日本仏教の問題点

 現代の日本仏教は混迷しています。いろいろな人がいろいろなことを言い、仏教というものがよくわからなくなっているのです。それは真剣に学んでいる若い人たちすべての感想でしょう。今回はその基本的問題の一つと、禅に絞ってお話します。

 まず、混迷から抜け出るためには、ブッダの教えと、数百年後に成立した大乗経典類とはまったく別のものであることを理解しなければなりません。宮沢賢治と法華経については前回お話しました。「法華経は仏典の大王だ」などと言ったあの道元も誤解しているのです。碩学中村元博士の「法華経に関する経典はAD40を遡ることはない」という一言で筆者の言うことが納得されるでしょう。

 次に禅について必要なことは、

 第一に「空(くう)」を正しく理解することです。筆者の解釈についてはすでに何度もお話しました。このキーワードを理解できると、さまざまな公案、つまり、禅の課題もわかるようになります。さらに、「日本古典の中で最も難解だ」と言われている、道元の〈正法眼蔵〉も理解できます。

 ためしに「色即是空 空即是色」という〈般若心経〉のキーワードについての現代の仏教学者の解釈を無作為に紹介しますと、

・・・・色形あるものは実体を欠いているものであり、実体を欠いているものは色形あるものだ(正木晃さん)

・・・・色であるものは、空性であり、空性であるものは色である(立川武蔵さん)

 いかがでしょうか。読者はますます困ってしまいますね。

 第二に、禅と仏(神)との関係です。そして、それはとりもなおさず、「(個)我」の実在です。仏教はこれまで「個我」(それ以前のヴェーダ信仰におけるアートマン)の存在を否定してきました。ヴェーダ信仰では「アートマンと神(ブラフマン)との一致を信仰の究極の目的とします。ブッダがこの考えを否定したのは当然でしょう。ヴェーダ信仰のアンチテーゼとして起こしたのがブッダの思想ですから。しかし、道元禅や臨済禅を正しく理解するためには、仏(神)の存在を考慮の中に入れないわけにはいかないのです。さらに筆者は、座禅・瞑想を実践するためにもこの視点は不可欠だと思います。座禅・瞑想と言っても、「只管打座(ひたすらすわる)」だけではだめなのです。

 「現代の日本仏教は混乱している」と言いました。その中に入り込めば、がんじがらめにされるだけでしょう。現代、書店に行けば、たくさんの仏教解説書が出ています。それらの大部分は「混乱に混乱を積み重ねたもの」ばかりだと思います。それから逃れるにはどうしたらしいでしょうか。その本質を洞察するのです。そのためには、仏教を歴史的に把握し(縦の関係)、仏教と他の宗教、すなわちキリスト教や神道、スピリチュアリズム(心霊主義)や神秘主義などとの比較(横の関係)が不可欠だと思います。「膨大な文献を読んで本質をざっくりと把握する」、これができたのは江戸時代の富永仲基でした。「ブッダの思想は大乗経典類とは別だ」と洞察したのです。天才と称されるゆえんでしょう。富永の判断は正しいと、筆者も根拠を上げて説明できます。

 以上の私見はこれまでのブログをお読みいただければわかります。現に「最初から読み直した」とおっしゃっている方がいらっしゃるのです。

2 thoughts on “日本仏教の問題点”

  1. 「日本仏教の問題点・混乱」の原因は、世界全体を見渡してもキリスト教もそうですが、やはり仏教は宗派が多すぎるという点だとも思うのです。日本に限定しても宗派が多すぎます。宗派は「お家騒動」で分裂したこともあります。
    約700年前の鎌倉時代末期当時と比べても宗派が増えています。
    仏教やキリスト教は宗派の「独立」があっても「解散」はないと思います。「宗派の解散で廃寺が決まった寺院」はないです。

    1. えびすこ様
       そのとおりですね。江戸幕府の政策寺受け制度によってすべての人民がどこかの宗派に属さなければならなかったため、お寺の数も増えすぎたのでしょう。
      その制度がなくなった今、寺院が消滅していくのは当然でしょう。

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