宮沢賢治と法華経‐1,2)

1)日本の数ある小説家の中で100年後、200年後でも読まれるのは宮沢賢治の作品だけだと言われています。〈銀河鉄道の夜〉〈風邪の又三郎〉〈どんぐりと山猫〉〈注文の多い料理店〉〈グスコーブドリの伝記〉・・・・筆者も賢治の作品のほとんどを読みました。 賢治が法華経の教えを下敷きにして多くの名作を書いたと言われています。それらはいずれも日本人の心に永く残るものでしょう。

 賢治が法華経の熱烈な信者であったことはよく知られています。弟の清六さんによりますと、賢治が最も感銘を受けたのは〈妙法蓮華経・如来寿量品十六〉だったとか(〈兄のトランク〉筑摩書房)。賢治は遺言として「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と父親に言い残しました。

 まず法華経についてお話します。仏典には「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などの初期仏典に加えて、華厳経、阿含経、維摩経、般若経、法華経など多くがあります。それらすべてを集めたものは、わが国では最終的に〈大正蔵経〉と呼ばれ、全部で約12,000巻になります。そう聞けば誰しも「どれが一番大切なお経なのか。一体お釈迦様はそんなにたくさんの教えを残されたのか?」と考えますね。当然でしょう。その〈矛盾〉を説明するために、「お釈迦様が悟りを開かれて最初にお説きになったのが華厳経・・・・最後に御示しになったのが法華経だ」という説が出されました。〈五時八教〉と言います。つまり、「法華経は釈迦の教えの集大成だ」と言うのです。そして「法華経だけが救われる道である(一乗ですね:筆者)」とも言ってます(法華宗や日蓮宗、創価学会や立正佼成会など)。筆者にはこじつけとしか思えません。

 その〈こじつけ〉の辻褄を合わせるために、「初期仏典(スッタニパータなど)にあるブッダの教えやエピソードと、大乗経典類の内容との差異については、聞き手のレベルにあわせた方便である」としているのです。別のところでもお話しましたように、スッタニパータに説かれているのは〈生活の知恵〉で、大乗経典類のように思想を説いているのではありません。両者はまったく異質です。つまり〈法華経〉は釈迦が説いたものではないのです。それを初めて洞察したのは江戸時代の学者富永仲基で、やはり天才としか言いようがありません。近代仏教学の碩学である中村元博士も、「法華経はAD40年より遡ることはない」と明言しています。賢治が法華経に熱中した理由は筆者にはよくわかりません。あるいは、よく言われるように、賢治の実家が裕福な質屋・古着屋で、貧しい人たちのなけなしの家財を売り買いしてきたことに対する〈後ろめたさ〉が、〈苦しみ悩む人たちを救済しよう〉という、大乗経典の中心思想と一致したのかもしれません。

 賢治の父親政次郎は熱心な浄土真宗の門徒で、しばしば東京から高名な僧侶を招いて講演会をしていたと言います。賢治も幼い時からそれに参加していたと。しかし、高僧の一人島地大等から〈漢訳法華経〉を教えられ宮沢賢治は「心が震えるほど感銘した」とか。

 筆者が〈法華経〉を初めて読んで驚いたのは、〈法華経〉には、「法華経はすばらしい。法華経はすばらしい」と書いてあるばかりで中身がないことでした。後になって江戸時代の平田篤胤が「効能書きばかりで肝心の薬がない」と言っているのを知って、まったく同感でした。道元や法然は「法華経こそ最高の教えだ」と言っています。現に正法眼蔵の中にも多く引用されています。しかし、筆者にはそこだけがよくわかりません。賢治の法華経に対する思い入れは大きく、浄土真宗の熱心な信者だった父親や、盛岡高等農林の同級生で親友の保坂嘉内を折伏しようと激しく口論したり、花巻市内をあの団扇太鼓をたたきながら行進したりしたとか。保坂嘉内は、日記の末尾に書いた「宮沢賢治来訪す」という文字を後で消しています。義絶したのですね。

 賢治の人生が〈人に尽くす〉ものであったことは〈雨にも負けず〉の詩からもよくわかります。賢治が書いた小説や詩は、日本人の心に永く残るでしょう。しかし、こんな、釈迦の教えでもないものを熱狂的に信じる人が近くに居たら、たまったものではありませんね。「敬して遠ざける」人でしょう。

2)〈妙法蓮華経・如来寿量品十六〉には、大略、

・・・・私(ブッダ)が、死んだと見せかけたのは方便である。今でも私を慕う者の前には現れて法を説いている。それにより悩み、苦しんでいる人たちを仏の道に入らせる。そして美しく安らかな仏国土へと導く・・・・

とあります。 賢治が感銘を受けたのはこの文言でしょう。

 筆者の言う、「法華経はすばらしい。法華経はすばらしいというだけで中身がない」の理由は、以下の通りです。

 法華経には7つのたとえ話があります。

1)三車火宅(譬喩品。以下、現代語訳はWikipediaから)  ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。 筆者のコメント:「では一乗の教えとは何か」・・・・それが示されていません。3),4),5),6)についても同じです。

2)長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)  ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。 筆者のコメント:「あなたは仏の子である」と言われても、「何やらありがたいがピンとこない」としか言いようがありませんね。

3)三草二木(薬草喩品)  大地に生える草木は、それぞれの種類や大小によって異なるが、大雲が起こり雨が降り注がれると、すべての草木は平等に潤う。この説話の大雲とは仏で、雨とは教え、小草とは人間や天上の神々、中草とは声聞・縁覚の二乗、上草とは二乗の教えを通過した菩薩、小樹とは大乗の教えを理解した菩薩、大樹とは大乗の教えの奥義を理解した菩薩であり、それら衆生は各自の機根に応じて一乗の教えを二にも三にも聞くが、仏は大慈悲をもって一味(一乗の異名)実相の教えを衆生に与え、利益で潤したことを例えた。

4)化城宝処(化城喩品)  宝のある場所(宝処)に向かって五百由旬という遥かな遠路を旅する多くの人々がいた。しかし険しく厳しい道が続いたので、皆が疲れて止まった。そこの中に一人の導師がおり、三百由旬をすぎた処で方便力をもって幻の城を化現させ、そこで人々を休息させて疲れを癒した。人々がそこで満足しているのを見て、導師はこれは仮の城であることを教えて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導いた。この物語の導師は仏で、旅をする人々は一切衆生、五百由旬の道のりは仏道修行の厳しさや困難、化城は二乗の悟り、宝処は一乗の悟りであり、仏の化導によって二乗がその悟りに満足せずに仏道修行を続けて、一乗の境界に至らしめることを説いている。法華経では、遥か昔の大通智勝如来が出世された時、仏法を信じられず信心を止めようと思った人々が、再び釈迦仏の時代に生まれて仏に見(まみ)え、四十余年の間、様々な教えを説いて仮の悟りを示し理解して、また修行により真の宝である一乗の教えに到達させることを表している。

5)衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)  ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している。
6)髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)

 転輪聖王(武力でなく仏法によって世界を治める理想の王)は、兵士に対してその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ、もとどり)の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので容易に人に授与しなかった。この物語の転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経(にぜんきょう=法華経以前の様々な教え)、髻中の明珠とは法華経であることを表している。

  7)良医病子(如来寿量品) ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している。 筆者のコメント:良医は釈迦のことで、「死んだと見せかけて、じつは生きて教えを説いている」その「教えとは何か」が示されていません。
 以上、筆者の言わんとするところがお分かりいただけるのではないでしょうか。

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