読者の方からご意見をいただきました。まとめて筆者の考えをお話させていただきます。
1)秀峰さんのコメント:
・・・善人と悪人という判別が、そもそも客観的な合理性があるのか。どこに善人と悪人の境界があるのか。それから、悪いことをしても救われる、のではなく、最初から救われているのだから、悪いことをしてしまっても、それは凡ミスの範囲だ、という解釈はどうでしょう?
筆者のコメント:「善人と悪人という判別に客観的な合理性などあるのか」には筆者も同感です。「平時なら1人でも殺せば大罪であるが、戦争で100人殺せば英雄だ」とはよく言われますね。「悪いことをしても救われる、のではなく、最初から救われているのだから、悪いことをしてもよい・・・」は、「歎異抄」でも「本願誇り」と呼ばれています。親鸞の在世時から、そういう弟子が少なくなかったのでしょう。筆者は、この言葉を素直に解釈して、「悪いことをした人間ほど、その反省から神に近づく」と思います。以前、アーサー・ホーランド牧師 の講演会を聞いたことがあります。映画「親分は牧師様」のモデルです。これらの指定暴力団の幹部はすべて、グレード5の「悪人」だったでしょうから、その生き方を反省して、神に近づくのはむしろ当然のことだと思います。
問題は、グレード1とか2、つまり、私たちのような「普通の人」が犯す「悪」です。悪口を言ったり、噓をついたり・・・。「善人なをもて・・・」の錯覚は、これら「罪とは言えないような罪」を犯した人々も往生を遂げるか?」です。神仏の前ではやはり罪でしょう。それを深く反省して神仏に向かうか?そんな人は皆無でしょう。ましてや往生できる人などいるはずがありません。ここに「善人なをもて・・・」の勘違いがあると思います。
2)えびすめさんのコメント:
・・・歎異抄が特別な意味を持たない仏教界の一部の宗派で独自に出ている書物なら、なぜ今に残っているのでしょうか?浄土真宗内における「訓告・戒告書」で内部だけで読まれる「内々の書籍」なら納得ですね。
筆者のコメント:結論から言いますと、「歎異抄」はおっしゃるように、浄土真宗内における「訓告」だったと思います。今に残っているのは、やはり「善人なを持て往生を遂ぐ。いはんや・・・」のパラドックスが後代の人々にとって印象的だったからでしょう。中には「それなら私も救われるのでは」と思う人もいるのではないでしょうか。しかし、パラドックスはパラドックで、真実ではないと思います。
「歎異抄」は、親鸞の200年後の蓮如(1415‐1499)が本願寺の書庫で見つけ、驚いて秘蔵してしまったと言われています。多数(22人)の側室を作り、自分の子供たちを有名寺院や、それらの住職に嫁がせ、一大教団を作った人物です。親鸞が「歎異抄」で「私は教団など作らない」と言ったことに反する行為だったからで、とても信者たちには見せられなかったのでしょう。
法然と親鸞は「ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できる」と言ったのですから、その精神を正しく受け止めて入れば、「本願誇り」などするはずもなく、弟子たちに「訓戒」する必要などなかったはずです。他宗派の人でも「本願誇り」などしてはいけないのは当然ですね。