臨済録(1,2)

臨済録(1)
 臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の言葉を集めたものです。その第3番目が、

上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。その僧擬議す。師托開して、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎ケツ(かんしけつ)ぞ、と云って便(すなわ)ち方丈に帰る。

試しにネットで検索してみますと、
1)赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ(中略)。修行したこともなければ、修行する必要もない真人がおる(中略)。社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ(臨黄ネット《臨済宗黄檗宗公式ホームページ:山田無文「臨済録」(禅文化研究所)を引用》)。

2)臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい(名古屋市白林寺HP)。

3) 「師は上堂して言った、『心臓(本当は脳)には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している。未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!』。その時に1人の僧が進み出て質問した、『その無位の真人とはいったい何者ですか?』師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ『さあ言え!言え!』と迫った。その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。師は僧を突き放して『お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。』と云って方丈に帰った。」 ・・・・・このように考えると臨済の言う「無位の真人」とはいきいきと働く脳を指していることが分かる。「常に汝等諸人の面門より出入す。」ということは 身体と諸感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚、脳)より出入する脳情報と運動を直感的に表わしていると言えるだろう。

 いかがでしょうか。「臨済録」のハイライトと考えられるこの部分について、こんなにさまざまな説があるのです。

臨済録(2)本当の我

 前回お話した「臨済録」(1)のつづきです。臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の語録ですね。「臨済録」のエッセンスは、
上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。
と言っていいと思います。「臨済録」(1)では、ネットで調べた3つの解釈をご紹介しました。

 まず、その3)にあるような「生きいきと働いている脳」ではないと思います。

その1)の内山興正師は、あの澤木興道師のお弟子さんです。内山師は、
 ・・・ 社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性があるのじゃ・・・
いろいろ書かれていてちょっとわかりにくいですが、要するに人間には霊性とか仏性という性質があると言っておられるのでしょう。

その2)では、
 ・・・さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました・・・
とあります。つまり「あるべき人間の姿」という抽象概念を指していると思われます。

 これに対し、筆者は無位の真人とは肉体の中にある、神につながる本当の我だと解釈しています。筆者が本当の我の存在に気が付いたのは長い研究生活の過程でです。いろいろ考えていますと、ある時「フッ」と良いアイデアが浮かぶことがあります。あとで考えて「どうしてあの時あんな考えが浮かんだのだろう」と不思議に思うほどです。後で考えますと、あのとき筆者の意識が本当の我と通じたのだと思います。作家の田辺聖子さんは、小説を考えて行き詰っている時、とつぜん「フッ」と良い考えが浮かぶことがあり、「神さんが降りて来はった」と表現しています。筆者とおなじ感想なのでしょう。

 一方、神智学によれば、人間の身体は肉体に加えてエーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・ブッディ体・アートマ体・モナド体のだんだん高次になっていく七層から成っている。そしてブッディ体、アートマ体、モナド体は人間の真我(魂)を形成する質料であり、肉体の内部に眠っている状態で存在すると言われています。筆者にはこの説を知った時、スッと腑に落ちました。筆者の考えていた本当の我と同じものだと受け取れたのです。
 前にもお話しましたように、禅を突き詰めて考えて行くと、必然的に神に行き着くと思います。すなわち、瞑想が深まっていくと、顕在意識と本当の我とのバリアーが無くなって行き、ついには神と通じると思うのです。悟りとはそういうことだと思っています。なぜか同じ考えの人には巡り合ってはいませんが。

常不軽菩薩
 法華経・常不軽菩薩品には常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)が出てきます。だれに対しても手を合わせて「あなたを尊敬します」と言う仏です。「なんだあついは」と気味悪がられ、ときには攻撃されても「あなたを尊敬します」と言うのです。筆者は、この菩薩は、どの人にも内在する本当の我に手を合わせているのだと思っています。そう解釈すると、法華経のこの奇妙な仏のこともスッキリとわかるのです。

臨床宗教師について(1,2)

