在家仏教と禅寺での修行(1,2)

その(1)NHK「心の時代」で、岐阜県美濃加茂市臨済宗正眼寺での厳しい禅の修行が、師家の山川宗玄師によって紹介されていました。午前3時半起床で、午後9時、時には10時や11時まで、息つく間もないほどのぎっしりとした規矩に従って座禅、師家との禅問答、読経、托鉢、作務(掃除や食事の支度)などが行われているとか。山川師の若いころには時には就寝は午前1時になることも少なくなかったと。托鉢では笠をかぶることも許されず、もちろん冬でも足袋をはくこともできない。

 厳冬期に行われる蝋八接心と呼ばれる特別座禅修行の7日間には、零15度にも下ることがあるという。大切なことは修行僧たちは、それらを少しも苦痛とは思わないことです。感動的ですね。

このような修行は、曹洞宗永平寺や、岡山県玉島圓通寺(あの良寛さん修が行した寺です)、決められた寺を持たない村上光照師のグループでも同じようにおこなわれています。山川師のような上級者は妻帯することもありません。

 道元禅師は修行者は家族も捨てて修行に専念すべきだと言っています。筆者はそれらの人々を心から尊敬していますし、修行の密度は及ぶべくもありません。しかし一方で、そういう修行法に疑問も感じているのです。

 修行僧たちは本を読むことが禁じられています。では他宗の教義や修行のことはどうして知るのでしょう。釈迦の教えを色濃く残している原始仏教や部派仏教、さらに対照的な他力本願である浄土宗系やキリスト教についても知ることができないでしょう。仏教の歴史的な変遷についても・・・。筆者は長く生命科学の研究を続けてきましたから、自分の専門分野だけをいくら深く学んでも限界があることをよく知っています。逆にまったく異なる分野の知見から大きなヒントを得ることが多いのです。山川師にも仏教について、いくつかの誤解があることは、以前お話しました。

 修行僧たちは静かに音楽を聴くことも小説を読むことも許されていません。その時間もないはず。いずれも筆者は好きですし、テレビにも良い番組はたくさんあります。それから得られる心の豊かさやゆとりは計り知れないでしょう。それらは禅仏教の理解に資するところが大きいと思っています。

 普通の人にとって家族を持つことは、悩みの種となることがあって当然でしょう。会社員として他人と一緒に仕事をすることは、葛藤の原因となることもしょっちゅうでしょう。私たちはみんな苦しみつつそれらを乗り越えて生きてきたのです。修行僧たちの辛さとどこに差があるでしょうか。

 それは女性でも同様でしょう。仕事と家庭の両立はやった人でしかわからないでしょう。主婦の子育てが済んでも、食事の支度、日常の雑事が、歳とともに負担になっていくことは、長く見ていて筆者にもよくわかります。これからは介護(筆者の!)も待っているかもしれません。世の中には、明日の食事にもこと欠く人たちも少なくありません。これに対し修行僧たちの衣・食・住は保証されています。それは、けっして小さなことではないでしょう・・・(以下に続きます)。

その(2) 筆者は、永平寺での師家と修行僧たちとの問答の場面を映像で垣間見たことがあります。それらの多くは残念ながら形式的なものと言わざるを得ませんでした(道元が定めた「只管打座」を旨とする永平寺でも禅問答はあります)。

 筆者の敬愛する良寛さんは、書の達人ですし、漢詩や短歌にも優れたものがたくさん残っています。阿部定珍や解良叔問などの越後の庄屋たちと親しく酒を酌み交わしました。晩年には貞心尼と歌のやり取りをするなど、こころ豊かな後半生を送った人です。良寛さんの禅境の深さは、残された詩や短歌からよくわかります。重要なことは、良寛さんは従来の寺や僧侶に失望して飛び出した人だということです。私たちと同じ世界にもどったのですね。そしてなにより重要なことは、良寛さんの人柄や生き方は、200年後の私たちでさえ、大きな慰めと勇気を与えてくれることです。筆者は心が屈した時、ふと良寛さんを思い出してホッとするのです。たとえば「淋しい」と感じたとき、「いや良寛さんはもっと淋しかった」と思い出すのです。

 もし良寛さんが野に下らなかったら、単なる一高僧としてしか名前が残らなかったでしょう。どんなに禅境が高くても、私たちが現代日本の高僧たちから得るところは少いでしょう。ここなのです。初期仏教が修行僧個人のためだけであることに飽き足らなくて大乗仏教が生まれた理由は・・・。

 良寛さんが200年後の現在の日本の禅寺の様子を見たらどう思うでしょうか。

 一方筆者は、在宅出家というものを好みません。たんなる自己満足ではないかという気がするのです。

 以前にもお話しましたが、筆者の友人には保護師としてのボランテイアを17年も続けた人がいます。罪を犯した少年たちに寄り添い、再び罪を犯さないように親身になって援助するのです。いったん道を外れてしまった少年たちですから、素直ではなく、反発することも少なくないと聞きます。彼らと付き合うのは、耐え難いことが多いと思います。それを長年続けることの厳しさは、禅の修行と変わらないと思います。頭が下がりますね。別の友人は、長い間地方都市の中企業の社長をしてきました。「一つ仕事を獲得しても、その次の保証はなく、眠らない日が続いた」と言っていました。しかし、長年それに耐え、見事に会社を存続させ、後継者に道を譲りました。それは禅の修行に何ら遜色のない厳しさでしょう。その後ロータリークラブの会員になり、実際に社会貢献されています。今では会長職からも退き、友人たちと小旅行を楽しむ日々だとか、筆者もそれを聞いて心から「よかった」と思うのです。これらの人たちは立派な仏への道を歩んできたのです。そしてこれらの友人たちはまことに穏やかな人柄です。専門の修行僧たちの修行に比べて何の遜色もない、いやそれ以上だと思っています。

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