自力も他力も同じ

 前回「アメイジンググレイスの歌を聞いていて、突然、その本当の意味が分かった」とお話しました。「私のような者でも神によってすでに救われている」という意味だとわかったのです。

 I村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の真言宗徳林寺住職です。筆者はブログを通じて岩村さんとはかなり突っ込んだやり取りをしました。しかし、議論は最後まで平行線でした。結局、岩村さんの最後のコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。感情的になってしまったら議論は終りです。

 法然は、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば仏になれる」という、仏教における革命的思想を提唱しました。他力信仰ですね。親鸞は法然の高弟で、「たとえ師にだまされて地獄へ落ちようと師の教え(他力信仰)に従う(筆者訳)」と言いました。キリスト教も「絶対神によって救われる」が根本義で、いわば他力です。

 「寺院消滅」という恐ろしい言葉があります。京都の嵯峨野にある浄土宗正覚寺の住職で元ジャーナリストの鵜飼秀徳さんの著書です。同書には、國學院大学の石井研士教授の試算として、2040年までに日本の宗教法人17万7千のうち35.6%が消滅するとあります。昨今、浄土宗や浄土真宗、そして日本のキリスト教がなぜ振るわないのか。理由はいくつかあると思いますが、もっとも重要な点は「住職自身が他力の本当の意味を分かっていないから」と筆者は思います。なによりの証拠は、試しにネットでさまざまな寺院のHPを開いてみればよくわかります。余分なことばかりが書かれているのです。 

 道元はもちろん自力の人でしたが、正法眼蔵・生死巻で、

・・・・この生死は、すなはち仏の御命(いのち)なり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御命を失なはんとする也。これに留まりて生死に(執)著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。…厭ふことなく、慕ふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以て量る(はかる)ことなかれ、言葉を以て言ふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかた(方)よりなはれて、これにがひもてゆくとき、力をもいれず、こころをも費やさずして、生死を離れ、仏となる・・・・

と言っていました。他力そのものですね。

 筆者は長年禅を学んできましたが、行き着いたところは他力の心境なのです。考えてみるまでもなく、自力も他力も、悟りに達するまでの道が違うだけで、富士山に登るのに御殿場ルートや須走ルートなどがあるのと同じです。自力と他力のどちらを選ぶかではなく、他力も分かった上で、自力修行をすればいいのだと思います。筆者は、今でも毎日座禅瞑想を欠かしません。

3 thoughts on “自力も他力も同じ”

  1. 過疎地域の寺院の存続問題はNHKでも取り上げられたこともあります。仏教界関係者間で有名な事実で、「日本の寺院の数はコンビニ店舗数を上回る数」なのですが、「65歳以上の住職1人しか所属僧侶がいない寺院」もかなりあると思います。この状態の寺院は20年後にあるかどうかが地域にとって深刻な問題です。
    人口に対する寺院数の比率だと都市部の方(主に近畿圏)が多いように見えますが、地方では「1人寺院」の数も多いのでしょうね。ただ、地域によっては宗派の問題もあるので、特定の宗派の寺院が集中している地域も存在する現状もあります。

  2. 追記。以前から気になっていましたが、管理人氏は2022年現在の肩書・および宗旨は何でしょうか?
    差支えがなければプロフィール欄に追記できますか。

    1. えびすこ様
       どうか肩書や宗旨は関係なく、ブログの内容だけご理解ください。

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