臨床宗教師について
 今、ニート(引きこもり)、いじめ、登校困難児童が大きな社会問題になっています。さらに自死者は年に3万人にも上っています。これらの現象、つまり心の問題は今後ますます深刻になって行くはずです。その大きな原因が社会の競争化が急速に進んでいるためであることはまちがいないでしょう。競争に付いて行けない人たちが心を病むのですね。その人の価値は別にあるのですが。この意味でも、まさに21世紀は「心の時代」なのです。筆者のこのホームページ・ブログはそのために開設しました。

 あの東北大震災で親子、兄弟を亡くした人たちの心のケアがクローズアップされました。あのとき、わが国のたくさんの僧たちが、現地に行き、遺族たちの傾聴を行いました。しかし、そのほとんどは挫折したのです。NHKテレビで、それまで年に200回以上も講演をしていた有名寺院のエリート僧が、東北での活動に失敗し、自分の無力さを涙ながらに語っていたのが印象的でした。その僧たちの「色即是空」の解釈も間違えていました。結局、「般若心経」の写経会をしたり、お墓参りくらいしかすることがなかったそうです。
 現在日本仏教の先端で活躍している別の僧が、日本の仏教は形骸化し、刷新しなければならないことを、「日本にはたくさんの心の病院、つまり寺があるはずなのに(76,000もあります:筆者)、大衆も寺側もそれらが機能していないことを問題にしていない」と表現していました。筆者も同感です。上で述べたエリート僧の失敗体験は、少しも不思議なことではないのです。

 2012年、東北大学実践宗教学寄付講座として、臨床宗教師研修講座が開設されました。仏教を中心にしていますが、キリスト教や神道とも連携を取りながら、多角的に心のケアをする専門職を養成しようとするものです。それは翌年の東北大震災もあって注目され、龍谷大学や高野山大学、鶴見大学の大学院研究科にも次々に同様の講座が開設されました。心のケアには大震災などの遺族だけでなく、寿命の限られた人達に対する終末期施療も含まれています。限られた範囲ですが、現にそれを実践するビハーラ僧もいらっしゃいます。筆者も臨床宗教師研修制度の動きに注目していますが、不安もあるのです。
 第一は、現在の日本仏教にその力があるかどうかです。その現状は今お話した通りです。上記のさまざまな大学の臨床宗教師研修課程のカリキュラムも見てみましたが、「これで本当に力のある専門職が育てられるのか」と思わざるを得ませんでした。言うまでもなく、仏教を伝えるということは知識の受け売りではありません。仏教の心を伝えるようになるには、懸命に学んでも10年はかかるでしょう。学ぶには修行も不可欠なのです(行学と言います)。修行の大切さは、筆者の経験からもよくわかります。
 第二に、養成された臨床宗教師に対する経済的保障の問題があります。つまり、職業として成り立つのかどうかです。一体だれが金銭的補償をするのでしょう。わが国の病院でビハーラ僧を正式な職員として採用しているところは、あそかビハーラ病院《京都》、長岡西病院などごくわずかです。
 キリスト教には古くからチャプレン制度があります。グリーフケア、すなわち耐え難い苦しみに遭っている人達の心のケアを専門にする人達です。上智大学にはグリーフケア研究所があり、専門職養成講座も開設されています。ただ、キリスト教には伝統的にそういう活動に対するサポートシステムが発達しているのです。キリスト教精神ですね。そこが仏教とはまったく違うのです。つまり、日本で臨床宗教師をどんどん養成しても、職業としての保証がなければどうしようもないのです。

臨床宗教師について(2)その不安

 筆者は、ときどき「臨床宗教師になりたいと思います。研修はどんなものか教えてください」というメールをいただきます。先日、ご返事したものをご紹介しますと、

 ・・・メール拝読しました。臨床宗教師研修は、東北大学、龍谷大学、高野山大学、大谷大学などで開催されています。東北大学だけが年に何回か、いわゆる短期研修の形で行われています。あとの大学では大学院の課程として行われていますので、入学しなければなりません。あなたのご希望によれば東北大学のコースが適当と思われます。全国臨床宗教師協会事務局(連絡先:)へお問い合わせください。そのほかにキリスト教系のグリーフケア(悲嘆)アドバイザー研修制度、および上智大学グリーフケア人材養成講座があります。これらも大学院のコースではありませんので、あなたのご希望に沿うと思われます(連絡先:)
 
