前回、作家の加賀乙彦さんの信仰についてお話しました。加賀さんが、「神を信じたい」とか「神を信じるのは賭けです」と言ったのには違和感を感じました。また、加賀さんの〈宣告〉を読んだ遠藤周作さんが「神を信じないでキリスト教信仰を書くのは、無免許運転だ」言ったことには筆者も同感です。
一方、読者の時永さんから、・・・塾長は研究の最中に神の存在を実感する体験を持たれたとのことですが、そのような体験がない私のような者は、その時の感覚をいくら体験者に尋ねても同様に実感できることは難しい性質のものでしょう・・・・
というコメントをいただきました。
このご質問に対し筆者は、「地区の産土神社に毎月参詣しています」・・・・などとお答えしましたが、信仰は心の問題ですから、適切なアドバイスは出来ませんでした。その答えを何ヶ月も考えていましたが、先日、ボランテイア活動の帰りにフト「神の心になりなさい」との言葉が浮かびました。そうなのです!「神の心になって生きる」それが答えだったのです。
加賀乙彦さんのように「なんとかして神の存在を信じよう」とか、「キリスト教に対する疑問」などの気持ちを忘れるのです。あるいは時永さんのように「神を実感したい」という望みを捨てるのです。そして「神の心になって生きよう」と決心するのです。それは誰でも、今すぐにでも始められます。「神の心?」などと考える必要はありません。結果は自ずと付いてきます。
神とは愛なのです。考えてみてください、親が子を思う心、それはすべての人間、それどころかすべての動物が持っています。「当然」ではありません。本能と言ってもいい感情ですね。なぜ人間やその他の動物はそういう感情を持つのか。それは神から与えられたものだからです。愛の心を持って生きましょう。いつでも、どんな時でも。それは時には難しいことです。他人にひどいことをされたり、言われたとき、誰でも腹が立ちます。また、他人が自分より優れていることを知らされた時、そんなとき誰でも悲しくなります。しかし、そんな時にもこのことを思い出すのです。あの良寛さんは失火犯の疑いを掛けられたり、畑の中で座禅して瓜盗人と間違えられて殴られたことがあります。また、「坊主のくせしてお経も読まず、物乞いをしている」と面罵されたこともあります。それでも黙って耐えました。おそらく良寛さんは禅の極意とはそういうものだとわかっていたからでしょう。聖書に「右の頬を撃たれたら左の頬を出せ」という厳しい言葉があります。おそらくそれも、やり返せば神の心に反することになるからでしょう。
神の心になって生きる・・・・そこには疑問の入り込む余地はありませんね。