、「如実」の指し示すところなのである。

筆者のコメント:(8)も(9)も基本的には同じです。「悟りに達した人もモノゴトを見たり聞いたりする。しかし、見聞きしたモノゴトをそのまま受け止めるだけで、分別し、苦しみや悲しみ、愛執などへと導くことはしない」という意味でしょう。たとえば、あの良寛さんが、大地震でわが子を亡くして嘆き悲しむ人に「苦しいときは苦しむがよき候。 悲しきときは悲しむがよき候。死ぬるときには、死ぬるがよき候。これ苦節を避ける妙法にて候・・・」と言ったことと同じです。すごい言葉ですが、その通りだと思います。なお、魚川氏は「これは既に言語表現の困難なところ」と言っていますが、そんなことはありません。それは筆者のこれら一連の解説をお読みいただければお分かりと思います。

読者のコメント(10)

 再び岩村さんからのコメントに関する筆者の感想:

岩村さんのコメント:禅の空観と龍樹の空観との異同を考察したいと思い、中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読んでいます。今のところ、この著書は龍樹の空観ではなく、中村元博士の空観が述べてられているように見えます。例えば、「一切法空」とか「諸法空相」の「法」の意味が龍樹と博士とが同一であると断定できる材料が見当たらない故です。「法」という語が指している事が博士と龍樹とが異なるのであれば、考察する意味が無くなります。
 博士は「法は『もの』であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この『もの』というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている『ありかた』としての『もの』であることに注意せねばならぬ」と述べています。この一節の理解ができないままで読み進めています。
筆者のコメント:中村元博士は碩学という名にふさわしい学者だと思います。いかなる人でも、龍樹の思想について書きながら龍樹の「法」の意味を勝手に解釈してしまえば学者としての資質を問われるでしょう。中村博士は龍樹の「中論」原典はもちろん、クマラージーヴァ訳のピンガラ釈「中論」(漢語)、チャンドラキールテイーやブッダパーリタなどによる註釈書をいずれもサンスクリット語で読み、チベット語による解説書、さらにプラトーンやヘーゲル哲学も参考にしつつ、緻密な比較検証して「龍樹の思想」としているのです。次に本題に戻ります。
 「もの」というのは経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」、つまり「法」であるは当然です。経験的事物とは、たとえばリンゴのことで、「法」というのはリンゴを成り立させている原理を指します。

岩村さんのコメント:1)中村元著「龍樹」に、「ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。(中略)自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。云々」と記されている。龍樹ではなく、博士の意見です。
「法の領域」を「蘊・処・界」と見なせば、「大智度論」の「三種世間」説と同じだと思うのですが、いかがでしょうか。
筆者のコメント:「ブッダは縁起の認識こそ無明を断じることを悟ったが、たが病み、飢渇もあり亡くなった」は別に矛盾した論説ではありません。前者は心の問題、後者は肉体の問題ですから。「龍樹ではなく、博士の意見です」については上記と同じ感想です。

岩村さんのコメント2)中村元博士の「法の領域」は五蘊・六入であることが確認できました。『龍樹』p85 に「法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。そうしてその法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する五つの集まり(五蘊)、認識および行動の成立する領域としての六つの場、(六入)などが考えられていた」と述べています。五蘊の解釈が納得できないので困惑しています。
筆者のコメント:以前のブログ「そもそも五蘊の解釈が間違っているのだ」にも書きましたように、五蘊を人間の構成要素とする解釈はじつに多いのですが、誤りです。五蘊が人間のモノゴトに対する認識作用であることは、内容から言っても明白なのです。中村博士も五蘊を「個体を構成する五つの集まり」としています(p85)。五蘊は重要な仏教用語ですから、その解釈を間違えれば、土台が崩れてしまいます。中村博士の言う「六入(註1)」の方が、むしろ五運の解釈としてふさわしいでしょう。
註1同書(p85)には「認識および行動の成立する領域としての六つの場」とあります。

養老孟司さんと禅

禅の世界的関心(2)養老孟司さんと禅

前回も触れましたように、この番組(NHK「金とく 禅:心安らぐ神秘の世界2017/12/15)」には脳科学者の養老孟司さんもゲストとして招かれていました。しかし、養老さんのコメントについては、ブログでは意図的に割愛しました。その理由を今回お話します。

