これまで筆者が調べてきた、日本の仏教研究家の「空」思想はほとんどすべて、「すべてのものは相互に関係しあっており(因縁起)、常に変化している(無常)から、実体がない」と解釈しています。筆者は繰り返し「その解釈は誤りです。その証拠にそう主張する人の頭をボカンと叩いてみればいい。『痛いじゃないか』と言ったら、あなたも空でしょう?なら痛みにも実体はないはずだと言えばいい」と説明しています。
増田英男さん(1914‐?元明治薬科大学教授)も、そういう〈通説〉を〈縁起空観〉とし、「理論的にも経験的にも誤りだ」と言っています(以下、「日本仏教の求道的研究」創文社1966から)。すなわち、
・・・諸法(自他一切を含むすべてのもの)は因縁の和合によって生じたものであるから、そのもの自体としての実体(自性)はない。実体がないからそれは実有ではなく空であるというので・・・(中略)・・・現代の仏教学界においてきわめて大まかに、「すべてのものは相依相関的にのみ存在する。一物が独立絶対的に存在することはない。独立した実態としては空(くう)である」という風に定式化され、これが学会における縁起空の解釈の最も基本的な定説と化し、多くの学者が相依性ないし全体的関連性ということに空の意味を見出している・・・
筆者のコメント:増田さんは、こういうこれまでの通説を誤りだと言っているのですね。筆者と同じ考えです。しかし、ここまではいいのですが、さらに増田さんは「では真の空観とは何か」として〈真空観〉を提唱しています。すなわち(p82~)、
・・・・〈真空観〉は諸法(すべての存在)を対象として観察したり分析推論したりするのではなく、かく観じ、かく考究する当の主体的立場(自分のこと:筆者)そのものを徹底的に省察し浄化して行って、何の前提もなく、一切の偏執限定を絶した無立場の立場ともいうべき主体的〈空〉に証入する。それは(〈縁起空観〉のような)対象的分析的な推論ではなく、主体的全一的な参究行取である。そして〈縁起空観〉が対象的存在としての諸法の空無不実を観ずることによって、そのようなむなしい存在への執着を断たしめんとするのに対し、〈真空観〉は直接に執着の根元たる主体そのものを空ぜんとする・・・(中略)・・・つまり、主体自身がある特定の立場とか境涯とかに滞り執着することをどこまでも否定し、払い尽くして行くのである・・・(中略)・・・このように徹底的な不執着を意味する主体的自己否定派、その否定という立場そのものにも執われてはならないから、そらに否定そのものをも否定する。すなわち〈空〉そのものにも滞らず、〈空〉をも空じきる・・・と言っています。
筆者のコメント:つまり、増田さんは「対象物ではなく、見ている自分の方をどこまでも省察し浄化していくことが真の空だ」と言っているのですね。しかし、口で言うは易く、行い難しでしょう。増田さんも、
・・・もともと色即是空とか、一切皆空とかいうことは、分別的合理的な相対知の立場からいうのではなく、最も根元的な絶対智すなわち般若の立場から言うのである・・・(中略)・・・ではこのような般若真空の立場には如何にして到達できるか…(中略)・・・しかもこれはすでに相対知を超えた立場であるから、相対知の立場からこれを推論したり論証したりすることはできない・・・(中略)・・・それは三昧、すなわち定(じょう)である・・・(中略)・・・三昧(禅定)によってこそ般若(実智慧)を証得すること―すなわち菩提に入り仏を見ること―ができる。
筆者のコメント:増田さんは「真の空観(空という概念)を知るには、悟りを開かなければならない」と言っているのです。もし増田さんがすでに悟りを開いているのなら、真の空観について論ずることができるはずです。しかるに悟りを開いていない人がなぜ真の空観について論じているのでしょうか。明らかな自己矛盾ではないでしょうか。