 臨床宗教師とは、終末期の患者さんの死の恐怖を軽くするためのカウンセリングです。キリスト教ではチャンプレン、仏教ではビハーラ僧とも呼びます。とても重要な役目で、筆者もますます発展していただきたいと思っています。ただ、筆者には、次の点でまだまだ大きな不安があります。

 第一に「お金はだれが出すか」です。上記のメールの方は現在介護士として働いておられるそうで、臨床宗教師になっても、当然生活が保障されなければならないでしょう。キリスト教系の団体では、古くから信者の金銭的奉仕の精神が広く行き渡っていますから、それによる援助の可能性は高いでしょう。一方、仏教系ではどうでしょうか。筆者の知るかぎり、ビハーラ僧を制度として雇い、給料を出している病院はただ一つです。上記の東北大学の臨床宗教師研修制度の修了生は2016年までに約140名ですが、担当の先生に直接聞いたところ、大部分の人は給料をいただけるような組織には属していないとのことです。つまり、すでにどこかの寺院の住職として生活の保障をされている人以外は、活動するとすればボランテイアとしてなのです。筆者が知っている数少ない終末カウンセリングの成功例は、僧侶として生活の基盤を持っている人と、キリスト教系大学の先生です。
 そもそも、心という重要な問題について、原理的に短期研修では無理ではないでしょうか。たしかに研修が終わった後も何回かフォローアップ研修が行われていますが、それでも、どうしても付け焼刃になってしまうような気がします。

 一方、介護士制度は、ご存知のように、国民が一定額の介護保険料を出し、それに基づく国の正式な制度です。現在、私たちは医療保険とともに介護保険料を払っています。とくに後期高齢者保険料は高額です。関係機関では、将来、臨床宗教師が国の正式な資格となることを目指しているいるとのことです。しかし、それが認められたとしても、国民が「終末期カウンセリング保険」制度まで受け入れるかどうかです。そもそも介護活動は、食事を作ったりや買い物など、一日も欠かすことのできない実務です。それゆえ、国民のだれもが納得しやすいでしょう。一方、終末期カウンセリングは、さまざまな人の心の問題だけなのです。そういういわばソフトのサービスに対して国民は保険料を払わおうとするでしょうか。つまり、はたして制度として納得するかどうかです。 いわんや個人的に謝礼を払える人などごくわずかでしょう

 第二に、講師の側、つまり、今のわが国の仏教僧たちには終末期カウンセリングの実務経験はほとんどないはずです。当ブログシリーズで何度も取り上げてきましたように、その宗教的素養についても不安があります。東日本大震災のあと、わが国の代表的仏教宗派から多くの僧侶が現地に派遣され、遺族の声に耳を傾けよう(傾聴)としました。しかし、「全く無力だった」と涙ながらに挫折を告白していた、見るからに誠実そうな僧侶もいたことを知らねばなりません。仮設住宅の扉に「傾聴お断り」の張り紙をされたところもありました。「ビハーラ僧は病院へ来るな」という声もあるのです。たしかに、葬式のイメージのある僧衣を着て、死の予感におびえる人たちの病棟を歩き回られたら、たまったものではないでしょう。研修を受けて終末期の患者さんのところへ何度か行っても、結局最後まで宗教的なことは何も話せず、ただ、よもやま話だけをして終わった僧侶もいます。

 日本人の大部分は仏教徒ですが、事実上は無宗教であることはよく言われていますね。いったい、いままで無宗教だった人に、はたしてカウンセリングができるのかどうか危ぶまれるのです。上記の東北大学の研修では、仏教の僧侶のみならずキリスト教の神父(牧師)さんや神道の宮司さんも講師となっています。形の上でも仏教徒であった人、キリスト教徒、無宗教の人たちも対象になることを想定しているからでしょう。しかし、多様な終末期患者に対して掛け持ちで(そうしない金銭的な保証が得られない)カウンセリングなどできるのでしょうか。ある終末期の患者さんが「今まで宗教など信じていなかったのに、この期に及んで宗教的カウンセリングを受けるのは・・・」と正直に言っていました。