 番組の冒頭、アナウンサーが養老さんに「禅に関心をお持ちですか」と聞くと「禅寺の敷地内に自宅はあります」と答え、さらに「坐禅・瞑想に興味をお持ちですか」との問いに対し、「忙しくてやりません」と(「昆虫の標本づくりに忙しくて」という意味だとか)。そして「坐禅・瞑想は、昆虫の標本づくりと同じだと思います」と付け加えました。
 また、前回もお話したように、この番組の結論は「禅は不寛容社会を変えられるか」でしたが、アナウンサーが「養老さんはそれについてどうお考えですか」と質問すると、「これからですね。やってみなければわからない」と答えました。さらに「今の世界は禅的であるべきだとお考えですか」と聞くと、「禅の時代であってもいい」との答えでした。さらに、パックンが「Zenという言葉は、今では英語やフランス語では、と言う意味と「穏やか」と言う意味の両方で使われています」と言ったところ、養老さんは「ポルトガルではZenというレストランがあります。自然志向をうたっているのでしょう」と口を挟みました。
 ことほどさように、養老さんの発言は終始この番組の主旨にそぐわないものだったと思います。養老さんのかねてからの持論は「体を健康にすれば脳も健康になる」だと思います。つまり、この番組に関して言いますと、「脳を健康にするために禅などは必要としない。脳は体の一部に過ぎない」と言うのです。「体を健康にすれば脳も健康になる」は、筆者も以前聞いたことがあります。

 それにしても養老さんはずいぶん失礼な人だと思いました。NHKがゲストとして招いたのは失敗だったと思います。養老さんが禅に関して、そして脳の健康についてどんな考えを持とうと自由です。しかし、当然、最初にNHKから番組の趣旨を聞いているはずです。ゲストとしての出席を打診された時、「私は禅のことはよくわかりませんので出席できません」と断わるべきでした。ゲストの役割は、番組の趣旨を十分に理解して、内容を補強したり、場合によっては疑問を呈することでしょう。しかし、「私の自宅は禅寺の敷地内にある」とか、「ポルトガルではZenというレストランがあります」などのトンチンカンな受け答えをするのはいかがなものでしょう。番組を通じて養老さんのコメントは終始ズレていたのが印象的でした。

 ちなみに、養老さんが「坐禅・瞑想は、昆虫標本作りに熱中することと同じだ。だからわざわざ座禅会に出席する必要なない」と言ったのは明らかに誤りだと思います。たしかに、昆虫標本作りのさいには、意識をその作業に集中することが必要でしょう。坐禅・瞑想と一見、似ていると考える人もいるかもしれません。しかし、昆虫の標本づくりのさいには、「いかに正しく、美しい標本にするか」に懸命に頭を働かせているはずです。一方、道元の言う「只管打座」とは、「何も考えない」で座ることなのです。禅の有名な言葉に「正法眼蔵・普勧坐禅儀」でも紹介された「不思量」があります。

禅の第六祖 薬山惟儼(いげん)の言葉を引用したもので(以下筆者簡約)、
僧 :坐禅のさいなにを考えるのですか。
薬山:思量しないところを思量するのだ(不思量)。
僧 :思量しないところをどのように思量するのですか
薬山:思量にあらず(非思量〉。

(この公案については、すでにこのブログシリーズでお話しました。)

禅は世界で注目(1)

禅の世界的関心(1)

 禅が世界各国で関心を集めることは知っていました。しかし、先日のNHK「金とく 禅・心安らぐ神秘の世界(2017/12/15)」で、禅道場が世界500か所にも増大していることを聞いたのは驚きでした。永平寺などには毎年各国からたくさんの人たちが参禅体験に集まり、専門の禅僧になる人も多いと言う。パリには禅グッズ専門店もあり、あるしゃれたビルの地下には一回当たり700円で坐禅ができる施設もあり、「もう4年も毎週2-3回来ている」と言う修行者が紹介されていました。イタリアのミラノ市の近くには、永平寺で修行して認可を受けた外国人禅僧が主宰する寺もあるという。

