死生観-4)

 親しい友人を続けて亡くしました。50年以上の付き合いでした。筆者がこのブログを書き続けているのは、〈苦しい時に支えとなる言葉をさがすため〉です。死についての不安などその最たるものでしょう。2人を見送った時、改めて死生観というものを考えさせられました。

 一人は大学時代からの友人で、同じ職業に就いたため、何かにつけて行動を共にしていた男です。彼は絵が得意で、年賀状には毎年独創的な版画を送ってくれていました。そのほかにも年に数回、いわゆる〈季節の便り〉をやり取りしていました。ある年の秋、こちらから消息を訪ねても返事がありません。けっして手紙を出して返事をくれない友ではなかったので、〈?〉と思いました。ところが数か月後の年賀状は届いたのです。ただ、いつもの版画ではなかったので、〈??〉と。そこで年明けに「どうした」と問い合わせたところ、息子さんから「いま入院中です。完治するにはもう少しかかるでしょう」との返事。「入院中でも本人が手紙が書けないはずがない」と再び問い合わせますと、息子さんから「母も入院していますが手紙は転送されますのでご懸念無く」。「転送?」。どうしても納得できないので折り返し「お互いに科学者だ。事実は事実として受け止められるはず」と強く言ってやりました。すると、息子の奥さんから直接電話がありました。「今(義)父はがんが転移して、認知症が加わっています」と・・・・。それが事実だったのです。「転送」は「本人宛転送されます」とも受け取れますが、じつは息子さんへ転送されていたのです。つまり、父親が認知症になったことをなんとかして隠そうと、取り繕っていたのですね。友人は半年後に亡くなりました・・・・。

 もう一人は、中学時代からの古い友人でした。同じ高校へ通っていた同級生と合わせて5人が、年に一回は集まって食事をしたり、旅行をしてきた仲間です。彼はさっぱりとした人間で、共に天文学に興味があったので、約4km離れたお互いの家を、夜遅くまで行き来していました。当時テレビはNHKのみで、帰宅した時11:15分のエンデイング画面が流れていたことを覚えています。

 75歳になったあるとき彼は言いました。「お互い永遠に生きると思っているだろうが、せいぜい80までだ」と。彼は80歳になった時、油断のならない病気になりました。死も覚悟しなければならなかったのです。その頃また5人で集まりますと、彼曰く「あと10年は生きたい」と。「話が違うじゃないか」と思いましたが黙っていました。その2年後彼は逝きました。自衛官のトップにまで上り詰め、好きな酒を飲み、ゴルフ三昧の人生だったので満足な人生だったでしょう。余技の絵もなかなかうまく、信濃の奈良井宿を描いた水彩画は、今も筆者の居間に飾ってあります。俳句や詩吟もやっていましたから充実した〈定年後〉だったでしょう。ただ、最後の1ケ月は呼吸困難になって入院したのが気の毒でした。ただそれも仕方のないことで、葬儀の席で弟さんと「別に不摂生をしたわけでもないのに」と言い合いました。

 筆者の友人が著書出版を祝ってくれた食事会で、出席者の一人から「あなたの死生観は何ですか」と、かなり厳しい調子で聞かれました。本の内容がよくわからないため、少し苛立ちがあったのでしょう。筆者の答えは「その時になってみなければわからない」でした。あの仙厓義梵や一休さんのような高僧でも、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか。

 最後に筆者の死生観についてお話しなければなりません。このブログシリーズの執筆や、上記の友人たちとの〈別れ〉を通じて、「どうなろうとしかたがない」と思っています。科学者として生きてきましたので、〈事実は事実として受け止める〉気持ちは〈習い性〉になっていますし。

2 thoughts on “死生観-4)”

  1. 後者の自衛官OBの人は新聞にも死亡記事が出た人でしょうか?
    「自衛官のトップ」の役職を経験していれば、訃報がNHKのニュースにもなる人ですが。

    1. えびすこ様
       新聞やテレビでは報道されなかったようです。私の中学時代からの大親友でした。

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