 もちろん筆者は、これからの臨床宗教師やチャプレンの活躍を心から願っています。そして上で紹介した「臨床宗教師になりたい」と言う人たちに「情報提供などについて、できる限りお役に立ちたい」と返事しました。しかし、ブログを読んでいただいたことが臨床宗教師になりたいとのきっかけになったとすれば、筆者にも責任が生じます。上記の筆者の感想をお考えの上、すでにこれらの研修を修了した人たちの意見も聞いてから参加を決断されることをお勧めします。

テーラワーダ(上座部)仏教(1-3)

テーラワーダ(上座部)仏教(1)

 釈迦が新しい教説を建てる以前にもインドには宗教がありました。ヴェーダ信仰と言われるもので、釈迦仏教が隆盛を極めた時でさえ、厳然として続き、ヒンズー教へとやや変質し、現在に至っています。むしろ仏教はインドから駆逐されてしまったほどで、決してインドにおける唯一絶対の宗教ではありませんでした。この視点はとても大切です(インド宗教史については後日お話します)。

 では釈迦の教えの新しさはどこにあったのか。それは、

 ・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・

というものです。縁起の法則と言います。この視点を明示し、渇愛から逃れる方法も示したところに釈迦の思想の新しさがあります。それらの思想は、初期仏教の上座部仏教(現在はテーラワーダ仏教とも)が依拠するパーリ仏典に明確に記されています。ただ、パーリ仏典にある釈迦のさまざまな言葉は、まるでその場にいた人が記録したように書いてあり、現在の修行者がそれらをそのまま信じているように思えるのは気になります。なんといっても釈迦の没後数百年経ってから成立したのですから。

 初期仏教はその後大乗仏教として大きく変貌しました。人によっては、「大乗仏教は上座部仏教とはあまりも変質してしまったので、別の宗教として建てるべきだった」と言う人もあります。しかし、筆者はそうは思いません。縁起の法則は、まちがいなく「空」思想につながっているからです。さらに、大乗仏教徒の基本的姿勢である「自未得度先度他(自分が悟りを開かなくても他の人々を救う」は、釈迦の思想(悟りを優先する)と反すると言う人もいます。たしかに釈迦は悟りの後、その内容があまりにも高度で表現しにくく、人に教えるのは無理だと考えていたと言われます。にもかかわらず、梵天に強く懇願されれて、死ぬまで45年間も衆生済度の旅を続けたのです。

 それはともかく、上座部仏教は現在、あのテイクナットハン師の活動として全世界に広がっています。そればかりかミャンミャーやタイ、その他の国には上座部仏教の瞑想センターが設立され、さまざまな国から修行者が集まっています。以前述べましたように、テイクナットハン師の元には、あのイスラエルとパレスチナの人たちも集まってリトリート、すなわち癒しを受けているのです。つまり、仏教の新しい潮流となっているのです。

 ただ、筆者は上座部仏教にも限界があると思っています。たとえば、池田小学校児童殺傷事件(2001)や、東日本大震災(2011)や、今度の軽井沢観光バス事故で子供さんや親兄弟を亡くされた遺族たちが、この釈迦の教えで救われるかどうかです。「実体のないモノにこだわるから苦しむ」と言われても、子供さんや親兄弟を亡くされたことはまぎれもない実体なのですから。その点、禅は上座部仏教とは根本的に違うのです。禅は実体を「空」と同じように尊重しているからです。
 やっぱり上座部仏教から禅への数百年の経過には意味があるのです。そこをどう皆様にお伝えできるかが、筆者の課題です。

テーラワーダ(上座部)仏教(2)禅との違い

「禅は大乗仏教の流れを汲むものである」と言う人もいます。その理由として、「禅の基本理念は「空」だからだ」を挙げています。言うまでもなく大乗仏教の基本理念も「空」であり、あの龍樹(ナーガールジュナ)が、それまで様々な解釈があった「空」についての考え方を統一し、その後の大乗仏教の方向性を決定付けたと言われています。
 しかし、筆者は以前のブログで龍樹の空思想は、禅の空思想とは違うとお話しました。その意味で禅は大乗仏教の範疇から外れる(出た)ものだと思っています。
 前回のブログ、テーラワーダ(上座部)仏教(1)で、「禅が上座部仏教とは根本的に違うのは実体を「空」と同じように尊重しているからだ」、とお話しました。実体とは「色」ですね。もう一度テーラワーダ仏教の基本的考えについて簡単に述べますと、
 ・・・あらゆる苦しみには必ず原因があり(縁生)、それは恒常的なものではなく(無常)、実体などない。実体のないモノにこだわる(渇愛)から苦しむのだ。この縁と苦しみの関係に気付いてそれを取り除けば、苦しみから解放される(涅槃、悟り)・・・
というものです(註1)。釈迦の教えをこう理解しています。