 番組では、ゲストに永平寺国際部部長として15年間も活動している横山泰賢師と、脳科学者の養老孟司さんや、お笑い芸人のパックン(ハーバード大・比較宗教学専攻。永平寺で20回参禅経験あり)などが参加して.、いろいろな方面から話が進められました。

 筆者は、外国人たちが禅のどんなところに惹かれているのかに大きな関心を持ってこの番組を見ました。

 1)2017年には、ヨーロッパに禅を伝えて50年に当たり、その記念式典がフランスで開催されました。記念行事主催者の国際禅協会のオリビエ・クンゲン会長は、「いまわれわれヨーロッパ社会は寛容な禅の知恵を必要としています。坐禅・瞑想によって心を静めることで、これまでの価値観や人生観に大きな影響を与えてくれると信じています」と述べている。
 式典では「他者に寛容な禅の心について」のシンポジュウムも行われ、招待された前述の横山泰賢師は「いま国際社会に緊張が高まっている。この混沌とした時代、歴史的な宗教間の確執によるテロが頻繁に起こっている。ヨーロッパの禅の信者や僧侶が大きなコミュニテイーになれば、できることは極めて大きいはず」と基調講演を行いました。

2)アメリカ各地にも禅道場があり、その一つで参禅を続けているある医療機器メーカーエンジニアは、「私たちはともすれば新しいものを生み出し続けなければならないという強迫観念にとらわれている。坐禅・瞑想はそのストレスから自分を解放するのにとてもいい」と言い、大手IT企業エンジニアは、「禅は成果にこだわり過ぎるなと教えてくれる。禅を学び、坐禅・瞑想を続けていると仮に特別な業績がでなくても自信を無くさずに済む」と言っています。

3)パリの禅道場で週に4回坐禅・瞑想をしている人(60代?女性)は、「禅は宗教と言うより人生哲学や世界観だと考えて興味を持った。いまでは禅なしの人生は考えられない。
これら3つの例が、いま禅に日本人より強い関心をもっている欧米人たちの禅への期待でしょう。

 最後に「禅は不寛容社会を変えられるか」のテーマについて、前述の永平寺国際部長の横山師が、道元の言葉を引用して(横山師の現代語訳)、
・・・人間は今日ここに至るまでにさまざまなものを抱えている。民族のレベルで言うと数百年、何千年も抱えているものもある。それらを全部手放して、それがいいとか悪いとかの分別を越えて、心を休めてだまって座れば、心穏やかに生きていけるのではないか・・・とまとめています。

筆者のコメント:以上、禅に対する欧米人の期待はよくわかりました。ただし、筆者の考える禅の意義からすると、重要な点が忘れられています。あくまで「NHKがまとめた」でしょう。

而今(今ここだけを懸命に生きる)

而今(今ここだけを懸命に生きる)

 魚川氏が伝えるブッダの悟りへの道は、「衆生が現世で体験するモノゴトは、すべて因(原因)と縁(条件)によって現れた仮の現象であり、実体ではないことをはっきりと認識し、苦や渇愛(欲望)につながるそれらを徹底的に消し去ることによって達成される」でした。まことに正当な、納得のいく思想です。そして南伝仏教では、悟りに至るために、「気付きの瞑想」の実践を重視します。

 これに対し筆者が考える禅の悟りへの道は空(くう)思想に基づくものです。すでに何度もお話しましたように、「空とはモノゴトの観かたであり、モノゴトを見た(聞いた、味わった、嗅いだ、触った。以下同じ)一瞬の体験こそ真実だ」というものです。このモノゴトの観かたが自在にできるようになれるよう、修行するのです。このモノゴトの観かたは、「人間が生きているのはいつか」を考えればわかりやすいでしょう。「いや、私は過去何十年も生きて来て、これからも生き続けるはずだ」と言ってはいけません。なぜなら過去のモノゴトは、「私が過去に見た世界」であり、すでにその私はいません。よく禅の世界では、「だから過去はない」と言いますが、それは誤りです。過去はあったのです。しかし過去は過ぎ去ったものなのです。もう実体はありません。「将来起こるであろうモノゴト」はもちろん、将来私が見るであろう世界で、たんに想像しているだけです。やはり実体はありません。これらに対し、いま私が観ているモノゴトは、まさに生きている私が観た真実の世界そのものです。

