岩村宗康さんとの対話-禅と神(その3)

 道元や臨済がそれぞれの思想の根底に仏(神)を置いていることの例証はすでにブログで述べました。

 岩村さんは次のようにも言っています。

・・・・現成公案底が〈既成の事実〉だからこそ「水空を行く魚鳥は、水を究めず空を究めざれども、処を得て行履(あんり)自ずから現成公案し、道を得て行履自ずから現成公案である(この言葉も〈正法眼蔵・現成公案編〉にあります:筆者)」と言い得ると思います。「体験して初めて現成する」と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう。その挙げ句が「眼横鼻直」だと思います。殆どの人は、魚や鳥と同じように処と道に迷ったことがないから「既成の事実」に気付かず〈眼横鼻直〉も知らないと思います・・・・

 岩村さんは、現成公案とは諸法実相(自然界のありさまはそのまま仏の姿だ)とおっしゃりたいのでしょう。仏教の一般的な考えです。しかし道元はちがうのです。そこが凡百の仏教者とは異なるのです。くりかえしますが、道元は、

・・・・すべてのものはあるべきようにある(公案)、しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて、つまり体験して)初めてモノとして現れる(現成する)・・・・と言っています。つまり、〈諸法実相〉とは公案として〈あるべきようにある〉のでが、〈見て初めて現れ(現成する)〉、つまり、あるにはあるのだが見なければ無いと同じだ」と言っているのです。

 ちなみに〈眼横鼻直〉とは道元が好んで使う言葉で、「禅はあたりまえのことを言っている」と言う意味です。真理とは畢竟、あたりまえのことなのです。

 しかし、道元の「水空を行く魚鳥うんぬん」の一節もやはり「体験が重要である(モノは見て初めて現れる)」と言っているのです。「鳥が空という体験の外へ出れば、魚が水という体験の世界を出てしまえば死ぬ」とは、「すべてのモノは体験の枠の外には出ない」と言っているのです。これを〈空(くう)〉と言うのです。

 改めて道元のこの文章を読んでみますと筆者は新鮮な感動を憶えます。道元は、じつに巧みに答えそのものを書かず、ヒントを挙げているのです。わかる人にしかわからないように表現しているのです。〈正法眼蔵〉は修行を積んだ上級者向けに書かれているのです。多くの「引っ掛け」がちりばめられています。岩村さんは、まさにそれに引っかかっています。岩村さんが「『体験して初めて現成する』と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう」と言うのには唖然とします。色即是空・空即是色のモノゴトの観かたが体得できることを悟道と言うのです。そしてすべての人間がそれを目指すべきだと言っているのです。

 公案集を読めば、唐や宋師代の師と修行僧たちの未知のための真摯でひたむきな姿勢がよくわかります。〈香厳撃竹〉の故事を読んでください。 岩村さん、「神になってしまった塾長に逆らった愚かな人間の間違いがハッキリしました」などと感情的になってどうするのですか。

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