 しかし、「無情だから実体はない」と解釈するところに重大な誤解があるのです。仏教関係の本を読みますと、ほとんどこういう解釈が行われています。昔からで、宿痾と言っていいでしょう。恒常的ではあるが実体があることは、筆者がよく言います「ポカンとその人の頭を叩いてみるがいい。『痛いっ。何するんだ』と怒ったら、『あなたは今、実体がないと言ったじゃないか』」からおわかりいただけるでしょう。子供を亡くした親に「あなたの苦しみには実体はない」などと言ったら殺されるかもしれません。筆者の専門である生命科学でも「生物の体は常に合成と分解を繰り返している」ことは基本的な事実です。でも「実体がない」などとはけっしてして言いません。

 禅は実体があることをけっして否定していません。上座部仏教の成立から数百年の間に、さすがに上座部仏教の不備に気付き、基本的な思想を転換したのでしょう。そこでは実体を「色」と表現しました。「色」と「空」はそれぞれ、モノゴトの二つの見かた(観かた)です。
 では、

 註1 本当は釈迦は「あらゆる苦しみには原因がある。そのことに気づくことが大切だ」とだけ言ったのだと思います。後代の人はそれを拡大解釈してしまったのでしょう。教えの拡大解釈は仏教のお家芸ですから。

(いつもお話することですが、筆者のブログで示した他の人の考えは、すべて原典を把握しています。けっして孫引きや思い込みではありません。文字数制限から省略しているのす。)

テーラワーダ(上座部)仏教(3)ヴィッパサナー瞑想

 まず、テーラワーダとは、テーラ(師)のワーダ(教え)という意味です。スリランカは、インドから初期仏教、つまり上座部仏教が伝わった最初の国です。同国からアルボムッレ・スマナサーラ師など、これまでに多くの禅師が訪れ、熱心に初期仏教の教えと修法を伝えています。筆者は、スリランカ中部の街キャンデイの山の上にある仏教寺院で修行したことがあります。日本を含めたいろいろな国から人々が来て、熱心に修行に取り組んでいます。同国の、まだ中学生かと思われる少年僧もいました。彼らが談笑している時にも静かな声で笑っているのが印象的でした。

 ヴィッパサナー瞑想の修法は、「慈悲の瞑想」と「気づき(サテイ)の瞑想」からなります。
「慈悲の瞑想」とは、静かに座って、「自分が幸せになりますように」「生きとし生きる者が幸せになりますように」「私が嫌いな人が幸せになりますように」「私を嫌いな人が幸せになりますように」と念じます(念ずる言葉にはまだそれぞれいくつかあります。くわしくは成書をお読みください)。
 
「気づきの瞑想」とは、今この瞬間、自分がしていることを意識することです。ちなみに、ヴィッパサナーとはヴィ(明確に)、パサナー(観察する)という意味です。

 1)坐禅をしながら、呼吸のさい、体の状態を「ふくらむ」「ちじむ」と意識するのです。もし、あれこれ妄想が起こったときは、「妄想」「妄想」と意識し、それを止めます。
 2)坐禅以外にも、座る瞑想、立つ瞑想、歩く瞑想があり、それらの時にも、常に自分が「今」していることを意識します。座る瞑想では、ゆっくりと手をあげたり、椅子に腰かけて、やはりゆっくりと手をのばしてコップをつかみ、その中の水を飲みながら、それらの状況を頭の中で「実況中継」するのです。もちろん、そのさい妄想が出てきましたら、そのつど「妄想」「妄想」と気付いて抑止します。

