立花隆さんを「知の巨人」と呼ぶことに多くの人に異論はないでしょう。NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が」は3回放映され、筆者はそのつど視聴しました。
立花さんの興味の中心は「人間とは何か。どこから来てどこへ行くのか」でした。「そのためには宇宙の始まりから調べて行かなくてはならない」と。「私の職業は勉強家です。100冊読んで1冊書く」でしたから、やはり常人を越えていますね。「猫ビル」に貯えられていた本は10万冊とも20万冊とも。立花さんの思想の生涯の結論は「人間の歴史は知の連鎖である。それが蓄積されていくとやがては新しい次元へと進化する」だったと思います。もちろん筆者の水準など立花さんには及ぶべくもありません。しかし、この立花さんの思想の流れを聞いていて、「?」と思いました。筆者が最近考えている方向と正反対だからです。
筆者は「神の世界へ戻るべきだ」と考えています。知識の発達は文化を生み、次々に便利な道具を生み出しました。その結果、夏は涼しく、冬は暖かく過ごせます。ネットにより他人とのコミュニケーションは便利になり、情報の伝達は瞬時に行えます。人やモノの移動はとてつもなく早くなりました。しかしその反面、大切なものを失いました。人間同士の温かい触れ合い、心のゆとりです。受験戦争は幼稚園から始まります。社会人になってからも競争は熾烈になっていくばかりです。そのため、多くの人が疲れ、心を病んでいます。
しかし、考えてみてください。こんな社会になったのはせいぜい数百年、欧米では産業革命以後、わが国では明治維新後のことです。それ以前、人々は貧しい中でも助け合って生きていました。身近に本や芸術作品は無くても、自然の風物・・・・春は花、夏は夕涼み、秋は紅葉、冬は雪さえ愛でてきました。自然はすぐそこにあったのです。「そんなことわかっている」ですって?そうでしょうか。
〈寺院消滅〉という言葉が現実のものになってきました。若者の宗教離れや遠隔地への転勤が、寺院や先祖供養から人々が離れるのは当然でしょう。核家族化も人々の関係を希薄にし、一人暮らしが急速に増えています。夫婦と子供二人という、以前の平均家庭がわずか5%になってしまいました。多くの人々が孤独です。
立花さんは〈頭で考え、判断する人〉です。知性とはそういうものでしょう。しかし、そういう認識方法には限界があるのです。そういう考えを推し進めてきた結果、世界はもうどうしようもないところまで来ていると思います。欧米の知識人が近年、東洋思想、ことに禅に興味を持つようになったのはそのためです。
もう一つは、神の目でモノゴトを観る認識方法です。自然の風物や音をありのままに見、聞いて感性でとらえるのです。昔はみんなそうしていました。「モーツアルトの音楽は神の世界だ」と言ったのは小澤征爾さんです。愛・・・誰もが持っている子供に対する愛・・・決して〈頭で考え、判断した〉者ではありません。いかなる見返りも求めませんね。それは神の心そのものだからです。禅の究極の目標は神に回帰し、一体化することだと思います。
〈頭で考え、判断した〉立花隆さんは最終的に霊的世界の存在を否定しました。「臨死体験のような霊的体験は、あくまでも個人のものであって、他人を説得する証拠に欠けるからだ」と言いました。これが立花さんの思考法の限界なのです。よく「科学的に証明されていない」と言うところですね。しかし、「科学的に証明されないから事実ではない」とどうして断定できるのでしょうか。筆者は、たくさんの霊的体験をしました。たしかに、「その体験は個人のもの」でしたし、他人を説得できる〈証拠〉はありません。しかし、それらは、紛れもない事実なのです。〈客観的証拠?〉それは唯物論的な意味で言う〈証拠〉でしかありません。筆者は生命科学の研究者です。研究はもちろん、唯物論的方法で行ってきました。しかし、それとは別に〈目に見えない世界〉があることも体験しているのです。それどころか、今ではその体験を〈実証する〉方法の目途さえ立っているのです。
たしかにキリスト教やイスラム教の信者たちは、神に対して日本人よりはるかに敬虔です。にもかかわらず、現代も世界各地で戦争は絶えません。それでも戦争を止めるために「信仰の原点に戻るべきだ」と言いたいのです。