即心是仏-道元の考えと筆者の考え

  即心是仏は禅のキーワードの一つです。

 本来は華厳経・巻十の〈心・仏及び衆生、是三無差別(註1)〉の思想から出たものとされています。道元は〈正法眼蔵・行持巻〉で、唐代の禅僧大梅法常禅師(752-839)とその師馬祖道一禅師(709-788)のやり取りを通じてこの概念について述べ(以下筆者訳)、

・・・・(法常禅師は)かって馬祖(道一禅師)の道場を訪れて尋ねました。「仏とは、どのようなものでしょうか」。馬祖は、「即心是仏(この心がそのまま仏である)」と答えた。法常はこの言葉を聞いて、言下に大悟しました・・・・と述べています。

〈無門関・第三十則・即心即仏〉にも(以下筆者訳)、

・・・・馬祖和尚はある時、大梅(法常)から「仏とはどのようなものですか」と質問された。馬祖は、「心こそが仏そのものだ」と答えた・・・・。とあります。

 道元はさらに〈正法眼蔵・即心是仏〉巻で(以下筆者訳)、

 大唐国の南陽慧忠和尚が僧に尋ねました。

 師「どちらから来ましたか」
 僧「南方から来ました」
 師「南方にはどのような師がいますか」
 僧「師は大変多いです」
 師「どのように人に説いていますか」
 僧「あちらの師は、すぐ修行者に即心是仏と説きます」

 それに続いて、

・・・・この身体は生滅するものであるが、心の本性は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはない・・・・(中略)・・・・つまり、我々の身体は無常なものであるが、その本性は常住であると。南方で説かれていることは、だいたいこのようなものです・・・・。

 これに対して道元は、「もしそのようであれば、あの先尼と言う外道(先尼という名の仏教徒以外のインドの思想家)の説と変わらない・・・先尼が言うには、「我々のこの身体の中には一つの神性がある。この神性は、よく痛い痒いを知り、身体が死ぬ時には、その神性は出ていく。あたかも家が焼けて、家の主人が出て行くようなものである。この家は無常なものであるが、家の主人は変わることがない」と。道元は、「このような説を調べてみれば、それが正しいかどうかは論ずるまでもない。どうしてこれが真実と言えようか」と言う・・・・。

 では、道元が言う〈即心是仏〉の意味は何か。道元は「即心是仏(この心がそのまま仏である)の人とは、仏道を発心し、修行し、悟り、成就する諸仏のことだ」と言っています(正法眼蔵・即心是仏巻〉)。つまり「心とは何かを追求する求道の人だ」と言うのです。

筆者のコメント:筆者は、むしろ先尼の考えを支持します。筆者は霊の存在を何度も実体験していることもその根拠の一つです。先尼の考えは、インド古来のヴェーダ信仰の思想です。筆者の関連ブログをお読みください。

註1 「三界唯一心、心外無別法」に続く言葉。つまり、「この世のすべてはその人の心の表れである」と言う意味です。つまり、「人間の喜びも苦しみもその人が作り出したものだ」と言うのです。さらに〈心佛及衆生、是三無差別〉とは、「三界は唯(ただ)一心にあり、心の外に別の法なく、心と仏と衆生、この三つに差別なし」です。

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