つまり、坐禅・瞑想と言っても禅のそれとはまったく違います。ちなみに真言宗にも「阿字観」瞑想や「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」があり、やはり禅の瞑想とは違うものです(「虚空蔵求聞持法」は、空海が土佐の御厨人窟《みくろど》で達成し、悟りに至ったと言われています)。というより、どの仏教の宗派にも坐禅・瞑想はあります。あの奈良の東大寺大仏様は釈迦の瞑想の姿を表わしたものです。東大寺は華厳宗です。

 どの瞑想法を選ぶか
 いま述べましたように、テーラワーダ仏教の修法は確立されはていますが、それらにどんな仏教思想の裏付けがあるのかがよくわかりません。そこが人によってはもの足りない点でしょう(次回、筆者の解釈を示します)。どんな瞑想法でも、自分で納得できる思想に裏付けられたものでなければいけないでしょう。第一、とても続けられないはずです。そればかりか、指導者もないのに坐禅・瞑想をして(本人は「毎日喜々としてやった」と言っています)、取り返しのつかないほど重大な害を受けた人もあるのです。筆者が著書で「必ず能力のある指導者の指導を受けてください」と繰り返しているのは、そういう訳です。

無師独悟

無師独悟
 禅にある言葉で、師匠の元につかず、独力で悟りを目指すという意味です。道元は、「悟りを得ようとする者はすべからく寺に入るべし」と言いました。たしかに寺に入れば俗世間の魅惑的なモノゴトや煩わしい人間関係に悩まされることもなく、毎日の規則正しい修行生活をするのは効率的でしょう。また仲間が居ることは、競い合う心も生まれ、修行の辛さにひるむ気持ちも支え合うでしょう。西嶋和夫師のように、一流会社の重職から寺に入った人もありますし、一般社会人から修行僧になった人も少なくありません。
 しかし、大変気掛かりなこともあります。それは寺に入れば否応なしに先師の教えを受け、その寺の伝統にどっぷり浸かることになるからです。筆者がこのブログシリーズで繰り返してお話したように、近・現代の著名な禅師たちの禅の理解には誤りが実に多いのです。「そもそも五蘊の解釈が間違えているのだ」にも書きました。ある時ある人が誤った解釈をしたものが連綿と語り伝えられ、今日に至っていることがわかります。つまり、よほどのことでもない限り、その伝統から抜け出すのは容易ではなさそうです。良寛さんはその例外的な一人でしょう。村上光照師は「一所不在」つまり、いかなるお寺にも留まらず、弟子数人とともに修行を続けています。恐らく寺での修行に限界を感じたのでしょう。

 橋田邦彦先生のことは以前お話しました。元東京大学医学部教授で、医学の研究と教育に携わりながら、生涯「正法眼蔵」の研究を続けた人です。重要なことは、橋田先生は、当時有名だった禅師たちの著作には、おそらく一顧だにされず、まったく独力で解明に取り組んまれたことです。すなわち、先生は道元の直弟子詮慧(せんね)の書いた解説書「正法眼蔵御抄(みしょう)」を大学図書館で見付け、それを唯一の手掛かりにして、20年掛けて解読されました。そして「今でも毎日解読を続けている」と著書にあります。
 筆者には先生のお気持ちがよくわかります。近・現代の著名禅師や仏教研究者の著作をいろいろ読みましたが、さっぱりわかりませんでした。そのため禅の勉強から一時は離れていました。しかし、偶然橋田先生の「正法眼蔵釈意」に出合い、「これだ!」と思いました。橋田先生の著書でさえ筆者には難解でしたが、先生の真摯な態度に、同じ研究者として共感するところがあったのです。そこで橋田先生の著書に絞って必死に学びました。そしてようやくなにか「正法眼蔵」の主調のようなものがわかったのです。本当に嬉しいことでした。筆者が最初の著作に「橋田邦彦先生に」と献呈したのはこういうわけです。

 一人だけで坐禅・瞑想を毎日きちんと続けるのは、なかなか大変です。筆者は欠かすことはありませんが、時として集中力が下がってしまうこともあります。この点、禅寺では仲間が居るだけお互いに励まされるでしょう。しかし、良寛さんは畑でも坐禅・瞑想したとか。要するにその人の意志次第です。