 筆者の考える「悟り」とは、「人間の意識が、神に通じる魂(筆者の言う本当の我)につながること」です。そして「輪廻、つまり生まれ変わり現象」がそのバックグラウンドとしてあります。この考えは、筆者が長年修行した神道系教団での体験と、禅の体験と知識、そして神智学(註1)から学んだ知識によるものです。このように、筆者の考えはブッダの思想とはまったく別のものです。筆者も悟りに至るための修行として、坐禅・瞑想を専ら実践するのは、禅と変わりません(註2)。「気づきの瞑想」も取り入れていますが、なかなか身に付きません。

禅の世界では而今(にこん:いま、ここ)という言葉が重要だと言われてきました。その理論的根拠は、この筆者の言う「空」の意味にあると思います。

今、ここだけに生きる

 前にもご紹介した筆者の友人Aさんから、最近よいお話を聞きました。Aさんは筆者のブログを熱心に読んで下さる人で、「空」の思想もよく理解していただいています。Aさんの知人Cさんは、これまで禅にはあまり関心のなかった人ですが、「昨日はない、明日のことは考えない、今日だけを一生懸命生きるだけ」と、「空」の思想と同じことを言っているとか。驚いて聞いてみますと、彼は長年胃ガンで苦しんでおり、常に死の不安があるギリギリの状況でつかんだのが、この人生観だったのです。「健康だった昔のことは考えない。明日、事態が急変するかもしれない。しかし、今日一日は何とかやっていける。今日だけを生きるつもりだ」と言うのです。

 いかがでしょうか。禅とはこういう思想なのです。

註1 神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとする学問。
註2 ブッダが悟りに至るまでの長い間坐禅・瞑想したことはよく知られた事実で、奈良の大仏などはブッダの坐禅の姿を写しています。

霊は存在する(4)東日本大震災のケース(2)

霊は存在する(4)東日本大震災のケースその2)

 しょっちゅう集まって親しい友人達と飲んでいます。そこで霊的世界や神の存在についてもよく話が出ます。Aさんは最近2回目の四国遍路を終えた人で、霊の存在をある程度納得していますが、Bさんは「・・・」が常です。そのBさんにAさんは「そういう世界もあるのだ」と言いました。「なるほど」と、目が覚めたような顔をしました。そうです。あなたの考えている世界とは別の世界もあるのです。

 前にお話したように、「神の世界や霊の存在が信じられない」と言う人に何とか説明するのには、実例を挙げるのが手っ取り早いでしょう。東日本大震災後に、多くの人が霊的体験をしたことは、このブログシリーズでも何度かお話しました。今回は別のケースで、手元にある毎日新聞の切り抜き(年月日不明)を見ながら書きます。
 じつに7段組で紹介されているのは、漁師の千葉仁志さん(新聞掲載時37歳)の話です。
 
・・・あの日近くに嫁いだ町職員の姉は、43人が犠牲になった町防災対策庁舎で波にのまれたらしく、行方が分からなくなった。だが10日ほどして、千葉さんは嫁ぎ先の親戚の男性から「(姉さんは)大丈夫だったんでしょ」と声を掛けられた。避難所の中学校で、彼が姉と話したという。
 男性によると、震災翌日の夜、姉は同僚らと3人で、横一列に手をつないで避難所にやって来た。「(千葉さん宅がある)稲渕は大丈夫?」と尋ねられ、一家の無事を伝えると「良かった」と言って去ったという。「本当なんだな」。知人男性が音を上げるほど問い詰めた。だが、内心では姉だと確信していた・・・

 「爪のかけらでも」。亡きがらを捜して、千葉さんは海に網を仕掛け、身元不明の遺骨がある県外の寺にも出かけた。結局、どうしても遺体は見つからなかった。遺体を見つけてやれないことを悲しんでいないか、できれば聞いてみたかった。・・・夫婦は疲れ果てていた。知人の紹介を受け、県内の霊能者の女性を訪ねてみることにした。「気持ちはありがたいけど、もう捜さないで」「家族元気で暮らしてほしい」女性の口から”姉の言葉”が語られた。そう聞けば、胸のつかえが少し取れる・・・。